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内野先生、原先生、植田先生の講義に関する質問・意見・感想をお寄せ下さい。
*言語は日本語、中国語、英語のいずれでも構いません。
 

Question&Comments

内野先生、原先生、植田先生 Questions&Comments[全件一覧]

UN student2010/03/19 15:59:10

植田先生の講義はすばらしかったです。大変勉強になりました。

速読についてちょっと伺いたいと思います。
普通の人間は、仮名を音声化して、意味を処理します。漢字の部分は音声化を経ずに意味を処理します。速読の場合は、音声化の過程はないみたいですね。脳の反応時間を短くします。それはスピードが速い原因だと思われます。つまり、音声化をしないと、スピードアップできるということですね。
仮名を漢字化すれば、どうなるでしょうか。
たとえば、「ない」という言葉があったら、この「ない」をコンビにして、一つのキャラクターとして読めば、漢字と同じように音声化を経ずにすぐ分かることができます。この「ない」を読めば、「否定」とか「無」とかが分かります。「ある」(存在の意味を表します)「れば」(仮定の意味)など。そうすれば、一部分の仮名コンビが漢字と一緒になり、脳にとって分かりやすくなるでしょうか。

もう一つのことを思い出されました。
一部分の人間は単語を覚える場合、他人と違って、単語の形で覚えるんです。彼らはほかのことを覚える場合、大体そうであります。つまり、図形を通じて、物事を覚えます。そういう人たちは上のような発想と同じでしょうか。

先生の考えはどうでしょうか。絵文字:笑顔
teacher2010/04/04 18:38:41


UN studentさんが書いた内容:
植田先生の講義はすばらしかったです。大変勉強になりました。

速読についてちょっと伺いたいと思います。
普通の人間は、仮名を音声化して、意味を処理します。漢字の部分は音声化を経ずに意味を処理します。速読の場合は、音声化の過程はないみたいですね。脳の反応時間を短くします。それはスピードが速い原因だと思われます。つまり、音声化をしないと、スピードアップできるということですね。
仮名を漢字化すれば、どうなるでしょうか。
たとえば、「ない」という言葉があったら、この「ない」をコンビにして、一つのキャラクターとして読めば、漢字と同じように音声化を経ずにすぐ分かることができます。この「ない」を読めば、「否定」とか「無」とかが分かります。「ある」(存在の意味を表します)「れば」(仮定の意味)など。そうすれば、一部分の仮名コンビが漢字と一緒になり、脳にとって分かりやすくなるでしょうか。

もう一つのことを思い出されました。
一部分の人間は単語を覚える場合、他人と違って、単語の形で覚えるんです。彼らはほかのことを覚える場合、大体そうであります。つまり、図形を通じて、物事を覚えます。そういう人たちは上のような発想と同じでしょうか。

先生の考えはどうでしょうか。絵文字:笑顔

 
質問を有難うございます。現在わかっていることではお答えしにくい、難しい質問です。
おっしゃるように、仮名も塊としてとらえれば漢字のように処理することは可能かもしれませんが、初めて読む文章の中ではどのような仮名を塊として捉えて良いのか予想できませんので、漢字のように読めるのか、つまり形から音声化しないで直接意味を理解できるのかはわかりません。むしろそれはできないというのが研究者の常識です。が、速読者はそれが可能になっているとしか解釈できないような実験結果が得られています。もし速読者が仮名を漢字のように読めるようになっているのであれば、これは相当に大きな発見で、NatureやScienceに掲載されるでしょうね。それを目指して頑張って研究を行っています。
一部の人は単語を覚えるときに図形として覚えるというご指摘ですが、これは十分にあり得ます。単語に限らず、様々なものを記憶する際に、自分に馴染みのある図形や物体に置き換えて覚える人がいることは研究で明らかになっています。中には、レストランでのお客さん80人分の注文を覚えるのに、自分の好きな陸上競技の記録に置き換えて覚えられる人がいることも報告されています。単語から瞬時に意味をとるのと単語を覚えるのは、脳の働きとしては別のものであり、記憶に関しては、仮名からなる単語であっても図形として判断して覚えることは可能なのです。
UN student2010/03/17 16:13:47

先生の講義はすばらしかったです。絵文字:笑顔
ジェスチャ絵文字:良くできました OKについて質問があります。
確かに世の中には、ジェスチャを用いない人間もありますね。つまり、ジェスチャを用いるかないか、それは個人的な習慣です。実験によりますと、話してが目の見えない人たちにジェスチャを用いて話しました。その場合、話し手はもちろん、ジェスチャ好きの人を前提として実験が行われました。では、普通ジェスチャをしない人々はどうするでしょうか。彼らが話している時、どうしたら会話を補完するのでしょうか。
teacher2010/04/04 18:08:47


UN studentさんが書いた内容:
先生の講義はすばらしかったです。絵文字:笑顔
ジェスチャ絵文字:良くできました OKについて質問があります。
確かに世の中には、ジェスチャを用いない人間もありますね。つまり、ジェスチャを用いるかないか、それは個人的な習慣です。実験によりますと、話してが目の見えない人たちにジェスチャを用いて話しました。その場合、話し手はもちろん、ジェスチャ好きの人を前提として実験が行われました。では、普通ジェスチャをしない人々はどうするでしょうか。彼らが話している時、どうしたら会話を補完するのでしょうか。
 
質問をありがとうございます。また返答が遅くなってすみません。
一般的にジェスチャの表出には個人差よりも文化差の方が大きく見られることが知られています。例えば、日本人はアメリカ人よりもジェスチャの頻度は少ないと言われています。これは日本語という言語が、英語と比較して、音声の高低や強弱(日本語では韻律といいます)によって感情を伝えやすい言語だからだと理解されています。講義で紹介したGoldin-Medowらの実験では、そのような文化差を考慮し、アメリカ人だけではなく様々な国の人に実験に参加してもらうような配慮をしています(詳しくは、講義で紹介した"Hearing Gesture"という本をご覧ください)。ですので、ジェスチャを頻繁に行う人たちだけを選んで実験を行ったわけではないことをまずご理解ください。
「ジェスチャをしない人はどうするのか」というのが質問ですが、世の中にまったくジェスチャをしない人がいるのでしょうか? 自分ではしていないと思っても、実際には相当にジェスチャを行っています。少なくともこれまでの研究でジェスチャをまったくしない人というのは、目の見える人も見えない人も含めて報告されていないので、仮にいた場合、どのように会話で言語情報を補完しているのか想像がつきません。言語情報の補完を韻律や表情、視線で行わない限り、相当に窮屈な会話になるでしょうね。なお、会話で重要なのは講義で紹介したジェスチャだけでなく、上記の韻律、表情、視線も同様に重要なことが最近の研究でわかってきています。
UN student2010/03/23 22:53:35

      您好!欢迎来到南京大学,也非常感谢您带来的精彩讲座。您通过一些事例,向我们介绍了人的认知方式是如何形成的,让我们大开眼界。同时,我觉得和国吉老师的观点也有照应。我感兴趣的是,为了生存,大脑、身体与环境共同影响人的认知,那么,就是说人选择环境的同时,环境也在塑造人。这点似乎可以用来解释异文化的根源,譬如中日两国国民性或思维方式等方面的差异。我相信,中日两国国民的大脑构造是大致相同的,而同时中国人之所以是中国人,日本人之所以是日本人,并非因为身在中国或日本,而是被所处的环境在认知上施加了极大的影响,继而这种认知方式又引发一些其他东西,这一点和文化人类学也是相通的。不知道这种理解有没有问题,谢谢!
 
植田先生こんにちは。南京大学にようこそ。先生の素晴らしい講義に感謝いたします。人の認知はどのように形成されるのかという先生のお話によって、私たちのものの見方が大きく開けました。また、私はこの話は、國吉先生のお考えとも通じ合うものがあるように感じました。私が興味を持ったのは次のような点です。生存のために、大脳、身体と環境が共に人の認知に影響し合っているならば、人が環境を選択していると同時に、環境のほうでも人を形成しているといえます。この観点は、文化の違いの根源―例えば日中の国民性とか、思考方式の違いとか―を理解するために使えるように思われます。私は日本人も中国人も、大脳の構造はほとんど同じであると思います。と同時に、中国人が中国人である所以、日本人が日本人である所以は、けっして身体を日本ないし中国に置いているからではなく、その人の置かれている環境がその人の認知に極めて大きな影響を及ぼし、この認知方式がまたその他の様々なものを引き起こすためであって、この点、文化人類学とも相通じるものと考えています。もちろん私のこのような理解に問題もあるかもしれませんが。有難うございます。
teacher2010/04/04 18:48:56


UN studentさんが書いた内容:
      您好!欢迎来到南京大学,也非常感谢您带来的精彩讲座。您通过一些事例,向我们介绍了人的认知方式是如何形成的,让我们大开眼界。同时,我觉得和国吉老师的观点也有照应。我感兴趣的是,为了生存,大脑、身体与环境共同影响人的认知,那么,就是说人选择环境的同时,环境也在塑造人。这点似乎可以用来解释异文化的根源,譬如中日两国国民性或思维方式等方面的差异。我相信,中日两国国民的大脑构造是大致相同的,而同时中国人之所以是中国人,日本人之所以是日本人,并非因为身在中国或日本,而是被所处的环境在认知上施加了极大的影响,继而这种认知方式又引发一些其他东西,这一点和文化人类学也是相通的。不知道这种理解有没有问题,谢谢!
 
植田先生こんにちは。南京大学にようこそ。先生の素晴らしい講義に感謝いたします。人の認知はどのように形成されるのかという先生のお話によって、私たちのものの見方が大きく開けました。また、私はこの話は、國吉先生のお考えとも通じ合うものがあるように感じました。私が興味を持ったのは次のような点です。生存のために、大脳、身体と環境が共に人の認知に影響し合っているならば、人が環境を選択していると同時に、環境のほうでも人を形成しているといえます。この観点は、文化の違いの根源―例えば日中の国民性とか、思考方式の違いとか―を理解するために使えるように思われます。私は日本人も中国人も、大脳の構造はほとんど同じであると思います。と同時に、中国人が中国人である所以、日本人が日本人である所以は、けっして身体を日本ないし中国に置いているからではなく、その人の置かれている環境がその人の認知に極めて大きな影響を及ぼし、この認知方式がまたその他の様々なものを引き起こすためであって、この点、文化人類学とも相通じるものと考えています。もちろん私のこのような理解に問題もあるかもしれませんが。有難うございます。
 
 
コメントを有難うございます。國吉先生の授業と私の授業をとてもよく理解されているので、理解力の高さに感心しています。
おっしゃる通り、國吉先生の講義の趣旨と私の講義の趣旨は基本的に同じです。人の脳、身体、環境が互いに相互作用しながら、人の認知は形作られています。これは他の動物でも同じことですが、人が他の動物と異なるのは、自ら積極的に環境に働きかけることができる点にあります。このことは人の脳のある意味尋常ではない進化を促した可能性がありますが、このことはまだよくわかっていません。
文化差というのも、ご指摘の通り基本的に環境の問題です。発達認知科学では既に常識となっていますが、子供がどの言葉を母語(native language)として話すのかは、両親がどの国の人かにはよらず、どの子供がどのような言語が話されている環境にいるか(つまり、周りの人が中国語を話しているのか、日本語を話しているのか、英語を話しているのか)に依存することがわかっています。そのくらい環境というのは重要なものです。
文化人類学に興味を持たれているようなので、文化人類学と認知科学とを繋ぐような研究を将来してもらえると大変嬉しいです。
UN student2010/03/17 16:29:56

人間の脳というのは、本当に不思議な器官だと思います。人の脳のホムンクルスによると、人間は怪物みたいなものですね。頭も大きすぎますし、手も大きすぎます。これは人間身体の未来の進化方向だと推測できますか。先生はどう思いますか。
teacher2010/04/04 18:20:07


UN studentさんが書いた内容:
人間の脳というのは、本当に不思議な器官だと思います。人の脳のホムンクルスによると、人間は怪物みたいなものですね。頭も大きすぎますし、手も大きすぎます。これは人間身体の未来の進化方向だと推測できますか。先生はどう思いますか。
 
質問を有難うございます。とても良い質問だと思います。
人の脳がこんなにも複雑で、かつ大きな器官になったのは、最初からそのような設計図があったからではなく、講義の中でも少し触れたとおり、人が環境に適応するように進化してきた結果であるというのが最近の主流の考え方です。人が生物として生きるには、物体の動きを理解し、自ら動く中で周囲を認識することが重要なため(でないと、人は獲物を捕まえることができませんし、逆に他の動物の餌食になります)、視覚に関しては最初に背側経路が進化したと考えられています。その後、何らかの環境や人の生活の変化により、物体の形や色などを認識することが必要となり、腹側経路が進化してきたと言われています。このように人の脳がどう変化するかは誰にも想像することができず、人と環境との相互作用によって決まるものだと理解するのが良いと思います。
もしわれわれが住んでいるこの環境が大きく変化しなければ、手や足の重要性がより増すでしょうし、環境に大きな変化が生じれば、人の脳の中ではかなり後退している機能の重要性が増して、長い年月をかけて人の脳はまったく別の方向に進化することも考えられます。
UN student2010/03/10 22:34:50


 午後は一人のアメリカの先生に出会いました。あの先生の話によりますと、ニューヨークでは生活のリズムはとても早くて、何をしても時間だ!時間だ!とかなり落ち着いていない生活だということです。昨日内野先生がいくつのアメリカの演劇を見せてくださいましたが、それはとてもだらだら生活でしたね。だといえば、アメリカでは心を落ち着いてその様な演劇を見ている人もいますね、でも、リズムの早い世界でそのようなだらだらした演劇を見るのはいくらいるのですか。確かに劇場で心が落ち着けても、いったん劇場を出たら、また周りのように落ち着かなくなるのではないか
UTstudent2010/03/15 14:00:14

東京大学の学生です。内野先生の授業に参加できず残念です……
中国、日本、アメリカ、それぞれに文化的な違いもあるし、伝統の違いもあるので、やはりそれぞれに違う演劇を持つものかもしれません。その違いもどのようなものか、考える価値がありそうですね。個人的な意見ですが、日本の伝統は静、セリフ少ない、に対して中国の伝統は動、セリフ多い、という印象があります。
他方、日本も中国も、アメリカも、同時代的に近代ないしポスト近代という時代を体験しているとも言えるわけで、この点において各国のモダン演劇が共通の問題を抱えていないか、というのが私はむしろ気になります。他の書き込みにもありましたが、自分の感情をあまり表情に出さずに隠す、というのは、ある意味で都会的、近代的な人づきあいの特徴ではないかと思いますが、第一にこのような現象はどの程度各国で共通なのか。また第二に、このような感情表現の近代的特徴が、演劇という「表現」においてどのような問題ないし演技として表れているのでしょうか。内野先生が例に挙げたような、人の「内心世界」を描かないポストモダン演劇というのも、このような「モダン(近代)」を通過して後、その現象を客観化する立ち位置から生まれた表現なのでしょうか。
UN student2010/03/14 21:45:30

  
 いろいろ教えてくださって本当にどうもありがとうございました。もし先生がおしゃったようにアメリカはアメリカ的なら、日本も日本的、中国は中国的になりましたね。では中国的な演劇はどんなものなのか、専門家の先生のご意見をお伺いしたいのですが
 
teacher2010/03/11 21:35:44

劇場というところは、本来は時間を圧縮して劇的な時間を経験する場所だったのに、書き込んだ方がおっしゃるように、いつからかはわからないが、時間を弛緩させるようなパフォーマンスが出てきたという見方もたしかにあると思います。たしかにんなふうに、忙しくてせわしない現代社会からの「逃避」じゃないかという考え方もあるでしょうけど――劇場の外に出れば、結局、落ち着かないだけじゃないか――その場合、劇場の「中」と「外」は異なるスペースだという前提があるように思います。しかし、家で、あるいは寮でひとりでいるときのスペースとそこで過ぎていく時間はせわしない、あるいはせわしないだけでしょうか?そのように考えると、「時間が弛緩すること」の別の面が見えてくるかもしれませんね。
 
「いくらいるのですか?」というのはすばらしい問いだと思います。というのも、現実の時間を圧縮したり、ふつうの人にはできない早さややり方で身体を動かすと、ふつうは「お金を払ってもいい」と思うわけですよね?それはすなわち、芸術が消費財と見なされるということですよね?少なくともアメリカの1970年以降のパフォーマンスをやった人たちは、そういう「人にできないことをする」ことで生計を立てるといった考え方から離れようとしたことは事実です。だから「だらだらした」というとあまりに短絡的ですし、そういう考え方は理想に過ぎないともいえますが、たとえば、ハプニングやポストモダンダンスの初期に、ただビルの建物を歩いて降りるというようなことをやったアーティストは(それはそれで危険ですが)、お金=入場料をもらって何かを見せなければならないとは思っておらず、自分が表現したいことを表現するというつもりだったと思います。その点も、いかにもアメリカ的なのかもしれません。
 
UN student2010/03/10 22:06:40

 まずは内野先生に感謝の気持ちをみんなの代表として伝えたいのです。今度のスケジュールはあんまりにもぎりぎりで、本当にお疲れ様でした。どうもありがとうございました。
 それからは、私自身がこの二日間の講義を聞いて、聞き取れた内容の中で、ちょっとわからないところがあるのです。それはまずリアルのことについてですが、実は午後も直接に先生に聞いてみて、いろいろ教えていただきましたが。やはり物理学でのリアルと演劇の中のリアルとは違っています。前の広瀬先生の話によりますと、カメラやビデオで撮ったのはリアルの世界ではないと私がそういうふうに聞き取れましたが、やはり物理学では眼で見た世界、あるいはありのままの世界をリアルとするのではないかと思っています。でも演劇では表ではなく、心の世界はリアルだと思い、ちょっとみにくい顔つきや身体でも、人間の心の世界を演じ出せば、それはリアルで、そして芸術ともいえるのではないかと思います。以上はただ私自身の理解ですが、正しいかどうかはちょっとわからないげど
UN student2010/03/14 21:33:05

  返事してくださって本当にありがとうございます。先生の話を読んでたいへん勉強になりました。実は、この二三日、先生が教えてくださった話のもう一つもちょっと考えてみましたが。
それは、緊張なら顔で緊張を表すとのような話です。でも、現代社会の人間はみんなきれいな顔つきで心を隠すのではないかと私はそう感じています。たとえ緊張でも緊張していないふり、
気になっても平気なふりを、どうしてもみんな頑張っていますね。でも、今、中国でも、日本でもインターネットでとても人気のある一人のホームレスの男の子が、彼は精神上にちょっと病気があるようだが、私の眼で見れば、彼は顔で心を表す人間だと思います。喜ぶときは笑い、こわくてつらい時は涙を流し、時々変な表情も見られるが、たぶんそれはそうしたことのない我々はとても理解できない心ではないか。だとすれば、人間の本来の飾りのない様子は何だとわからなくなりました。
 
 
 

teacherさんが書いた内容:
 
 
「リアル」って、むずかしいですよね?日本語と中国語でちがうだろうし、英語でもちがうと思います。時代によってもちがうし、極端なことをいえば、ひとりひとりでちがうかもしれませんね。
 
日本では90年代以降「リアル」という言葉がはやったのですが(舞台芸術だけかもしれませんが)、わたしのそこでいわれる「リアル」がよくわかりませんでした。「自分の目で見えるものがリアル」というのがまあ普通の考え方でしょうが、そこでもまた、実際に見ているつもりで見てなかったりするということもありますよね、経験的には。錯覚とか誤認ということがよく言われます。
 
物理学のリアルと演劇あるいは芸術学におけるリアルが異なるのは当然で、一つの正解があるわけではないと思います。というか、芸術学的には正解はないといったほうが正しいかもしれません。書き込んだ学生の方がおっしゃるような「心の世界がリアル」というのも、長い間共有されてきた――どこでだれが、ということは厳密に定義しなければならないにせよ――考え方でしょう。実際多くの芸術形式は、演じる人の心の中や感情といったものを問題にしてきた歴史があります。しかし、芸術諸分野においても、そういった「心の世界のリアル」が疑われているように思います。そうでないと、ポストモダンダンスやハプニングといった演じる人の心や感情を問題にしない、あるいは中心にしない芸術形式が出てこない。あるいは、出てきても、広く認知されなかったのではないかと考えられます。ただし、演じる人の心=「内面」が想定されておらず、そこで純粋に物理的な身体の動きが提示されるだけのポストモダンダンスであっても、見る人の心に何かが起こるということはあるでしょうし、実際に起きるでしょう。
このことはいったい何を意味するか?考えてみるに値する問題ですね。
 
 
 

teacher2010/03/11 21:49:25

 
 
「リアル」って、むずかしいですよね?日本語と中国語でちがうだろうし、英語でもちがうと思います。時代によってもちがうし、極端なことをいえば、ひとりひとりでちがうかもしれませんね。
 
日本では90年代以降「リアル」という言葉がはやったのですが(舞台芸術だけかもしれませんが)、わたしのそこでいわれる「リアル」がよくわかりませんでした。「自分の目で見えるものがリアル」というのがまあ普通の考え方でしょうが、そこでもまた、実際に見ているつもりで見てなかったりするということもありますよね、経験的には。錯覚とか誤認ということがよく言われます。
 
物理学のリアルと演劇あるいは芸術学におけるリアルが異なるのは当然で、一つの正解があるわけではないと思います。というか、芸術学的には正解はないといったほうが正しいかもしれません。書き込んだ学生の方がおっしゃるような「心の世界がリアル」というのも、長い間共有されてきた――どこでだれが、ということは厳密に定義しなければならないにせよ――考え方でしょう。実際多くの芸術形式は、演じる人の心の中や感情といったものを問題にしてきた歴史があります。しかし、芸術諸分野においても、そういった「心の世界のリアル」が疑われているように思います。そうでないと、ポストモダンダンスやハプニングといった演じる人の心や感情を問題にしない、あるいは中心にしない芸術形式が出てこない。あるいは、出てきても、広く認知されなかったのではないかと考えられます。ただし、演じる人の心=「内面」が想定されておらず、そこで純粋に物理的な身体の動きが提示されるだけのポストモダンダンスであっても、見る人の心に何かが起こるということはあるでしょうし、実際に起きるでしょう。
このことはいったい何を意味するか?考えてみるに値する問題ですね。
 
 
 

UTstudent2010/03/11 08:34:03

皆さんの議論を見ているだけでも興味深いし、好奇心をかきたてられますね。せっかくだから、この掲示板を石井先生などこのプロジェクトに関係している先生だけではなく、内野先生など授業を行う先生にも見てもらえばありがたいですよね。
UN student2010/03/10 22:46:39


 昨日は初めてそのような演劇を見たのです。最初は、画像も醜いし、音楽も聞きにくいからつまらないと思ったが、でも内野先生の解釈を聞いて、心を落ち着いて見ていけば、だんだん面白くなってきました。画像を見ながらいろいろと想像ができるようになって、とても奥深い画像だなあと思いました。たぶんつづけて勉強していけばもっと面白くなるかもしれない