ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 03月11日 鈴木泉

信頼の系譜学

少なくとも日本社会において、信頼という言葉はもはや空疎なものになっています。政治家が信頼回復を訴える度にその価値は下がっていきますし、福島原発事故や金融工学の発達を前にして、信頼という言葉を素朴に肯定する人は少ないでしょう。信頼という概念は今でも意味をもつものでしょうか。このことを根本から考えるためには、信頼という概念はどうして必要とされてきたのか、といったあたりから考え始める方がよさそうです。ニーチェに至るまでの西洋哲学を素材に信頼概念の系譜を辿った上で、その賞味期限の有無を皆さんと考えてみたいと思います。

講師紹介
鈴木泉
東京大学人文社会系研究科・教授。 専門分野:哲学<西洋形而上学の形成史・近世大陸系哲学(デカルト・スピノザ・マルブランシュ・ライプニッツ)・現代フランスにおける差異哲学(ドゥルーズ)>
授業風景

3月11日

 信頼が何故いま問題になるのか。この問いを手掛かりに信頼を哲学の側面から考えること、それが本講義の主題である。信頼という概念は、例えば「私の恋人は信頼できる」あるいは「私の恋人は信頼できない」というように、恋愛関係を含んだ個人の関係について用いられることがある。しかし信頼という概念はそれに留まらず、社会全体と密接にかかわるものでもある。そのことを改めて明確に突き付けたのが、2011年3月11日の東日本大震災、とりわけ原子力発電所の事故であった。

 それまで漠然と安全であると見なされてきた原発から放射能が漏洩したことは、人々の科学技術に対する信頼の喪失という結果をもたらした。現代社会の基盤たる科学技術の脆さに直面したいま、その失われた信頼の回復ということが喫緊の課題になっている。それは社会学者ウルリッヒ・ベックの言葉を借りれば、科学技術を作り出したことで予測不可能・制御不可能な社会、即ち「リスク社会」が成立してしまったということであり、リスク社会に生きる我々はその根拠を自ら把握できない事例に関しても、ある程度信頼しなければ生きてゆけないという状況に置かれている。そしてこの点が、信頼という概念を考えるに際しての一つの問題設定となる。

 この問題設定を踏まえた上で、続いて類似する言葉や概念を腑分けする哲学の作業に取り掛かる。日本語で考えるのであれば、信頼(trust, confidence)に関連することばとして信用(credit)・安心(assurance)・信あるいは信仰(belief)などを挙げることができるだろう。安心とは信頼・信用があるために楽に暮らせることだと定義できるが、安心に対応する英語のassuranceという言葉は同時に保険という意味でも用いられる。保険とは将来のリスクに対して掛け金を出す仕組みであるが、ヨーロッパにおける保険の誕生には世界貿易の時代における航海・商売のリスクの発生という具体的な歴史的背景が存在した。つまり既存の安心・安全が崩れた際に保険という仕組みが考案されたのであり、この意味において信頼もまた時代に条件づけられているのだと言える。

 それでは信あるいは信仰の場合はどうか。信じるとは、理由・根拠が存在しないにも関わらずある対象を知っていると思うことである。信頼や信用もそうした信ないし信仰の一部ではあるが、それは神を信じるという態度とは少し異なっている。例えば日常生活で信用という言葉が使われるのは、クレジットカードに代表される経済活動、お金の貸し借りにおいてであるが、その際の信用は相手の過去の実績という根拠に基づいて成り立っている。つまり信用は、絶対の根拠は存在しないという点において信ないし信仰の一部である一方、そこには過去の実績という根拠もまた存在するのである。過去の実績をもとにして将来のことを信じる、これが「信用」である。

 そして過去の実績をそこまで重視しないという点において、信頼は信用と異なっている。信頼という概念を考える際に参考となるのは子どもの親に対する感情である。特に小さな子どもは親を無条件に信頼するものであるが、その際に子どもは親の過去の実績を踏まえて判断しているわけではない。過去の実績がないのに現在において将来の利益を期待するということ、これが「信頼」である。「信頼」の場合も「信用」の場合も時間(過去・現在・未来)が関わってくるが、過去を重視する「信用」と現在において将来を期待する「信頼」というように一先ずは区分することができる。

 そして先述したリスク社会における信頼の問題とは、まさしくこの意味における「信頼」の崩壊であった。原発の場合も、人々は明確な根拠を持つことなしに漠然とその技術を信じてきたが、それが3月11日以降においては急に信じられなくなってしまった。また安心・保険におけるリスクの発生も同じく「信頼」の動揺として考えることができるが、その時代に生き思考した哲学者がホッブズである。

 ヨーロッパの哲学において、「信あるいは信仰」に関する議論には膨大な蓄積が存在するのに対し、「信頼trust」を主題として取り上げた哲学者は非常に少ない。哲学があるテーマを取り上げるのはその必要性が自覚されたときであるが、信頼とは生きていくうえで必要であるにも関わらず、改めて取り上げようとすると明確に把握することが難しい。信頼というものが危機に陥って初めて、信頼について考える必要性が生まれるわけだが、清教徒革命という国家の危機に直面したホッブズは信頼の問題を初めて考えた哲学者であったと言えるだろう。

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3月12日

 昨日行われた講義に対して、東洋における信頼の問題、国家による情報の規制が国家に対する信頼を損ねる可能性、保険のない時代におけるリスク管理などについて学生から質問が寄せられた。それに対し講師の側からは、信仰とは異なる儒教への注目、各国家・社会ごとに異なる信頼の形があるという相対性を示唆することで応答がなされ、また保険の登場に関しては、小さな共同体ではそもそも保険が必要にならないという事実が信頼と社会の関連性を示していることが明らかにされた。

 二日目の授業の前半では、ホッブズによる人と人との信頼に関する議論が取り上げられた。国家の成立に関するホッブズの社会契約説では、資源の有限性そしてその結果引き起こされる戦争状態に直面した人々が、自らの利益を追求する権利、即ち自然権の一部を放棄することによって国家が成立するとしているが、ここには大きな難問が隠れている。そうした難問の一つが、誰が最初に自然権を放棄するのかという問題である。戦争状態において最初に自らを守る武器を捨てる人は、他の人も全員同時に武器を捨てるだろうと信頼することができて初めて、武器を放棄し得る。しかし果たして戦争状態において、そのような信頼は本当に成立可能なのだろうか?アメリカの社会学者パーソンズは信頼の問題の核心がこの点にあることを主張している(Hobbesian problem of order)。また現代における核兵器の廃絶や囚人のジレンマなどの理論を考えてみても、この問題の難しさは容易に理解されるはずである。

 つまりこの問題は、秩序が無い状態で如何に秩序を建設するのかという問題である。相手が自分と同じように振舞ってくれるという信頼が成立すれば、自らの自然権の一部を放棄することを合理的に選択できるが、そのような信頼が成立しなければ人々が同時に自らの権利を放棄することは困難である。そしてこれまでの研究においては、国家の成立前に人々を規制し同時に自然権の一部を放棄させる要素として、死への恐怖・神からの命令・人間の共同性などが議論されているが、当のホッブズ自身はこれに対して明確な答えを出していない。

 このように人と人との信頼を問題としたホッブズに対し、近代末期の思想家であるルーマンは社会に対する信頼という観点から近代が抱えていた問題を論じた。ルーマンは行動する主体たる個人ではなく、社会全体に張り巡らされたシステムを考えることの重要性を主張した。つまり近代以降の社会はあまりにも複雑になっており、そのすべてを見通すことは困難であるため、その複雑さを縮減する手段としてシステムが必要になるということである。

 例として政治家と官僚の関係を取り上げれば、複雑な現代社会において一人の政治家が国家予算の処理をすることは不可能であり、実際には複数の官僚に仕事を任せる必要がある。そしてその際、政治家は官僚を信頼して仕事を任せている。即ちこれが現代社会における信頼の核心であり、信頼が存在しなければ現代社会は成り立たないのである。

 またルーマンは信頼をめぐって、親密性・人格的信頼・人格システムへの信頼・社会システムへの信頼という4つのレベルを設定している。いずれにせよルーマンは、現代社会の複雑さに対応するためにはこうした社会システムへの信頼が根底にあるということを考え抜いたのだと言えるだろう。

 だがここで講義の冒頭で言及した原発事故のことを思い出してみる必要がある。ルーマンの議論によれば社会システムへの信頼が存在しなければ現代社会は成立しないはずであるが、原発事故はそうした社会システムへの信頼を根本から破壊してしまった。予測不可能性・制御不可能性が全面的に露わになった今回の原発事故は、その根本性において他の一般的な科学技術への信頼の喪失とは性質を大きく異にしており、現代に生きる我々はこうした信頼が成立しない社会で生きてゆく必要に迫られているのである。

(文責・田中雄大)

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