ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第1回 10月08日 原和之

「流れ」が切れるとき、何が起きるのか ― ジャック・ラカンと「切断」の問題

もっぱら「ことば」を用いて行われる「こころ」の治療法として出発した精神分析を、20世紀フランスの精神分析家ジャック・ラカンは「ことば」を問い直すことで刷新することを目論んだ。そのなかで、彼が自身の独自の臨床実践を説明するにあたりしばしば強調したのが、そこで「切断」が果たす役割の重要性である。しかしそれは何の「切断」なのか。この問いから見たとき、当時のラカンの言語をめぐる議論は、「ことば」において経験される一つの「流れ」を語るための概念装置を構築した上で、その「切断」とのかかわりにおいて精神分析の本質的な出来事を定義しようとする試みとしてあらわれてくる。本授業では、そうしたラカンの議論を紹介しつつ、わたしたちが他者との言語的な関係の中で経験する「流れ」とその「切断」の効果について考えてみたい。

講師紹介

原和之
東京大学および同大学院でフランス地域文化研究、パリ第一大学大学院修士課程、パリ第四大学博士課程で哲学を修める。パリ第四大学博士(哲学史)。東京大学大学院総合文化研究科教授(地域文化研究専攻)。ジャック・ラカン研究のほか20世紀フランス思想に精神分析がもたらしたインパクト、精神分析と哲学の関係、西洋思想における「分析/解析 analysis」の概念史のなかでの精神分析の位置、精神分析と性の多様性等のテーマで研究を進めている。著書に『ラカン 哲学空間のエクソダス』(講談社)、Amour et savoir (Collection UTCP)、共著に『詳説 ラカン『サントーム』』(福村出版)など。

コメント(最新2件 / 10)

modlin6969    reply

精神分析を行うときにはカウンセラーのように円滑なコミュニケーションの中で分析主体の無意識を引き出していくものだと思っていたが、分析主体が分析家の求めに応えようとして自由連想に影響が出てきてしまうため、真に主体的なシニフィアンの連鎖を行えるような環境をつくらなければいけないということで、非常に興味深かった。

yakitori2005    reply

人のこころを知ろうとするとき、唯一手がかりとなるのはことばであり、そこへ注目するのは自然なことだが、その内容ではなく、流れのなかの切断から探ろうとするのは、自分にとっては思いもよらない発想だった。
また、言葉の躓きや中断は分析の最中ではない人や、精神病と診断されていない人にも起こりうるが、そことの関係をラカンがどう考えているのかが気になった。

taisei2025    reply

ラカンが明らかにした「ことば」に見られる流れの概念は、私たちが経験上なんとなく理解していたものの整理できていなかった部分をうまく説明しているように感じました。例えば、「聞き手は、話し手が次に何を言うか予想しながら聞いている」という「シニフィアン連鎖」の考えは多くの人が納得するところでしょう。私がラカンの議論で驚いたことはむしろ、「話し手は、聞き手が次に何を言うか予想しながら聞いていることへの"欲望"を持っている」というところです。これは、相手がいない状況での会話(例えば、家で行う舞台の練習)で思ったように言葉が出てこないことがあるという私自身の経験の原因を、明瞭に説明してくれていました。

apupa4    reply

基礎科目人文科学の心理Ⅰの中で自由連想についても聞いたことがあったのですが、それがどのような背景で出てきたものなのかが分かり思わぬところで理解が深まって嬉しかったです。

ところで、私は高校のときは言語学畑にいたので、言語学関係の部分にも触れてみます。
近代以降の言語学の潮流としては、ソシュールらの伝統的な近代言語学があり、その後生成文法が出てきて、更にそのアンチテーゼとして認知言語学が出てきたという流れがあると聞いています。この認知言語学というのは、ソシュールの能記所記の概念に立ち返るという意味も持っていたと聞きます(「意味」とは何かを改めて正面から取り扱った言語学理論が認知言語学であるという言い方ができる)。
他方、心理療法の分野においてもフロイトらの精神分析があったその後に認知行動療法などがあると思います。
ここで、言語学では、従来の言語学をベースにして、言語を分析するという目的のもとに所謂「認知系」の知見を取り入れた認知言語学が成立;心理療法では、従来の精神分析をベースにして、心理的な支援を行うという目的のもとに所謂「認知系」の知見を取り入れた認知(行動)療法が成立、というパラレルの関係が見い出せますね。これはここ数年言語学をしてきた私としては、個人的に、学問を(学問の流れを?)俯瞰する意味でかなり面白かったです。加えて、そもそも言語学の知見(能記所記もですし、統辞・範列というのはおそらく syntactics と paradigmatics のことですよね?)が精神療法の分野に応用されているというのは全く初耳で、こんなところでソシュールの名前が出てくるとも思っておらず、純粋に驚きました。

(講義の内容そのものからは飛び出したことを書きましたが、これがオムニバス主題科目の面白さなのだとすれば、他の受講者の方のコメントも気になってきました。思ってもみない方向からのコメントがついているのを見るのを楽しみにして受講していきたいと思います)

kurokawa0706    reply

抽象的で概念論に終始する印象のある言語学と、実際に被験者を相手にする精神分析学という一見関係もなさそうな両学問が超域的に交わり、そののちに実を結ぶ様子が非常に鮮やかで興味深かった。

ryo0312    reply

精神分析の視点から「流れの切断」を考える授業は、「流れの切断」を具体的に感じさせるものでした。理性によって普段は意識の流れが保たれているのに、それが切断されると抑圧された感情や欲望が湧きあがってくるという説明は、人間の精神の奥深さを思い知らされます。特に、その断絶が創造や新たな意味の誕生につながるという考えは、無意識を恐れて排除しようとするのではなく理解して受け入れようとする姿勢の大切さを感じさせてくれる内容でした。

olk2006    reply

 「シニフィアン連鎖」についての説明で、連鎖の「流れ」は他者の反応や応答によって進むとされてたが、この説明から考えると、シニフィアン連鎖は主体の前後の語のつながりによって生まれる意味にのみ注目しており、主体が発話を始める際に意図した発言の意味、すなわち文脈によって生まれる意味を十分に考慮していないのではないかと感じた。
 また、シニフィアン連鎖という「流れ」と、精神分析における患者の自由連想という「流れ」との関係が少し理解しにくく、そのつながりをもう少し詳しく知りたかった。

chaoyang1224    reply

本講義では、発話を利用した精神分析という切り口からシニフィアンの概念について学んだ。私はこのシニフィアンが、コミュニケーション、特に他者に抱く好意に関係することに注目した。私たちは友人あるいは恋人に、「この人とは気が合う」と考えることがあるが、これはあるシニフィアンから連鎖されるシニフィアンの要素の種類、結果的に選ばれるシニフィアン、シニフィアンが別にシニフィアンに進むまでの間隔が自分のものと相手のものが共通すればするほど気が合うと感じるのではないかと思う。何を話すかや会話のテンポはコミュニケーションの重要な要素であるからだと考える。また、シニフィアンは人間の行動にも現れると思う。人間の思考体系は言語をベースに働いていると考えれば、これは至極当然のことと言える。何となくで行動しているように見えて実は自分の持つシニフィアンが連鎖した結果で必然である可能性は否めない。人間関係の話に戻るが、結婚したいと思うほど自分にとって魅力的だと思える人と「運命の出会い」を果たすのは偶然ではないのかもしれない、そうも思った。

doradora1115    reply

まず「精神分析」なるこころの治療法を今回初めて知ったのですが、よくあるカウンセリング的な対話ではなく、自由連想という一見不思議な手法によって解決を目指すという点が私にとっては新しく、興味深かったです。また、精神分析の方法論的な部分が非常によく考えられていて、分析を受ける者から分析家の反応が見えないようにセッティングがなされているというのが面白いと思いました。私たちの常識とは少し離れた手段をとってこころを紐解いていく点が新鮮でした。
一連の講義のテーマともなっている「流れ」についてですが、精神分析では流れが切れた時にこそ価値があるというのが、どこか逆説的というか、直観とは反する気がして興味深かったです。我々は基本的に発話の流れが途切れないことを望ましい状態だと考える傾向にあって、普段では流暢さが評価される場面も多々あると思うのですが、状況が変われば「流れ」のもつ価値も変わるのだなあと考えました。

ruvi3451    reply

切断を他者との関係性に位置づけ、そこで主体の「要求」があらわになるという捉え方は非常に興味深い。しかしながらそこに介入し「解釈」する分析家の方法論はやはりその人間の主観に左右される恐れがあるのではないかと思う。もっと確実に客観的に分析する手段があるのではないか。

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