ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第2回 10月09日 稲田奈津子

悲しみを装う―日本古代の服喪・喪服

日本の古代国家は、文明国としての体裁を整えるために、先進国である中国の法や礼制を積極的にとりいれた。君主や近親者の死を悲しむ「喪に服する」行為も、まずは中国式の衣装や段取りを「装う」ことで導入しようとするが、そこには限界も見え隠れする。本講義では、服喪・喪服をてがかりに、日本古代における中国礼制の受容のありかたを、その実態とあわせて見ていきたい。

講師紹介

稲田奈津子
東京大学史料編纂所准教授。博士(文学)。東京大学文学部・人文社会系研究科を経て史料編纂所助手となり、2019年より現職。専門は日本古代史、東アジア比較文化史。著書に『日本古代の喪葬儀礼と律令制』(吉川弘文館、2015年)、共編著書に『大唐元陵儀注新釈』(汲古書院、2013年)、『黄泉の国との契約書―東アジアの買地券』(勉誠出版、2023年)、『東アジアの後宮』(勉誠出版、2023年)、『古代東亜世界的買地券』(浙江人民出版社、2024年)などがある。
授業風景

2024年度学術フロンティア講義第2回では、東京大学史料編纂所古代史料部の稲田奈津子先生をお迎えし、中国の法律や礼制がどのように日本の古代国家の律令体制のなかで受容されてきたかを、服喪と喪服の運用の実態を通して概説していただいた。

本講義でいう服喪とは、「親族関係または君臣関係にある故人に対し、その死を悼む心を表現するために、喪服を着用して、一定期間の謹慎生活をおこなうこと」を指す。服喪の礼は、例えば父母の死に際しては辞職し、粗末な生活を装うものである。「孝」を重んじる儒教を支配理念とする中国の歴代王朝にとって、死者への哀悼と孝心を示す「服喪」は重大な関心事であり、少なくとも建前では重大なものであったと指摘されている。こうした礼は、基本的には支配者層を対象としたものだが、次第に庶民層にも拡大していったとのことである。稲田先生は、儀礼で作られた服装の再現や建物を図像や写真で示されていて、視覚的に理解しやすかった。

服喪の作法については、『礼記』の規定によれば、行き過ぎた実践を戒めるものであったが、かなり過激な実態もみられ、親の服喪中に子どもが死ぬことが美徳として褒められるといった記録もある。ここでは、規定よりも激しい実践が尊重される実態があったことが示されている。実際、中国の服喪規範である五服制度では、服喪の期間と着用する衣服が親族関係に厳密に対応していたのだが、実際の運用では、規定された服喪を越した実践が評価されていたことが、墓誌の記述からわかるとのことだ。百済でも服喪が行われていたことが墓誌からわかるという。

それでは、日本、倭人の喪葬儀礼はどのようであったのだろうか。律令法の導入以前では、『魏書』や『隋書』に、喪服や儀礼の記録が残っているものの、これはあくまで外部による記録であり、留保が必要である。律令法導入以後は喪葬令全17条の規定によって儀礼がわかるようになるが、これらは中国の膨大なそれとは異なるという。つまり、基本的枠組みを継承しつつ、日本風にアレンジして単純化、短縮化が為されていることが読み取れるという。また、中国での規定よりも男女格差が少ないなど、日中の文化差を反映している点も注目される。

しかし、実際の運用を見てみると、興味深い事実がわかる。天皇(上皇・后)の服喪について、本来は1年と規定されているが、3通りの運用実態がある。第一に、1月を超えない、翌月に持ち越さないという運用が奈良時代には多く適用された。第二に、死後に7日ごとに行われる追善仏事に儒教式の服喪が影響され、49日が服喪の区切りとなった。第三に、「以日易月」(日を以て月に易える)という、1年(13月)を13日に読みかえる実践も行われた。この「以日易月」は中国でも行われていたという。こうした簡略化した儀礼に対して、桓武天皇は光仁天皇の服喪に中国式の厳格な服喪3年を導入しようと試みた(唐風化)が、定着はしなかった。この唐風化の挫折は、律令法の規定と実際の服喪の実態が異なっていたことを示している。

この機能不全について、稲田先生は太皇太后藤原順子(祖母)の死に際しての清和天皇(孫)の服喪についての学者たちの議論を引き合いに出す。当時の大学者たちの間でさえ議論が紛糾し、結論としては諸学者の折衷案のようなものが採用されたという。また、その際に本来天皇が弔問するときの服として規定された錫紵という服が、天皇が着る喪服と解釈されていた。この議論では、日本律令法以外の国内外の資料が多く参照されていることから、律令規定の服喪が実際には運用されていないことが判断できるとのことだ。

そして、稲田先生は平安時代の喪服の変化に言及する。大まかに言えば、もともと喪服は中国風の白色系統であったが、白色を尊貴な色、天皇の色とする考えが日本にあったことから、現在に近い黒色系統へと変化したとのことだ。その後、藤原行成の日記『権記』に記述をもとに、11世紀初期の天皇の死と喪葬の実態を稲田先生は概説された。『権記』によれば、一条天皇の崩御に際し、行成は死の直後でなく、火葬の日に着服し、49日後に除服した。その間行成はほとんど喪服を着用していない。このことから、当時の喪服の運用は、現代の「儀礼用の衣装」としての「喪服」とほとんど同じであることがわかる。最後に、後一条天皇の死に際しての後朱雀天皇の服喪について、源経頼の日記の『左経記』をもとに読み取った。日記によれば、後朱雀天皇は「着服の儀式」と「除服の儀式」の儀式に参加するときにのみ喪服を着用し、その後すぐに脱いでしまっている。11世紀初期の貴族、天皇の服喪の実態が記述されている。

こうした事例の紹介から、稲田先生は服喪の規範と現実が乖離していることを指摘された。しかし、こうした律令の規定や中国の規範からの逸脱は、日本特有の現象ではないという。実際、中国でも「以日易月」など、さまざまな簡略な措置が用意されていた。これらは、実生活のなかで律令などの法・規範を実現していくための工夫によるものであった。しかし、こうした儀礼は決して無意味ではなく、服喪儀礼で孝心を「装う」ことは、支配秩序を維持するのに不可欠なのだという。

稲田先生の授業では、服喪の運用の実態について講義していただいただけでなく、普段先生が史料編纂所でされている史料集作成の仕事や、近年興味をもって研究されている買地券のお話など、色々と興味深い話をしていただき、学生からの質問も盛んに行われた。喪服による外見の「装い」、儀礼による孝心という内面の「装い」の二重性が、建前と本音をうまく両立していく上で重要であることが示唆されているように思われる。(文責:TA荒畑/校閲:LAP事務局)

コメント(最新2件 / 20)

kaki06    reply

服喪にまつわる律令規定・規範について伺って、最初の印象では厳しさに圧倒されたが、現実的な実際のお話で安心した。
しきたりや慣習、作法などは、現実的には無意味なものになっている場合が少なくないと思うが、最後に仰っていた、「タテマエは支配秩序の維持において欠かせない」ということで納得した。伝統がある指導者の重厚さというか貫禄というか、歴史のようなものは人の感情を圧倒させる力を持っている。他方で、統括される側が、なんとなく圧倒されてなんとなく敬意のような感情を抱く、という社会であれば、人間の力をもったいなくさせてしまうと思う。今回の講義の内容に従えば、例えば儒教的な意味と、知識的でなくとも少なくとも感覚的に、共感する人が多い社会の中で継承される伝統こそ、意味あるものになるように思う。

tomo65    reply

葬送という題材を通じて、日本の律令社会のリアルや、昔の日本人にとっての儒教の立ち位置が浮かび上がってくるのが、とても新鮮で興味深かった。
授業の最後に「私も好き好んで天皇の葬送について調べているのではない」と先生もおっしゃっていたが、僕も一般民衆の葬送がどのようなものだったか、彼らの暮らしや死生観がどうなっているのかに興味があるので、先生のこれからの研究に期待させていただこうと思う。

esf315    reply

すてきな講義ありがとうございました。喪服が粗末なほうが良い理由や、中国では白色のほうが程度の重い喪服だったこと、そこから日本の喪服がなぜ黒色系統になったかなど、本当におもしろい話ばかりで楽しんで聞いておりました。少し話はずれますが則天武后の評価が変わっている話もおもしろかったです。父母の死で辞職することなどは儒教上の建前とおっしゃっていましたが、実際にはどれくらいの人が儒教の教え通りの喪に服していたのか気になりました。

highriv21    reply

今まで喪服や喪に服すことについて深く考えたことがなかったので、とてもいい機会になった。韓国ドラマの時代劇で王が亡くなったときに、白っぽい粗末な服を着ているのを見たことがあるが、それが喪服であるという認識があまりなかったし、白=色がないという意味があるということにも気づいていなかった。
また、服喪が悲しみを表現するという従来の意味に加えて制度的な意味が加わったのは興味深いことだと思った。

Yukki35    reply

儒教に端を発する中国での重い服喪の慣習は、日本においてだいぶ簡略化されて伝わっており、その実情も律令で定められたものよりも簡素化されている。これは、中国の律令に倣って強い国を作ろうという思惑があったものの、儒教的精神が実務上の事情を上回るほど浸透していなかったためだと考える、
しかし、日本においても「親の死に服喪した末に亡くなった息子」の物語が好意的に捉えられていたことから、私は当時の日本人が儒教を軽視していたわけではないとも思っている。あくまで国家規模の違いから、一人の人間に長く喪に服された時の政治におけるダメージが中国と比べて無視できなかったために簡略化されていたのだと思う。

ak10    reply

昔は規範を忠実に守っていたイメージがあったが、非現実的な規範をさまざまな理由をつけて守れるようにしていくというところに今の私と変わらない人間味を感じた。このことは時代や場所を越えて、人間には共通している習性があることを表すのではないかと思う。
反対に、服喪の規範が制定された頃の中国やその後の朝鮮では、規範を忠実に守り過酷な生活を送っていた人がいるということは現代の私にとっては驚きであった。それほど儒教が人々の生活の基盤であったのだと感じた。
このように徐々に服喪の規範を守るときと守らないときがあるのは、儒教を信仰する度合いの差なのか、それとも他に何か要因があったのか疑問に思った。

0524yuta    reply

今回は服喪についての話を聞いた。喪に服す文化は現代の日本でも存在するが、祝い事や派手なことを避ける、行わないようにするくらいのものである。一方服喪はそれとは比べ物にならないくらい過激できついものだと知り、とても驚いた。親しい人が亡くなった悲しみを、ボロボロの小屋で過ごしたり、ボロボロの服を着たりすることで表すことや、ずっと泣き続けなければならないことや杖をつかなければ動くことができないこと、時にはやりすぎで死んでしまうこともあることなど、現代を生きる人々には到底考えられないことばかりであった。服喪の厳しさはだんだん柔らかくなっていくとはいえ、非常に過激だった時代は確かに存在している。この時に実際に服喪していた人々はどのような気持ちであったのかとても気になる。周りの雰囲気や圧によって本当はやりたくなくてもやらなくてはならなかったのか、それとも儒教の教えを心酔しているがために自ら進んでやっていたのかとても気になる。

dohiharu1729    reply

現在においても、葬儀の参列に際しては喪服を来て行きますが、終わったら堅苦しくてすぐ脱ぐので、そのような文化が平安期から既にあったというのはどの時代も人の考えることは同じだなと感じました。しかしそれはサボりというよりかは、周囲の人と悲しみ、弔いの気持ちを共有するという点で一時的に着替えているだけでも死者への畏敬の念に基づいた行動であるのには変わりがなく、例えば高級レストランやカジノにドレスコードがあるようなことに近いのかなと思います。他者との感覚の共有という意味では夏祭りに浴衣を来て行ったり入学式にスーツを来て行くようなこともあり、場としての空気感を大事にしたいという気持ちが服に現れていて葬儀を一つとっても人々の心的状態がよく現れているなと思います。

kero1779    reply

服喪の期間やその期間の生活などが法律によって決められていることが非常に驚きでした。HPで第二回の授業が喪服に関することであると分かった時に確かに喪服を葬式や通夜の時だけ着て悲しみを表現することがあるなとは思いましたがそれは過去に服喪がここまで自分を傷つけ悲しみを表していたからこそなのだなと改めて私たちが歴史の上で生活していることを実感しました。
中国において嫡子の服喪は斬衰3年と最も重いものであるが日本では中国で言うところの大功9ヶ月に当たる3ヶ月と格段に軽くなるのはなぜなのでしょうか?日本においても中国と同様嫡子は優遇されていたのでそこに違いが生まれるのが疑問に思いました。

tahi2024    reply

時代が進むにつれて人間の考え方が変わっていくが、それと同時に古い制度が現在とは合わないものになっていって、悪法とか堅苦しく思える慣習を変えようとする動きはよくみられます。例えば、昔は一度就いた職業は退職まで続けるといった考え方は現在あまり聞かず、大学生の就職は転職を十分視野に入れた選び方になっていると聞いたことがありますし、ツーブロックを禁止する学校のルールがネット上で議論を読んでいるとのニュースも見たことがあります。過去の制度が実情に合わなくなってきたからそれを変えて、現在とマッチするような制度にしていこうという思考は別に現代に限ったことではないのだと感じました。古代中国から輸入した服喪の決まりが厳しすぎると判断したら、あくまでもオリジナルの律令を参考にしつつも喪服を着る期間を短縮したり、葬儀儀礼の時のみの着用にするなど柔軟に変更したというお話からそのことをひしひしと感じました。日本のあらゆる文化に関して受動的な態度がやや批判的に論じられているような文章を読んだことがありますが、それは創始に権力が宿るとする西洋的な考え方で、緩やかに文化を吸収して折衷し新しい文化の様相が生まれるのもまた大いに結構なことではないかと思います。

att1re    reply

「悲しみを装う」ということがあるならば,「悲しみ『が晴れた状態』を装う」ということもあるかと思った。それはたいへん便利ながら実情をとらえた言葉「心喪」と並立する。

lapis07    reply

装う」というテーマにとどまらず、稲田先生のご研究に合わせて幅広くお話しいただき、大変興味深かったです。特に古代の日本において、服喪が意外にも律令にとらわれない柔軟な形で行われていたことは、これまで抱いていたイメージ大きく異なっており衝撃でした。故人の死を悼む気持ちという実に非日常的で人間の核に関わるようなものを、どのような行為で表現するかというのは、ただ形式沿えばよいというものでもないし、個々人の考えのみに依拠して良いものではない、という点で古代から非常に難しいものであったのだと感じました。現代においても、普段は多くの人が宗教を意識しない日本で葬式や法事などが執り行われることなどに、その点が表れているとも言えると考えました。

choshi70    reply

制度化した喪の装いと、悲しみ自体との関係が気になった。親の死などの途方もない悲しみに対して、ある程度「悲しみ方」が決まっているのは、その悲しみを乗り越えるために少なからず役立ちそうではある。しかし、授業で紹介されたような喪の制度化は行き過ぎだと思った。あそこまで細かく決めていると具体的な悲しみの形が現れず、本末転倒な感じがした。行き場のない悲しみは持て余すが、行き先の決まっている悲しみは本当の悲しみとなるのだろうか?現代でも親等によって忌引きの日数がある程度決まっている。私はそれに違和感を感じているが、そういう点では現代にも通じる問題だと思った。授業の最後でこの「装い」が支配秩序の維持に不可欠であったということをおっしゃっていた。個々人が多様な価値観を持つ現代日本においては儒教による支配はもはやなく、喪の装いの文化的規定は曖昧になっている。また、もし今、身近な人の死に際して「ちゃんと悲しみを装おう」と思って自分でオリジナルの装いを考えたとしても、それでは、他者の目を前提とする「装い」においては意味がない。現代人はそういう装いの問題に対して矛盾を抱えていると思った。

C4000H8002    reply

「本音と建前」という言葉にも表れているように、我々は生活の中で常に他者に見せる行動によって内心をよく見せようと「装って」いる、ということを意識させられ、どうしてもまず見た目のイメージが先行してしまう「装う」というワードから内心を装うという意味でのアプローチができることに驚かされた。「儒教の教義に則れば本来は数か月の間着続ける必要がある喪服を、時代が下るに従って法要のある日だけ着るようになった」という下りで儒教の規範が形骸化していることについて笑いが起こったが、その直後の「それはまさに現代のわれわれの法要の在り方と同じ」という先生の指摘により、いつもの生活を保つことを優先しながらも最低限の形式的な行動により規範に従った人間であることを他者に向けて「装う」という習慣が古代の朝廷と現代の市民のあいだで確かに共通していると思い知らされ、大きな衝撃を受けた。現代のいわゆる「社交辞令」も、相手への好意や尊重する意識を「装い」つつも行動面では生活のために負担を避けており、こうした行動が民俗的な暗黙の了解ではなく国の政治規模で記録され、読み取れることが非常に興味深かった。

shikatsuki0420    reply

「装う」ことを共通のテーマとする本主題科目であるが、毎週さまざまな角度からの講義が繰り広げられており面白く拝聴しています。最後のスライドにはこのように明記されている。「儀礼的≠無意味 孝心を装うことは支配秩序の維持に不可欠」これは確かに得心がいった。現代においては儀礼的なこと、換言すれば形式的なことは即座に忌避の対象となるくらい忌み嫌われているが、今回の事例はそのような儀礼性を無意味さの象徴として捉える考えへの再考を促すものである。もともと人間の思考というものは他の誰からも(もしかしたらその当人でさえ)決して知り得ないものであり、他の人はその人の外見、表情、発言を通してのみ推し量ることができるというものである。そうであるならばむしろ、喪服を「装う」ということに代表的な儀礼的な所作は人間のコミュニケーションの基本に則った至極合理的なものということになるだろう。また、このような存在としての服は記号として作用しており、ここからファッションとは何かということについて考えることもできそうで興味深い講義だった。

Stella1220    reply

日本古代の服喪に関してこれほど詳しく学ぶ機会がこれまでなかったため、講義の内容は非常に新鮮で興味深いものでした。講義のタイトルには「日本古代の服喪・喪服」とありましたが、実際の講義では日本だけではなく、中国や韓国などの例もあり、それら三つの国の共通点や相違点を見比較することもできて面白かったです。本来無くなった人を悼むための純粋な行為である服喪が、他人の目を意識することで極端な形式になったり、都合よく修正され本来の姿を失ったりする実例を見ていると、服喪が「装い」へと変質してしまったのではないかと感じ、残念な気持ちになりました。しかし、服喪の形式の変化は「実生活の中で法律を実現させるための工夫の産物」という解釈もとても納得にいくものでした。

XK04    reply

高校で古典を勉強していた当時からすれば、古文常識に分類されるこの手の喪や祝い事に関する儀式は非常に複雑で今の価値観からすれば大袈裟に感じるほどであると感じていた記憶がある。おそらく中国に由来していたそれが日本に定着し重んじられていた文化の一つであったとはいえ、そこまで長く大規模にやっては日常生活に支障が出るのではないかと考えたものである。特段当時はそれ以上のことに思いをめぐらせたことはなかったが、今回の講義を受けて、日本が中国から由来して取り入れたこの喪の儀式を、その儀式が儀式であると言うことを崩さずにいかに日常の生活や政務状況に適応させるかと言うことに当時の人々も四苦八苦していたことになんだか親近感を持った。一方で喪の文化が孝心、忠誠心を表、統治機構の一端を担っており、ただ大変だからと言ってそれを無くせばいいと言うことでもなく、重要な存在としてその在り方を模索していたと言う点が非常に興味深かった。論理以上にこのような儀礼、虚構が人々の生活の拠り所の一つとなり、社会制度の基盤となっていたと言う事実を再確認した。

ouin3173    reply

厳しすぎる服喪が社会に受け入れられ、実行できれば評価が高くなるという認識が広まっているほどに、中国では儒教の影響力が強かったことに驚かされた。日本では天皇が亡くなった場合、身分の高い人だけでなく庶民にも1ヶ月は喪に服すように命令していたらしく、これは天皇の権威で皆に苦しい思いをさせることで支配関係の確認を行なっていたとも言えることを知り、興味深く感じた。

flower25    reply

服喪について詳しく作法が定められていたことを知り、人の死という出来事に対して、その後の行動が制度化されることにドライな印象を受けました。これまで抱いていた単に情緒的なイメージとは異なる視点から捉えることができたと思います。ただそれは古代に限らず現代にも言えることで、また将来的には誰もが関わることであり、死や服喪についてさらに調べてみようと思いました。古代の服喪については、まず方法が細かく規定されていたことや、その長さ、質素さに驚きました。粗末であるほど孝心深く良いとされるという考え方には、儒学を色濃く反映した現代と異なる価値観があると感じました。また、日本が中国の様式を導入した後、何度も議論を重ねて制度を簡略化していったという話はとても興味深かったです。制度がどのように機能するかについて考えさせられる時間でした。

awe83    reply

当時死にそうだった人が、家族や家臣の自分に対する服喪をどれくらい望んだのか気になった。
儀礼的な服喪が法や規範といった支配秩序の維持の意味合いとして結論づけられていることが意外だった。

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