ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第8回 12月04日 原 和之

「皮膚-自我」から「被服-自我」へ

「皮膚-自我(Le moi-peau/the skin-ego)」とはフランスの精神分析家ディディエ・アンジューが1970年代半ばに提唱した仮説である。自我を私たちの身体の表面に位置づけるフロイトの構想から出発して、アンジューは濃厚な身体接触を伴う発達初期の母子関係に注目し、そこで子供がまず身体表面の経験に基づいて、自分自身を心的な内容を含む「自我」ないし「私」として表現するようになると考えた。実際身体表面は、主体が身体感覚を位置づけると同時に、自分が見、あるいは他者に見られるものでもあるという、複数の関係が位置づけられる場所となっているわけだが、アンジュー自身がこれを主に身体感覚の側から問題にしたのに対して、「第二の皮膚」と呼ばれることもある「被服」は同じこの身体表面の問題を、しかし見られるという他者との関係のほうから問題にするものとして位置づけることができる。この授業では、こうした複数の関係性が集約される身体表面の問題を、アンジューの「皮膚-自我」の概念および、これを手掛かりに展開されてきた「被服-自我」という表現に要約されるような議論を紹介しつつ、「装う」ということを「私」自身の問題として考えるための筋道の一つを提示することをめざす。

講師紹介

原 和之
東京大学および同大学院でフランス地域文化研究、パリ第一大学大学院修士課程、パリ第四大学博士課程で哲学を修める。パリ第四大学博士(哲学史)。東京大学大学院総合文化研究科教授(地域文化研究専攻)。ジャック・ラカン研究のほか20世紀フランス思想に精神分析がもたらしたインパクト、精神分析と哲学の関係、西洋思想における「分析/解析 analysis」の概念史のなかでの精神分析の位置、精神分析と性の多様性等のテーマで研究を進めている。著書に『ラカン 哲学空間のエクソダス』(講談社)、Amour et savoir (Collection UTCP)など。
授業風景

2024年度学術フロンティア講義第8回では、12月4日に東京大学大学院総合文化研究科教授の原和之先生をお迎えし、精神分析の分野から考える「装う」について講義をしていただいた。

今回の原先生の講義における目標は、精神分析家ディディエ・アンジューの「皮膚-自我(moi-peau/skin-ego)」という概念を整理しつつ、その考えを拡張した先に、現代芸術分野における「被服-自我(moi-vêtement/clothing-ego)」という概念への接続可能性を考えることにある。さらに、これらの概念を整理するなかで、「装う」行為のうちにある「触れる/触れられる」、「見る/見られる」ということについても考えることを目指している。

そもそも精神分析とは、フロイトが19世紀末から20世紀初めにかけて提唱したヒステリーの心理療法であり、端的に定義するならば「もっぱら『ことば』をもちいた『こころ』の治療実践」といえるものである。こうした「こころ」の探究に際しては、当初はその「構造」が主題であったが、のちにその「成り立ち」や「発達」へと主題が移ることになる。フロイトにおける「リビドー発達論」とは、こうしたこころの「発達」について、とりわけ(認知ではなく)欲望のあり方に着目しながら探究するものである。そして、こうした発達を扱うために精神分析は病(症状)に注目する。というのも「症状」とは「発達の停止」であり、原始的なリビドーのあり方が残った状態、すなわち人間の発達の古い層の現れだからである。したがって症状を分析することは、人間のこころの発達を分析することにつながるのである。

また精神分析における「自我」概念も、認識の前提となるものではなく、「リビドー発達」のどこかで成立したものとして扱われる。変転するリビドーは精神分析において、「身体」と「他者」という二つの極をもって論じられる(フロイトにおいては「欲望」と「対象関係」がこの二つの極に対応する)。この二つの極は互いにせめぎあいつつ、身体へと「委託」する形で心的な自我が成立する、というのが自我形成の基本的な流れとなる。

そして今回の講義に関連して重要なポイントは、フロイトにおいてこの「自我」が、「表面としての自我」として捉えられているという点である。そもそもフロイトは自我の基礎的な定義を「いま知覚し、あるいは考えている〈私〉」とする。ここで「知覚」は、私において外的事物により近いところ(すなわち表面)に位置付けられるものである。では「思考」はどうだろうか。我々が言語を通じて思考する場面を考えるとわかるように、たとえば発話や読字という行為は、聴覚や視覚、あるいは運動機能などの知覚系を通じてはじめて成り立つものである。したがってフロイトにおける自我は、表面に位置する「知覚」に到達することによってはじめて意識化されるものとして規定されることになる。

以上が「表面としての自我」の「構造」の説明であるが、ではその「発生」はいかに説明されるのだろうか。そこにはまず「外界の影響」という要因がある。生まれたばかりの子供は自らの欲望を最短距離で満たそうとする傾向に従属している(「快原理」への全面的従属)。しかし現実に直面し、即座の欲望の充足が認められなくなるにつれ、最短距離での充足を諦め、迂回的でもより確実な充足を目指すようになる(「現実原理」に従う自我)。ここで、快原理に支配されていたエスは、現実と接触するその表面において現実原理に従う「自我」になる。

さてこうした「外界」あるいは「現実」とはしかし、幼い主体にとっては、助けを与えてくれる「他者」という要素に集約されるものである。子どもにとってはこうした母親的な存在の現前の欲望が「愛」の原初的な形となる。しかしこの現前が叶わなくなると、失われた対象が主体の内部で再建されることになる。こうして断念された対象が取り込まれ、「対象備給」が沈殿することで、自我は形成されることになる。

以上のように、フロイトにおける「表面としての自我」は、「外界の影響」あるいは「対象備給の沈殿」という要因によるものとして説明されうる。こうした「自我」は常に、多様な外界に変容させられたり、あるいは多様な性対象を取り込むことで変容させられたりする、可動的なものとして捉えられている。しかし他方で忘れてはならないのは、フロイトが「表面としての自我」の議論を開始する際、「解剖学的な表面」、すなわち身体における皮膚を彼が想定していることである。こうした解剖学的な表面は、基本的に固定的なものである。となれば、フロイトにおける「表面」は変動するものなのか、それとも固定的なものか、という問いが浮上してくることになる。そしてこの問題へ一つの応答を与えうるのが、のちに議論するディディエ・アンジューの「皮膚-自我」である。

ディディエ・アンジューは、20世紀のフランスの精神分析家である。彼ははじめラカンの分析を受けていたが、のちに批判に転じ、ラカンと対立するダニエル・ランガージュの助手となる。発達早期の母子関係に注目する「対象関係論」を論ずる学派に与しつつ、自己分析と創造性についての議論、サイコドラマと集団の力動についての議論、心的外被の議論などを展開した。

さて、アンジューの著書『皮膚-自我』(1985)は、アンジュー自身のある個人的経験が重要な契機となっている。そもそも彼は、ラカンの医学博士論文(1932)で取り上げられた症例エメのパラノイア患者(本名マルグリート・パンテーヌ)の息子であり、母マルグリードのケアを行うことを精神分析家としての大きな動機としていた。他方マルグリードの生育史へ目を向けると、彼女の姉の死因である「大火傷=皮膚の損壊」や、家族関係における「身代わり(フランス語で「〜の皮膚に入る」と表現する)」など、そこには「皮膚(peau)」に関する様々なテーマが関わっていたことがわかる*。アンジューはこうした個人的な体験に突き動かされるようにして「皮膚-自我」という概念へと向かうのである。こうした経緯は、アンジュー自身が提唱していた「内的な神話による概念の創造」という方法論と一致するものでもある。

では、アンジューにおける「皮膚-自我」とはどのようなものか。フロイトにおける「表面としての自我」とは、身体の表面における外的刺激によって自我が発生したり、あるいは対象備給の沈殿によって自我が変容したりするというモデルであった。このモデルは一方に身体が、他方に虚空があるという構造になる(身体-表面-虚空)。これに対しアンジュは、こうした表面を「界面」として捉え直す。ここで一方には身体、他方には母親的周囲、すなわち育児を担う存在が位置づけられる(身体-界面-母親的周囲)。この界面とは、子供の皮膚と母親の皮膚が合わさってできるものではなく、両者に共通した一枚の皮膚として形象化されるものである。このモデルにおいては、人が何かに触れるとき、同時に相手に触れられることになる。そしてこの「触れる/触れられる」を通じて、自分の皮膚が反省的に感じられ、すなわち自我の発生が生じる。これが「皮膚-自我」の議論における第一段階である。

こうした共通皮膚はしかし、母親と子供が分離するにつれ失われることになる。即自的な反省を可能にする共通皮膚を失ってしまった主体は、自らに固有の皮膚を持つ必要に迫られる。主体は「界面」に代わる新たな皮膚を求める。この新たな皮膚は、分離によって生じた空隙を能動的に埋める働きをもつ「第二の皮膚」でなければならないだろう。

では、第二の皮膚となりうるものは何だろうか。アンジューが考えるにそれは「筋肉」である。ジェラールの症例において、ジェラールはアンジューの分析に自分への無理解を感じ、不満を覚えたのち、猛烈な筋トレの必要性を感じたという。そしてそのうちに一つの記憶が浮上する。それは、子供用ベッドに横たわったままで戸棚のリンゴを誰かがとってくれることを願ったが、母親は動いてくれなかった、という記憶である。こうした想起と関連づけるとき、筋トレへの欲求は、リンゴを自分で取れるようになるため、自らの筋肉=運動性を強化する欲求として意味づけられる。すなわち筋肉=運動は、母親的周囲との分離を余儀なくされた主体において、その空隙を埋めるための「第二の皮膚」となりうるものなのである。

この空隙を埋める他の手段の可能性として、(われわれ自身の責任において)ラカンやウィニコットを関連づけることもできるだろう。たとえば「呼びかける」ことで母親が近くに来てくれる、という方法による第二の皮膚の形成が考えられる(ラカン)。あるいは、母親的存在の代わりになる移行対象(たとえば毛布など)を手元に置いておくことで他者の皮膚を二重化するという方法もありうる(ウィニコット)。主体はこうした第二の皮膚により、固有のものとしての自我を形成していくのである。

さらに、同じくウィニコットの議論を参照すれば、「鏡の先駆としての母親の顔」も第二の皮膚としての機能を果たしうる。ラカンにおいて幼い主体は鏡をみることで自らの身体的統一を先取りするが(鏡像段階論)、しかしウィニコットによれば、こうした鏡像的な関係は、母親の顔においてすでに成立しうるものだという。すなわち主体は母親の表情のなかに自らを見ることができるのである。無論母親の顔は母親の顔でしかないため、最終的には全くよそよそしい顔として主体に現れることとなる。しかし主体は、そうした段階に移行する途上において、不完全な鏡としての母親の顔にそれでも自らを見出そうと、その表情を学ぶ経験を経ることになる。この「母親の顔を学ぶ」ということが、第二の皮膚としての働きを担うことになる。

さらに重要なのは、ウィニコットが以上の場面において、母親の表情とそれに移る自分とに相関する形で、主体が自らの在り方や態度を変容させる可能性について考えていることである。単に外界などに影響されて変容するのではなく、自分自身の意思で変容するという「自由」が「鏡の先駆としての母親の顔」の議論には含まれているのである。

さて、以上のような「皮膚-自我」の議論においてすでに、「被服-自我」という概念への接続可能性も示唆されているように思われる。「皮膚-自我」の当初の議論においては、対象に触れることは同時に触れられることであった。ここにおいて、自我の反省は即時的なものであり、確実だが同時に不自由なものであったといえる。これに対し、「第二の皮膚」における自我の反省は、タイムラグをはらんだもので、不確実だが同時に自由なものである。実際、ウィニコットの議論において、自分の姿が母親のなかに認められるかどうかは確実ではないが、しかしそれゆえに他者を前にして自分を変える自由が保障されている。自分がどう見られているかによって自分の姿を変えていく、という態度はまさにわれわれが服を選ぶときにも取っているものではないだろうか。以上に提起された二つの概念の接続はまさに、「装い」に関する常識的思考を覆すメタフォリカルな突破力をわれわれに与えてくれるように思われる。

*アンジューの母であるマルグリート・パンテーヌは、自身が生まれる前に大やけどが原因で亡くなった姉の名前をその母から与えられている。つまり、アンジュ―の母であるマルグリート・パンテーヌは死んだ姉の身代わりを期待されていたと考えられる

(文責:TA田中/校閲:LAP事務局)

コメント(最新2件 / 15)

esf315    reply

なかなか難しく、完全に理解することはできなかったのですが、理解できたところはすごく興味が引かれるものでした。幼い頃に充分な愛情を受けれなかった人が、愛情を与えてくれるはずだった存在の影を追い求める話は、自分自身似たような経験があったためにそれが解明できたような気がしてとてもおもしろかったです。素晴らしい講義ありがとうございました。

Yukki35    reply

母との離れ、あるいは母が自分のために満たしてくれる欲求の離れを自覚して、自分自身を強めるという第二の皮膚という構造は、一般的に広く言われる「自分自身を示すための衣服」と目的が重なると思った。第二の皮膚として授業中では主に筋肉が挙げられていたが、もし初めての症例の無意識に抱いていたシナリオが衣服を装うことで母のしてくれなかったことをできるようにする、というものだったとしたら、ここでの「第二の皮膚」は筋肉ではなく衣服であったかもしれない。

tahi2024    reply

皮膚はとても不思議だと思った。触れることができると同時に触れられたことも知覚する。触れられることで初めて皮膚の存在を認識し、外界と自分の接点として自分を認識することができるという話はとても興味深かった。赤ちゃんは母親的周囲の事物に触れられて初めて自分の皮膚がと関係性を持ったリアルなものになり、自我を知る当話であったが、では幼児虐待の場合、自我の確立はどのように行われるのか。赤ん坊は母親に抱っこされる経験を通して自身の皮膚が母親に触れ、また触れられ、皮膚が離れると触れ合うことで認識できていた自我が崩壊し、能動的な接触を求める段階に至るが、虐待は抱っこよりも強烈な皮膚への接触である。ここでは、抱っこと違って皮膚の接触は瞬間的なものであるから、自我の認識と崩壊がほぼ同時に行われるのであろうか。それとも、虐待には必ず子供の身体に痛みが残るため、その痛みを持って自分の身体が今この世界に存在してると認識するのか。いずれにしても酷い自我の確立ではあると思うが。

dohiharu1729    reply

自我形成の過程で物理的に身体とその外部を分ける皮膚に加えて自らのなす運動や視覚、聴覚的情報によって第二の皮膚が形成されていくという考えは納得のいくものだなと感じました。確かに自分が動く時、自分の行動に対するフィードバックを待つというよりは、周りの環境を観察し予測した上でそれに対して適切な行動を予想し実行しており、いわば第一のフィードバックは外界に対する自分の行動で、それに対してさらに外界の側も何らかの反応を起こしたり起こさなかったりする、相互的な影響を及ぼし合っているなと思います。一方で第二の皮膚という表現は能動的な防御という意味に加えて、自分の感覚と独立した外界との界面という意味を併せ持っているかと思いますが、講義で扱っていた親の顔が第二の皮膚だという発想は、この界面という性質は持つものの防衛手段としての皮膚はむしろ親の顔ではなく自分の視線、視覚情報ととる方が筋肉による運動との類似性もあり自然なのかなと感じました。視覚情報を外界のものとして捉え、それによって自分の行動を変えることが第二の皮膚の形成、りんごの例であってもただ待っているだけではりんごはやってこないと知ることは視覚による観察で、そこからさらに解決手段として筋力を得たと考えてみたいです。皮膚と自我の関連性に注目するのは触れたことがない考えで面白い講義でした。ありがとうございます。

kaki06    reply

自我について考える上で皮膚に着目する考えが、自分には自発的に浮かんできたことがなかったので、講義の内容は自分にとって新しい視点を得られるものでした。今まで小中高一貫の学校に通ってきて、幼い頃から知っている人ばかりで、中学・高校に進学するタイミングで新しく入ってくる外部生もその空気感に自然と取り込まれていたので、人との距離をそれほど強く感じてこなかった。大学生になってから、自分と他者との絶対的にわかり得ない部分を意識するようになり、自立の必要性をいつになく強く実感した。ある意味それは、界面の更新のようなものだったのかもしれないなと、講義を聞きながら考えていた。他方で、皮膚の解離によって生じるその痛みや空隙を埋め合わせる、という考え方がよくわからなかった。自分の中ではどちらかというと、更新によって新しい、新鮮な皮膚が顕在化する、と言うイメージが湧いてきた。他者を取り込みたいと言うよりは、皮膚の離れた他者と新しい関わり方を始めてゆく感覚ではないかと思った。

0524yuta    reply

今回の授業では、皮膚(ただの皮膚だけでなくいわゆる第二の皮膚含め)は単なる外的世界との物理的境界であるだけでなく精神的境界でもあり、また自我を持っていく過程で欠かせない役割を果たすこと、そしてそれが段々と被服に変わっていくことを学んだ。しかし今回の授業はこれまでで最も難しいと感じた。というのもこの考え方は自分の持つ事象感覚にない感覚であるとともに、幼児期に経験していたことであるため覚えていないからだ。話をきいて論理的には理解している部分もあるが、イマイチ腑には落ちていないところが多い。ただ第二の皮膚の部分からは比較的理解しやすかった。母親の顔が鏡として捉えられること(母親の顔がそこに見るものを表している)はよくわかるしそれは幼児期に限ったことではないと思った。これまで鏡を通して視覚的な側面から自分というものを認識するとばかり考えていたが、はじめ赤ちゃんが自分の手や鏡に映る自分を不思議そうに見つめるところからどう自分だと認識するのかは自分の中で謎だった。今回視覚的な側面は一部にすぎないと知って少し謎が晴れた。

kero1779    reply

乳幼児期に母親からの愛情がしっかりと受けれなかったり、逆に過保護で自立が遅れたりすると母親というものはこういうものだと決めつけてしまわざるを得ずそれを同じように友人などにも当てはめてしまいうまく距離感を掴めなかったりなど人間関係で苦労することがあるという話を聞いたことがあるが今回の話を聞いていてそれは自分の皮膚と母親の皮膚が分離したのち第二の皮膚として母親が手を差し伸べてくれなかったり差し伸べ方に問題があったのからなのかなとリンクして考えることができ理解が深まった。装うというと少し年齢が上になり他人の目を気にしだしてから行うものだという考えがあったが、母親との間に第二の皮膚を形成するには自分が母親に注目されて距離を近づける必要があることを考えると生まれた時から人間は無意識に装っているのかなと思う。

highriv21    reply

「皮膚-自我」という概念がどのように母子関係や身体感覚に根ざしているのかが興味深かった。特にPEANUTSで出てくるライナスについての事例はとてもわかりやすく興味深かった。このように実際には皮膚ではないが、皮膚の延長または代用としての役割を持つものを調べるのは面白いと思った。

lapis07    reply

皮膚といった物質的なものが「自我」といった重要な概念に強く結び付けられていることが非常に興味深かった。哲学の授業にて他者とは何かについて学んでいる最中のため、他者を考える前提になる自我の意味やその成立について考えを巡らせることができたのは大変有意義であった。以前なぜ今の自分と幼かった頃の自分は全く異なる形をしているのに同一人物と言えるのか、といった哲学的質問を投げかけられずっと気になっていたのだが、「第二の皮膚」という説明の仕方で一部説明が可能であるように感じた、

ak10    reply

精神分析学の授業を取ろうか迷っていたため今回の授業はとても興味深かった。まず皮膚という非常に身近なテーマを掘り下げ私たち人間を捉えるまでに至ったのは、アンジューの母マルグリートのエピソードがあったからこそであるのだとわかり、私がこれまで感じていた身近なものを話題にしながらなぜこれほどまで深く難しい理論に達するのかという疑問が解決したように感じた。また、身体表面は触覚を通じた内的な自己感覚を形成する一方で、他者から見られる「外的な存在」としての役割も担う。この二重性が「皮膚-自我」の重要な特徴だ。これに対し「被服ー自我」という考えでは他者から見られるという関係を強調することができる。これは服というのは美的な表現というだけでなく、他者から見られる中で自身を作り上げるということだ。他者からの視線によって自身が形成されるというのは私の経験から考えても納得できる考えだと感じた。

ouin3173    reply

今回の講義を聞き、十数年前から「キャラ」という言葉が、ある人間関係における自分の性格というような意味で頻繁に使われるようになった、ということを思い出した。他者から見られることを意識した自我の認知、という点で似ているように感じられ、興味深かった。私も自分では気づかないうちに、被服とともに自分のキャラを装っているのだろうと考えさせられた。

choshi70    reply

被服ー自我と聞いて漠然とイメージしていたものとは違い、かなり複雑な理論だった。アンジューの皮膚ー自我を拡張して被服ー自我へと至るためには、被服の場面に想定されるような母に限らない他者との関わりを考慮し、理論を母子関係に限定せずにさらに多くの他者に開かれたものにしなければならないと思った。ただ、それによって精神分析の分野の独自性や理論の魅力的な部分が損なわれてしまうようにも感じるから難しそうである。例えばアンジューの言うような界面の分離、固有の皮膚と自我の獲得の際の「痛み」は装いのメタファーにおいては存在し得ない。痛みの次の段階として、その痛んだ皮膚の保護として被服を考えてみるとうまくいくかもしれない。ハンガンの「すべての、白いものたちの」で赤ん坊と母親の間にある真っ白い布の描写があるがそう言うイメージ。

Stella1220    reply

皮膚が単なる身体的な境界ではなく、自己と他者との接触や関係を通じて自我の基盤となるという視点は、新鮮でありながら直感的にも理解しやすいものでした。また、「母親的周囲」との接触や愛情関係が、自我形成の根本にあることを知り、人間の心理がいかに身体的な体験や社会的な関係性に依存しているかを再認識しました。素敵な講義ありがとうございました。

awe83    reply

後半の皮膚-自我と被服-自我については何となくまだ理解しきれていない部分もあったのですが、前半は印象的な知見が多く、全体的にとても関心を抱きました。受講してよかったです。
特に、エスが現実に接触して変容することで、現実原理に従うことになる、といった概念的なところも比較的分かりやすく説明されていて、納得できました。また、現実は母親のような養育者という1つの要素に集約されるという抽象化も、新鮮な考え方なの思いました。日常生活において自分の精神や身体の状態について的確に理解しきれていないと思うことが多々あるのですが、精神分析的な手法や視点を取り入れてみることがひとまず効果がありそうだと感じ、個人的にとても有用な講義でした。

XK04    reply

皮膚が単なる身体の境界を超え、自我や他者との関係性を象徴する重要な媒介であることを学んだ。特に、アンジューの「皮膚-自我」の概念と被服を通じた「第二の皮膚」という視点は、自分の存在のあり方や他者との相互作用の新しい見方を与えてくれた。装うという行為が単なる外見の問題ではなく、自己表現や心理的防衛の一環として機能する点は非常に興味深かった。身体表面を自己と他者を繋ぐ場として再認識することは、日常的な行為や社会との関わり方への洞察を深める契機となった。また、、表面的な接触から始まり、深い相互作用の場としての界面が更新され、最終的には自己の変化を反映した新たな皮膚が形成される人間の自己認識と他者との関係性が変容し続けるプロセスは成長、適応、変容を象徴するように思えた。

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