ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第8回 03月24日 高橋 哲哉

記憶のエチカ

緊急の連絡があります。ご確認下さい。

2011年3月24日~25日

戦争、虐殺、迫害など、人類や共同体の歴史に大きな傷跡を残すトラウマ的な出来事について、「記憶せよ」「忘れてはならない」と、「記憶の義務」が語られることがある。記憶すること、忘れないことは、「和解」や「赦し」を可能にするのか、不可能にするのか。それは、克服されるべき被害者のルサンチマンの声なのか、無慈悲な時の流れに抗議する正義の要求なのか。ナチス・ドイツのホロコーストに関する、哲学者ジャンケレヴィッチ(V. Jankélévitch)の議論とそれに対する反響を主な素材として、こうした問題を考える。

講師紹介

高橋 哲哉
1956年生まれ。専攻は哲学。近年の研究テーマは、共同体や宗教における犠牲(sacrifice)の論理の批判的検証、ジャック・デリダの脱構築(deconstruction)思想の再検討など。大学では、社会哲学、倫理学、表象文化論、人間の安全保障などの科目を担当。中国語訳著書に、『デリダ 脱構築』、『靖国問題』、『国家と犠牲』、『戦後責任論』。
レジュメダウンロード

ジャンケレヴィッチとウィアード・ラベリングの往復書簡(日本語) (235.6KB)

ジャンケレヴィッチとウィアード・ラベリングの往復書簡(フランス語) (4.24MB)

ジャンケレヴィッチ「われわれは許しを乞う言葉を聞いたか?」(日本語) (4.57MB)

ジャンケレヴィッチ「われわれは許しを乞う言葉を聞いたか?」(フランス語) (2.74MB)

 

 

コメント(最新2件 / 3)

   reply

 先生の授業を聞き、いろいろ考えられ、とてもいい勉強になりました。
 質問とは言えないかもしれませんが、プリントの14番の 「彼らは600万人のユダヤ人を殺した しかし彼らはよく眠り 彼らはよく食べ そしてマルクは強い」を読んで、ジャンケレビッチがナチスドイツが許せないほど残酷な罪を犯したにもかかわらず、今日豊かな生活を過ごすのが不公平と思っているような感じがします。しかもジャンケレビッチはルサンチマンを反対していないのですよね。私の考えでは、ルサンチマンはいろいろな形があるのではないのでしょうか。ドイツ人が赦しを乞うべきだということ大事ですが、しかし、それよりもっと大切なことがあるのではないでしょうか。それは、もっと豊かな生活をつくり、もっと楽しい毎日を楽しんだ方がもっといいルサンチマンの形ではないでしょうか。
 

Reply from 高橋哲哉 to    reply

胡さん、コメントありがとうございました。
 そうですね。ジャンケレヴィッチは最初の論文でも、戦後のドイツ人が経済的に豊かになり「肥え太っている」以上、赦すことは困難だと言っていましたが、このような議論に違和感を覚える人も少なくないでしょう。
 おそらくジャンケレヴィッチも、豊かで楽しい生活を送ること自体は否定しないのではないでしょうか。問題は、当時のドイツ人の多くが、自分たちの犯した犯罪的行為を反省もせず、むしろさっさと忘れ去り、被害者の苦しみなど想像しようともしなかったことにあるのでしょう。
 たとえば私の家が放火されて、私以外の家族がみな焼け死んでしまったとして、その放火犯がちゃんとした謝罪も償いもせずに裕福な生活を営んでいたら、その放火犯を赦すのは難しいのではないでしょうか。
 豊かで楽しい生活も、それが誰か他の人々の犠牲の上に成り立ったものであったり、他の人々の犠牲を忘れて成り立っている場合には、厳しい批判を免れないかもしれません。

Reply from 飯田賢穂 to    reply

こんにちは。高橋哲哉先生のTeaching Assistantをしています飯田賢穂です。胡さんのコメントを読みましたので、私の考えをいくつかお伝えしようと思います。
 まず、高橋先生もコメントの中でおっしゃられていましたが、ジャンケレヴィッチは、ドイツ人であれ誰かが「豊かな生活を過ごす」ことそれ自体を、悪いこと(あるいは「不公平」なこと)と考えているのではないでしょう。むしろ、ジャンケレヴィッチのテクストで批判されていたのは、「ナチスドイツが許せないほど残酷な罪を犯した」ことを忘れようとしている、という点にあると思われます。そして、この「忘れること」に抵抗する方法の一つが、ルサンチマンを持つことであると、彼は主張していると思われます。
 彼自身が言っていますように(プリントの2番)、ナチスの犯罪に「時効」があるということになりますと、ナチスの犯罪行為を忘れることは「公認となり、規範化され」てしまいます。つまり、忘れることは一種の義務になってしまいます。逆の視点から見てみますと、「時効」の後に、ナチスの犯罪行為を覚えていたり、あるいは誰かに思い出させようとすることは、「規範」に反する行為となるでしょう。このような、「忘れること」の命令は、戦後のドイツの経済的な繁栄を実現しようとする欲望を背景としてることもあり、ジャンケレヴィッチはこのことも批判の根拠にしています。つまり、戦争中のユダヤ人たちとはまったく異なる戦後の満ち足りた人々が、さらに豊かに、楽しく生活するために、ナチスの犯罪行為を忘れることを「規範化する」ということを、ジャンケレヴィッチは赦せなかったのでしょう。
 ナチスは法を通して(合法的に)ユダヤ人を絶滅させようとしました。「時効」、言い換えますと、ある種の法を通して「忘れること」を命ずること、ルサンチマンを抑え込もうとすることは、この「絶滅活動を補って完全なものにすること」(プリントの18番)に等しいと言えるでしょう。このような「絶滅活動」に対する、数少ない抵抗の方法がルサンチマンを持ち続けること、あるいはルサンチマンを保存していくことであると、ジャンケレヴィッチは主張しているようです。この主張は、今回の私たちのプログラムのテーマとの関わりでは、ルサンチマンの記憶を記録し続けてゆくことと言い換えられるでしょう。

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