中国の学生との共同フィールドワークを体験したい

学生による意見・感想 南京大学フィールドワーク研修【3月】2012年度

南京大学集中講義感想と意見(第2グループ M1)

■感想

もうすぐ四月になる。帰国して随分日にちが経ったというのに、いまだ南京の余韻を引きずっている。灰色に霞んだ大学一帯の風景、突然春めいて上着がいらなくなった日の青空、一斉に干された寮生達の色とりどりの洗濯物、暖房が生温く効きながらも乾燥した教室、言葉を助けてもらいながら訪れたさまざまな食事処の香り、地下鉄の切符の安っぽい重さから何まで、五感全てに鮮やかに思い出される。何より、初めて出会ったにも関わらず、そして共に過ごした期間がほんの僅かであったにも関わらず、何気ない会話を絶え間なく交わした彼ら、彼女らが、視界を探せばまだ見つかるような気がして、わたしは今なお南京にいるような心地がしている。

 「変容」というテーマに惹きつけられて申し込み、参加が叶った南京での八日間は、日頃いかに自分が自らの領野以外に目を開けていないのか、という事実をまざまざと知らせてくれた。伊藤徳也先生の周作人の頽廃というテーマも、わたしがこれまで散々読んできたフランスの19世紀の文学と近代化の問題に驚くほど密接しており、清水晶子先生がご紹介くださったクィア理論も、今まさに学んでいる20世紀フランス哲学の流れを大きく汲んでおり、にも関わらずそのどちらにもまるで無知であったため、純粋に、全くこれまで知り得なかった視点から変容について考えるという素晴らしい機会を得ることができた。また、第二班には私以外にTAを含め三名の院生の先輩がおり、講義やディスカッション、研究への姿勢など、余りあるほどのものを教えて頂いた。さらには、南京大の学生や東大の学部生—おそらく、ほとんどが文学や哲学といった人文学とは違うものを志していた彼ら―と、とりわけ授業外で、率直に考えを交換し合うことができたのも有り難かった。「なぜ人文学に取り組んでいるのか?」という素朴でいて鋭い問いに明確に答えるための言葉が不足していることを圧倒的に感じた。毎時自分の内部を揺さぶられているようで、凝縮された時間はあっという間に過ぎ去っていった。院生であるにも関わらず、あまり講義やディスカッションにも貢献できず申し訳ない気持ちでいっぱいであったが、絶え間なくサポートをしてくださったLAPの方々には何度感謝を申し上げても足りないように思えてしまう。改めて、心から感謝を申し上げたい。本当にありがとうございました。

■プロジェクトについて

プロジェクトについて何か言うのは烏滸がましい気がするのだが、いくつか感じたことがあったので、書かせて頂くことにする。先にも書いた通り、わたし個人は「変容」をまったく予想外の形で自分の研究手法とも結びつく新しい視点と重ね合わせながら考え続けることができ、交流を含めて非常に学術的に充実した経験となったのだが、やはりディスカッションをすることを考えると、専門知識がないだけでなく、他の何かを専門的に研究しているわけでもない学部生に、一人の先生がかなり専門的な内容をわずか二日間で消化可能な形で提供することは相当厳しい印象を受けた。特に、第二班は前半後半共、かなり絞られた領域のテーマの元に講義が進められており、正直わたし自身も、消化しきれない部分が多々あった。伊藤徳也先生の授業は、事前に先生が御自身の論文を何本かPDFで公開してくださっており、清水先生はたまたまわたしの所属する学科の先生であったので大まかではあるが概要を知っていたので、自分の関心も相まって強く惹きつけられ、何とかついていけたのだが、ほとんど文学に関心がない人間にとっては、かなり難しい時間になったのではないかと思われる。特に、一部の東大1、2年生の参加者にその傾向は顕著であり、元々の関心のなさと前提知識不足による悪循環が起こっていたようにわたしには感じられた。また、ディスカッションの様子から見ても、南京大の学生がどれほど講義を消化できていたのかという点も、かなり疑問が残るものだったのではないか。そのような状況で、ディスカッションそのものの時間が1時間強のみとなってしまうと、一人一言、考えたことを話すだけで終わってしまっても仕方がないように感じた。

より濃密でより真剣な交流と議論の場を形成するためには、参加者にかなりのモチベーションと、議論可能な知識と思考力が必要だろう。一つのテーマを元に東大のさまざまな教員が短期間でそれぞれの専門を駆使して講義を行う、という事自体は非常にうまく実現されているように思われる。それを、実際の学生交流において、充実した議論につながるような、より学生にとって消化吸収しやすい形にするためには、やはり、事前課題がそれなりに必要なのではないだろうか、というのが、わたしがいちばん感じたことだ。これまでどのような形でプロジェクトが進められてきたのかわからないので、既に試行錯誤されていたことであれば申し訳ないのだが、基本文献の他に事前課題を用意して、ある程度、講義に近いテーマについて自分の言葉で考え書く作業が、東大の学生にも、南京大の学生にもあった方が、集中講義自体が有意義なものとなるのではないだろうか。少なくとも、周囲の学部生に聞いた様子だと、事前にそこまで負担がなかったために、講義自体がかなり重く感じられているようだった。課題がある程度重ければ、受講希望の段階である程度学生も絞られるように思われる。

また、それに伴い、結果として、観光や、講義とはあまり関係がない南京大の学生との交流が主眼になってしまっていた受講生が少なからずいたことも気になった点だった。先述したモチベーションと知識・思考力の問題が一番大きいとは思うのだが、もしかすると、自由時間が多すぎるのではないか、と思わない事もなかった。すなわち、清水先生が初日のディスカッション後、各グループの議論を翌日報告することを宿題とした以外、講義期間中にわれわれに自学すべき課題は与えられなかったように思われる。授業やディスカッションで二十四時間身体を拘束する必要はないと思うが、事前課題が何もないのであれば、せめてそれを補うための思考を強制しても許されたのではないかと思う。そうでないと、遅くとも17時に終わってしまう講義後が全くの自由時間であり、なおかつ丸二日間も授業がない日があるというのは、講義自体の目的が曖昧になってしまう要因になりえるように思われた。いわゆる専門課程のゼミ合宿であれば、それこそ毎晩チームのメンバーと徹夜でディスカッションをすることも珍しくないと思われるし、それなりに講義全体を通して学生の本気の参加を明確に求めてもよいのではないだろうか。

プロジェクト自体の根源的な目的は図りかねるが、少なくとも、南京大と東大の学生の少人数での濃密な交流に主眼に置くのであれば、スタッフの方々の尽力が並々ならぬものである以上、もう少し、学生側に厳しいものをそれもはっきりと要求してもよいようにわたし個人は感じた。そうでないと、運営側と学生側の温度差のようなものが埋めがたく、救われないように思われる。

うまくまとまらず申し訳ないが、八日間を通して感じたことは以上のようなものになる。

(M1(第2グループ))

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