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テーマ講義『変容』について、講義の日々の様子をTAさんによる投稿を中心にまとめていくページです。
今年度より始めたばかりの試みですので、お気づきの点などありましたら、いつでもLAPまでご連絡下さい。
 

テーマ講義『変容』スケジュール

10/10 原和之先生 精神分析における主体の変容 [岩]
10/17 原和之先生 精神分析における主体の変容 [岩]
10/24 開一夫先生 心と脳の発達的変容――自己認知の変容 [大]
10/31 高橋英海先生 キリスト教の変容とキリスト教における変容 [岩]
11/7 清水晶子先生 変わるもの、変えられないもの、変わってしまうもの (南大生滞在)[岩]
11/14 清水晶子先生 変わるもの、変えられないもの、変わってしまうもの [岩]
11/21 酒井邦嘉先生 脳から見た人間言語の変容 [大]
11/28 渡邊雄一郎先生 生物が生きていく上でみせる変容 [大]
12/5 藤原晴彦先生 昆虫の擬態と変態の生物学 [大]
12/12 廣瀬通孝先生 記憶と記録の変容I(仮) [大]
12/19 谷川智洋先生 記憶と記録の変容II(仮) [大]
1/9 渡邉正男先生 14世紀日本における社会秩序形成・維持構造の変化 [岩]
1/16 伊藤徳也先生 変容としての頽廃 [岩]
([ ]内は講義ノート担当TA頭文字)
 

テーマ講義『変容』について

『変容』講義の様子[全件一覧]

LAPスタッフ2013/01/30 12:44:13

テーマ講義担当スタッフの赤木です。
1月16日の伊藤徳也先生のご講義をもちまして、テーマ講義『変容』無事に終了いたしました。
ご講義を担当して下さった先生方、そしてTAさん方、本当にお疲れ様でした。

1月16日の講義の最後に、相互参加して頂いた渡邉正男先生から、伊藤先生に対し、「今日の講義では、部分が全体を支配する頽廃という変容の観点から、研究の蛸壷化といったお話もあがったが、我々の行ってきた連続講義『変容』は、専門の研究をリベラルアーツという形で並べることで、リベラルアーツとして何がしかの意味を持ちえたのだろうか」との問いが投げかけられました。
伊藤先生はこの問いに対し、「変容としての頽廃」という講義テーマと絡め、テーマ講義全体を俯瞰したまとめをお話し頂きましたので、以下に抜粋させて頂きます。岩川さんの講義まとめとあわせてご覧ください。

 「意味ある細部」ということであれば、細部をどんどん突き詰めることと矛盾はしない。「意味があるかないか」ということで言えば、より外側からの視点をどんどんそこに介在させていかないと、意味の更新は多分無い。内側へ、内側へ行くと、意味は閉じ込められ、喪失するのではないか。意味というものは、外側からとらえようとする認知のありようだと思うので、全体がそこに顔をのぞかせているのではないか。
 変容という講義を、去年の3月の集中講義からずっと続けてきたが、必ずしも一貫しているというわけではなく、全体性というものを保っていたわけでもない。講師がしゃべって、受講生が聞いてという、しっかりした関係だけではなく、講義によって講師も受講生も変わり、そこに南京大学の学生も入り、その中で意味のキャッチボールが行われる。それは、誰かが一番上で統括するのではない。むしろ統括してしまうと、魅力がなくなるのではないか。そうではなく、意味の更新を生(ナマ)のまま保持しておき、その中で、それに関心を持った人間が、LAPの試みに対して、講義を聴いたり過去の記録を見たりすることによって新しい意味付けをしていくというところに、LAPの試み自体の意味や、創造性もあると言えなくはないと思う。
iwakawa2013/01/23 11:11:05

 最終講義は、伊藤徳也先生による「変容としての退廃」だった。講義において、古典形式の美が頽廃していくとき、全体が部分を支配していたものが、部分が全体を支配し、部分自体が全体化しはじめることを「頽廃」と呼んでいた点が、周作人の頽廃概念のポイントだと理解した。全体と部分という関係を時間軸に置き換えて考えると、目的や結果という全体を追い求めるのではなく、過程の部分に重きを置くということが、多数の例を用いて説明された。
 とりわけ、「頽廃」についてチェックするというセクションにおいて、芸術のための芸術や、生活のための生活という言葉に、自らの状況を代入してみると、今、力点を置いていることが何なのかが明らかになり、その点でも、頽廃形式についての研究が普遍性を持ちうることが示された。消極的だったり、本来的ではないとされているものに意味を見出すという講義内容には共感を覚えたが、その上で、頽廃を歴史的・社会的な文脈においたときに、いかなる扱いを受けてきたのかという、歴史的・社会的な経緯を知りたいと思った。頽廃形式の原理的な部分についての説明であったので、今後も、頽廃をめぐる議論が進むことに期待したい。
iwakawa2013/01/15 21:07:15

 今回の講義では、13世紀後半から14世紀にかけての時期(鎌倉時代末から南北朝時代)における「法」の取り扱い方の変容が主題となり、具体的な史料をもとにして、社会秩序をどのように形成するのかについて明らかになった。とりわけ、鎌倉時代には、幕府法を調べるシステムがなかったというのは驚きであり、幕府に「法」を記憶しておいて欲しいという要請とともに、訴える側が、かつての事例を見つけ出してきて係争する過程はとても刺激的であった。
 そのような時代背景のなかで、訴える側が幕府の裁判の仕方を解説した文書を文庫として裁判記録したり、幕府に変わって欲しいという要求が突きつけられるが、実際には、「法」は、忘れられもするし、一方で、「永仁徳政令」のように施行されてすぐに広がることもあるという点が、人間が生きる社会において、いかに、「法」が、人々を束ねたり、異議申し立ての手段となりうるのかという今回の講義の主題と重なるものでもあった。
 渡邊先生も提起されたように、誰が何によって「法」を変えていこうとしてるのかという問いは、現在のわたしたちにも身近な問いかけであり、長い時間をかけて、最善の「法」を模索しようとしても、「法」をつくるのも、使うのも、やはり、人間である。その点で、「雑掌」という、法律を専門とする人々があらわれて、人々の権利を獲得していく過程が鎌倉時代の頃にあったというのは、とても興味深い。なぜならば、「法」は、その起源が明らかではないにもかかわらず、わたしたちを守り、縛るものであるため、その解釈によっては、制限はあるにせよ、いかようにも受け取れるからである。現在、憲法改正も含めた「法」解釈や改正の問題が浮上するなかで、具体的な史料をもとにした講義は、
社会秩序形成・維持の構造を明らかにするものであり、直接的に時代を超えて繋げるわけにはいかないが、歴史に学ぶことの意義を示しているように思った。
 渡邊先生にうかがいたいのは、「雑掌」という存在は実際には法律家に相当するものなのか。また、ほかにも、「雑掌」が活躍した事例があるのかということである。また、鎌倉時代から室町時代の「法」の編成において、どのような役割を果たしたのか、わかっていることがあったら、教えて頂きたい。

大澤TA2013/01/09 15:41:22

 バーチャルリアリティ(VR)をいかに現実世界に近づけるか、またこのような技術を私たちがこれからどのように利用し、ライフスタイルがどのように変化する可能性を秘めているかといった未来のことまで、お話ししてもらいました。
 バーチャルリアリティ(VR)とは、自らの感覚で得られた現実を機械で人工的に再現したものです。私たちは現実を、主に5感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚) で認識しており、これら5感からの情報が複合的に認知されて現実を感じています。現在のVR技術は私たちの視覚、聴覚に主に作用することで、現実を再現しており、最近は3D技術も映画などに取り入れられて身近なものとなっています。これを嗅覚、味覚、触覚にまで広げたり組み合わせることで、より現実に近づける技術の開発、またこれらVR技術を利用して学習やトレーニングの効率化につなげようと考えていました。また遠隔操作やテレビ会議システムなどがよりスムースにできるITインフラなどが整えれば、空間的、時間的に超えて仕事ができるようになり、労働人口の増加と安全・効率化を促進することができます。
 また変容というテーマより、記憶は変容していくが、記録したものは変容することはないといった観点から、記録することの大切さと、記録を上手に解析処理することでマーケティング、健康管理、もの作りに利用することができるお話もありました。VR技術は、コンピューターが記録しているデータ情報から成り立っており、新たな技術開発とともにそれらをどのように利用していくかが、これからまだまだ楽しみな研究分野になりそうです。今後、VR技術が様々な分野で多くの人々に貢献することを期待できる講義でした。
大澤TA2012/12/07 18:16:05

藤原先生は昆虫の擬態と変態の様々な例を挙げ、それがどのように起こっているかをわかりやすく講義してくれました。擬態や変態は目に見える形での「変容」なので、テーマ講義の最初のほうで挙げられた目に見えない自己や心といったものに比べると非常に分かりやすかったように思います。擬態は私たちが写真で見ても分からないほど精巧に行われており、自分の姿が見えない昆虫がここまで精巧な擬態ができることに非常に驚きと興味がわきました。

また長いスパンで「変容」が起こっている例として、進化が挙げられていましたが、非常に長いスパンで起こっているため、これを研究するのは非常に難しいように思いました。ライフスパンが短い細菌である大腸菌などでは最近、進化が調べられていますが、昆虫などで調べるのはかなり難しいように思いました。その点に興味をもって質問をする学生などもおり、生命科学分野で見られるFrontierとしても進化は非常に興味深い分野であると感じることができました。

また中国と日本で昔から養殖されている蚕の体表表面の模様の研究は、東大、南京大生の両者で日中のつながりを身近に感じられるいい話題だったと思います。今後の研究成果が楽しみな講義でした。

大澤TA2012/12/02 17:06:41

 今回の講義では、環境が植物を変容させていく例を見ながら、そのようなことがエピデェネティクスや様々な遺伝子発現の変化によって起こることをお話ししていただきました。前回講義した酒井先生、次回講義の藤原先生のお二方にも参加してもらっての講義でした。
 今回一例として挙げられていた、シロイヌナズナは、異なる地域間で、同じ温度でもすぐに花を咲かすタイプと慎重に花をつけるタイプがあるそうです。これは異なる環境の影響が次世代にも伝わっており、エピデェネティクスの一例として挙げられていました。同じ遺伝子を持っていても、遺伝子の発現のされやすさで表現型が変わることは、以前の遺伝学だけでは理解できなかったことです。個人的に興味を持ったのは、このような2つの異なるタイプのシロイヌナズナを交配させたら、どちらの表現型が現れるのだろうかと言うことです。遺伝子の発現のされやすさが遺伝するのであれば、同じ個体で、それら異なる発現のされやすさをもつ遺伝子間においても何らかの影響があるのではないか?影響するとしたらどのように?そして、その結果として、中間のタイプができるのか?どちらか一方のタイプのみが現れるのか?っと言ったことを考えました。また学生からは、エピデェネティクスだけで説明しきれないことが多いと思う、などの質問があり、確かに生物の多様性には今回の講義での仕組み以外にもまだ見つけられていない現象があるのではないかと思いました。
 最後に、酒井先生の、環境による影響と自分の中にある細胞同士による影響とどちらが大きいのかっといった質問に対して、渡邊先生も環境がどれくらい人の言語の発達に影響するのかといった質問をしたりと、前回の講義とつながりのある質疑応答が見られ、テーマ講義のつながりを感じられる講義でした。
大澤TA2012/11/27 22:09:43

今回の講義では、言語を習得する際にみられる脳の変容を構造的に、または脳活動を測定することによって、脳のどの部位が言語習得に重要なのかを調べようとするお話でした。赤ちゃんがどのように言語習得をするか、また自己認識をしていくかといったことを研究している開先生ともつながる内容だと思います。

 開先生は心や自己認識といった非常に定義しにくいことを調べようとしているため、それを検証するために、ある定義を立て、それをもとに実験を考察するといった研究手法なのに対し、酒井先生は、脳の活動レベルや脳の非対称性を数値化できる手法であるMRIVBM法を用いていました。もちろんこれらの手法で与えられた数値をどのように考察するかは難しいとは思いますが、物理的な脳の変化などは学生には伝わりやすいように見えました。

 酒井先生は、赤ちゃんが母国語を習得する時と、第二言語を習得の時では習得のされ方が異なることから、第二言語習得の際に働く脳の部位をMRIで調べました。すると、第二言語習得初期では文法中枢において、意識的な脳活動が必要なのに対し、長期にわたる習得により、自動的な定着が行われ、その部位での脳活動が節約されているのです。ここで一つ疑問に思ったことは、この意識的な脳活動がどのように自動的に行われるようになるかです。多数あったシナプスが不必要なものが刈り込まれ、整理されたのでしょうか。またはよく利用されるシナプス径路が増強されたのでしょうか。脳活動の低下というのはMRIの場合、血流の量で測定されます。したがって1つのシナプスでの活動を測定しているわけではないので、ある径路が増強されていたとしてもそれを検出できてない可能性もあるのではないかと思いました。

 次に言語の適性を、脳の非対称性を測定することで調べようとしました。左脳にある文法中枢部位の非対称性が大きい人ほど、文法課題の点数が高いことから、その部位の非対称性を調べると言語の適性を調べられる可能性があります。しかしながら、この非対称性が遺伝的に決まっているのか、環境によって決まっているのかはまだ実験中のようで、非常に興味深いと思いました。さらに、年齢が高くなるとこの非対称性での適性が一般に調べられなくなることから、おそらく脳の構造は年を経るごとに変化しており、これらの構造変化がどのようなきっかけで起こるのか、どの次元での変化がこの構造変化をもたらしているのか、とても興味深いことだと思いました。

 最後に、途中南京大との中継が切れてしまったのですが、次の講義を担当している渡邉先生にも質疑応答で参加していただき、次の講義がどのように展開せれるかが楽しみな講義となりました。

LAPスタッフ2012/12/05 13:10:59


 酒井先生は、赤ちゃんが母国語を習得する時と、第二言語を習得の時では習得のされ方が異なることから、第二言語習得の際に働く脳の部位をMRIで調べました。すると、第二言語習得初期では文法中枢において、意識的な脳活動が必要なのに対し、長期にわたる習得により、自動的な定着が行われ、その部位での脳活動が節約されているのです。ここで一つ疑問に思ったことは、この意識的な脳活動がどのように自動的に行われるようになるかです。多数あったシナプスが不必要なものが刈り込まれ、整理されたのでしょうか。またはよく利用されるシナプス径路が増強されたのでしょうか。脳活動の低下というのはMRIの場合、血流の量で測定されます。したがって1つのシナプスでの活動を測定しているわけではないので、ある径路が増強されていたとしてもそれを検出できてない可能性もあるのではないかと思いました。


【酒井先生より】
特定のシナプス経路が増強され、神経回路ができ上がると考えられます。

大澤TA2012/11/29 09:59:32

渡邉先生の質問は、日本人などが英語を文字情報から学ぶときと聴覚情報から学ぶときで、脳の使い方に違いがあるかというものでした。
酒井先生の答えは、文字で入るか、音で入るかで、入り方は違えど、その後にその言語を理解する時に働く脳の部位はどちらも同じ部位が活動しているとのことでした。もちろん文字情報での言語の理解は辞書などを引くことができるが、音情報ではなかなかそれは難しいので、学ぶのは大変になるでしょうともおしゃってました。同様に手話で会話をする場合も同じ脳部位が働いているので、動作での言語理解も入り方が異なるだけで同じしくみが働いているようです。
講義の中では言語をどのように学ぶかで、脳機能の変化があるかどうかまで触れられていなかったので、講義の広がりを感じることができたと思います。また言語を学ぶ環境(音や文字)がどのように脳機能の変容をもたらすかに興味を持った渡邉先生の質問は、次回のどのように植物が環境に適応し、変容してきたかといった講義につながったのではないでしょうか。


LAPスタッフさんが書いた内容:
私はその日お休みしてしまい、聴講できなかったのですが、様子が分かり助かりました。
最後の渡邊先生との質疑応答は、どのような感じだったのでしょうか?
何か渡邊先生のご講義と、
酒井先生のご講義とを関連付けるような展開はありましたでしょうか。
軽くまとめて頂けると助かります。よろしくお願いいたします。
LAPスタッフ2012/11/28 13:06:01

私はその日お休みしてしまい、聴講できなかったのですが、様子が分かり助かりました。
最後の渡邊先生との質疑応答は、どのような感じだったのでしょうか?
何か渡邊先生のご講義と、
酒井先生のご講義とを関連付けるような展開はありましたでしょうか。
軽くまとめて頂けると助かります。よろしくお願いいたします。
iwakawa2012/11/20 19:59:27

 今回の清水晶子先生の授業においては、病などによって強制的に身体が変容するということをめぐる問題や、ネオリベラルなしなやかさによってフレキシブルに変容していくことによる、ポジティヴな側面とネガティヴな側面、異性愛規範をめぐるあらたな問題点など、今回のテーマ講義の主題である「変容」について、様々な視点が取り入れられた。とりわけ、病や障害などによって、ままならない身体を持った人々にとって、自分の意図とは別に生じる変容が起こった時に、現在の社会的な条件の中では生き延びられない状況が広がってはいないだろうかという問題提起について惹かれた。1990年代以降、特に、ネオリベラルな経済体制が要求しているのは、企業が自由に変容していくために、企業の決定にそくして柔軟に変容していくような主体である。そのような状況において、ままならない身体を持った人々は切り捨てられる。清水先生の授業から感じられたのは、そのようなままならない身体を持った人々を切り捨てる政治への怒りであり、私自身、今後どのように未来を展望していくのかという点で非常に刺激を受けた。
iwakawa2012/11/13 22:52:42

 清水晶子先生による講義では、クィア理論の説明から入り、「変わるもの、変えられないもの、変わってしまうもの」というテーマについての問題提起がなされた。クィアという言葉はもともと男性同性愛者を侮蔑する言葉だった。けれども、1980年代になって、同性愛者自身が再占有して用いたという歴史がある。とりわけ、クィアとは、スティグマを伴う記号を拒絶するのではなくその記号を引き受けた上で文脈をずらしていくような用いられ方をし、1980年代のエイズ危機において、周縁的な位置から、主流文化への同化を求めるのではなく、差異と逸脱を主張し、アイデンティティに基づかない政治の可能性を模索したことが確認された。
 清水先生の説明において、クィア理論までの歴史的な経緯がまとめられ、ジュディス・バトラーの議論が紹介された後、ジェンダー化された身体自体が変わる可能性を模索する一方、そんなに簡単に感じ方が変わるのだろうかという次回への提起がなされた。バトラーは、ジェンダー・パフォーマティヴィティという概念を提示して、〈わたし〉がいかに規範の強制的な引用の結果としてしか成立しえないかを明らかにしているが、これまでの授業との関わりでいうと、原先生が、西洋思想の歴史において、「私」(つまり、「自我」や「自己」といったもの)は変容しないと捉えられることがあるが、一方、自己を変えていくことで真理にたどり着こうとする「自己への配慮」を中心とした系譜も存在することに触れたこととつながるかと思われる。次回の授業で、「変わるもの、変えられないもの、変わってしまうもの」というテーマが深まることを期待する。
iwakawa2012/11/06 12:54:01

 今回は、高橋英海先生「キリスト教の変容とキリスト教における変容」というテーマだった。キリスト教が伝わるにつれて、いかにしてキリスト教が変容していったのかという話と、キリスト教における「主の変容」について、たくさんの例をあげながらの講義となった。とりわけ、キリスト教における変容の中でも、「祈りの結果として自らが変わる、祈っているうちに自らが変わる」という話について、次回の講義を受けもつ清水晶子先生から、「その変容は起こそうとしておきるものなのか、我々に主体性はあるのか」という質問が出たが、高橋先生がお答えになったように、「変容は神が起こすことであり、努力はできるが世界を変えるのは神である」という議論は、今回の講義と次回の講義をつなぐ重要な観点の提示だった。果たして、「変容」とは、変わるものなのか、変えるものなのか、否応なく変わってしまうのもなのか、変えられないものは何なのか。様々な論点を引き継ぐことになると思われる。
 また、前々回の原和之先生の「精神分析における主体の変容」との関わりでいうと、果たして、キリスト教の変容における修行や広く神学は、西洋思想の「自己への配慮」の系譜に入るのか否か。その点についても詳しく原先生、高橋先生にうかがいたい。
大澤TA2012/10/30 17:16:52

<講義の様子>

 今回は赤ちゃんから大人へと成長する過程で、自己の認識が変わっていく様子を神経科学的に理解しようと試みる開先生の講義でした。

 前回の原先生の精神分析学的に自己の変容を理解しようとする試みとはまた違ったアプローチを聞くことができ、また新鮮な気持ちで講義を聴くことができました。聴講している学生もまた違った自己の変容に対するアプローチを興味深そうに聞いていたと思います。また前回授業をしていた原先生も一緒に講義を聞いていたことで、変容というテーマの繋がりを感じやすかったと思います。可能であれば前回まで授業をしていた先生が次の先生の講義を聴きつつ、オーガナイザーをしてもらえるといいと思いました。

 

<「変容」というテーマ講義での共通点は何か?>

 前回と今回の講義の共通点としてあげられるのは、目に見えないものとして自己や心に着目し、それがどのように変わっていくか、または発達的変容を遂げているのかを証明しようと試みた点です。

 精神分析学ではヒステリーが治癒した=自己が大きな変容を遂げていると定義し、その治療から欲求が「私」の変容を条件づけていると考えています。そして、欲望が精神のかたちを決め、ヒステリーは欲望がゆがんだ形で表に出た結果だと言っています。

 一方、認知発達神経科学では、時差を付けた自己の映像とリアルタイムの自己の映像を見せてどちらの映像を長く見ているかで、自己認識が赤ちゃんから大人にかけてどのように変わっているかを調べたり、赤ちゃんの語彙の数を心の発達と考え、この時に脳で何が起こっているかを調べるといったアプローチから自己の発達的変容がどのように起こっているかを調べています。

 どちらも目に見えないもの(自己や心)が変わっていく、または形作られていくことを証明するために、ある定義を立て、それを目に見える条件として検出しています。

しかしながら、検出できている条件が本当にその定義に当てはまっているかどうかは曖昧な点が多く、他の検証が必要であるようにも感じられました。しかし、それはまだまだ学問的に発展する可能性が秘められていると思いました。

 

<質問>

 今回の講義で個人的に興味深いと思ったことは、赤ちゃんから大人にかけて自己認識の時間軸に広がりが見えてくることです。これを結論づけている実験は、まだまだ他の検証が必要であるとは感じましたが、もしこれが本当であれば、この広がりは何を意味しているのでしょうか。過去、現在、未来の自己認識の広がり、これは人の心や認知の発達とつながっているのでしょうか。他者との関わり、他のことへの興味の広がりとも解釈できるのでしょうか。

 授業の冒頭で、脳の構造的な成長、シワ()の形成、視覚野でのシナプスの数は生後約1年以内に成人と同程度になるという研究が示されました。しかし、自己認識の時間軸の広がりは乳児~幼児~児童~成人にかけて徐々に広がっているようにこの実験では感じられます。構造的なダイナミックな成長と、認知や心の成長には明らかに大きなタイムラグが存在しています。したがって、もしシナプス数や脳の構造といったダイナミックな構造変化が心や認知を形成していないとすると、何が私たちの認知の発達に重要なのでしょうか。(脳のダイナミックな構造を伴う成長も重要だと思うのですが、それだけではないように思えます。)神経ネットワークの複雑性、または経験などによって統合された秩序あるネットワーク構築なのでしょうか。視覚野のシナプスの数は生後8ヶ月をピークに減少傾向にあることから、シナプスの数を上手く減少させることが認知の発達に重要なのでしょうか。手が5本できる発生の時、必要のない部位の細胞がアポトーシスを起こすように、認知を発達させることにも計画的なシナプスの減少は重要なのでしょうか。

まだこれらは答えがある問いではないと思いますが、先生は研究を通して考えていることを聞かせていただければと思います。最後に、赤ちゃんに見られるこのような変化は、変容という言葉とは正確には異なると言い、発達的変容と先生はおしゃっていましたが、

どのように異なるのでしょうか。先生の講義録を書く際にとても言葉の使い方で悩むことが多いので、時間があれば聞かせてください。

LAPスタッフ2012/11/01 15:10:38

LAPスタッフの赤木です。まとめて頂きありがとうございます。
(体調不良により欠席させて頂いていたので、大変助かりました)

こちらの概要を拝読しただけでの感想なのですが、開先生の今回のご講義のテーマ、特に認知発達神経科学に関するあたりは、南京で聴講した、酒井邦嘉先生のご講義の内容と大きな関連性があるように思えました。
酒井先生のご講義では、赤ちゃんの脳が、言語に特化して変化していく様子や、母語習得者が第二言語を習得する際の脳の変化などが後半の中心テーマとなっていましたが、それと自己認識について重ねて考察できれば、面白そうだと感じます。
酒井先生は、本テーマ講義では11月21日にご講義があります。

※酒井先生の南京大学でのご講義の様子はこちらをご覧ください。
iwakawa2012/10/19 21:39:35

 質問を行いたいと思います。原先生に今回の授業を振り返りまとめる形で答えて頂ければと思います。

1.西洋思想における「私」という話の中での「精神分析」の位置づけ

 西洋思想における「私」の問題と精神分析の「主体」の変容ということを考えるとき、「自己への配慮の系譜」、いわば自己を変えていく系譜があり、その系譜に、精神分析は連なっていると考えてよいのでしょうか。

2.「精神分析における主体の変容」と「欲望」の関係について

 それから、「精神分析における主体の変容」と「欲望」の関係について、もう一度、確認させてください。

 フロイトは、精神分析における主体は、言語化できなかった苦痛を他の症状として表し、ヒステリーに代表されるようなゆがんだ満足の仕方をするが、それに対して分析者が意味を与えてあげることで治癒するというモデルを考えた。しかし、反応による除去が起こりにくい場合があるため、治療のモデルについてほかの理解の仕方が必要になったという流れでよいのでしょうか。

 そのときに、フロイトは、恒常的に満足を求める欲望が私たちの精神の形を決めているという発見をして、欲望とは、私たち自身を形作る原因であると定義したということでしょうか。欲望は、不満足である限りにおいて保持され、形があるが、欲望が満たされると変容するので、「精神分析における主体」もまた、それに伴って変容していくという人間理解を行ったというのが、精神分析理論というふうに考えてもよいのでしょうか。






iwakawa2012/10/11 12:50:06

質問

1、「精神分析の主体の変容」の問題、とりわけ、欲望のかたちがかわるという話についてはとてもよく理解できました。また、西洋思想における「私」が変容しないこと(デカルトのモデル)と、変容を目指す系譜(自己への配慮のモデル)があることについても理解できました。けれども、欲望が変容するという問題と西洋哲学における「私」の問題がどのような関係になってつながっているのかが、現時点では見えにくいように思いますので、次回の講義でご説明頂ければと思います。

2、女性の問題が出てきましたが、後々、ヒステリー研究はフェミニズムから大きな批判を受けることになります。そのあたりの社会的・歴史的なコンテクストについてもお話し頂ければうれしいです。

 次回の講義も楽しみにしておりますので、よろしくお願いいたします。(岩川ありさ)
iwakawa2012/10/11 12:44:58

 こうした手続きを経て、講義では「ヒステリー」の問題が取り上げられた。

 何故、ヒステリーの問題が重要なのか。それは、ヒステリー研究には、ヒポクラテスからシャルコー、フロイトに至るまでの長い歴史があるということが一点。そして、欲望に関わる領域の病であるという点が二つ目としてあげられるだろう。

 ヒステリーの罹患と治癒はともに、方向性は異なるものの、人間の状態として大きな変容である。「私」が病み、一方では癒える。そのようなプロセスに精神分析と欲望が関わっている点からヒステリーの例があげられたものだと理解した。

 また、ヒポクラテスの時代から、19世紀のシャルコーの時代まで、ヒステリーの原因として性的な不満、つまり、性的な欲望の問題が関連していた点で、精神分析における主体の変容がいかにして行われていくのかという問題と欲望の問題が折り重なる地点について、来週の講義では触れられるのかと思う。フロイトの議論も含めてとても楽しみである。

 最後に、疑問点をふたつあげたい。(続)
iwakawa2012/10/11 12:25:17

 第1回の授業は南京大学からの音声がつながらないというトラブルがあった。けれども、東大からの講義はつながっていたので、全体を通して、東大の学生も南大の学生も、原和之先生の講義に真剣に耳を傾けていた。

 原先生の講義の主題は、「精神分析における主体の変容」。

 まずは、人間の悩みを「持続的な不満」として定義し、その不満の基底には満たされない欲望があるという説明がなされ、精神分析という視座から「主体の変容」がいかになされていくのかについて講義する手続きが踏まれた。

 次に、目には見えないが、さまざなかたちをとるものとして欲望をとらえ、そのかたちがいかにして変わるのかという点が今回の講義において重要になるということが確認された。

 その後、西洋思想の歴史において、「私」(つまり、「自我」や「自己」といったもの)は変容しないと捉えられることがあるが、一方、自己を変えていくことで真理にたどり着こうとする「自己への配慮」を中心とした系譜も存在することに触れられた。

 このような西洋哲学の歴史における「欲望」と「私」の問題をふまえた上で、19世紀になって現れた精神分析は果たして、患者の主体が抱える症状をいかにして変容させ、治癒していくことができるのかという主題へとつながった。(続)