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第1回 03月04日 伊藤徳也

中国人作家の日本語創作

中国人が日本語で文学作品を書くというのは尋常なことではない。しかし皆無でもない。彼らが日本語で創作をしたのにはそれなりの理由があり、異国の文学環境への信頼があった。今回の講義では、1920年代の周作人と近年の楊逸の日本語創作を取り上げる。それぞれの作品は、日本と中国それぞれの文壇と読書界に波紋を起こした。日本と中国の近現代文学史が交わるポイントで起こったそれらの波紋は、興味深い問題をそれぞれに照らし出している。

講師紹介
伊藤徳也
東京大学大学院総合文化研究科・教授。近現代中国文学(日中文化交流・比較文化論)
授業風景

3月4日

 本日より、2018年度南京大学集中講義が始まった。今年度のテーマは「信頼」である。人が生きていくうえで「信頼」は欠かせないものであるが、日常生活でその内実について顧みることは稀ではないだろうか。本集中講義では、ラインナップを見ただけでも、わたしたちが普段、当然視している「信頼」について、多岐にわたった視点からの問い直しを行うものであることが知れる。

 3月4日からの二日間は、東京大学総合文化研究科教授・伊藤徳也先生が「中国人作家の日本語創作――周作人と楊逸に即して」というテーマで講義を行ってくださった。

 伊藤先生の講義は大きく三章に分かれていた。第一章は「文学言語としての外国語への信頼」について、お話しくださった。

 伊藤先生は、まず「信頼」関係があるからこそ、わたしたちの生活は成り立っていることに言及された。「信頼」なしには、わたしたちはなにもできなくなってしまう。しかし、その「信頼」関係は実のところ「自明の所与」ではない。日常生活での「信頼」関係を文学に置き換えると、作家の母語への「信頼」ということになるだろうが、これも日常生活における「信頼」関係と同じく、「自明の所与」ではない。作家のなかには、母語を最も信頼できるものとはせずに外国語を信頼し、外国語で創作を行うことを選択した人もいるからである。90年代以降、外国語を信頼する作家が目立つようになってきたといえよう。

 外国語を信頼した作家として、伊藤先生は、ナボコフ、コンラッド、林語堂、多和田葉子、リービ英雄、アーサー・ビナードを挙げられた。さらに、創作の方法として外国語を用いた作家として、二葉亭四迷と村上春樹を挙げられた。二葉亭四迷は、『浮雲』の前半の戯作調文体に満足することができず、後半は、ロシア語で書いてから訳すという手法を用いた。この『浮雲』が日本近代文学の口語体を定めたのは知られる通りである。村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』も事情は同じである。その冒頭部を日本語で書いてみたらうまくいかなかったため、英語を用いて書き直してみたというエピソードが残っている。いずれの場合も、既存の文体への不信感が、彼らを外国語へと向かわせたといえよう。そして、このような外国語創作や翻訳という事象は、ふたつの国の文学史の交点を生み出す。この講義では、日中の文学史の交点の例として、周作人と楊逸の日本語創作を取り扱うという。両者の日本語創作は、日中それぞれの文学史を照らし出すものとして機能しているのである。

 つづいて、伊藤先生は話を第二章「周作人の日本語創作」へ進められた。まず、周作人の日本留学についての話が語られた。周作人の本格的な日本語習得は、彼よりも日本語が堪能であった兄・魯迅の中国への帰国以降のことであったという。そして、周作人は次第に日本語文献を収集するようになっていったが、そのなかには稀覯本も含まれていたようである。しかし、周作人は日本留学中に雑誌『白樺』を手に入れることができなかった。中国帰国後に、そのバックナンバーを買い求めたことから、『白樺』の創刊者であった武者小路実篤との文通が始まった。周作人は、武者小路の戯曲「或る青年の夢」や、自給自足の農村を立ち上げる「新しい村」の運動に感銘を受け、彼との交流をより深いものにしていった。

 この交流の結果、武者小路が主宰する雑誌『新村』、『生長する星の群れ』などに周作人の日本語作品や書簡などが掲載されるようになる。当時は、ロシア革命(1917年)が起こったころであり、日中の知識人のなかには、自国でも同じような暴力革命が起こるのではないかと懸念している人も多く、周作人もそのなかのひとりであった。掲載された書簡からも過激派への恐れていることが窺える。また、周作人は1919年には肋膜炎を発症し、療養生活を強いられることとなった。思想面、身体面で悩みを抱えたなか、日本語を用いて書かれたのが、「西山小品」であった。

 「西山小品」は「サイダー売り」と「或る百姓の死」という二編の短編小説からなるのであるが、伊藤先生はこの作品の特徴として「情報の制限」と「謎の不解明」の二点を挙げられた。「サイダー売り」も「或る百姓の死」も一人称で語られる作品なのであるが、どちらも話の骨格は、他人から聞いたことによって成り立っているという。すなわち、語り手の「私」が知りえることに限界が生じている。これが、「情報の制限」である。そして、情報が制限されることによって、「私」が事件の真相にたどり着くことが妨げられ、作中において謎は謎のまま残されることになる。これが、「謎の不解明」である。ちなみに、この「情報の制限」という手法は、兄・魯迅も「故郷」などの作品で用いているという。

 この「西山小品」がどうして日本語で書かれなければならなかったのか、どのように日中文学史の交点たりえているのか、さらには楊逸の場合の事情はどうなのか。それは、明日のお楽しみである。

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3月5日

 今日は、伊藤先生による講義の二日目である。昨日は、授業が終わると、先生の周りに学生が集まり、質問をしたり自分の意見をぶつけたりと、闊達な議論が行われていたようだった。今日の授業のはじめに、伊藤先生はひとりの学生の興味深い指摘に言及された。それは、「西山小品」における「情報の制限」という技法が、水墨画の余白と類似するのではないかというものであった。伊藤先生は、おもしろい考えであるとし、たしかに共通する部分があるとしたうえで、相違点についてもお話になった。なぜ、「情報の制限」という手法が重要なのであるかといえば、それは人の認識の問題にかかわるからである、と伊藤先生はおっしゃる。つまり、人の認識には限界があるということを、そのまま文学に表現しえたという点に新しさがあるのである。水墨画の余白には、そういった意味を見出すことはできない。また、そういった「情報の制限」がある作品を読む際、読者は「真相はこうである」と簡単に決めつけないように留意する必要もあるという。

 さて、昨日、詳しく特徴をご説明くださった「西山小品」であるが、これは実は志賀直哉の影響下に書かれたものではないか、と伊藤先生はご指摘なさる。周作人は、1920年に志賀直哉の「網走まで」という短編小説を中国語に翻訳しており、さらに1921年8月20日に、同じく志賀の「清兵衛と瓢箪」を訳している。そして、そのわずか10日後、周作人は「西山小品」の執筆に着手している。「西山小品」の先行研究はわずかであるが、そのなかにも志賀との類似を指摘したものはあるという。伊藤先生はさらに一歩踏み込んで、その類似点こそが「情報の制限」という手法なのではないかと述べられた。

 では、なぜ周作人は外国語である日本語を用いて創作を行うことになったのであろうか。それにはいくつかの理由が考えらえる。まずは、胡適から始まるとされる文学革命のさなかであり、中国で新しい文体が模索されていた時期であったことが挙げられる。そのなかで、言文一致体という日本の新しい文体への注目が高まってきた。また、日本文学の情調表現が中国内で高く評価されていたという事情もある。一方、周作人自身の事情もあった。先にも触れたが、肋膜炎により療養を強いられた周作人は「思想の混乱」に陥っていたという。さらにいえば、おそらく自身の日本語に自信を深めていた時期であったろうし、武者小路からの依頼があったという事情も考えられる。いずれにせよ、このような中国の文学の流れと個人的な事情とが合致し、周作人が、外国語である日本語に一時的に信頼を寄せる環境は整ったのであった。

 1922年、周作人は「西山小品」を自ら中国語に訳し、雑誌『小説新報』に掲載した。雑誌の編集者であった茅盾は「西山小品」を買っていたひとりであったが、読者欄には「平淡である」とか「むずかしい」という意見が寄せられた。これは、中国には、「西山小品」のような作品に価値を見出す読者層が形成されていなかったことを意味するのではないか、と伊藤先生はご指摘になった。

 言い換えれば、日中の文学の価値判断の基準が異なっているということであろう。そこで、伊藤先生は、日中それぞれの文学史の主流はなにであり、それはどのように形成されたのかを比較してご説明くださった。まずは、日本の事情である。日本では、1885年、坪内逍遥が『小説神髄』を著したことにより、近代文学の模索が始まった。1889年には二葉亭四迷の『浮雲』が出版され、近代小説として初めて成功した作品となった。その後、1907年に田山花袋の『蒲団』が出されたが、これが文壇に与えた影響は甚大であった。あまり社会的な事柄に言及せずに、自己の悩みや葛藤を克明に描く一人称小説である「私小説」は、このあとの日本の文学史の主流となっていった。1910年には、志賀直哉が「網走まで」を執筆する。これも一人称小説であるという意味では「私小説」的であるが、すでに触れたように「情報の制限」などの手法が試みられた実験的な作品であった。このような作風で志賀は「小説の神様」として、日本の文壇の花形となっていった。では、中国の事情はどのようなものであっただろうか。中国の近代文学の模索は、1917年、胡適の『文学改良芻議』より始まったとされる。そして、1918年の魯迅『狂人日記』が、近代小説として初めて成功を収めた作品であった。1932年になると、茅盾の『子夜』という長篇の社会小説が出版されたのであるが、このような作品は中国の近代文学の主流をなすこととなる。すなわち、日本的な技法を用いた周作人の「西山小品」という短篇が、長篇・社会小説をよしとする中国において受け入れられなかったのは、非常に首肯できることであり、日中の作品の価値判断の基準を映し出す鏡となっていたわけである。

 そして、伊藤先生のお話は、もう一つの具体例である、第三章「楊逸の日本語創作」へと進んでいった。楊逸は、1964年にハルビンで生まれ、幼少期には貧村での下方生活も経験している。1987年に親戚の伝手を頼り、留学生として来日した。日本で就職、結婚、出産を経験し、多くの苦労もする。そのなか、2007年『ワンちゃん』が文学界新人賞を受賞し、同作で芥川賞の候補となる。惜しくも落選したものの、翌年、『時の滲む朝』にて芥川賞を受賞する。

 そして、伊藤先生は『ワンちゃん』と『時の滲む朝』に寄せられた選評をまとめてくださった。『ワンちゃん』も『時も滲む朝』もともに、主人公がさまざまな困難に直面し、その問題にいかに対処していくのかを描いた小説であるという。あまり社会的な広がりのない、人間のつながりを重視したリアリズム小説といってもよい。まずは、『ワンちゃん』の選評であるが、題材やストーリーのおもしろさを評価するものもあれば、「リアリティのある近代小説」であるとするものもあり、新しい趣向が見られない点を手厳しく批判したものもみられる。『時の滲む朝』の選評は、書きたいことがある点、リーダブルである点、生活実感と問題意識を持っている点が評価される一方、完成度がそれほど高くない小説なのではないか、風俗小説にすぎないのではないかという疑義が呈されていた。しかし、ここにはひとつ留意しなければならないことがあるという。それは、高く評価されている「内容がある」「リーダブル」であるということを裏返せば、「風俗小説」的であるという批判になるという点である。これらの評価と批判は、不即不離の関係なのである。

 ここで、伊藤先生は、楊逸が日本語を用いた創作を行うことになった理由について言及された。その理由は、周作人の場合とはまったく異なっていた。楊逸が日本で苦労していたのは先に触れたとおりであるが、日本語教師としての給料だけでは食べていくことがむずかしくなった彼女は、原稿料によって生活を立てていこうと考えたのであった。もちろん、この背景には両親の影響による、文学に対する信頼や愛好があったことは疑えないが、稿料のために作家になろうと思ったと自ら述べる作家は日本人にはいないといってもよく、珍しい理由ということができそうである。

 さて、芥川賞を受賞した『時の滲む朝』の選評のなかには、本作品が「近代小説」であるという言葉が見られたが、そもそも「近代小説」とはどのようなものを指すのであろうか。伊藤先生は、この疑問につぎのようにお答えになった。「近代小説」とは、近代以降のリアリズム小説であるが、決して「現代小説」ではない。「現代小説」は、文学的な野心、新しい試みなどを含んだものの名であるからだ。純文学は、新しいものほど価値のあるというイデオロギーからなかなか自由になれないのである。

そのような進歩主義的な価値観からすると、たしかに楊逸の作品に形式面での新しさはあまり見られない。しかし、そこに描かれている中身については、異なった評価軸が必要なのではないかと、伊藤先生は提言なさる。今までの歴史のなかで、日本人と中国人のもっとも深い「交流」があったのは逆説的にいえば(悪い意味でいえば)、戦時中のことであったかもしれない。しかし、グローバル化の波のなか、日中の交流は、かつてとは比べ物にならない深まりを見せている。楊逸の小説が、その強烈な交流を劇的に、かつおもしろくリーダブルに書き留めたものである点はもっと評価されてもよいのではないかという。

最後に、楊逸の文学的な素養はどこで育まれたのかについて、伊藤先生は言及なさった。伊藤先生によれば、楊逸の根幹は、1960年代、1970年代に彼女が自由に読んだ中国の現実主義的社会小説にあるという。彼女は、1980年代の中国の文学運動や、日本の私小説の流れには親しまず、中国の現実主義的社会小説を下地としながら、日本語を用いて創作した作家であったといえよう。つまり楊逸も、日中文学史のそれぞれの特徴を照らし出す存在となっているのである。

以上のように、伊藤先生は、作家が外国語を信頼することによって、交わることのない二か国間の文学史が交差する様子を周作人と楊逸を例に鮮やかに示してくださった。母語を信頼して生まれる文学とは一味違った作品たちは、それぞれの国の文学の特徴を明らかにする鏡となると同時に、文学の可能性を拡げるものなのであろう。

(文責・石川真奈実)

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