ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい
第5回 03月15日 清水 晶子
変わるもの、変えられないもの、変わってしまうもの
2012年3月15日・3月16日
固定的なアイデンティティや主体への批判をその出発点において取り入れたクィア理論は、そのため、しばしば可塑性や流動性に注目する議論として理解されてきました。とりわけ、セクシュアリティの流動性や創造的なジェンダー・パフォーマンスへの着目は、クィア理論のいわば「華やかで楽しそうな」魅力であったと言っても良いでしょう。けれども同時に、病によって「変容」を余儀なくされる身体や、あるいは「変容」のままならなさといったテーマもまた、クィア理論にはその最初からつきまとっています。本講義ではクィア理論が「変容」をめぐるこの二つの側面をいかに扱ってきたのかを説明しながら、「わたし」や「わたしの身体」が「変容する」とはどういう事なのかを、考えていきたいと思います。
- 講師紹介
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- 清水 晶子
- 東京大学大学院情報学環/総合文化研究科准教授。 英文学修士(東京大学)、MA in Sexual Politics、 PhD in Critical and Cultural Theory (University of Wales, Cardiff)。主な研究分野はフェミニズム/クィア理論。著書にLying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision(Peter Lang Pub Inc, 2008)。
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- 学生の声
私はジェンダーなどの議論に興味があったので、クィア理論の歴史がわかって面白かった。セックスとジェンダーについては、このような議論の変容がおこなわれてきたのか、と初めて知った。授業の中で出てきた、「ジェンダーにセックスが基盤を持つものだとすると、ジェンダーが変容可能であれば、身体の変容も可能ではないか」という議論は面白いなと思った。講義は両方とも(編注:伊藤徳也先生の講義とこの清水晶子先生の講義)、先生が独自の言葉を設定して、それと絡めて論じる感じであったので、先生の設定した言葉の意味を理解するのに苦労した。例えば「しなやか」とか「ままならない」とか、おそらくその言葉が重要な意味を持つのであろうが、それらの言葉の意味がよくわからなかったため、考えたり議論したりするのがとても難しかった。
(東大学生文III2年生の感想より抜粋)
清水先生の講義では、「実際に自身の身体に加工を施す」という課題から、身体の変容について考えていく点が印象的でした。そこにたとえばクィア理論の学史や社会規範、セクシュアリティといった概念が関わり、身体がいかに変容するか、自身のアイデンティティがいかに変容するのかについて議論が進められていく。その一方で、変容というテーマのなかで「変わらないもの」という変化しないものについても言及があった点が興味深かったです。
(東大学生文III2年生の感想より抜粋)
クィア理論の基本的な流れについて説明しながら、近年のホモノーマティヴィティの話まで一気におさらいできて、個人的にとてもありがたい講義だった。すごいのは、2日連続してある講義の1日目のはじめに、化粧や服装などの、身体に、外部から、一時的、かつ、部分的に施せる加工を行って、講義終了まで過ごし、身体の変容について考える実習があったこと。しなやかに変容できる身体と、ままならない身体を持ったまま、生きるということについて考える講義となった。とりわけ、一時的な女装を受け入れることができて、柔軟で寛容だが、生まれたときの性別のままで一生を生きるシスジェンダーとしての主体については絶対に揺るがずにいられる異性愛男性のジェンダーやセクシュアリティのあり方についてもっと考えることが必要だと思った。何よりも、自分の問題として、HIV/AIDSや、さまざまな病、障害によって、身体変容が不可避的に起こってしまう人のことへと想像力が広がればよいなというのが、清水先生の講義を受けての感想である。
(東大学生博士1年生の感想より抜粋)
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