ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第2回 03月06日 滝田 洋二郎 × 刈間 文俊

特別講演:「装う」映画--君はそこに何を⾒るか①

講師紹介
滝田 洋二郎 × 刈間 文俊
授業風景

 南京集中講義第2講は映画監督である滝田洋二郎監督をお招きして行われた。

 滝田監督はコロナ禍には2年間オンラインで講義を行なっており、去年には南京に実際に出向いて講義を行なった経験があり、4度目の南京大学生への授業となる。

 そんな監督の講義もまた、今回の集中講義のテーマである「装う」のもとに展開されていく。

 「装う」というのは人間が生きている以上必ず付きまとうものである。見えるものも見えないものも含めて、映画という「装いの極地」の芸術を通して監督の経験を『おくりびと』『陰陽師』という2本の映画を題材にお話しされた。授業は東京大学名誉教授の刈間文俊先生によって通訳が行われた。

「映画を作る時は最終的にどんな形でパッケージで装うのかがとても大事になります。そのためには全てのシーン、カットに意味が出てきます。それを説明的ではなく、見てる人に共感してもらって時に面白く、悲しく、胸の奥に届くようにいつも心がけます。『おくりびと』という映画には亡くなった方が出てきます。日本人は死を忌み嫌うため非常に難しいものでした。主演の本木さんは納棺の実際の現場に行って体験しました。私も体験しました。その場で感じたことから人に対する『装い』や死に対する『装い』を学びました。」

 実際に映画の映像を見せながら監督は説明を始めた。映画の冒頭、雪が降りしきるシーンである。

「この映画をどんなふうにお客さんを引き込むかを考える中で最初のシーンは主人公の心情を全て代表しています。多分人間が生きていくのはこういうことだなと思いました。チェロで人生を失って、こういう職業を選ばざるを得なかった男を絵にしたいと思いました。みなさんがきっとこれから体験すると思いますが、非常に順調な時とそうでない時の将来の見え方は全然違うと思います。もう周り中霧だらけ、どんなに頑張ってもなかなか光が見えてこない、まさにそんな時にいる心境を『装っ』てみたわけです。この映画ではあまりCGを使っていませんが、このシーンを撮るために雪国に行きました。その時は、たまたま何も雪が降らなくて随分大変な思いをしました。しかし、帰りかけた最後のチャンスで雪が降ってこのような奇跡的に思い通りのシーンが撮れたわけです。だから、それも含めて『装う』というのはやはり、感情みたいなものが必ずものになって現れると思います。」

 次に監督が扱ったのは納棺のシーンであった。

「実際こういう現場にお手伝いに行きましたけれども、人が亡くなってこういう風に納棺の儀式をする時には本当に厳かな空気が流れます。人間は自然に感情の流れるままに厳かな『装い』をしています。そして、衣装というのは人間を一番表しやすいものです。最初、私たちも納棺師という人間がわからなくて、一体どんな服を着ればいいのかわかりませんでした。納棺師というのはおくる側・残された側と亡くなった側、それらの中間に立って亡くなった方を見送る仕事です。そのニュートラルな立場にいる人は目立つわけにはいかず、仕事をしなければいけない、そんな人はどんな服装をすればよいのかといろいろな意見が錯綜しました。こういった時の色を装うのは大体黒か白です。ある人は全身真っ黒の衣装を着て、顔も映さないように真っ黒のマスクで顔を覆うのはどうかと言いました。ある人は、それは白であるべきだと。あるいは、おくるためには下着くらいでもいいのではないか。など様々な意見が出ました。たった一つの衣装を決めるのにそれぞれのスタッフの感性によって千差万別です。そう考えると皆さんが衣装を着てきたというのにも自分なりの意味がありますね。たくさん集まる時はやはり自分を『装い』たいですよね?」

 その後、実際に映画内の納棺の儀式を行うシーンを進めながらお話を進める。

「中国にはこういった納棺の儀式はありますか?」

 教室の反応を見る限りそこまでメジャーではないようであった。

「日本もあまり地方では自分の家でやっていましたけど職業としてはとても小さかったです。この映画があったことで納棺師という職業はポピュラーになりました。この映画を撮ってみて感じたことは、人間は泣きながら生まれてきて、泣きながら死んでいきます。生まれた時は祝福されますが、亡くなる時は祝福されませんが別の意味であなたと一緒にいた、残されたものはその喜びを受け継ぎます。ですからみなさん20歳前後だと思いますが、僕も20歳の時がありました。ついこの間ではないかと思うくらい、いつまでも今の周りの人間関係は続きません。だから今のうちに産んでくれた両親のこと思ったり、自分が思いの外早く年を取ることを今のうちから自覚して楽しんだりしたほうがいいと思います。」

 『おくりびと』の冒頭、納棺の儀式のシーンを進める。

「これは美しい女性が練炭自殺したシーンではあるんですけど、実は男性というものです。『彼』が『彼女』になるための理由はたくさんありますが、彼女は女性になることを「装う」ことによって自分の生き方を決めました。深い説明をしなくても彼女の悲しみや周りの家族の悲しみが伝わるように、それでもちょっと滑稽さがある、生きていく上で悲しみと同居しているというシーンをセリフではなく上手く描きたかったわけです。映画というのは監督が人間の感情を描いていく物語ではありますが、結果的にその監督の思いのままになります。一本のアイデア、シナリオを10人で監督した場合、必ず全く違うものができます。そのくらい意識せずとも自分の心の中やものの考え方といった『装い』が必ず出てきます。みなさんも同じことです。みんな集まっても一人一人みんな違いますから、ちゃんと生きていれば意識しなくても自分の『装い』がきっと出てきます。」

ここからは通訳を務める刈間先生との対談のような形となり講義は続いた。

滝田監督「この映画は最終的にはアカデミー賞のオスカーへいきましたけど、誰一人としてはじめは予想もしませんでした。日本では人が亡くなることについてはとても忌み嫌われます。ですから、たくさんのご遺体が出てくるこの映画には出資者がなかなか集まらず、劇場公開も決まりませんでした。置かれた現状が明らかにマイナス要素であってもそれが創造的活動のエネルギーになる、ということの証明になったと思っています。例えば日本の大きな映画配給会社には自分の会社のカラー、『装い』があり、この映画はそれにふさわしいものでは無かったわけです。このように社会も『装い』を持ち、個人も『装い』を持つ、そんな中で人間は生きていると思います」

刈間先生「どこが突破点になりましたか?」

滝田監督「負のエネルギーがぶつかり合った時に人間同士の化学反応が起こる、ということを体験しました。例えば音楽について、久石譲さんから主人公はチェロを弾く青年だったんですが、そのチェロをもう一本のドラマとして、映画音楽はチェロをメインにほとんどチェロとピアノだけでいこうという提案をしてもらいました。チェロというのは音の高さや低さ、奥行きが非常に人間の声の感情に似ているそうです。そのチェロを弾くスタイルも劇場だけではなく家の中、あるいは思い出の河川敷であるとか至る所であえてチェロを弾くようにしました。チェロはとても大きい楽器です。弾き方がこの映画のように亡くなられた人を抱きながら奏でるということをこの映画の『装い』としました。この映画のエンディングの音楽もチェロ12本だけでオーケストラを作りました。映画というのはいろんなアーティスト、音楽家や俳優、脚本、カメラ、あるいは演出、技術を含めたすべての総合芸術がどうやって融合し、化学反応を起こし、最後に一つのパッケージを『装え』るのか、というのが醍醐味です。」

刈間先生「それこそが監督仕事ですよね」

滝田監督「はいそうです。作品を装うわけですので監督自身をパッケージすることでとても楽しい仕事です」

続いて、主人公が白子を食べるシーンが映し出された。

滝田監督「食べることは人間の原動力でありますけども、食べるものにもみなさんの想い、どんなものを食べて自分を『装い』たいかがとてもでます。映画ではとてもわかりやすいです。白子は日本人は大好きですがあまりにも高価。でも、食べてみたいというものです。みなさん、小さい頃は友達や親戚など自分の家族以外の家に行って、食べるものを出された時になんで家と違うんだろうと思ったことがあるでしょう。それくらい親から受け継いで食べるもの、というのはいろんな家庭によって違うものです。だから性格や考え方が違っても当たり前のことなのです。」

滝田監督「あとは、装うといえば『名前』というのもあります。みんな名前は違うけどなんとなく名前らしく生きようとしますよね。日本では『正』という漢字の入る名前がとても多かったです。でも、正しい行いをした人は少ないです。(筆者であるTAに向けて)ちなみに自分の名前はどうおもう?」

 授業前に軽く打ち合わせをしていたが、無茶振りであった(笑)。少し脱線をしてしまうが筆者の名前もまた「まこと」という意味がこめられた漢字の名前ではあるものの、筆者は嘘偽りのないまことの人間などではさらさらないのである。ちなみに、これは少し余談であるが、私の名前の由来はいくつかあるが最終的に晴明神社でつけてもらった名前であり、本来の打ち合わせではここを起点に監督の作品である『陰陽師』の話に転換するはずであった。そんな名誉な機会をいただいたにも関わらず筆者であるTAは大人数の前で中国語で話すという環境に緊張してしまい、見事にこのくだりを忘れていたのである。

「名前は大事というのと同時に名前にみんな縛られてしまいます。『私はそういう人でなければならない』といった考えや、名前に立場、社会的地位が一緒につくということもあります。『陰陽師』という映画を作った時に日本の古典芸能の若きスターである野村萬斎さんとお仕事をしました。ちなみに陰陽師は中国で流行っているのでしょうか?」

 陰陽師は中国ではゲームなどで流行ったそうだ。

 少し映画『陰陽師』の映像を流しながら解説を進めた。

「陰陽師思想というのは中国から朝鮮半島を経て日本に伝わりました。野村萬斎さんは幼い頃から厳しい稽古をしてきました。現代人が時代劇を撮るのは非常に大変です。なかなか伝統的な衣装は似合わないし、なかなか上手く表現できません。しかし、萬斎さんは日本の伝統芸能の中で小さい頃から育ち、古典を体の隅々から心の中まで古代人に戻れる人なのです。まさに古の人を『装っ』て仕事をして、現代に繋げている人です。しかしながら、現代の人にも受け入れてもらわなければいけないのでかつての人よりも体を鍛える必要があります。本人曰く『人間サイボーグ』になりたいそうです。」

 『陰陽師』のとあるシーンにうつる。野村萬斎さんが演じる晴明が竹藪を走るシーンである。

「時代劇の衣装を着て、スピーディーに走るというのはなかなか難しいことです。体幹という言葉があります。一番わかりやすいオリンピックや世界陸上で見る100m走のメダリストです。走っていても方が全然揺れません。つまり、美しさと人間が持っている機能を表現できる、それが人々の感動を呼びます。ウサイン・ボルトが世界記録を出すとみんなうっとりしますよね。それは人類の記録に挑戦する美しさに胸を打たれるのだと思います。」

 次に野村萬斎さん演じる安倍晴明と真田広之さん演じる道尊が決闘するシーンに話は移る。

「真田さんは現代日本の映画のトップスターでした。野村さんは日本の古典芸能のトップスターです。お二人とも素晴らしい才能です。普段から自分の新しいイメージを装うために大変な努力をなさっています。必ずしも順風満帆な俳優人生ではなかったですが、若い頃に大変な苦労をしているからこそ結果につながることを証明しました。みなさんもこれから大学を出ていろんな社会の中に飛び込んでいかれると思いますが、目の前に一喜一憂はしたとしても、ちゃんと我慢して苦労したことは人生の後になって返ってきますから、あまり目の前のことにくよくよしたりしないで、ちゃんと続けることがきっと最後には神様がチャンスやプレゼントをくれるのではないかと思います。」

 そして最後には以下のように締め括った。

「『装い』は大切だと思いますが、とても楽しみです。自分自身が今20歳だとしたら30歳の時、40歳の時、50歳の時がすぐにきます。それは人生を重ねることでどんどん自分の内面も変わっていき、表面的なものも変わっていきます。結婚して子供ができたり、家庭を持ったり、仕事がうまく行ったり、いろんなこともありますが、『装い』を自分の中で意識しながら自分のオリジナルを大切に、面白がって人生進んでいくのはどうでしょうか。映画に限らず自分の思いを捧げることでいろんなものが形作られていきます。それはきっと必ず自分の役にたちます。だから、まず自分が大好きなこと、やりたいと思ったことを見つけながら生きていって欲しいなと思います。」

講義の残り時間は質問の時間に当てられた。ここでは質問の一部を抜粋しながら紹介したい。

学生「映画内で音楽を演奏することにはどういった意味が込められているのですか?」

滝田監督「演奏するというのは色々な意味があります。例えば自分のために弾きます、友人のために弾くこともあります。『おくりびと』の場合は納棺という作業するけれども、抱きしめるように違う意味で、音楽でその人を送ってみたい、その人の人生を祝福したい、というイメージで撮りました」

学生「『おくりびと』の映画の中では後半に主人公と父親の間で石を通した描写があるが、これは日本の習慣的なものですか?」

滝田監督「日本には習慣はありませんが、これは脚本家のアイデアでした。かつて古来、言葉をうまく伝えられない人はものに心を込めて相手に送るという意味のもので、日本でポピュラーなわけではありません。石に限らず心さえ伝わればなんでもいいのです。映画の中で香りはしません。味や皮膚感覚もありません。ですが、いい映画というのはそれらを感じるものになるのではないかと感じます。だから、映画を見てて食べるシーンがあった時、美味しそうだったりするとつたわります。あるいは映画内で初めて主人公がご遺体を触るシーンでは触った後に自分の全身をにおいだけではない、石鹸でも取れないような感覚をあえてコミカルにやってみることで、はじめてのご遺体が色々な意味でショックであったことを表したりしています。」

学生「『おくりびと』の冒頭でなぜ本当に男性に女性になっているシーンを持ってきたのですか?」

滝田監督「映画や小説には『掴み』というものがあり、語りきらなくても何か、重要なヒントが隠されてるものを提供しています。どんなシーンにも意味は必ずありますが、最初の雪の中のシーンが主人公の置かれた心情を絵で語っています。次に来るこのシーンの狙いは美しい女の子が亡くなったことを可哀想だとみるのではなく、その裏には男であったということの人間の不可解さ、不条理さが美しさの中に少しのユーモアを悲しみを隠してまぶすことで、この映画の暗いだけではない本質的なことを感じてもらうということです。」

学生「『おくりびと』を制作した際、映画の配給会社が見つからなかったという話がありましたが、どういった映画が配給会社に選ばれやすいのですか?」

滝田監督「中国に限らず、日本、アメリカもそうですが一番話題になっているものや観客の動員により近いものが企画の優先順位として高くなるのは間違いないです。しかしばっかりをやっているとみんな同じ方向のものしか作れないし、同じ考え方しかできなくなります。人間はもっと多様であるし、個性的であるし、それぞれを『装っ』て生きているわけだから必ずしも社会の一番流行っているものだけではなくて社会の中かこぼれ落ちるもの、その中には素敵なものがたくさんあってそれを掬い上げていくのが小説であったり、映画であると思います。例えばみなさんが映画を撮ろうとするとみんな同じ競争をします。絶対に社会に流されたものだけをすると後悔するし、自分の物語を世に問いただしたくなります。もちろん両方正しいと思いますが、今日のテーマである『装い』を考えると、結局『装い』というのは個人のもので、生きていくうちに人間は変わっていきます。心の中の物語がそのまま『装い』になり、社会を形成していきます。今日一番言いたいことは自分自身の本当の『装い』を見つけてください、ということです。そのためには今から出会うであろう未知なるものに興味を持って、その世界に危険や不安があっても飛び込んでいくことが一番大切だと思います。そういう精神こそがあらゆる文化や芸術、あるいは自然科学の原動力であると思います。みなさんが自分の力でそういった世界に飛び込んで新しいものを作っていくべきである、という風に思います」

(文責:大西)

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