I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.13 2025.01.15

comments(最新2件 / 5)

att1re    reply

生れつき皮膚に疾患があり,シラバス上では本授業は吉崎歩先生がご担当とのことだったので少少残念だった。
さておき,今回の授業のような(哲学)対話は過去にも何度かやってみたことがあるが,これほど内心ぽかんと口を開けていて全く話の流れ(という方が議論というよりも対話形式の要請の内実に照らしてより相応しくはあるのだろう)についてゆかれなかったのは初めてのことだった。端的に言って居心地の悪さを覚えた。(哲学)対話に対する問題意識というのは長らくあり,永井玲衣『水中の哲学者たち』を読んで大いに批判精神が刺戟されたこともあったが,明敏な言語に落し込めていないのが歯がゆい。メモの羅列のような形となり恐縮だが以下にその一端を,<自身の経験に即して><他人が自分をどう思うかを気にせ
ず>書きあらわしたい。以下,便宜のため単に「対話」とする。
対話を支えているのは言語・世代・話題への関心などのある種の同質性ではないか。もちろん同質性の欠片もない他者と実際的に対話の機会があるか,またそもそも一片たりとも私と同質なるものを具有していない他者が 実在/想定
できるかという問題がある。また同質性に依らない議論などないという言い方もできようが,対話パッケージの見かけのわりには同質的であることは指摘されねばなるまい。またこれを敷衍して,なぜかように対話において(一風変った)ボールが用いられ,それが投げられるのか。もちろん発言者を定めるという意図は承知している。しかし例えば私の場合,ものが投げられるということ自体に故なくも名伏しがたい恐怖感を覚え,心がさざ波だつ。
今回でいえば十か条,そのうちの一つ,自身が自身の発言によって他者から規定されないことを前提に発言する,などということは可能か。まずファシリテーターはそんなことはできない。なぜならファシリテーターという役目を 負って/負わされて
いるから。参加者はファシリテーターよりは幾分自由だが,やはりどうしても発言により(また今回でいえば身なりにより)他者を印象付けてしまう。
他者を否定することの範疇はどのようであるか。最も直截的に,それは違う,というのが禁じられることは理解できる。しかしAといった人のあとにnotAという趣旨のことを発言するとき,それは否定ではないのか。あるいはそうした認識のもとにnotAと言いづらい雰囲気が醸成されてしまわないか。

tahi2024    reply

いつも友達と行うような雑談とも違うし、専門的な学問についてのゼミ形式の議論とも違った、形式は緩いが話し合うテーマが自身の経験とマッチしている対話はとても面白かった。違いがあることを認めそれを排斥せずに話し合う俎上に持ってくる柔軟な態度をみなさんは持っているのだなと、この大学での学びが楽しみになった気がする。

esf315    reply

初めての形式の対話でとても楽しかったです。なにもルールを決めずにやったときより、自分自身話しやすいと感じたし、心なしか周りもよく発言してるようで不思議でした。

kero1779    reply

服装を考える時他の人の目線を考えてしまうのは仕方ないことであるなと思いながらも、その日の気分と言った言葉があるように本人の気持ちの部分も大きく影響するのではないかなと思いました。そして服装を考えて他人と合うように装ったとしても服装からその人のその日の気分などその人の個性は装うのは難しいのかなと思いました。

dohiharu1729    reply

最も一般的な装いの手段である服に関しても、まだ私たちの議論していない領域が沢山あり、持っている価値観も人それぞれであることから、自然科学と異なって一般的な結論を出すことの難しさを感じました。服は毎日着ていてしかも見られているものでありながら、あまりその意図や表現したいものについて論じることがなく、僕も服を選ぶのは好きなもののかなり自分の好みのみで決めていたため、様々な考えが聞けて良かったです。

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