中国の学生との共同フィールドワークを体験したい

学生による意見・感想 南京大学フィールドワーク研修【3月】2010年度

2010年度南京大学「身体論」集中講義プログラムを通じて

■ 集中講義について

 今回のプログラムでは、「身体論」をテーマに、福島先生による障害学の講義と清水先生によるトランスジェンダー/インターセックスに関する講義が行われた。福島先生の講義は、指点字の成立に至るまでの経緯を紹介されながら、全盲・全聾の疑似体験を行い、「障害」とは何なのかを考えるという内容であった。この疑似体験は非常に刺激的なで、「見えない・聞こえない」もたらす孤独と不安を痛感させてくれるともに、傍に支えてくれる人がいる」ことの大きさを実感させてくれるものであった。以前東京で参加した、dialogue in the darkという暗闇の中で全盲を体験するイベントと違い、今度は耳も聞こえない。つまり会話によるコミュニケーションが出来ない。世界を認識するために使用することが出来る感覚は嗅覚・味覚・触覚の3つのみである。従って、疑似体験においては、この3つの感覚に対して鋭敏になった。たとえば、パートナー役として手を引いてくれた南京大学の学生の手の温かさや柔らかさ、そして香り。ホールからドアをくぐって外に出たときの空気の変化。チョコレートが口の中で溶けてゆく様子。視覚や聴覚以外の情報が世界には溢れている。普段の我々はそれらを意識からシャットアウトして生きているのだ。これらと同時に気付いたのは、「時間」という感覚についてである。全盲・全聾の擬似状態においては、時間を非常に長く感じた。耳と目をふさぐことによって、時間の捉え方が明らかに変わったように思う。(あとで気になって質問してみたところ、本当の全盲・全聾でいらっしゃる福島先生は、時計の無い状態では「空気の匂い」で時間を把握していらっしゃるそうだ。)

 講義を受けるうちに考えたのは、福島先生は夢を見るのだろうか、ということ。夢が記憶と想像の産物であるならば、夢は実際の視覚や聴覚に関係がない。福島先生が視覚や聴覚があった時期の記憶をお持ちならば、福島先生は睡眠中に映像や音声の入った夢を見ていらっしゃるのではないだろうか。だとすれば、夢から目覚めて視覚も聴覚もない現実の世界に引き戻されることは恐ろしい事ではないだろうか。このことを質問してみたかったが、時間の都合上叶わなかったのが残念である。ただ、福島先生は講義において、「生きがい」を他者とのコミュニケーションに求めていらっしゃったから、映像も音声も遮断された世界であっても他者を感じられる現実の世界の方が夢の世界よりもよほど魅力的に感じられるのかもしれない。

 福島先生の講義の終盤は、「障害」の定義についてであった。「障害」というカテゴリはアプリオリに存在するわけではなく、社会的・歴史的に構成されたものであるということを強調されていらっしゃった。この考え方はもちろん、ミシェル・フーコーの「狂気」に関する分析を思い起こさせるものであって、そもそも今回の福島先生の講義と清水先生の講義はこのように「社会的に構成された線引き」にメスを入れる講義という点で共通したコンセプトを持つものだと言えるだろう。

 セメンヤ選手の問題を切り口に「第三の性」について扱った清水先生の授業で最も印象に残ったのは、前夜祭で見たBOTHという映画である。

 この映画は相当に練られた構成を持っている。たとえば冒頭の老女がアルバムを手にしながら階段を下り、そして再び登ってゆく場面。セリフが一切無い中でかなりかなり長い時間にわたってこのショットが続くが、これは映画の主人公(インターセックスであったが、親の判断によって一方的に女にされた。)がこれから辿る運命を表象しているものだと考えられる。また、主人公が乗る愛車がフォルクスワーゲンであり、映画中に唐突に「フォルクスワーゲンはナチスが作った車だ」というセリフが出てくることを考えると、ナチスと優生学の関係を考えないわけにはいかないだろう。フォルクスワーゲンはナチスと優生学の表象なのである。優生学は「正常でないもの」や「障害者」を社会から排除し、劣等なものとして位置付けてきた。優生学≒フォルクスワーゲンに乗る主人公(「正常」ではない性の過去とアイデンティティを持っている)は、最後のシーンでガードレールにぶつかっても(あるいはぶつかることなく)生き残る。優生学的には排除の対象となるであろうインターセックスの人間が生き残る。それも優生学を象徴するフォルクスワーゲンに乗った状態で。ここに制作者のアイロニーと希望を見てとることが出来るだろう。

 映画中に出てくるもう1人のインターセックスの子供にも、制作者の「希望」が託されている。このインターセックスの子供は、主人公と異なり、手術によって一方の性に追いやられることなく育っている。だがこの子供の将来は作品中で描かれることがない。インターセックスであることに戸惑いを覚え、社会から「異質なもの」として排除されるかもしれないし、社会がインターセックスという存在を認識するかもしれない。いずれにせよ、それはこの作品の時間を超えた未来の話である。だからこそ、「この子供が社会から排除されずに生きていけるような社会を作っていかねばならないのではないか」という制作者からの強烈なメッセージを私は感じた。

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虐殺記念館にて

■ 学生交流について

 南京大学の学生さんたちには本当に隅から隅まで気配りを頂き、中国語のほとんど分からない私でも何ら不便の無い9日間を送らせて頂いた。南京という土地柄、日本人の我々はどこか不審な目で見られるのではないかと心配していたのだが、それは全くの杞憂に終わった。大虐殺記念館に行った時に、南京大学のある学生に「虐殺のことをどう思うか。日本人のことをどのように思っているのか。」と聞いてみたのだが、彼は「悲しい過去はあったけど、一緒に未来を作ろう。過去を引きずるために生きているのではないでしょう。」と答えてくれて感動した。このように色々な場所に連れて行って下さっただけでなく、朝早くから夜遅くまで、中国に不慣れな我々の生活をサポートして頂き、どれだけお礼を言っても足りないほど感謝している。南京大学の学生さんたちから学んだことは大きい。詳しい内容はこの紙面では到底収まり切らないので割愛するが、日中の文化比較や政治から恋愛にまで及ぶ価値観の違いなど、話すたびに驚きを感じるものであった。同時に、南京大学の方々の語学力の高さ(たとえば、「言葉のあや」という単語を即座に中国語に同時通訳する様子など)を見て衝撃を受けた。

 また、東大から参加した学生同士の間での交流も刺激的なものであった。全くの見ず知らずで集まった7人であったが、9日の生活を通して寝食を共にし、沢山の話をして親睦を温める事が出来たように思う。特に今回のプログラムには院生の方が3人参加していらっしゃったので、院生の方々からは研究者としてのスタイルや生活など、非常に大きな刺激を受けた。先輩方の語学力の高さや知識量の多さ、そして議論を的確に整理する明晰さを見て、「帰ったらもっと勉強しよう。」と何度思ったか分からないほどである。多様な年齢層の参加者から成るこのプログラムは本当に充実したものであり、私にとって、今回の経験は、いつまでも忘れられない記憶になった。

 これからも是非、このプログラムが続けばと思う。最後になりましたが、コーディネイトしてくださった石井先生には心から感謝致します。ありがとうございました。

(文科Ⅲ類 2年(第二グループ))

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