ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 03月10日 ジョン・オデイ

Body, Mind, World.

2014/3/10 - 3/11

These lectures will focus on philosophical problems which arise when we consider the mind and its place in the natural world. 18th-Century French physiologist Pierre Cabanis once asserted that “The brain secretes thought as the liver secretes bile.” In modern times, we are more likely to compare minds to computers. But is this way of thinking really an improvement? How to think about the relation between thought and world is an important theme in the history of philosophy. It connects to issues such as knowledge, religion, science, and what makes us who we are.

The lectures will be divided into four parts. The first part will focus on the problem of colour: are the colours we see around as really just creations of our own minds, or do they have an objective reality? In the second part, we will discuss the problem of illusion: does the fact that we can perceive wrongly mean that we do not directly perceive the world at all, as many have thought? The third part will be a lecture on the mind-body problem: what is the relationship between mind and body? The final part will be on the problem of consciousness: is an objective scientific theory of consciousness possible, or is consciousness only really knowable from a subjective point of view?

講師紹介

ジョン・オデイ
総合文化研究科超域文化科学専攻准教授。 オーストラリアQueensland Univ.から米国留学を経て、2002年にモナシュ大学で哲学の博士号を取得。東京大学グローバルコミュニケーション研究センター特任講師を経て、2103年より現職。主な研究対象は意識経験の科学的な解明。最近の研究では知覚体験自体の哲学的な解明が試みられ、特に知覚の恒常性の問題が扱われている。研究業績は“Consciousness and the Problem of other Minds”、“A Proprioceptive Account of the Senses”、“Transparency and the Unity of Experience”などがある。
授業風景

o'dea3_2.jpgo'dea4_2.jpgo'dea6_2.jpg

学生の声

東京大学文科III類2年生
 哲学の基本的な問いを再考するよい機会となった。講義に関しては主に二つの疑問点が残った。
 一つは、デカルトの有名なことば、「われ思う、故にわれある。」についてである。講義では、物事が疑う主体があり、それは自己に違いないという論理展開がとられた。しかし、自己が疑っていると感じているとしても、それは自分が疑っていると勘違いしているだけかもしれないのであり、勘違いさせられている存在何かが存在することは確実だとしても、それが自己と一致するのかという疑問が残った。この言葉は、高校の倫理の時間で出会ってから、常にどこかひっかかっていたので、今回の講義は改めた考察するよい機会になった。
 Occam’s Theoryについては、納得できない部分が大きい。講義では、この説明として、遅刻の説明の簡潔さを例に説明がなされたが、これは私たちが常識的にもっている物事の起こりうる確率に基づいているもので、理論の導入には不十分に思えた。これについては、後でまた調べてみたい。
 最後に、何も知ることはできないという懐疑論に陥ってしまいがちな哲学の議論を、私たちの直感に反しない、健康な方法にもっていこうとするJody氏の哲学は大変興味深かった。
 一日目に、「知る」とは何かと考察したことに基づいて、二日目では心と体の関係について議論した。今まで、物理世界と精神世界を分けて考える二元論や Monismについては耳にしたことはあったが、今回さらに理解が深まった。また、今回英語で発表する機会があったが、なかなか自分の表現したいことをい うことができなかったので、もっと練習が必要だと感じた。

東京大学文科III類2年生
 結局のところ、私たちの精神は、私たちの身体のどの部分に帰属するのだろうか。前期教養課程時代に、哲学の講義を受講した同学とよくこのことについて話したが、今のところ納得できている結論はこうだ。私たちの身体を細かく細分化した時、「これは私だ」と言えるのはどの部分だろう。手を切り落とし、腕を切り落とし、脚も切り落として最後に残るのはやはり、「脳」を含む部分ではないだろうか。これが「わたしたちの心はどこにあるのだろう?」という問いへのひとつの答えではないだろうか。
 しかし、講義を通してある矛盾が発生した。「脳が身体から切り離され、脳が東京、身体がオーストラリアで活動しているならば、「わたし」はどちらにいるのか」という問いに、私は「身体が様々な経験を積み、それが脳に蓄積されるのだから、「わたし」は身体のあるオーストラリアにいるのではないか」と、直感的に考えた。これはどういうことだろう。私はある時は自分の本質が脳にあると考え、またある時はそれは身体にあると考えていた。この感じ方の違いはどこから来るのだろうか。今回のオデイ先生による講義は大変興味深く、次学期も先生の講義を受講したいと思う。もしそうなれば、先生にもこの疑問をぶつけてみたい。

東京大学理科I類2年生
 哲学的な問題にぶつかってみて感じたことは、数学などの他学問との相違点である。ほかの学問では、目に見えるものは信じる。物理的に計測できたものは信用できる。想像していた結果と異なる実験結果が得られた時には、なにかほかの原因があるものと考え、あくまでも“事実”を受け入れる。しかし、哲学は見えるものを疑う。当たり前と考えられていて、普段から気にしてしまうと混乱に陥るような内容を扱う。さらに困ったことに、公理がない。例えば数学では、定義や公理が思考の前に必ずある。過去の研究を生かし、都合の良いように予め定義をすることで、思考をしやすくする。そのおかげで現代の実生活にも応用できるような、様々な研究成果が得られてきた。哲学も、一見過去の偉人による思考が生かされているようだが、それすらも必ずしも正しいものとは認めず、疑う。
 正直に言うと、授業中には何度も、そんなこと考えても仕様がないではないか!と、叫びたくなってしまった。数学との比較が続き申し訳ないが、哲学は比較的曖昧だと感じた。特に、自分の脳が東京に置いてあり、しかしワイヤレスでつながれた体はオーストラリアに移動した状態を考える思考実験だ。仮に、ワイヤレスで他人の身体と、脳をつなげることができるのであれば、人間の身体は他の人の身体と代替可能であり、自分の身体は言ってしまえば単なる機械でも構わない。しかし、今のところ自分の脳(あるいは心)は、自分の身体(心の場合は脳)にしか宿っておらず、他の身体には接続不可能である。今思えば、我々が哲学的な思考を行う際には、非常に細かい場合分けが必要なのかもしれない。
 この授業を通して、普段意識することのない問題に目を向けることの面白さを学べたと思う。同時に、その難しさも。いろいろな知識を得ていくにつれて、画一的な思考に陥りがちになるかもしれない。今後も常に新しい考え方を取り入れられるように、柔軟な思考を意識的に維持していきたいと思う。

東京大学理科II類2年生
 実の話、私はこれまで哲学とは何かということがよく分かっておらず、そのために避けて生きてきた。しかし今回の話で実際に私はこれまで哲学を考えて生きてきたという確信が持てた。幼いころから私はもしも私という存在がもし夢だったらという想像はしてきていたし結果の偶然が重なりすぎるともしかして私のために世界が存在するのではないかと考える時期もあったほどである。というわけで割と身近な学問だと私は考えるのであるが、如何せんこれについて考えるのは難しい。私にも理解できる英語で、わかりやすく説明していただいたO’Dea先生はすごく考えてこの授業をなさったのだと思う。直接今回のテーマの排泄とかかわることはあまりないが人間の思考の根幹を知ることは非常に興味深い。これからは哲学と聞いても物怖じせず向かっていくことができそうだ。

東京大学文科I類1年生
 「考える故に我あり」という言葉自体は知っていたが、私の知識不足もあり「我」の存在自体を疑った哲学的な議論から生まれたものだとはしらなかった。講義によれば、考える行為を行う「私」の存在自体を否定してしまうと、考える行為自体の存在自体が危ぶまれることとなるから、考えるという自明な行為の主体である「私」は存在していなくてはならないという理論であった。「私」の存在というのは、日ごろ当たり前に思っているものであるから、この講義を通じて当然のことに対する自己の認知について再認識させられる良い機会を得た。
 ところで、脳と心は本当に分離して考察することができるのだろうか。私は講義を通じて再度思考したが、やはりできないと考える。心は観察・計量することができないものであり、脳にあるかどうか本来であれば疑わなくてはならないであろう。しかし、脳が失われて、肢体のみが残った脳死の状態では、人間は正常な身体活動を送れないことや、脳のみを別の肢体に移植できたとした場合に、その肢体を司るものは移植前の意識を持つ心であろうことが推測されることから、脳に心が存在すると考えてよいのではなかろうか。これは、同様なものを説明できる理論で、簡便なものと複雑なものがともに存在する場合、複雑な部分を排するべきだという初日の講義に基づいて導かれる。この場合は、脳ではないほかの場に心があると考えるよりも、唯一物質として変化した脳を心の存在場所と考えることで簡単に説明がつくからだ。
 哲学はこのような小さなスペースで語ることができないものではあるが、哲学を概観することができたことが何よりの今回の収穫であったといえよう。

東京大学文科III類1年生
 ここではまず1日目の講義でも少し扱われた映画マトリックスに関連して私が以前から考えていたことを深めて考察し、その後、上の項でも述べたように精神と肉体の「何らか」の連関について、私の興味である心理学的な観点から考察したいと思う。
 「マトリックス」の構造は、自らの知覚する世界が真であると思い込んでいる主人公が、実はそれはある存在によって人類が見せられている夢であることを知るという一連を基礎としていて、これはプラトンの「国家」において主に論じられるイデア論との類似によって捉えることができる。この時「洞窟の比喩」を用いるならば、主人公は洞窟の外の世界を見ることのできた人物なのであり、彼が以前知覚しておりかつ真となしていた世界は壁に写っていた世界、洞窟の外の世界は隠蔽された「真の」世界で、それを隠蔽し偽の世界を彼らの目に投じていた存在は洞窟の傍におかれた火である。ここで興味深いのは両者の話の中で「真の世界」は事実そこの中に生きる人々にとって隠蔽された、いわば彼らの知覚世界からは「捨てられた」存在であるということだ。
 第二の点については、1日目講義終了後の提出用紙にも書いたのだが、mindというのはそれそのものは知覚することのできないものであるが、被観察者の言動の原因・前提としてそれが想定されねばならないことによってその存在が担保されていると考える。生理的な現象を除いて(あるいは「無意識」を仮定すればそれらさえもそうなのであるが)、すべての言動には意識が原因として想定されるのは感覚的に言っても、また心理学的に言っても妥当だと思う。

東京大学文科III類1年生
 様々な質問が講師側から提起されるinteractiveな講義であった。この二日間の授業は概していえば哲学の入門講義であったといえよう。それもただ単に歴史上の哲学者の名前とその思想を列挙するいわゆるオムニバス的な授業ではなく、素人の目線からでも理解できるようによく練りこまれた授業であった。またデカルトの二元論への批判としては「知覚の一元論」の方が一般的だと思っていたので、すべての根源を物質と考え心の存在を否定する唯物論が出てきたのは新鮮であった。ある人の心を知るすべとして行動や表情があるという意味で唯物論はたしかにある程度の説得力をもつものだと思う。例えば、私たちは人の心が温かいというのを「何かを進んで手伝ってくれる」という行動や「いつも笑顔」という表情で判断する。
 しかしやはりこの唯物論にはすこし疑問を持った。というのは人の心というのは行動や表情を通してあくまで推測できるにすぎないからだ。例えば人の笑いは心の中では怒っていることを表すこともあれば人を嘲笑っていることもある。しかし他者の行動が本当は何を意味するのか、我々は推測はできる(そしてあっている可能性も大いにある)とはいえども、確定はできないのだ。その点で人の行動は物質(りんごなど)とは異なり、その相違を産むのはやはり心だと思う。だから心の存在を否定する唯物論は間違っていると思う。
 また、授業ではあまり深く説明されることはなかったが、色とはなにかという議題について非常に興味を持った。「赤」という色は「赤」で通じる。しかし他者が見ている「赤」と自分が見ている「赤」は別物かもしれない、またその「赤」は一人一人にとって個別のものであり、他人と一致しているのか否かなどは調べる由もない。こんなことを考えるきっかけは普段全くないがこの授業を通して考えさせられた(この議題については二学期に東大の教養英語でも登場した、ヴィトゲンシュタインの言語に関するsessionとなにか関連するところがあると感じた)。

コメントする

 
他の授業をみる

Loading...