ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい
第5回 03月19日 豊田太郎
物質と生命の鏡の世界
2015/3/19-3/20
ブドウからつくられたワインの中に沈殿している滓や、ワインを貯蔵する酒樽の周壁には、小さな結晶片が生じていることが多く見受けられます。これは、ブドウに含まれる酒石酸という物質が塩となって結晶化したものです。19世紀初め、ワインの製造工程で副次的に得られるブドウ酸と酒石酸の塩の結晶片を比較する中で、ブドウ酸の塩の結晶片には2つの形があり、それらの形は鏡でうつだされる像の関係にあることが発見されました。鏡像関係にある結晶片の発見は、近代の細菌学の開祖とされるルイ・パスツールの功績であり、後年の詳細な追試でも覆らず、むしろ物質のもつ本質の一つとして理解されるようになりました。そして、自然科学にとって重要な事実の一つ、つまり、炭素原子が分子の中で立体的に正四面体の構造をとることの判明につながります。この事実は、人工と天然の違い、生命と非生命の境界、薬になる物質の発見と開発、地球上での生命誕生の謎など、自然を理解するために重要で幅広い視座を与えてくれます。本講義では、具体例を多く盛り込んで、この鏡の世界を解説します。ルイ・パスツールは一方で、精緻な実験によって、当時の「生命の自然発生説」を否定したことでも有名です。21世紀になって自然科学は、この難題に再度正面から向き合っており、人工的に細胞をつくりだす研究が世界各地で行われています。そのような先端研究のトピックもお話しする予定です。
- 講師紹介
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- 豊田太郎
- 東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻准教授。 2005年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻博士課程修了.博士(学術).千葉大学大学院工学研究科助教,東京大学大学院総合文化研究科講師を経て、2011年から現職。専門はコロイド・界面化学を軸にした合成化学および分析計測化学。著書に「生命の起源をさぐる」(東京大学出版会,分担執筆)、「三省堂新化学小事典」(三省堂,分担執筆)、「分析化学」(みみずく舎・医学評論社,分担執筆)などがある。
- 授業風景
●南京大学集中講義「鏡」第9講(2015年3月19日)
集中講義第9講は、教養学部統合自然科学科豊田太郎先生による、「物質と生命の鏡の世界」であった。「生物とはなにか?」という壮大な問題関心のもと、初日は鏡像異性体に関する基本的な考え方を講義された。冒頭、パスツールの功績から話が始まった。パスツールの4大功績として、①鏡像異性体化合物の発見、分離、②最初の生命誕生以後、生命は自然発生しない、③ワインがおいしく、腐らない殺菌方法、④ワクチン予防接種方法の確立、があるが、そのうち鏡像異性体が本講の主要テーマとなる。
炭素原子が他の4つの原子と結合する際の結合方向は、炭素原子を中心に、四面体の頂点方向に立体的に結合する。そのため炭素原子が4つの異なる原子或いは分子と結合する場合に(このような状態の炭素を不斉炭素原子と呼ぶ)、2種類の分子が存在しうることとなる。この2種類は鏡像関係にあることから、鏡像異性体と呼ぶ。このような鏡像異性体を実際に取り出すには、まず鏡像異性体が含まれる混合物を溶液にする。そして鏡像異性体のうちの片方とのみ引き合うことのできる不斉炭素原子を持つ物質をまぜて、結晶化させて取り除くという方法が用いられる。
原理的に考えれば、不斉炭素原子が存在すれば鏡像異性体が存在するはずである。しかし、生物が実際に利用するのはそのうちの片方であり、現実的には利用に偏りが存在する。その偏りはなぜ存在するのか。この問題を考えるためには、生命誕生の瞬間にまで立ち戻って考える必要がある。すなわち、生命誕生の瞬間に、なぜ鏡像異性体の偏りが存在したのか、と考えるわけである。この大問題にこれまで多くの学者が取り組んできた。目下有力な学説は3つ存在する。第一は、鏡像異性体は結晶化させて分離する性質に鑑みて、黄鉄鉱という岩石の結晶面において、鏡像異性体になっている片方の面で生命が誕生したのではないか、片方の面で生物が成長しやすかったのではないか、という説である。第二は、星が誕生する際には円偏光が起こることから、光を浴びて化学反応のしやすさが変化し、それが生命誕生に繋がったのではないか、とする説である。第三は生命誕生に当って、特殊な化学反応を採用したのではないか。すなわち、鏡像異性体のうち一方だけが生成する化学反応が生命誕生に関わったのではないかとする説である。この三つの学説は未だに論争的であり続けているのである。
(文責:東京大学 新田龍希)
コメント(最新2件 / 6)
2015年03月30日 15:16 reply
【学生からの質問】
DNAとその他の人工核酸の違いはなんでしょうか? その必要性はどこにあるのでしょうか?
また、DNAは偶発的に選択されたものなのか、淘汰を経たものなのかお教えください。
2015年03月30日 15:17 reply
【学生からの質問】
L体とR体で生理活性が微妙に異なるため、進化的に片方が残ったという話を聞いたことがあるのですが、あまりメジャーな学説ではないのでしょうか。
2015年07月03日 10:08 reply
【問い1への豊田先生の回答】
A. 内臓の配置のずれにまで想像を膨らますことが出来たのは、本講義をとてもよく理解している証拠だと思います。
講義中では、鏡像異性体を、タンパク質との結合で非対称性が現れるキーワードとしてお伝えしました。
一方、たとえば、内臓の配置のずれや個体の左右軸は、こうした分子レベルの非対称性の直接のあらわれとは考えられておりません。最近の発生学の発展から、個体の左右性は胚発生時に遺伝子レベルで制御されており、特に、胚発生時に形成されるくぼみ領域で生じる液体の流れを、その領域にある細胞が繊毛でもって感知することが、個体の左右性に影響を与えているという考えが受け入れられています。
大阪大学の濱田教授(http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/hamada/)のグループが大変参考
になる研究課題をすすめられています。
鏡像異性体を区別せずに代謝する生物が生まれ得なかったかどうかは、私にもわかりません。生命起原おいて、どのような物質が代謝されていたのかをたどることは難しい研究課題です。
一方、現在の生物でも、生体構成分子であるL-アミノ酸に対して、鏡像異性体であるD-アミノ酸を代謝する酵素をもっていることが最近の研究で知られるようになり、D-アミノ酸がホルモンバランスや脳の高次機能に効くそうです。名古屋大学の吉村研究室(http://www.agr.nagoya-u.ac.jp/~bmm/index.html)
の研究課題は大変参考になるでしょう。
2015年07月03日 10:10 reply
【問い2への豊田先生の回答】
A.人工核酸には、核酸塩基のOやNを他の原子や原子団に置換したり化学的に修飾したもの、リン酸ジエステルの結合部位をアミド結合や他の結合や分子に置換したもの、そして、リボースを他の環状分子に置換したものが合成されています。これらは、2重らせん形成、半複製的保存のルールを満たすものであり、中には試験管内で変異と淘汰を経て進化する人工核酸もあります。「必要性」としては、分子の鋳型という機能が生体の中でどれだけ普遍的に重要なのか、という課題について、DNAだけを調べていては、課題を相対化、一般化することができないので、こうした分子の創成が、生命科学を構成論的に推進する上で重要であるということがいえます。
DNAは偶発的に選択されたものなのか、淘汰を経たものなのか、という質問については、
明解な回答はまだないと考えられます。地学(地球化学)、生物学、化学、物理学の境界領域として重要視される課題ですので、是非今後も注目していてほしいと思います。
2015年07月03日 10:11 reply
【問い3への豊田先生の回答】
A. 講義中は、生命起原の中でも、化学進化に重きを置きました。
それらは、円偏光、岩石表面、そ合反応(不斉増殖)の3つであり、これは生命のスープの段階での進化過程、つまり化学進化と生命起原との関係に帰属させる学説です。
質問で指摘されている通り、原始的な細胞が誕生した後について思考を巡らせるならば、生理活性のわずかな違いが進化的に片方を残らせるようになるという学説はメジャーなものと言えます。また、化学進化と細胞進化の境目(冥王代)の研究も盛んになってきており、今後が楽しみです。参考情報としてhttp://www.hadean.jp/ もご覧ください。
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【学生からの質問】
生物のミクロなレベルでの非対称性は、マクロなレベルでの非対称性(内臓の配置のずれなど)になにか影響を及ぼしているのでしょうか?
鏡像異性体を区別せずに代謝する生物は生まれ得なかったのですか?