I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.8 2024.12.04

comments(最新2件 / 15)

esf315    reply

なかなか難しく、完全に理解することはできなかったのですが、理解できたところはすごく興味が引かれるものでした。幼い頃に充分な愛情を受けれなかった人が、愛情を与えてくれるはずだった存在の影を追い求める話は、自分自身似たような経験があったためにそれが解明できたような気がしてとてもおもしろかったです。素晴らしい講義ありがとうございました。

Yukki35    reply

母との離れ、あるいは母が自分のために満たしてくれる欲求の離れを自覚して、自分自身を強めるという第二の皮膚という構造は、一般的に広く言われる「自分自身を示すための衣服」と目的が重なると思った。第二の皮膚として授業中では主に筋肉が挙げられていたが、もし初めての症例の無意識に抱いていたシナリオが衣服を装うことで母のしてくれなかったことをできるようにする、というものだったとしたら、ここでの「第二の皮膚」は筋肉ではなく衣服であったかもしれない。

tahi2024    reply

皮膚はとても不思議だと思った。触れることができると同時に触れられたことも知覚する。触れられることで初めて皮膚の存在を認識し、外界と自分の接点として自分を認識することができるという話はとても興味深かった。赤ちゃんは母親的周囲の事物に触れられて初めて自分の皮膚がと関係性を持ったリアルなものになり、自我を知る当話であったが、では幼児虐待の場合、自我の確立はどのように行われるのか。赤ん坊は母親に抱っこされる経験を通して自身の皮膚が母親に触れ、また触れられ、皮膚が離れると触れ合うことで認識できていた自我が崩壊し、能動的な接触を求める段階に至るが、虐待は抱っこよりも強烈な皮膚への接触である。ここでは、抱っこと違って皮膚の接触は瞬間的なものであるから、自我の認識と崩壊がほぼ同時に行われるのであろうか。それとも、虐待には必ず子供の身体に痛みが残るため、その痛みを持って自分の身体が今この世界に存在してると認識するのか。いずれにしても酷い自我の確立ではあると思うが。

dohiharu1729    reply

自我形成の過程で物理的に身体とその外部を分ける皮膚に加えて自らのなす運動や視覚、聴覚的情報によって第二の皮膚が形成されていくという考えは納得のいくものだなと感じました。確かに自分が動く時、自分の行動に対するフィードバックを待つというよりは、周りの環境を観察し予測した上でそれに対して適切な行動を予想し実行しており、いわば第一のフィードバックは外界に対する自分の行動で、それに対してさらに外界の側も何らかの反応を起こしたり起こさなかったりする、相互的な影響を及ぼし合っているなと思います。一方で第二の皮膚という表現は能動的な防御という意味に加えて、自分の感覚と独立した外界との界面という意味を併せ持っているかと思いますが、講義で扱っていた親の顔が第二の皮膚だという発想は、この界面という性質は持つものの防衛手段としての皮膚はむしろ親の顔ではなく自分の視線、視覚情報ととる方が筋肉による運動との類似性もあり自然なのかなと感じました。視覚情報を外界のものとして捉え、それによって自分の行動を変えることが第二の皮膚の形成、りんごの例であってもただ待っているだけではりんごはやってこないと知ることは視覚による観察で、そこからさらに解決手段として筋力を得たと考えてみたいです。皮膚と自我の関連性に注目するのは触れたことがない考えで面白い講義でした。ありがとうございます。

kaki06    reply

自我について考える上で皮膚に着目する考えが、自分には自発的に浮かんできたことがなかったので、講義の内容は自分にとって新しい視点を得られるものでした。今まで小中高一貫の学校に通ってきて、幼い頃から知っている人ばかりで、中学・高校に進学するタイミングで新しく入ってくる外部生もその空気感に自然と取り込まれていたので、人との距離をそれほど強く感じてこなかった。大学生になってから、自分と他者との絶対的にわかり得ない部分を意識するようになり、自立の必要性をいつになく強く実感した。ある意味それは、界面の更新のようなものだったのかもしれないなと、講義を聞きながら考えていた。他方で、皮膚の解離によって生じるその痛みや空隙を埋め合わせる、という考え方がよくわからなかった。自分の中ではどちらかというと、更新によって新しい、新鮮な皮膚が顕在化する、と言うイメージが湧いてきた。他者を取り込みたいと言うよりは、皮膚の離れた他者と新しい関わり方を始めてゆく感覚ではないかと思った。

0524yuta    reply

今回の授業では、皮膚(ただの皮膚だけでなくいわゆる第二の皮膚含め)は単なる外的世界との物理的境界であるだけでなく精神的境界でもあり、また自我を持っていく過程で欠かせない役割を果たすこと、そしてそれが段々と被服に変わっていくことを学んだ。しかし今回の授業はこれまでで最も難しいと感じた。というのもこの考え方は自分の持つ事象感覚にない感覚であるとともに、幼児期に経験していたことであるため覚えていないからだ。話をきいて論理的には理解している部分もあるが、イマイチ腑には落ちていないところが多い。ただ第二の皮膚の部分からは比較的理解しやすかった。母親の顔が鏡として捉えられること(母親の顔がそこに見るものを表している)はよくわかるしそれは幼児期に限ったことではないと思った。これまで鏡を通して視覚的な側面から自分というものを認識するとばかり考えていたが、はじめ赤ちゃんが自分の手や鏡に映る自分を不思議そうに見つめるところからどう自分だと認識するのかは自分の中で謎だった。今回視覚的な側面は一部にすぎないと知って少し謎が晴れた。

kero1779    reply

乳幼児期に母親からの愛情がしっかりと受けれなかったり、逆に過保護で自立が遅れたりすると母親というものはこういうものだと決めつけてしまわざるを得ずそれを同じように友人などにも当てはめてしまいうまく距離感を掴めなかったりなど人間関係で苦労することがあるという話を聞いたことがあるが今回の話を聞いていてそれは自分の皮膚と母親の皮膚が分離したのち第二の皮膚として母親が手を差し伸べてくれなかったり差し伸べ方に問題があったのからなのかなとリンクして考えることができ理解が深まった。装うというと少し年齢が上になり他人の目を気にしだしてから行うものだという考えがあったが、母親との間に第二の皮膚を形成するには自分が母親に注目されて距離を近づける必要があることを考えると生まれた時から人間は無意識に装っているのかなと思う。

highriv21    reply

「皮膚-自我」という概念がどのように母子関係や身体感覚に根ざしているのかが興味深かった。特にPEANUTSで出てくるライナスについての事例はとてもわかりやすく興味深かった。このように実際には皮膚ではないが、皮膚の延長または代用としての役割を持つものを調べるのは面白いと思った。

lapis07    reply

皮膚といった物質的なものが「自我」といった重要な概念に強く結び付けられていることが非常に興味深かった。哲学の授業にて他者とは何かについて学んでいる最中のため、他者を考える前提になる自我の意味やその成立について考えを巡らせることができたのは大変有意義であった。以前なぜ今の自分と幼かった頃の自分は全く異なる形をしているのに同一人物と言えるのか、といった哲学的質問を投げかけられずっと気になっていたのだが、「第二の皮膚」という説明の仕方で一部説明が可能であるように感じた、

ak10    reply

精神分析学の授業を取ろうか迷っていたため今回の授業はとても興味深かった。まず皮膚という非常に身近なテーマを掘り下げ私たち人間を捉えるまでに至ったのは、アンジューの母マルグリートのエピソードがあったからこそであるのだとわかり、私がこれまで感じていた身近なものを話題にしながらなぜこれほどまで深く難しい理論に達するのかという疑問が解決したように感じた。また、身体表面は触覚を通じた内的な自己感覚を形成する一方で、他者から見られる「外的な存在」としての役割も担う。この二重性が「皮膚-自我」の重要な特徴だ。これに対し「被服ー自我」という考えでは他者から見られるという関係を強調することができる。これは服というのは美的な表現というだけでなく、他者から見られる中で自身を作り上げるということだ。他者からの視線によって自身が形成されるというのは私の経験から考えても納得できる考えだと感じた。

ouin3173    reply

今回の講義を聞き、十数年前から「キャラ」という言葉が、ある人間関係における自分の性格というような意味で頻繁に使われるようになった、ということを思い出した。他者から見られることを意識した自我の認知、という点で似ているように感じられ、興味深かった。私も自分では気づかないうちに、被服とともに自分のキャラを装っているのだろうと考えさせられた。

choshi70    reply

被服ー自我と聞いて漠然とイメージしていたものとは違い、かなり複雑な理論だった。アンジューの皮膚ー自我を拡張して被服ー自我へと至るためには、被服の場面に想定されるような母に限らない他者との関わりを考慮し、理論を母子関係に限定せずにさらに多くの他者に開かれたものにしなければならないと思った。ただ、それによって精神分析の分野の独自性や理論の魅力的な部分が損なわれてしまうようにも感じるから難しそうである。例えばアンジューの言うような界面の分離、固有の皮膚と自我の獲得の際の「痛み」は装いのメタファーにおいては存在し得ない。痛みの次の段階として、その痛んだ皮膚の保護として被服を考えてみるとうまくいくかもしれない。ハンガンの「すべての、白いものたちの」で赤ん坊と母親の間にある真っ白い布の描写があるがそう言うイメージ。

Stella1220    reply

皮膚が単なる身体的な境界ではなく、自己と他者との接触や関係を通じて自我の基盤となるという視点は、新鮮でありながら直感的にも理解しやすいものでした。また、「母親的周囲」との接触や愛情関係が、自我形成の根本にあることを知り、人間の心理がいかに身体的な体験や社会的な関係性に依存しているかを再認識しました。素敵な講義ありがとうございました。

awe83    reply

後半の皮膚-自我と被服-自我については何となくまだ理解しきれていない部分もあったのですが、前半は印象的な知見が多く、全体的にとても関心を抱きました。受講してよかったです。
特に、エスが現実に接触して変容することで、現実原理に従うことになる、といった概念的なところも比較的分かりやすく説明されていて、納得できました。また、現実は母親のような養育者という1つの要素に集約されるという抽象化も、新鮮な考え方なの思いました。日常生活において自分の精神や身体の状態について的確に理解しきれていないと思うことが多々あるのですが、精神分析的な手法や視点を取り入れてみることがひとまず効果がありそうだと感じ、個人的にとても有用な講義でした。

XK04    reply

皮膚が単なる身体の境界を超え、自我や他者との関係性を象徴する重要な媒介であることを学んだ。特に、アンジューの「皮膚-自我」の概念と被服を通じた「第二の皮膚」という視点は、自分の存在のあり方や他者との相互作用の新しい見方を与えてくれた。装うという行為が単なる外見の問題ではなく、自己表現や心理的防衛の一環として機能する点は非常に興味深かった。身体表面を自己と他者を繋ぐ場として再認識することは、日常的な行為や社会との関わり方への洞察を深める契機となった。また、、表面的な接触から始まり、深い相互作用の場としての界面が更新され、最終的には自己の変化を反映した新たな皮膚が形成される人間の自己認識と他者との関係性が変容し続けるプロセスは成長、適応、変容を象徴するように思えた。

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