はじめまして。南京第2班の杉谷です。
3月17日に行われた、酒井先生の一日目の講義と討論会の様子をまとめておきたいと思います。記憶が薄れないうちに。以下の内容は私のノートをもとにしたものなので、いろいろと問題があるかもしれませんが、ご指摘いただければ幸いです。
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私たちはふつう文系と理系ということを漠然と考えていますが、先生によればそれは、主観的/客観的、個別/普遍、そして歴史性(一回性)/再現性という両極間に存在します。人間はふつう、主観的かつ個別的な、その意味で文系的な存在と考えられていますが、人間の合理的行動には普遍性と再現性があるため科学の対象にもなりえます。
しかし科学といっても、人間を動物の一種として見る生物学・動物行動学的視点、あるいは機械の方から人間に近いロボットや人工知能を作ろうとする工学的視点のいずれも不十分であり、言語学と脳科学が不可欠である、というのが先生の主張でした。言い換えれば、人間を動物とも、機械とも決定的に分かつのが、人間の言語(活動)と、それを支える人間的な脳ということになります。

講義中の酒井先生。熱が入ると早口に?
では、人間の脳と言語はどういう関係なのか。先生は、脳のなかに心が含まれ、心の中に言語が含まれる、という三段階の階層構造をなしている、という立場を提示されたように思います。そしてその説明のために、脳の働きだが心の機能(知覚、記憶、意識)ではない例として反射や呼吸を、また心の働きだが言語(統語処理、意味処理、音韻処理)ではない例として感情、精神病、動物の心を、それぞれ挙げていました。
講義の後半は、このような言語が、人間の生得的能力であり、かつ人間に特有の能力であることを、他の生物との比較によって浮き上がらせるものでした。それは、一方では生物進化を連続的なものとみる見方への批判、他方では動物に言語使用が可能であるとの見方への批判という二面からなされていたと思います。とりわけ重点は後者にあって、動物の言語使用とは、外部にある言語を操って人間に喜ばれるような模倣をしているに過ぎないのに対して(チンパンジーやClever Hansの例)、人間の言語とは人間の脳の中に生得的に備わっている能力であり、トレーニングなしで乳幼児が習得できる、という特徴を持ちます。これを、自然言語と呼ぶ、というところで、一日目の講義が終了しました。

講義は一人ひとりに質問をしながら進められました。写真は質問に答える橋場さん
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討論会には、石井さんと酒井先生が来てくださいました。
前半は、渡辺先生の二日目の講義に関するまとめでした。内容は、おおよそ下で赤木さん、大屋さんにまとめていただいた通りで、植物においてDNAを記録と見るならば、ではいったい何が記憶なのか、という問題を討論しました。環境変化の情報を受け取り、それを未来に向けて使っていく、という活動そのものを記憶しているとみるならば、ということから出発して、大きく分ければ二つの問題が出されたと思います。一つは、記憶と記録の線引きの問題で、環境の永続的な変化が遺伝子変化をも引き起こす現象(エピジェネティクス)はどう捉えればよいのか、そもそも脳のない植物では、記憶と記録は同一ではないのか、いや何か線引きができるのでは、というような議論でした。もう一つは、このような記憶の捉え方には、記憶が「過去の保存」であるという直観とズレがある(より現在、未来に重きが置かれている)という問いで、植物の記憶を考えることは、人間が当たり前に考えている記憶という概念に対する見方の変更を迫るものではないか、というような話になりました。
酒井先生は、この討論をうけて、二日目の講義の最初に以下のような考えを述べられました。つまり、記憶も記録も過去の事象の保存であるが、記憶が「記銘、保持、想起」という人間の脳における現象であるのに対して、それが何らかの形で表象されて、かつ一定期間保存されたものを記録と呼ぶ、したがって階層構造としては記録は記憶に含まれる、という考えです。これも一つの図式としてありうると思いますが、私としては、植物という科学的なアプローチが一般的な対象において、あえて「記憶」を考えようとする渡辺先生と、言語にあえて極度の抽象化を行うことで、完全に科学性の内側で解明しようとする酒井先生の、きわめて興味深い対比だなと感じました。
後半は酒井先生が議論をずっとリードしておられたのと、私もノートを取っていなかったので、文字で再現するのにかなり限界があると思います。先生の主張は、一つは言語においてコミュニケーションが重要であるという考えは、ある意味文系的な偏見であって、実はそれは二次的なものに過ぎないということ、もう一つは、自然言語というものには生成的な多様性(クレオール語のように)があって常に複雑化していること、また日本語、方言、個人語のように見れば階層的な多様性も存在している、ということだったと思います。

真剣に講義を聞く学生さんたち
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最後に疑問と感想をいくつか(私の個人的な考えですが)
文系の人間としては、理系は普遍的、再現可能という割り切り方は少し納得できませんでした。理系の実験だって、条件はその都度変化するし、全く同一時間に行われているわけではない。そうすると、そこに共通のものを見出すのは一つの抽象化なので、文系は抽象度が低い、理系は高い、という違いから言えば個別/普遍などと対比しうるかもしれない、とは思いますが、個人語というレベルで考えれば皆の言語がすべて違う、というような意味で言えば、文系も理系も同じ危うさの上に乗っかっているというのが私の実感です。
言語にはコミュニケーションは不要だ、という考えや、生物学的な発声器官の変化と言語とは直接関係ない、という考えは、科学的な割り切ったものとして理解はできますが、しかし人間がどういうわけか、まず音声的に言語を獲得した、ということの重要性はあるのでは、と思います。これに関連する疑問ですが、先生が言語の機能として挙げられた「音韻処理」は、手話を自然言語とする人のなかではどうなっているのか、知りたいと思いました。
階層性によって脳、心、言語を考える、というくだりでは、アーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』 原題"Ghost in the Machine"の「ホロン」という概念を思い出しました。この本はなかなか面白くて、また行動主義的心理学批判という点だけ見ればチョムスキーと共通点もある気がします。興味のある方に読んでいただければと思って名前だけ挙げておきます。
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以上です。これまでのを見ると写真をいっぱい使ったりしていて私もできればそうしたいのですが、いま時間の制約と、手元にデータもない、ということでメモ程度のことしかできませんでした。このブログですが、もし余裕のある時に写真を使ったり、あるいは先生の使われたPPTを挿入したりなど修正できる仕組みになっているとうれしいです。
杉谷