ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第1回 03月05日 斎藤明

仏教思想にみる<色>

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仏教用語の「色」といえば、「色即是空」の句で知られる『般若心経』を思い浮かべる人も少なくないと思います。この場合の「色」は、(1)身体に代表される物体を指しますが、これは最も広い意味で用いられた用例です。ちなみに、身体や物体をはなれて空という道理はないというのが先の一句の意味です。
ところでまた、「色」と訳される原語のルーパ(rūpa)は、少し限定された意味になりますが、視覚器官としての眼の対象となる、(2)色彩と形態の意味でしばしば用いられます。色彩と形態は、いずれも視覚器官としての眼が基礎となり、光を必要条件として、視覚像(眼識)もたらす視覚対象です。色と形のいずれが優先的に知覚されるかという問いは、視覚者の意思や関心、またこれらによって捉えられる具体的な表象にも関係します。仏教の認識論は、これらの精神的な働きを具体的な心作用(意思、関心、表象)として説明します。
この講義では、先の『般若心経』の一句を解説するとともに、人は視覚対象としての色彩と形態をいかに捉えるか、そしてそれらに対する好悪の感情がいかに問題視されたのかというテーマを考えます。
講師紹介

斎藤明
専門はインドを中心とする仏教思想史の研究、とくに大乗仏教に通底する空の思想に焦点をあて、その成立の背景を探るとともに、空の解釈あるいはその意味づけをめぐる多様な展開を、主に思想史の視点から解明する作業を行っている。近年は、内外の諸学派の中でも、とりわけ瑜伽行派との論争を通して繰り広げられたインド中観派の思想形成と展開を、主にサンスクリット本とチベット語訳本を一次資料として研究を進めている。
授業風景

・南京大学の中国語でのブログでも授業風景が紹介されています。どうぞご覧ください。→斋藤明教授“从佛教思想看‘色’”第二讲精彩回顾

【2016年3月3日 南京大学集中講義「色」第1講】仏教思想にみる「色」(1)

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初日の講義は「仏教思想にみる『しき』」という題であった。冒頭に、二枚の写真が並べられた。一枚はチベット高原の景色であり、雪が積もった遠山に澄み切った青空、緑の草原が広がり、綺麗な風景が映っている。それともう一枚は「十一面観音」である。元々は金箔が貼られて金色であったが、今は色褪せて木の色が剥き出しになっている。ただ、日本の寺院は中国の寺院とは少し違って、仏像の色が褪せても元に戻さないという伝統がある。それは日本文化の「寂び」と「侘び」にも関係し、日本人の好みが反映しているのである。

では、仏像に金色が多いのはなぜだろう?

仏様に「三十二相」という様々な変化身があり、その中の一つに「身金色相」といって金色に輝いていると定められているところから、それに従って作られているからである。

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l 色とは何か

仏教でいう「しき」はインド語rūpa「ルーパ」の意訳で、特定の形や色として現れた物、あるいは現象を指す。形(form)、色(color)、美しさ(beauty)、外観(appearance)、現象(phenomenon)なども全部「ルーパ」の意味に含まれている。また、色覚は目を受容器とする視覚機能で、物理的刺激と対応しながらも、心理的要素が外在する心理的物理量(psychological quantity)でもある。

l 広義の「色」と狭義の「色」

仏教の世界で使う「色」は、広い意味と狭い意味の両方がある。広い意味で使う場合、例えば「色即是空」(『般若心経』)の「色」というのは、身体(色)、「苦・楽の」感受(受)、「対象の特徴に対する」表象(想)、意思及びそれに基づく諸行為(行)、認識・意識(識)から成る、人や動物の構成要素の一つで、身体を指す。ときにはまた、目・耳・鼻・舌・皮膚の五つの感官/感覚機能とそれぞれの対象(色形・音声・臭い・味・触覚対象)の全体を指す。すなわち、広義の「色」はもの(物)、こと(事)全てを指す。

狭義の「色」は今回の講義で主に扱かわれる問題で、目(眼)の対象としての色と形を指す。この意味での「色」は、「色形」と訳される。5世紀に成立した作品『倶舎論』には「色は二種類である」と述べられている。色と形とである。色は青・黄・赤・白(三原色+白)である。それ以外のものはその四種の色の一種である。形は長さを始めとしザラザラを終わりとする8種(長・短・四角・円・凸・凹・滑らか・ザラザラ)である。

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l 仏教思想と「色」

色覚の伝統的な説明によれば、感覚器官の目と対象であるものが触れ合うことによって、色覚(眼識)が生じる。その後、紀元3世紀頃から、色覚の拠り所としての目、対象としての色形の他に、光(light)、関心/注意(attention)、さらに空間(space)が補助因とされる。広い意味での科学的な知見が深まってきたということが現している。

それでは、色と形は主観的なサブジェクティブな要素が入り込んでいるが、どちらが優先されるか?

形に目がいく人は理性的なタイプだと言われている。なぜなら、小さい子が色の方が先に目につく。色には感情的な要素が強いと。形に興味を持つ人は理知的なタイプの人が多い、つまり人の性格に関係があるらしい。それと成長の度合いにも関係する。例えば、小さい頃には色に関心があり、成長しているうちに、ブロックを組み合わせたりして形が大事だとわかるようになる。ということで、両者のどちらが先だとははっきり言えない。ただ、6世紀の注釈者スティラマアティ(安慧)は、形に実体性はなく、目の対象は色であると言う。彼によると、形は色の広がり方にすぎない。一方向に広がると「長い」という概念が、四方に広がると「四角い」という概念が、全方位に広がると「丸い」という概念が生まれるという。だから、彼の考えでは、色の方が本質に大事である。ただ、今の我々に言わせると、関心/注意が大事である。結論からいうと、どちらが先だというのは難しいが、目の働きということが共通している。

これまで述べられたことが心理分析ではないかと思われがちだが、仏教が人の心理を分析することに目的があるわけのではない。その目的は煩悩論である。仏教の公理では人や動物が安寧・安楽を求め、苦悩を避けようとする。しかし、貪り、怒り、愚かさといった感覚に根ざした煩悩と知性に根ざした煩悩が自ら苦悩をもたらすのである。こういう全体的な枠組みの中で、煩悩をコントロールしようとする。

では、色覚などの感覚は煩悩論とどう繋がるか?

五種の感官(五根)、五種の対象(五境)、視覚などの五種の感覚(五識)に、こころ(意根)−−その「三世の全ての」対象(法)−−意識を加えて、六根、六境、六識からなる十八の要素(十八界)説が生まれる。そして、六根、六境、六識の三者の接触(六触)から目、耳などを拠り所とする六種の感受(六受)が生まれる。例えば、人は何かを見たときに、これはいい、あれは良くないといった価値判断が入る。それは「苦・楽」の感覚である。人はその感覚を覚え、そこで始まるのは六種の渇愛(妄執)である。仏教では、対象と距離を取ることを大事にする。中国の古い言葉でいうと「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。この六種の渇愛、餓えたような欲望を抑えることで苦悩が和らぐのである。

以上、狭義上の「色」についての初回講義である。

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l 質疑応答

Q1:中国の研究者金克木先生に『東方文化八題』という著書があります。中では、インド仏教の漢訳問題について論じています。彼によりますと、中国の特徴は音訳と共に、当時、特に魏晋朝時代の方言、俗語とかも入っていると。日本の和訳も、同じような状況なのでしょうか?

A:仏典っていうのは、今まで世界中で古い時代の翻訳は二つしかないです。いわゆる漢訳とチベット語訳です。あとの翻訳、例えば日本語訳は全部漢訳をベースにして書き下し文に変えました。モンゴル語のものもチベット語をベースにしてモンゴル語に訳したものです。その特徴は、漢訳の場合、諸子百家の伝統が以前から存在しているから、仏典を翻訳する際に、老荘や儒家など中国の思想とどのように波長を合わせるかを意識して距離を置くことが難しかったです。だから、魏晋ではなく、もっと前の後漢時代から仏典が入って、魏晋南北朝にだんだんたくさんの翻訳が出来てきました。鳩摩羅什、玄蔵など優秀な翻訳者の翻訳は読めるが、最初の頃はインド人やインド系の人がやってきて、漢文はほとんどわからなかったです。しかも漢文とチベット文の両方に通じる人はなかなかいなかったです。鳩摩羅什、玄蔵など優秀な人が出て初めて今我々が読めるような仏典になってきたわけです。

日本では、例えば、『般若心経』を読むとき、今でも玄蔵の翻訳を使っています。法華経も鳩摩羅什の翻訳を使っています。しかし、現在の若い世代にとっては、わからない単語がいっぱいあります。例をあげます。「苦集滅道」の「集」、現代日本語では「集まる」の意味が多く使われています。実は「集」がインド語ではsamudayaといい、生じることという意味です。「苦集」は苦が煩悩がら生起すること。そしてもう一つ、原因を意味する。英語でいうと、ariseかcauseと訳します。では、どうして「集」と訳されたかというと、「sam」というサンスクリット語の接頭辞が英語のcomに当たり、「集まった」という意味をします。だから、「集」は「集起」からってきたものです。先も触れたように、古い時代に漢字一文字で豊富な意味を表現する場合が多い。漢字一文字で読んでわかる伝統があります。知識人がみんな見ることで理解が出来たわけ。ところが、漢字一文字は、日本語でも同じで、聞いたときにわかりづらいです。現代語は二文字以上の熟語にすることで聞いてわかるようになりました。だから、翻訳は難しいもので、いつの時代も、必ずソースランゲージに理解が出来てからその時の人がわかるように訳します。ニュアンスに対するこだわりも出ます。あとは、この地域ではある意味で使われていても、他の地域ではあまり使わないということもあります。だから、翻訳について、現在は改めて古典的な翻訳を大事にしながらも、現代人にわかりやすいような言葉で翻訳する必要があります。だから今は国際的な協力のもとでお互いに利用できるように、仏教用語の現代語訳のプロジェクトを立ち上げました。

(Bauddha Kośa 仏教用語の用例集:

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~b_kosha/start_index.html)

Q2:『勝論経』によりますと、「早い」、「遅い」、「同時」といった時間的な概念は永遠に存在することはできない。今日先生がおっしゃった「色」と「形」も時間的な概念ですか?それとも永遠に存在するものですか?

A:これは大きな問題ですね。先に「広義の『色』」についての話では、永遠に存在するのは四元素、つまり地・水・火・風だと話しました。要素が残るということです。しかし、例えば、ここにペットボトルがあります。このペットボトルが壊れるのではないですか。だけど、ペットボトルが壊れても要素が残ります。ある意味では形とか色というのにメンタルなファクターが入っています。ただ物体に関していえば、壊れても地・水・火・風といった四つの要素だけが必ず残ります。少なくとも「説一切有部」という部派ではこの四つが必ず残る、永遠だと説いている。

Q3:我想问一个简单一点的问题,因为我以前也没有怎么接触过佛教思想方面的问题。我想知道讲义中提到了“苦/乐”、 “快/不快”、“不苦/不乐”,“快”和“乐”具体有什么区别?因为在中文里我们经常把“快”“乐”联系在一起表达同一个意思。(仏教思想についてはあまり知らないので、一つ単純なことをお聞きたいしたいです。レジュメに「苦・楽」、「快・不快」また「不苦・不楽」と書かれていますが、「快」と「楽」、具体的にどんな区別がありますか?中国語では、「快」と「楽」は常に組になって、一つの言葉「快楽」として使われ同じ意味を表現しますが…)

A:快と楽ですか。あれは翻訳語の違いだけです。一般的には「楽」を使います。「快」というのは「快感」というニュアンスで、楽に近い。楽と苦を現代風に翻訳すれば、「快・不快」に訳すこともできるということです。

Q4:感谢您的讲解,我想问的是关于“佛教思想”跟“色”两者之間的关系。是説佛教思想跟色是两个独立的体系,可以从一个体系的角度去解决另一个体系,还是说某一个思想是另一个思想的一部分呢?(お話ありがとうございます。お聞きしたいのは「仏教思想」と「色」の関係です。「仏教思想」と「色」とはそれぞれ独立した問題で、今回は一つの問題の角度からもう一つの問題を解決してみたということですか?それとも、一つの思想はもう一つの思想の一部分だということでしょうか?)

A: 「仏教思想にみる『色』」というタイトルが曖昧かもしれないですが、仏教思想の中で「色」がどのように説明されてきて、説明が進化してきたのかについての話です。

(文・朱芸綺)

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【2016年3月4日 南京大学集中講義「色」第2講】仏教思想にみる「色」(2)『般若心経』における「色即是空」

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前回の補足と復習:

1、題名について。日本語と中国語翻訳との間に若干ニュアンスの違いがある。「仏教思想にみる『色』」の「にみる」というのは、「から」ではなく、「において」である。したがって、「从佛教思想看“色”」というより、「佛教思想中的“色”」のほうが原題の意味に近い。

2、色はどこにあるのか?色と形は目の対象として認識されるという点で共通している。色は、古い時代では物にあるとされていた。現在では、光の反射と波長の長さによって赤く見えたり、青く見えたりすると考えられる。また目という感覚器官が神経に伝え、脳がそれをある色に見えると理解する人もいる。それに関心/注意、空間などの補助因も揃わなければならない。また色も形も視覚対象であるが、形は触覚の対象でもある。

3、人間は色と形のどちらに先に関心を寄せるか?心理学では色反応人間、形反応人間という分類がある。人は小さい頃に色に反応する。大人になってから、物事を立体的に理解し、形を重視するようになる。年齢、性格などによって色反応型であるか形反応型であるかは決まる。

4、色覚の働き

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伝統的な説明では、色覚は目と「色=色と形」との接触によって生じるものである。

今は、光、関心/注意、空間なども補助因として重要視されている。

様々な要因の中、何が中心的な原因なのか?古くから目が一番重要だとされる。また、今時の人は、視神経が目から受け入れられた像を脳に伝え、脳がそれを判断するというふうに理解する。

原因と結果は必ずしも一対一ではない。それが仏教からいうと、縁起・因果の概念と関係している。色覚の場合、因果は何か?感覚器官が拠り所となって対象と接触し、その背景に関心とか光など当てると、色覚が生まれる。

昨日の講義では、色は青・黄・赤・白の四種類(三原色+白)あると話した。それぞれ混ぜると別の色が生まれる。例えば赤と青を混ぜると紫色になる。虹色もこのようにして生まれる。しかし、色と色の間に明確な線が引いたわけではないが、色のスペクトルがあり、名前をつけて分類するのが一般的である。それはいわゆる「分別」である。大乗仏教系では、一番人を迷わすのは「分別」だとされる。この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。

以上、今日の講義の導入であった。

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第二講は『般若心経』における「色即是空」についての解読である。『般若心経』はまた『般若波羅蜜多心経』あるいは『般若波羅蜜心経』ともいう。

l 般若波羅蜜とは何か?

般若とは智慧である。英語ではwisdomという。波羅蜜とは完成/到彼岸という意味である。どちらもサンスクリット語の音訳語である。また涅槃(nirvāna)という言葉も音訳語である。人が死ぬというイメージが強いが、実際は、煩悩の炎が吹き消された状態を指す。煩悩の炎によって焚きつけたりしないことが涅槃である。静けさに満ちた境地である。縁起の通りを見抜いたときによく使われた表現が「般若」である。「般若」によって、目にする物はすべて無常である。したがって、色も形も無常である。永遠不滅なものはない。その代わりに、永遠不滅な要素と変わらない道理・原理があるとされる。

l 『般若心経』の小本と大本

『般若心経』は観音菩薩(観自在菩薩)が舎利弗に対して説法を説くという特殊な設定になっている。ちなみに、観音菩薩は東アジアでは女性か中性のイメージ(女神信仰に関係ある)が強いに対し、インド系では男性とされる。

現在よく知られている『般若心経』は玄奘三蔵が訳したものである。実際、これは『般若心経』の小本であり、もう一つ大きな翻訳がある。インドもチベットも大本の方が読まれている。日本では中国と同じように、この玄蔵訳の小本が読まれている。大本の方は経典の一般的なスタイルを取っている。すなわち、「序分」がある。「このように私は聞いた」(=如是我聞)というところから始まる。それと最後に「流通分」も付いている。

l 『般若心経』における空の異相

A、觀自在菩薩,行深般若波羅蜜多時,照見五蘊皆空

「五蘊皆空」、すなわち、「色・受・想・行・識」といった心身を構成する五つの要素が皆固有の本質を欠いている。これは般若教的な「空」の説である。固有の本質は漢訳では「自性」といい、変わってはいけないものである。竜樹の定義によれば、「自性」とは他のものによらず、作られないものである。他のものに依存せず、そして構成されていないこと。ところが、人間は実体がどこかにあるかと考えがちである。インドのブッダが生まれた頃に、ヨーガ行者たちにとって一番関心があった実体は自分自身、自我とか我と訳される「アートマン」であった。様々な経験を統一している「私」がいる。そういう「私」は認識の対象にはならないが、認識の主体そのものだと、ゴータマブッダ以外、当時多くのインド哲学者は説明していた。ゴータマブッダはそれを認めず、人はむしろそういうものに囚われるから、自分という殻に閉じ込められると考えている。

『般若心経』では、「固有の本質が空である」と観音菩薩が見た。そして、ブッダの弟子で、智慧第一とされる舎利弗が対告衆として登場する。(ちなみに、他の般若経典では大体、解空第一の須菩提が登場する。)

B、舍利子,色不異空,空不異色。色即是空,空即是色。受想行識亦復如是

「舎利弗よ、この世において、もの(色)は空であり、空はものである。ものをはなれて空はなく、空をはなれてものはない。もの、それは空であり、空、それはものである。」玄蔵はこの三つのセンテンスを二つにまとめた。すなわち「舎利子、色不異空、空不異色。色即是空、空即是色」である。その次の「受想行識亦復如是」とは、「色即是空」だけではなく、感受(受)、表象(想)、意思(行)、認識(識)も、まさにこれと同じである。

さて、「色即是空、空即是色」は一体どういうことを意味しているのか?

まず、広義の「色」すなわち身体(さらに物事一般)は空であることは、変わらずにあり続けることはないという意味である。空はものを離れていない。空というのはすべてのものに通じる道である。

もう一つ大事なのは、この五つの要素は関係している。例えば、まず身体性が必要である。その上で、意思が働き、表象作用が生まれる。この表象が出来上がると、記憶などとつなげて意識が働くのである。

したがって、「色即是空、空即是色」には三つのポイントがある。

1、道理と物事は別の物ではない;

2、固有の本質を欠いているというのが空の直接の意味である。

3、固有の本質を欠いているからこそ、他の働きを持つものと出会うことで働き合うのである。いわゆる「五蘊和合」である。

C、「舍利子,是諸法空相,不生不滅,不垢不淨,不增不減。是故空中,無色,無受想行識,無眼耳鼻舌身意,無色聲香味觸法,無眼界,乃至無意識界,無無明,亦無無明盡……」

「すべての構成要素は空を特質としており、生じていることもなく、滅していることもない」(「諸法空相、不生不滅。不垢不淨不增不減」)というのは何だろう?

まず「生じている」とは何か?新たな形で持って、大きな働きの違うものが新たに生まれたということである。例えば、氷が溶けて水が生じた。様態が変わったが、元のものと生じたものは同じとも別とも言えない関係である。水も空だし、氷も空だとすれば、氷から水に変化していくが、生じているとか滅しているとかという言い方は厳密に考えれば当たっていない。空においては、ものと名付けるべきものが、別個実体的にあるわけではない。

ただ、物事が空だからこそ働き合い、変化することができる。だから、我々もある意味で、空だからこそ、固有の本質を欠いているからこそ努力が報われる。

そして、文末の「揭諦揭諦,波羅揭諦,般羅僧揭諦,菩提薩婆訶」というのは真言といい、サンスクリット語の音訳語である。あえて意味をとると、「住けるものよ、住けるものよ、彼岸に住けるものよ、彼岸に到達せるものよ、さとりよ、幸あれ」となる。

最後に、東アジアに限らず、大陸アジアのチベットなども含めて、『般若心経』がよく読まれる原因について考えよう。

漢訳には「度一切苦厄」という一文がある。しかし、実際のインド語の原文にはこの文がない。これは玄蔵が加えた一筆だと考えられる。『般若心経』は全体としては、真言的な役割を果たしているが、「能除一切苦」と「度一切苦厄」の二文が極めて重要である。これを読むことで、すべての苦厄から解放されるという。

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Q:先生はどうしてこのトピックを選びましたか?

A:私はインド仏教学専門で、このテーマは仏教学の中でも一つのトピックとなります。そして「色」というのは今回の全体のテーマですから、それに合わせて、また、「色即是空」という言葉もよく知られているじゃないですか。そのきっかけもあって私に声をかけていただいたという風には理解しています。今改めて見直して、このテーマは面白いと思いましたね。面白かったですか?(笑)

以上二日間を通して、仏教思想における「色」の意味、それから「色即是空」というのはどのような意味を持っているかということを中心に、斎藤明先生よりご講義をいただきました。(文・朱芸綺)

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