I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.12 2018.12.19

comments(最新2件 / 24)

松本 剛    reply

胃弱や嘔吐と文学の関係についての講義で、テーマ自体が驚くものでした。今まで小説を読むときには、描かれている場面、状況、登場人物の心情ばかりを追って楽しんでいましたが、胃弱や嘔吐といった表記を象徴的な記号に見立てて作者や時代背景にまで思いを馳せる文学研究に触れることができたので、僕の読解の視野はぐっと広がったと思います。また、これらのワードが日本でいう「腹の中」と関連づけられるという解説もとても面白かったです。これから小説を読むときは、今まで読み飛ばしていたちょっとしたフレーズにも反応できるようにアンテナを張っておこうと思います。

iwa1023    reply

今回の講義では胃腸的想像力という、自分にとって耳慣れない言葉がテーマだった。初めは全く想像がつかなかったが、講義を聞いていくうちに、胃腸的想像力とは、お腹の調子に関連する言葉がかき立てるイメージのことなのだと自分なりに解釈することができた。また、その「胃腸的想像力」が、独自の胃腸を持つ文学作品の作者の生理的変化や、世間一般の胃腸に関わる感覚の変化に応じて形を変えることがわかり、とても興味深かった。

その中でも特に面白かったのは、夏目漱石の『門』の中で、胃腸に関する描写が、「どんくささ・滑稽さ」につながっているという部分だった。この時、僕は胃腸の不調と言えば、「繊細さ」や「ストレス」を示すものだと感じていたので、漱石の認識と現代の認識にズレがあることが体感でき、面白かった。

また、文学作品から生理的現象が読み取れるということ自体も自分にとっては新鮮だった。小説を取り上げその作者の体に迫っていくというアプローチがあることは全然知らなかったので驚きだった。

tomoko0422    reply

文学を胃腸や嘔吐といった表現にフォーカスして考えるという発想は私の中に全然なかったので、文学研究でもそういったやり方があるのだと知ってとても興味深かったです。胃弱や肺結核など、持病がそのひとの作風に影響すること、それをコンプレックスに思う作家もいることは、作者と作品を切り離して考えていた私にはとても新鮮でした。私は漱石の作品は主人公がはっきりしない性格でゆっくりとした展開なので個人的に苦手意識を持っていたのですが、胃弱に注目して考えると、そうした印象を持っていたことは間違いではなかった気がします。それを意識して読んでみるとまた違う印象が持てるかもしれません。講義の中で「言いたいけど言いたくない」という腹の中が一番不快であるという話を聞いて、普段の日常生活でも、誰が悪いという訳ではないけど嫌だという場面が私も一番苦手だと振り返って考えていました。後半のdisgustと近代文学研究の話では、近代と中世の差という典型的に人文学で論点として取り上げられる主題が、食の観点から考えられていて納得しました。小説は個人主義の産物だという話は大変興味深かったですし、例えばワイドショーなどのゴシップネタが今日大変人気なのもそうした心理が関係しているのかもしれないと思いました。

kyomasu0616    reply

夏目漱石の作品は,高校の授業で読んだ「こころ」以外読んだことが無かったのだが,非常に今日の講義が面白かったので,漱石の作品を長期休暇の時にでも読んでみたいと思えた講義であった.「胃腸」の悪さに関係することばは,なんとなく「居心地が悪い」だったり,「気分が乗らない」という感覚を表していて面白いと感じた.
体の感覚,例えば聴覚がどのように文学作品の中で感情を表しているのかも気になった.

m0e0g    reply

道草での健三の日常的にふとした時に胃弱に苛まされながらも、その症状が目立たず、自分から発信できない意志の弱さのために姉に気づいてもらえなかったり、細君に気を使ってもらえなかったりしてストレスをためつつも、自分にも非があるために言えずストレスを溜め込むという悪循環にはまっている姿には、胃弱という病気の可視性の低さから病人の性格も内向的で発信力の無いものだと連想されていたことが見て取れた。ただのステレオタイプな感じもあるが、実際目立たない病状を訴えられなかったり、訴えてもそんな小さいことで騒ぐなんてみっともないとされて、病気と性格がを関連づけられるのも自然なことなのかもしれないと思った。

yariika26    reply

作者の身体の様子が、特に弱い部分がその文学作品において文体と密接に結びついており、ほのめかされている意味が様々に考えられるという点が、自分にはない視点だった。
ネガティヴな胃腸的モヤモヤがだらだらと続く場面で怠惰やだらしなさは感じたが、感覚的にではあるが、自虐的な笑いにまでは結び付けられなかった。場面によっては、言いたくても言いたくない、騙し合いのような雰囲気も伝わってきた。
嘔吐の場面は、日常であっても小事件なのだから、小説の中であればなおさら劇的に描かれうるな、と納得した。資料にあったように、作者によって表現や取り扱いようが異なっていた。
disgustというひとつの単語について、味覚から道徳的感覚への使用の変遷が研究されていたが、そこまで掘り下げて広く考えられるのか、と何かヒントを得た感じがした。
今回とは対照的な、美食的な表現もいろいろ見てみたくなった。

hoku125    reply

 私は読書が好きで、今までに何冊も小説を読み、自らも小説家の真似事のようなことをしようと試みたことがある。しかし不思議なことに、小説を書くという行為について考察したことはこれまで一度もなかった。今回の阿部先生の講義で、小説とは全身で書くものであり、しかも小説家自身もなんだかよくわからないまま書いているということがあったりして、作家が意識していない身体的・精神的特徴が織り込まれるものだということを聴いた。確かに、小説において小説家は独自の言葉遣いや言い回しを用いて独特の表現を生み出し、それが読者の心をつかむといえよう。その意味で、小説とは小説家自身の特徴を色濃く表しており、小説家の分身と言えるのかもしれない。また、ある作品が自分に‛合う‘か‛合わない’かということは、小説の中に流れる時間、すなわち呼吸が自分にとって受け入れやすいものであるかによって決まるというお話に納得した。読み始めた時はなんだかしっくりこない印象を受けたお話だったはずなのに、読み進めていくうちにぐいぐいと引き込まれていつの間にか読み終わっていた、などということは私自身多々経験しており、これは私が、頁が進むにつれて小説家の呼吸に迎合するようになっていったためなのだと思う。
 また、「プライベートなものはあまり人前で話すものではない」という概念から、プライベートなもの、すなわち私的なものと公的なものとの対立が生まれ、それが近代の個人主義(すなわち、人はそれぞれ別個の存在であり、かつそのことを相手に見せびらかしてはならないという考え方)につながったというお話だった。このように私的な自己と他者とが相対する概念としてとらえられるようになった結果、今ココにしかいない、ある個人の内面が描かれるものとしての小説が生まれたのだという。では現代社会に生きる私(たち)はどう小説を読むかというと、最初は隠されている登場人物の腹の中、すなわち内面を追うことが暗黙の了解となっていて、それが無意識化で行われており、そのように登場人物たちの腹の中を知っていくという所に私たちは小説を読む楽しみを見出すのではないかと阿部先生はおっしゃっていた。他者と自己という相いれない(絶対に理解することができない)存在を前提としているからこそ、文字情報として描かれる他者の理解に努めようとする私たちがいるのだと気づいた。
 小説を書くことに限らず、他者に何かを伝えるということは非常に多くのエネルギーを必要とする。その源泉が一つにはdisgust(相手に対する拒絶・嫌悪)であり、そしてもう一つには愛(相手に何かしてあげたいと願う気持ち)であるということは私たち人間について多くを語っているように思う。なぜ自分は生まれ、生き、そして死んでいくのか、今何をしたいのか、何ができるのか、何をすべきなのか、そういったことを考えながら日々生活していくことで、一度きりの人生をより豊かなものにしていくことができるのかもしれない。

yokamoto9858    reply

今回の講義を機に吐き気などを通じた表現が日本の近現代文学だけでなく欧米の文学や歌詞といったポップカルチャーにまでも多くみられることに気づき、興味深いと感じた。

nas123    reply

漱石自身の胃弱と漱石の作品が密接に関わっていることを知った。作品に描かれる胃腸や腹のなかに関する描写が、胃弱のような劇的ではないもやっとしただるさあるというのはよくわかった。また、近代の始まりに、キリスト教以外の価値観の誕生や個の誕生と同時に、"disgust"の別の意味が使われるようになったり、嘔吐を最近の女性作家がよく描くのは女性が抑圧されているという背景があるということなど、胃腸や腹のなかといった言葉と社会背景というのは想像以上に結びついているということを知って驚いた。これまでの作品や、これから出る作品でも、そうした胃腸などの表現に注目してみると新たな発見ができるかもしれないと思った。

taku98    reply

戦前の小説はあまり読んだことがなく、漱石の作品も『坊ちゃん』、『夢十夜』、『こころ』、『倫敦塔』、『現代日本の開化』しか読んだことがないが、最近柄谷行人の『近代文学の起源』を読んで他の代表作の内容や、自然主義から批判されていたことを知っていたのでなんとか講義についていけた。
持病というほどではないが、自分はいつも喉に痰が絡んで咳き込んだり、咳き込み過ぎてえずいたりして、よく周りから「オヤジみたいだ」と笑われるので、自分の場合は呼吸器系だが、「喜劇的な病」というのは身にしみて分かった。
授業の最後のあたりで、”disgust”、”distaste”といった単語で表現される感覚が生まれたのは近代以降なってからだ、というような話があったが、漱石は自然主義的でなく近代小説らしくない「面白い」小説を書いていても、そのような近代的な感覚を気づかずに持ち込んでいたのか、意図して入れていたのかと疑問に思った。

yutoun28    reply

漱石の作品は代表的な物を数作しか読んだことがなかったが、その中でも、漱石の胃腸の弱さに起因しているであろう胃弱を通じた表現が多く存在する事を知れたことは非常に興味深かった。確かに、胃弱に限らず、体調の悪さは単に体の問題にとどまらず、周りの世界の見え方に大きく影響するものである(その逆も然りであろう)。その意味で体の調子が文学の中で効果的に使われることは非常に自然なことであるように思われるが、特に今回扱われた胃は、日本語特有の「腹のうち」という表現にも表れているような、日本語表現、さらにはそれを規定する日本文化におけるフィジカルとメンタルの繋がりを色濃く表現しているものであることに気づかされた。ゆえに、「吐き気」や「嘔吐」は読み手にとっては頭で理解する以上に大きなインプレッションを与えるものというのは、非常に納得のいく新鮮なお話であった。

wtson920    reply

実は私も胃が弱いのだ。だからこそ、授業内で紹介されたように、夏目漱石が鬱屈した場面や情景、気持ちを“胃痛”や“むかつき”などといった形で表現したのはとても得心がいった。実際授業内でテクストを読んでいて「あーこういうことか」と実感を持って捉えられたぐらいなのだから。また、大江健三郎がまた少し違う形ではあるが表現しているのも興味深かった。もともとそういった作家の方々を大変尊敬しているのだが、やはり自分の精神と戦っていると言うことはそういった表現に表れるのだなと思った。
本当に最近、同じクラスの人と「文学部の意味は?そこに税金をかける目的は?」という議論を延々としたことがあるのだが、こういった講義内容を改めて思い返してみて、人間の精神の揺れ動きや戦いをそこにみてとれ、それが様々な表現で表出する文学という形はやはり理屈抜きにして面白い!!といったとりとめのない思考をここに書き留めておきたいと思う。

Saki0204    reply

近代文学を食の観点から見るという発想がかなり面白かった。消化器系の不快感は頭の回転等にも影響を及ぼし、作家にとって大きな問題であったのではないかと考えさせられた。

Umay9002    reply

一般的に、女性らしい点=男らしくない点と置き換えられることが多いと思われるが、胃弱の含意の1つに「男性的特徴の欠如」がある一方で、胃弱が女性的特徴を示すという話は聞いたことがないのが興味深いと思った。

ilovefood2    reply

夏目漱石の胃の病気が彼の文学作品に影響を及ぼしていたというのが興味深かったです。かの有名な『我輩は猫である』の中にも胃についての描写が登場し、他の作品においても胃病が文体に影響していた可能性があるというのは驚きでした。作家自身の体調や嘔吐の描写という観点から文学作品について考察するのも面白いと思いました。

becky828    reply

この講義を受けるまではあまり意識することはなかったけれど、日本語の感情を表現する形容詞に結構身体反応を表す言葉が使われているのだとわかりました。「腹が立つ」は昔からある日本語のように思えるけれど実際は「ムカつく」のほうが全然はやいし平安時代から存在することに驚きました。ほかにも調べてみたいです。

daiki7141    reply

この講義を取り、何度も感じたことではあるが、食というカテゴリーだけでこのように、文学といったかけ離れた分野にまで話が広げられるのだと感じた。私自身も先日、胃腸の不調から体調を崩して苦しんだ体験をしたため、今回の講義で紹介されていた文学的表現がいかに的を射ているかを実感することができた。次回の講義のテーマも嘔吐に関したものであるようなので、今回の話と関連づけて聞きたいと思う。

bnk258gi    reply

文学作品の中に登場する嘔吐等についての分析というのは今まで聞いたことがなく、そもそもそういった分野があるというのも初耳だったので新鮮だった。また、胃弱が夏目漱石の作品に影響を与えているというのも興味深かった。次の講義も似たような切り口の話がされるようなので非常に楽しみだ。

411haruki    reply

文学は対象への接近・離反という側面を有し、両者は不即不離の関係にある。そして、食は「愛」(sympathy)という形で人間の心を育む一方で、嘔吐や胃弱という病気をもたらすリスクもある。こうした点を巧みに利用して、文学が「食」と類似の関係にあることを暗示した夏目漱石や大江健三郎と言った先人たちの知見には感服せざるを得なかった。

lily722    reply

あまり近代文学作品を読まないのだが、胃腸と心理表現の関係は面白かった。現代とはやや異なるステレオタイプが存在していたことや、胃病よりも肺病の方がかっこいい(?)と思われていたことなど、非常に興味深く聞かせていただいた。道徳的嫌悪感と吐き気が結びつく、ということはよくよく考えてみたら不思議であるが面白いと思った。

tomii1227    reply

この授業を聞いて、初めて文学と胃腸の病気(嘔吐など)の関連について考察した。特定の時期から明確に小説内で嘔吐や吐き気の描写が見られるのは大変興味深く、面白かった。
嘔吐や吐き気といえば不快な感情が連想させられるが、実はこれは一種の感情の高まりであり、小説にも強弱のようなものをつけているのだと感じた。また、そのような描写をするための前の段階での表現も同時に大切であり、どのような場面でどのように描くのかがその小説で重要な役割を果たしていると思う。

akanexwx    reply

他の授業で『道草』を読んでいるので、夏目漱石の胃弱が物語にどう表れているかについては非常に面白いと思った。漱石の場合は彼自身が胃弱でそれが登場人物に移入されて物語構成にも使われているという話だったが、ほかの作家の物語は、胃弱をモチーフとして意識的に利用している印象を受けた。自分でも短編小説を書いたりするので、胃弱がモチーフになりうるというのがとても興味深かった。

rika0817    reply

「『道草』を読む」と言う講義をとっていることもあって、今回の講義は非常に面白かったです。嘔吐が描かれる小説というと、夢野久作のいくつかの作品(そもそも、病院や病が描かれることが多いですよね)や桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない』、また食物や有機物への嫌悪感は小川洋子の作品の中にも見られるなあと諸作品を連想しながら講義を聞いていました。
夏目漱石の胃腸的不快感は骨肉への嫌悪と深く関わっていると個人的には考えています。胃弱が母からの遺伝性のものだと言う話もありましたが、自分の血が家族とつながっていることへのムカつきなんてものは、家族への手前なかなか口にできるものではありません。しかも、食が共同体構成的な機能を持つ以上強いて食べないといけない場面は特に家族、親族との間で不可避的に発生します。(正月に帰省した男子学生などその極みでしょう。若いんだから、男の子だからと親戚に食わされること請け合いです。)大抵の人にとって、食わされたものも、消化され、好意として自分の骨肉になるのです。それ故に食べたものを消化できない、吐くと言うのは悲しい行為です。本来は肯定的に一体化できるはずのものに対して、拒否してしまう自分の器の小ささもいやになるところです。このような要素に、漱石の家族と自分の不一致、自己意識と身体の不一致のようなものが現れていると思います。

mmm2018    reply

文学と胃弱というテーマは自分にとってとても新鮮だった。文学作品の中に作者の胃弱といった病が垣間見えるという視点には驚いたのと同時にとても腑に落ちた。体の不調はなかなか意識から切れないものでそれが思考や表現に現れるのも当然のことだと思った。
また吐き気がする、ムカつくといった不快感を表す言葉が胃腸に関連しているという話も興味深かった。

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