ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 03月12日 井芹真紀子

撹乱か、包摂か、交渉か――病と免疫のメタファー

フェミニズムやクィア理論、そしてディスアビリティ研究は、特定の生のあり方を「異物」として位置付ける規範それ自体を問題化し、「自己」と「他者」を区分する境界線の権力性と不確実さを明らかにしてきました。その中で、病――とりわけ感染する病――は、「異物」とみなされた生に強固に結びつけられる徴である一方で、その境界を壊し変容させるものとしても議論されてきました。この講義では、「異物」としての病や「自己」を守る免疫システムに関する言説を辿りながら、クィア理論とディスアビリティ研究の視点から「異物」と身体について考えます。

講師紹介

井芹真紀子
東京大学総合文化研究科・教養学部附属教養教育高度化機構D&I部門特任助教。専門はフェミニズム/クィア理論、ディスアビリティー・スタディーズ。主な論文に、「フレキシブルな身体――クィア・ネガティヴィティと強制的な健常性」『クィア・スタディーズをひらく3』(晃洋書房、2023年)、「スクリーニング・アウト・ディスアビリティ――障害学とクィア・シネマ」『クィア・シネマ・スタディーズ』(晃洋書房、2021年)など。
授業風景

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3月11日

はじめに、本講義が、通訳を担当して頂いた南京大学日本語学科の4名の学生さんの多大なる尽力によって成立したことを述べたい。前日までの翻訳資料作成から、初日の事前ミーティング、深夜に渡る原稿とコメントシートの翻訳作業、そして最終日の講義開始直前まで、一貫した熱意を持って取り組んでくださった。本講義内容は、フェミニズム/クィア理論を専門とする私自身すら容易に理解することが難しかった。それにも関わらず彼女たちは、参考文献までをも厳密に調べ、英語の原文献や中国語に翻訳されている資料に実際に目を通すことで、学術的に正確な訳語を選び出してくれた。講義タイトルである「撹乱」「包摂」「交渉」がそれぞれ何を指すのか、自分なりに解釈することが求められたが、外国語でそれを理解した上で、専門知識を持たない他の学生が理解できるように説明するという、非常に困難な通訳プロセスを完璧にやり抜いてくださった姿には脱帽するほかない。初日にご一緒した夕食の席で、講義の論理展開にまつわる質問をしてくださり、先生含め皆で議論した時間は、自身にとっても非常に刺激的であった。この場をお借りし、感謝と尊敬の意を示したい。

本講義ではまず、フェミニズム/クィア理論とディスアビリティ・スタディーズとに共通する視座が共有された。それは、社会が特定の身体や生のあり方を「異物」として意味付けることで、マジョリティ側の権力や規範の構造が作り出されるとともに、それが問われることのない前提として抑圧的に機能することに対して批判的介入を試みる視点である。本講義では、集中講義全体のテーマである「異物」を、特にフェミニズム/クィア理論や障害学における「病」の言説と表象の問題系として展開する。

ジェンダーやセクシュアリティ、ディスアビリティにまつわる「異物」と「病」の問題は複雑な歴史を持つ。ギリシア哲学において女性が「損傷した男性」として認識される一方で、「病」そのものが女性的なものとしてジェンダー化されてきた点は重要だ。同性愛やトランスジェンダーは19世紀以降、しばしば混同されつつ、治療や矯正の対象として病理化されてきた。障害は医療モデルの中で「異常な身体」として規定される。本講義では、このようにマイノリティを「病理」として対象化する認識に抗するものとして、「障害の社会モデル」を紹介する。実際に学生から多く質問が挙ったのは、このモデルにおける、「インペアメント」と「ディスアビリティ」の区別についてであった。「障害の社会モデル」は、特定の身体の形状としての「インペアメント」ではなく、社会の側から作り出された不利益として「ディスアビリティ」を名指すことで、障害者に対する実際の排除や差別の構造を問題化させるのだ。また、「病」=「異常な身体」としての比喩的なメカニズムを問う作業は、文字通りの病や身体から乖離するものではない。フェミニズム/クィア理論家らによる「身体の境界は社会そのものの範囲である」という視座の下、実際の学術誌やメディアのイメージ分析を通じて、科学知としての免疫系や身体の理解が、社会の権力関係や抑圧構造と無関係ではなく、むしろそれらが強く連動していることが示された。

免疫システムを、「異物=非自己」から「自己=身体」を防衛する働きとして理解することの危険性は、80年代のAIDS危機におけるアメリカ政府の態度に顕著であった。政府はAIDSを「ゲイの病気」として、つまり正常なアメリカ市民である「自己」とは異なる「危険な他者」としてマイノリティを徴づけ、彼女らの黙殺を正当化した。このような正当化は、社会的な周縁化による結果としてHIV感染に晒されやすい状況に置かれた人々を、「病」の原因として、その因果を逆転させる形で名指すことにより可能になった。この分断の眼差しに対抗するため、AIDSアクティビズムとの強い結びつきのもとにうまれた初期クィア理論では、ウイルス的な戦略をとることで、マイノリティへの抑圧として機能する境界線を撹乱する可能性を主張した。その戦略とは即ち、自らを死に追いやり得るHIVの持つ、免疫システムにおける自己/非自己の境界への攻撃性を引用し、我々同性愛者が「病」=「異常な身体」として、異性愛中心主義を乗っ取り破壊する可能性を主張したのだ。このクィア・ポリティクスでは、「病」としての同性愛を否定するのみならず、むしろその線引きを利用し再意味化することで、自己/非自己の二元的な抑圧構造への批判的介入を試みた。なかでも講義で取り上げられたフェリックス=ゴンザレス=トレスのアート作品は、受講生たちの関心を強く引くものだった。

3月12日

二日目の講義では、AIDS危機後から現在までに広まった、免疫系の働きに対する新たな視点が紹介された。それまでの見解において免疫系が行うのは、確固たる自己/非自己の境界を確立させることで、非自己にのみ反応するとされてきた。しかし新たな見解では、免疫系の重要な役割とはむしろ、あらかじめ出会う可能性のあるあらゆる種類の非自己を「自己」の内部に想定することで様々な変化に対応し、自らの体制を維持する点である。この考え方は、医学的な文脈を超えて、特に新自由主義的な経済領域において好まれる性質としても認識される。社会的な理想として要求されるフレキシビリティは、非自己としてのマイノリティを表面的に包摂することで、「自己」の境界をより強く保つことを可能にする。しかし、このような表面的な受容は、既存の差別や抑圧を見えづらくさせるのみならず、とりわけ現在のバックラッシュの時代において、フレキシブルでない「他者」を積極的に排除する価値観へと直結する危険性を持つだろう。

これまでの議論では、二つの健全な免疫系のモデル、即ち自己/非自己の明確な境界の確立と、フレキシブルな境界の保持というモデルについて触れてきた。しかし、これらのアプローチでは、とりわけ自己免疫疾患とそれに伴う排除や抑圧を実際に経験する生きられた身体の存在を十分に説明することができない。自己免疫疾患では、「攻撃を仕掛けてくる敵」が自分の身体そのものであり、そのような衝突において自己/非自己の区別自体が不可能になる。また、この区別が身体と自己の一致を前提としていることは、フェミニズム/クィア理論によって議論されてきた、自己と身体が同一のものとは限らない存在を無視することにもなるだろう。したがって、自己/非自己の区別を前提とした今までの議論とは違う枠組みによって「病」を考える必要がある。自己免疫疾患における、そもそも自己の中に「他者=異物」がすでにあるという状況をどのように考えられるだろうか。自己免疫疾患の生きられた経験を通じて、単純な自己/非自己やマジョリティ/マイノリティの対立だけによるものではない、現在の社会の力関係を違う形で捉え直す可能性が示唆され、本講義は終了した。

初日の学生からの質問では、マイノリティ側の状況に関する内容が多くを占めていた。本講義での主旨である、マジョリティ側の構造を問うという基本的な視座を、外国語を通じて、かつ制限された時間の中で正確に学生に伝えることの難しさを痛感させられた。このような初日の結果を受け、翌日の講義内容や論理構成を見直す必要に迫られ、学生からの質問を基に先生と明け方まで議論することで修正を測った。最後まで粘り強く内容を検討したことが功を奏し、講義後も多くの学生が先生のもとに集まり活発な議論が交わされていた。南京大学と東京大学の学生同士が緊密に協力し合い、教員と共に二日間の講義を作り上げることができたことは、自身にとって非常に貴重な、充実した経験となった。(文責:TA 高野)

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