ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第5回 03月16日 植田一博

ヒトの認知に対して身体のもつ意味

3月15日:前夜祭
3月16 日~17日:講義

人間の身体がもつ意味や役割について議論する身体論には様々な学問分野からの接近が可能だが、本講義では認知科学(cognitive science)や認知脳科学(cognitive neuroscience)の立場からの接近に関するこれまでの試みについて紹介する。それを通じて、人間の認知や知能にとって身体がもつ意味を明らかにしていく。具体的には、本講義は大きく三つの部分から構成される。初期の認知科学においては、人間の頭脳(brain)のみが注目され、誕生して間もないコンピュータと対比される形で、人間の認知や知能の問題が議論された結果、身体が人間の認知や知能に対して重要な意味をもつという事実自体がほとんど無視されることになった経緯を第一部で説明する。しかしながら、そうした知能観では説明できない多くの認知現象がやがて報告されるようになり、身体が人間の認知や知能に対してもつ意味を解明することが研究対象になってきたことを第二部で説明する。特に、環境とのインタラクション、空間認識能力の発達、人間同士のコミュニケーションに関する認知現象に焦点を当てて、身体の意味や役割を議論する。特に最近では、身体が人間の認知や知能に対してもつ意味が認知脳科学の観点からも議論されるようになったことを第三部では説明する。その結果、これまでは不可思議としか思われていなかった幻肢(phantom limb)現象等のメカニズムが科学的に議論されるようになったことを説明する。

講師紹介

植田一博
情報学環/総合文化研究科広域科学専攻広域システム科学系教授。 専門は認知科学・認知脳科学・知能情報学。研究内容は人と社会の知能を科学すること。人間の高次認知活動の解明とその工学的な応用や社会への還元を目指して、認知科学ならびに認知脳科学の研究を行っている。具体的には、「消費者のアイディアに端を発したイノベーション」、「創造性の認知機構」、「速読や珠算などの熟達者の脳内機序」、「人工物に対するアニマシー知覚」、「視線知覚やバイオロジカルモーション知覚等の人の社会性認知」、「人同士のコラボレーション」等に関する研究を行っている。第7回ドコモ・モバイル・サイエンス賞・奨励賞(2008年)、日本認知科学会論文賞(2004年・2007年)、日本教育心理学会優秀論文賞(2007年)などを受賞。
学生の声

植田老师讲座感想 植田先生こんにちは。南京大学にようこそ。先生の素晴らしい講義に感謝いたします。人の認知はどのように形成されるのかという先生のお話によって、私たちのものの見方が大きく開けました。また、私はこの話は、國吉先生のお考えとも通じ合うものがあるように感じました。私が興味を持ったのは次のような点です。生存のために、大脳、身体と環境が共に人の認知に影響し合っているならば、人が環境を選択していると同時に、環境のほうでも人を形成しているといえます。この観点は、文化の違いの根源―例えば日中の国民性とか、思考方式の違いとか―を理解するために使えるように思われます。私は日本人も中国人も、大脳の構造はほとんど同じであると思います。と同時に、中国人が中国人である所以、日本人が日本人である所以は、けっして身体を日本ないし中国に置いているからではなく、その人の置かれている環境がその人の認知に極めて大きな影響を及ぼし、この認知方式がまたその他の様々なものを引き起こすためであって、この点、文化人類学とも相通じるものと考えています。もちろん私のこのような理解に問題もあるかもしれませんが。有難うございます。

→ コメントを有難うございます。國吉先生の授業と私の授業をとてもよく理解されているので、理解力の高さに感心しています。 おっしゃる通り、國吉先生の講義の趣旨と私の講義の趣旨は基本的に同じです。人の脳、身体、環境が互いに相互作用しながら、人の認知は形作られています。これは他の動物でも同じことですが、人が他の動物と異なるのは、自ら積極的に環境に働きかけることができる点にあります。このことは人の脳のある意味尋常ではない進化を促した可能性がありますが、このことはまだよくわかっていません。 文化差というのも、ご指摘の通り基本的に環境の問題です。発達認知科学では既に常識となっていますが、子供がどの言葉を母語(native language)として話すのかは、両親がどの国の人かにはよらず、どの子供がどのような言語が話されている環境にいるか(つまり、周りの人が中国語を話しているのか、日本語を話しているのか、英語を話しているのか)に依存することがわかっています。そのくらい環境というのは重要なものです。 文化人類学に興味を持たれているようなので、文化人類学と認知科学とを繋ぐような研究を将来してもらえると大変嬉しいです。

-- UN student: 植田先生の講義はすばらしかったです。大変勉強になりました。 速読についてちょっと伺いたいと思います。 普通の人間は、仮名を音声化して、意味を処理します。漢字の部分は音声化を経ずに意味を処理します。速読の場合は、音声化の過程はないみたいですね。脳の反応時間を短くします。それはスピードが速い原因だと思われます。つまり、音声化をしないと、スピードアップできるということですね。 仮名を漢字化すれば、どうなるでしょうか。 たとえば、「ない」という言葉があったら、この「ない」をコンビにして、一つのキャラクターとして読めば、漢字と同じように音声化を経ずにすぐ分かることができます。この「ない」を読めば、「否定」とか「無」とかが分かります。「ある」(存在の意味を表します)「れば」(仮定の意味)など。そうすれば、一部分の仮名コンビが漢字と一緒になり、脳にとって分かりやすくなるでしょうか。 もう一つのことを思い出されました。 一部分の人間は単語を覚える場合、他人と違って、単語の形で覚えるんです。彼らはほかのことを覚える場合、大体そうであります。つまり、図形を通じて、物事を覚えます。そういう人たちは上のような発想と同じでしょうか。 先生の考えはどうでしょうか。絵文字:笑顔

→ 質問を有難うございます。現在わかっていることではお答えしにくい、難しい質問です。 おっしゃるように、仮名も塊としてとらえれば漢字のように処理することは可能かもしれませんが、初めて読む文章の中ではどのような仮名を塊として捉えて良いのか予想できませんので、漢字のように読めるのか、つまり形から音声化しないで直接意味を理解できるのかはわかりません。むしろそれはできないというのが研究者の常識です。が、速読者はそれが可能になっているとしか解釈できないような実験結果が得られています。もし速読者が仮名を漢字のように読めるようになっているのであれば、これは相当に大きな発見で、NatureやScienceに掲載されるでしょうね。それを目指して頑張って研究を行っています。 一部の人は単語を覚えるときに図形として覚えるというご指摘ですが、これは十分にあり得ます。単語に限らず、様々なものを記憶する際に、自分に馴染みのある図形や物体に置き換えて覚える人がいることは研究で明らかになっています。中には、レストランでのお客さん80人分の注文を覚えるのに、自分の好きな陸上競技の記録に置き換えて覚えられる人がいることも報告されています。単語から瞬時に意味をとるのと単語を覚えるのは、脳の働きとしては別のものであり、記憶に関しては、仮名からなる単語であっても図形として判断して覚えることは可能なのです。

-- UN student 人間の脳というのは、本当に不思議な器官だと思います。人の脳のホムンクルスによると、人間は怪物みたいなものですね。頭も大きすぎますし、手も大きすぎます。これは人間身体の未来の進化方向だと推測できますか。先生はどう思いますか。

→ 質問を有難うございます。とても良い質問だと思います。 人の脳がこんなにも複雑で、かつ大きな器官になったのは、最初からそのような設計図があったからではなく、講義の中でも少し触れたとおり、人が環境に適応するように進化してきた結果であるというのが最近の主流の考え方です。人が生物として生きるには、物体の動きを理解し、自ら動く中で周囲を認識することが重要なため(でないと、人は獲物を捕まえることができませんし、逆に他の動物の餌食になります)、視覚に関しては最初に背側経路が進化したと考えられています。その後、何らかの環境や人の生活の変化により、物体の形や色などを認識することが必要となり、腹側経路が進化してきたと言われています。このように人の脳がどう変化するかは誰にも想像することができず、人と環境との相互作用によって決まるものだと理解するのが良いと思います。 もしわれわれが住んでいるこの環境が大きく変化しなければ、手や足の重要性がより増すでしょうし、環境に大きな変化が生じれば、人の脳の中ではかなり後退している機能の重要性が増して、長い年月をかけて人の脳はまったく別の方向に進化することも考えられます。

-- 先生の講義はすばらしかったです。絵文字:笑顔 ジェスチャ絵文字:良くできました OKについて質問があります。 確かに世の中には、ジェスチャを用いない人間もありますね。つまり、ジェスチャを用いるかないか、それは個人的な習慣です。実験によりますと、話してが目の見えない人たちにジェスチャを用いて話しました。その場合、話し手はもちろん、ジェスチャ好きの人を前提として実験が行われました。では、普通ジェスチャをしない人々はどうするでしょうか。彼らが話している時、どうしたら会話を補完するのでしょうか。 → 質問をありがとうございます。また返答が遅くなってすみません。 一般的にジェスチャの表出には個人差よりも文化差の方が大きく見られることが知られています。例えば、日本人はアメリカ人よりもジェスチャの頻度は少ないと言われています。これは日本語という言語が、英語と比較して、音声の高低や強弱(日本語では韻律といいます)によって感情を伝えやすい言語だからだと理解されています。講義で紹介したGoldin-Medowらの実験では、そのような文化差を考慮し、アメリカ人だけではなく様々な国の人に実験に参加してもらうような配慮をしています(詳しくは、講義で紹介した"Hearing Gesture"という本をご覧ください)。ですので、ジェスチャを頻繁に行う人たちだけを選んで実験を行ったわけではないことをまずご理解ください。 「ジェスチャをしない人はどうするのか」というのが質問ですが、世の中にまったくジェスチャをしない人がいるのでしょうか? 自分ではしていないと思っても、実際には相当にジェスチャを行っています。少なくともこれまでの研究でジェスチャをまったくしない人というのは、目の見える人も見えない人も含めて報告されていないので、仮にいた場合、どのように会話で言語情報を補完しているのか想像がつきません。言語情報の補完を韻律や表情、視線で行わない限り、相当に窮屈な会話になるでしょうね。なお、会話で重要なのは講義で紹介したジェスチャだけでなく、上記の韻律、表情、視線も同様に重要なことが最近の研究でわかってきています。 -- UN student:  午後は一人のアメリカの先生に出会いました。あの先生の話によりますと、ニューヨークでは生活のリズムはとても早くて、何をしても時間だ!時間だ!とかなり落ち着いていない生活だということです。昨日内野先生がいくつのアメリカの演劇を見せてくださいましたが、それはとてもだらだら生活でしたね。だといえば、アメリカでは心を落ち着いてその様な演劇を見ている人もいますね、でも、リズムの早い世界でそのようなだらだらした演劇を見るのはいくらいるのですか。確かに劇場で心が落ち着けても、いったん劇場を出たら、また周りのように落ち着かなくなるのではないか

-- UN student: 昨日は初めてそのような演劇を見たのです。最初は、画像も醜いし、音楽も聞きにくいからつまらないと思ったが、でも内野先生の解釈を聞いて、心を落ち着いて見ていけば、だんだん面白くなってきました。画像を見ながらいろいろと想像ができるようになって、とても奥深い画像だなあと思いました。たぶんつづけて勉強していけばもっと面白くなるかもしれない

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