I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.1 2019.09.25

comments(最新2件 / 30)

Tyuki23    reply

信頼と科学ということですぐに思い浮かぶのが科学研究の信ぴょう性である。信ぴょう性の危機として世間を騒がせた事例としては、少し前にはなるが理化学研究所の小保方晴子氏のSTAP細胞に関する論文の発表である。当時の私は、山中伸弥教授のIPS細胞の研究など革新的な研究をニュース等で見ていたため、科学に関して疑いを持っていなかった。小保方氏の事例で科学に関して初めて疑いを持つようになり、その後科学の信ぴょう性に関する本やニュースを見ることが多くなり、科学も絶対ではないと思うようになった。しかし、本講義でフィルターバブルという現象に触れたことで少し考えが変わった。よくよく思い返してみると科学の信ぴょう性に関するニュースを私は小保方氏の件が公になる前にも接する機会があった。しかし、革新的な研究に気をとられるあまり、科学は偉大で絶対的に正しいという認識を曲げないような情報だけを収集していた。これはいわゆる確証バイアスなのではないかと考える。この現象は科学に限らず生活のあらゆる側面で起こりうるものであり、間違った認識を持ちやすくなる危険なものである。本講義でも知識も科学者信頼も聞かず、信じたいものを信じるアメリカ、という話があった。これは単純に打算的なものであるだけでなく人間が本来持ってしまう性質なのではないかと感じた。そのように考えると国家における信頼も全くもって絶対的ではない。本講義を通じて、一つの考えに固執することの危険性を肌で感じることができた。講義全体のテーマである信頼についても、今回の科学という視点だけではなく今後の講義を踏まえて考えていきたい。

mitsu2608    reply

SNSでは信頼の分断が続いているというスライドの中で感情がメインとあるのは、発信された情報に対して信頼できずかつその信頼の欠如が「相手の意図」をずれより生じていることより、相手の人柄などを攻撃する表現が溢れているということですか?

lyu39    reply

 この授業によって科学者の社会からの信頼の大切さを再確認し、それに関する今日の問題をも幾つか共有することができました。「価値共有」という冠とその下にある「能力」と「意図(人柄)」という信頼のメカニズムの説明にも強く共感を抱きました。科学者の信頼となると、その前提となる大衆との「価値共有」は実はかなり困難なのでは、とも思いました。科学者と一般人との利害が本当に一致しているのかがよく問われがちであり、ある意味では最先端の科学知識を「独占」しているとも捉えられる科学者が目指していることが一般人と同じなのか、特定の主義などに偏ったりすることはないかと時として疑われるものです。自然科学の研究者の多くは、やはり政府あるいは財団などの団体が提供した資金で研究をしているわけであり、政治的中立性や立場の客観性が疑問に思われることもあるのでしょう。それに、「価値共有」という前提が成り立たなければ、高い「能力」が逆に信頼を阻むネガティブなものになりかねないと思われます。何故なら、地球温暖化などに関する現時点で一番正しい情報は常に科学者が把握しており、それに関する発言権というものも恐らく彼らにしかないのでしょう。そうすると、一般人にとっては、科学者の見解(科学者の間でも意見は分かれるものですが)を完全に「信用」するか、本当かどうか分からず懐疑的な立場を取るのかという二択しかないのではないでしょうか。一般人には論理を用いて否定・反論するだけの知識がないのですから。そして一部の一般人から見れば、知識と発言権を持つ「能力」のある科学者は、都合よく選択的に情報を公開し、事実に手を加えたりするだけの力があり、そうすることも実際に可能でしょう。さすれば大衆は自分の相対的無知さと流されやすさに自覚し「信頼」でも「不信」でもなく何もかも懐疑的に捉えるか、信じたい情報しか見ないとフィルターの中を生きる人間になるように思われる。その二つが一番安易で安全な立場ですから。そのため陰謀論めいた言説が流布し、地球温暖化についての危機意識なども一部の人には偏ったポリティカルコレクトネスだけのように映るのでしょう。確かに大問題だと思います。科学者が社会と相互理解を深めること、自身の立場の相対的客観性・中立性を保つことが重要でしょう。特に価値観や利益が多様化している現代社会において。
 絶対的な信仰を要求する宗教や一部の「主義」などとは違い、科学は大体実証的な分野であり、科学自体もまた常に新しい理論で古い理論を覆しているので、ある事実について現時点の認識や説明への完全な信頼を社会から得るのが難しいということは、科学自体のこの実証的な特徴にも理由があるような気がします。
 感想は以上です。文系で自然科学に疎い人間なので、誤解があったら是非指摘をお願い致します。

youcan19    reply

私たちが日々の生活で電車や信号機などの社会システムを信用して行動しているのと同じように、アカデミアの世界でも研究者が研究倫理を守っているということを信用することで学問が成立しているという話が興味深かった。また、アメリカでは同じような知識を持った人同士でも、共和党支持者と民主党支持者の間では科学に対する認識が異なっていて自らの信じたいものを信じる人々もいるということを聞き、このままでは科学的な事実を信じない人が増え、科学への信用が失われていってしまうのではないかと思った。科学への信頼が失われる(発表された科学的事実に意図が存在するかもしれないという不信)ことにより、世界的な危機が予想されたとしても、それに対する予防ができなくなってしまう可能性があるため、科学への信頼を集めるということはとても重要だと感じた。

ykiki373    reply

教授の専門である科学技術社会論という言葉は初めて聞いたが、科学と社会を結びつけて考えることで、両者の間の問題解決を模索するというもので提示された例も身近なものであり理解しやすかった。そして「信頼の3つの構成要素」というスライドで、相手側が3つの構成要素のうちの何を求めているのかを自分が理解していないと相手の信頼を得ることは難しいということがよく理解できた。また「戦後のアメリカと日本の科学」というスライドで、ベトナム戦争によって科学が絶対的なものから、批判の対象に変化していく過程がよくわかった。最後の方にやった専門的すぎる科学者よりも一般市民の方が知っているという意見は興味深い意見だなと感じた。
もっと様々な人の意見などを書籍などを通して知る必要があると改めて感じた講義でした。

chihi0315    reply

科学の研究において、信頼を得るためには、事実を隠蔽したり改ざんしたりするのではなく、いち早く情報を公開するべきだということがわかった。また、信頼を要素に分解して考えたことがなかったので、信頼を三つの構成要素で捉えるという考え方は斬新だと思った。特に意図の部分では、自分でも無意識、無根拠に疑いをかけてしまうことがあると感じたし、今後意図の部分で自分自身も疑いをかけられることがありうると思ったので、コミニケーションを設計していく上で意識していくべき重要な項目だと感じた。SNSがますます発展していく中で、私たちは以前よりも見たいものにだけ目を向け、見たくないものからは目をそらすことが容易になり、偏った思考や情報を元に、自分の考えと相反する考えに疑いをかけることも容易になったと思う。偏った情報に囚われるのではなく、自分の見たくないものにもあえて手を伸ばし、幅広い情報や知識を身につけていきたい。

reon2012    reply

科学者の信頼が揺らいでしまっては今後何を信じていけばいいのかわからないし、将来が不安になる。

k00oosalt    reply

 今後生きていくうえで糧となる内容に満ちた授業であり、非常に有意義な授業であったと思います。
 信頼という概念が、個別的な人間関係に始まり社会全体を繋ぎとめる役割を持つものであり、良好な関係のためには必要不可欠で、その前提条件だと言って差し支えないものなのだというイメージを持ち、今一度その重要性を掴むことができたので、非常に満足しています。また、信頼の成立条件について、説得力のある形でご教授いただけたこと、また、そのような抽象的な話題にとどまらず、序論という形ではありながらも、スーパーカミオカンデの例を用いて、責任者としてのあるべき姿を具体的にお見せいただいたことが、印象的でした。
 ところで、一つご意見を伺いたいことがございます。先生の講義の中で、「疑い」の力に対抗していくことが重要であるという話がございましたが、今日の教育現場においては、すべての情報に疑いを傾け、自らで情報の取捨選択を行っていく重要性といったものが繰り返し語られる印象があります。科学の分野にこれを拡張しますと、もちろん、エセ科学ではない「本当の」科学を最上の根拠として、多くの、時には相対する情報の中から正しい情報を選別していく、という主張に上記の二つの意見は集約されるでしょう。そして、だからこそ、「本当の」科学の信頼性を保つことが重要だ、という形にもなっていくかと思われます。しかし、このアプローチは非常に困難かつ長い道のりであるでしょう。そこで、そのアプローチのもう少し具体的な形をお聞きしたいこと、特に、先ほど挙げたそういった教育現場での方針(あくまで私の主観ではございましたが)に対して改善できるとお考えになることがあればお聞きしたいこと、この二点がお伺いしたいことになります。もしお時間がございましたら、お答えいただけると幸いです。
 素晴らしい講義、誠にありがとうございました。

baya0903    reply

環境問題における世代間倫理の問題について、政治哲学の領域では、講義で信頼の第一要件とされてきた「価値共有」ができないことが、後世へ資源や環境をどれくらい守っていかなければならないのか、という問題を困難なものなっています。ですが、現在注目を集めている、10代の少女の演説のように、最も近い世代から、つまり、比較的価値共有の可能な世代から、後世に悪影響を残すことを「許さない」という告発を受け(続け)ることによって、いわば価値観の時代的変遷を微分するという戦略を今立てることができるのではないかと思いました。それによって、世代間倫理、環境正義論の問題に、ある程度の見通しを立てることができるのではないかと考えました。

ryo7a    reply

そもそも時間が足りないというのもあるのでしょうが、信頼の必要性に関して議論が甘かったように感じます。なぜ現在の幸福を求めてはいけないのか、つまり地球を滅ぼしてでも現在の人類が幸福であることのほうが大事だ、という可能性はないのか、だった李あるいは人類を滅ぼしてでも環境を守ることの府が大事という主張に価値はないのか。どうにも先生の意見が先にあってそうでない意見への踏み込みがなかったように感じられ、少し残念でした。

tanyn0580    reply

まずは、科学と信頼の問題が遠く、ニュースや授業だけで触れ合うことではなく、横山先生が生きている世界の問題であるのが最初の印象であった。
次に、人々は一人で世界の全ての情報をアクセスする時間も能力もないため、大多数の人は信頼できそうな人を決め、その人たちからの情報をそのまま信じてしまう。たしかに、科学者や大統領は信頼できる存在であるべきだが、今の世界ではそうではない。例えばアメリカの場合は、デモクラットの視点から見ると、レパブリカンは頑固で科学を信じないバカな人だけだと言いやすいが、講義で紹介してくれた通り、科学者も完璧ではなく、データの改ざんなどを行う科学者もいる。そのため、科学者を信じない人の感情も分からなくはない。結局のところ、ひとつひとつの事件より、ものごとの全体を分かるべきだと思った。例えば地球温暖化に関しては、一人の科学者の誤りや有力者のお金かつ名誉の意欲より、大事なのはこの地球の将来だということをみんなが理解すべきだと思った。
そして、「知らない」ことに対して謙虚な態度をとるのは大事だと主張されたが、それは学校教育から始まるべきのではないかと思った。今の教育システムは正しい答えを認めるシステムなので、将来の科学者や政治家もそのまま「知らない」ということを恐れ続けそう。そうであったら信頼は本当になくなってしまう。
最後に、科学者の仕事は科学を理解することだけではなく、その理解を伝えることだと気づいた。時間が足りず全部のスライドを説明できなかったのは残念だが、この講義はとても興味深かった。

Suzu0705    reply

今回の講義で、科学者が信頼されるには複数の主体がそれぞれの条件を満たさなければならないということがわかった。まず、科学者自身がデータの改ざんやねつ造に手を染めることなく、職業倫理を遵守すること。次に、市民が支持政党の方針に盲目的に従うことなく、自ら「考える」ことを怠らないということ。最後に、政府が自身の利益のために科学者のデータに無責任な疑いのまなざしを向けないということ。私は将来科学者になる予定はないので、これらのことを念頭に置いてその科学者が信頼に値するかどうかを吟味し、環境問題等に対して適切な判断を行っていきたい。

ayana2630    reply

トランスサイエンスのお話を聞いて、現在特に話題になっている原発の「処理水」についての問題において、まさにこの領域が1つ大切になってくると思いました。科学(化学)的なエビデンスに基づく説明と理解、感情や将来性も含めた住民や自治体などの合意形成、政治的判断。決して科学だけではない、けれど科学なしでは解決できない、そんな問題だと思います。
講義の中で、信頼の構成要素は「価値共有」のもとでの「能力」と「意図(人柄)」であり、問題の多くが意図への不信によるものだという説明をしていただきました。これについて、逆に、暴露本や告発といったものが大きな騒動になる1つの要因として、その情報を発する本人にとってその行為がプラスにならない、あるいはむしろマイナスになると思われる場合に意図の要素が満たされ、信頼が高まるということなのだろうと思いました。反対に、それをされた側(企業など)にとっては、それに対する釈明や否定が意図の要素の欠如によって事態を悪化させることにも繋がりうるのだと思いました。信頼は、裏切られることで簡単に失われ、権力がある対象こそその傾向が大きいと思います。スーパーカミオカンデの事故の例は、事故の公表を自ら迅速に正確に十分行ったからこそだと理解できました。
私たちは、誰もが発信でき情報過多な時代に存在し、かつ簡単な答えを好みやすいのではないかと思います。ある問題に対して、多くの多様な意見を得られることで時に混乱することもあれば、しばしば特定の意見だけのフィルターバブルに覆われてその考えが多数派かつ正しいと思いこむこともあります。このようなフィルターバブルを破り、自ら調べよく考えることを大切にしていこうと思います。そして私たちは、誰もが何かしらの分野に関する専門家になる可能性があります。だから、自分の発信には責任を持ち、専門家バイアスに陥らないよう様々な可能性を考えつつ、常に他分野や社会との関わりを大切にし続けなければならないと思いました。
興味深い講義をありがとうございました。

tanyn0580    reply

 まずは、科学と信頼の問題が遠く、ニュースや授業だけで触れ合うことでは
なく、横山先生が生きている世界の問題であるのが最初の印象であった。
次に、人々は一人で世界の全ての情報をアクセスする時間も能力もないため
、大多数の人は信頼できそうな人を決め、その人たちからの情報をそのまま
信じてしまう。たしかに、科学者や大統領は信頼できる存在であるべきだが
、今の世界ではそうではない。例えばアメリカの場合は、デモクラットの視
点から見ると、レパブリカンは頑固で科学を信じないバカな人だけだと言い
やすいが、講義で紹介してくれた通り、科学者も完璧ではなく、データの改
ざんなどを行う科学者もいる。そのため、科学者を信じない人の感情も分か
らなくはない。結局のところ、ひとつひとつの事件より、ものごとの全体を
分かるべきだと思った。例えば地球温暖化に関しては、一人の科学者の誤り
や有力者のお金かつ名誉の意欲より、大事なのはこの地球の将来だというこ
とをみんなが理解すべきだと思った。
 そして、「知らない」ことに対して謙虚な態度をとるのは大事だと主張され
たが、それは学校教育から始まるべきのではないかと思った。今の教育シス
テムは正しい答えを認めるシステムなので、将来の科学者や政治家もそのま
ま「知らない」ということを恐れ続けそう。そうであったら信頼は本当にな
くなってしまう。
 最後に、科学者の仕事は科学を理解することだけではなく、その理解を伝え
ることだと気づいた。時間が足りず全部のスライドを説明できなかったのは
残念だが、この講義はとても興味深かった。

phu884    reply

信頼の3つの構成要素について、今後自分の将来において、とても参考になりそうな内容で面白いと感じました。
疑問点としては、科学の信頼には、科学による社会への影響や被害の大きさなども関係しているのではないかと思いました。例えばスーパーカミオカンデの事故と地球温暖化では、一般社会に及ぼす影響に大きく差があります。その事が前者がすぐに信頼回復され、後者がなかなか受け入れられないという事態に繋がっているのではないでしょうか。

satoshi31    reply

信頼には3つの要素があるという話がとても印象的だった。特に、能力と意図の両方が伴っていることが大切で、東大生の場合だと能力は十分なことが多いが、コミュニケーションが十分にとれていないことから引きおこる意図に対する不信が信頼を妨げているというのが自分の経験からしてもそうだなと思えた。いわゆる飲み二ケーションが重要な役割を担うのはこういう原理なのだなと思った。また、オルテガの科学者批判の話では、専門しか知らないから専門家は間違える、幅広い教養を学ぶことが大切だということを聞いた。よく聞く言葉ではあるが、それほどに大事だということの裏返しでもあると思うので、しっかりとかみしめて、自分に関係ないように思えることを専門外と決めつけて興味の対象からすぐに外してしまうことのないようにしたい。今は前期教養課程で自分の興味ある授業を自由に履修できるので、自分が進むであろう学部では学ばないような授業を積極的に取ろうと思った。

吉村龍平 RY9248    reply

以前、科学者が母親から虐待を受けたと主張する女性の誤記憶を指摘したところ、攻撃されたとその女性から訴えられたという話を聞きました。この場合科学に対する信頼の問題かは微妙なところですが、トランプの温暖化の否定といい、科学は事実の解明によって政策や裁判の論拠になるものであるのに、それをいとも簡単に否定する風潮は疑問に思います。
ただ、その一方で多くの人にとって科学を身近に感じる機会は少なく、また科学者にできるのはあくまで事実の解明で、政治的に動くことは難しいと思うので、科学に対する信頼の回復は難しい課題だと思いました。もし、科学者が信頼を回復するためにできること、もしくはやっていることがあれば教えて頂きたいです。

dan1894    reply

なんの根拠のない”疑い”が決定的な”事実”と張り合う。科学者が科学でいくらエビデンスを示しても、世間は政治家の扇動にのっかてしまう。これは衆人に科学リテラシーがないのが原因だというよりも、政治関係者が人々が科学を軽視する方向に持っていっているのが原因なのではないかと感じた。科学はいまだに世間からの信頼獲得の発展途上にある。そして喫緊の課題は、科学の質(真実性)を維持すること、そして、それを政治のフィルターを通さずにわかりやすく世間に伝えることだと思う。

shiori0310    reply

科学的思考が社会に広く浸透した今の時代、科学者は信頼を得やすいものだと思い込んでいたが、様々な誤った考えなどと闘い信頼を勝ちとらなければならないということが分かった。特に、アメリカ合衆国は国のトップである大統領が誤った情報を広めており、科学者の信頼は危機的状況にあると感じた。これまで、どれほど真摯に研究を重ねてきても、一度データの改竄など信頼を揺るがす行為をしてしまうと人々は科学全体までに疑いの目を向けるようになってしまうため、信頼というものは脆いものだと思った。一方、ニュートリノ実験での事故の際は直後から失敗を認めて素早い対応を行なったおかげで人々からの応援を受けることができたということを聞き、信頼のためには常に真摯な対応をする努力が欠かせないと思った。信頼の三要素の話はとても興味深く、これから大人になるにつれ信頼が重要になる機会が増えると思うので、十分気をつけて行動していこうと思った。特に、能力に部分にばかり気を配り、態度(人柄)の面で信頼を損ねることが多いと思うので、コミュニケーションの設計の際には注意したい。

Tsyun94    reply

 第一回目の授業は自分が理系で物理学科や物理工学科に進みたいということもあり、自分の今後の素養となるものであったと感じております。講義でお聞きしたことの中で自分が印象的に感じたことを二点ほど述べさせていただきます。
 一点目は、科学者だけでなく様々な権威ある人の信頼が低下している中で、横山先生が推奨されていた「信頼の三つの要素」を自分も社会に出る前にきちんと身につける努力をしなくてはということです。このように自分が感じたのは、冒頭部分でニュートリノ研究をなさっていた戸塚先生の話を聞き、科学者が誠意を持って社会からの信頼を失わないようにする対応する重要さに気づいたからです。科学者がいくら研究したいと思っていても、社会に安心・信頼されていないとその研究すらできなくなってしまうという点からみて科学者が社会の信頼を保つことはとても重要です。自分はあまりこれまででこのようなことを深く考えていませんでしたので、授業を聞いている中でこのような対応の必要性が将来自分に求められることになるんだなと実感することができました。また、研究の内容は専門家でもない限りなかなか詳細を理解し正しいかどうか判断できないために、社会からの信頼を得るということは何か事故が起きた時の対応や常日頃の態度に大きく依存しているのだなということも同時に感じました。  
 二点目は、横山先生が物理学科に進学し、科学をきちんと学んだ上で社会に対してその科学を伝える仕事をしているんだと冒頭部分で熱く語ってくださったことです。この横山先生の仕事はまさに社会と研究をしている科学者をつなげる仕事であり、近頃社会に対して科学を学んで何をすることができるのだろうかと考えている自分にとって新しい考え方、選択肢でした。先生がこのような道を選択されてきた経緯というものをもっとお聞きしたかったです。自分も何か社会のために、学んできたことを活かせるよう常に考えていきたいと思います。
 今回は講義をしていただきありがとうございました。

yuto0813    reply

横山先生自身が、科学と社会をつなぐことを目標にしているとおっしゃっており、文系の自分にとってもとても理解しやすい講義内容だった。前半は、科学者と一般大衆との信頼関係をどのように構築するのかという講義で、東北地方出身で原発問題を身近に経験した私にとっても興味深い内容であった。科学者がデータの改ざんを行うなどの事例が挙げられていたが、これは財務省における公文書改ざんの問題にも通じるところがあると感じられ、文理問わず、一般大衆と信頼関係を構築していくことは重要な問題だと感じた。信頼してもらう上で重要な要素は「価値共有」のもと「能力」と「意図」ということで、その中でもとりわけ「意図」が疑われることが多いとおしゃっており、これから他人と信頼関係を構築上で参考にしてみようと思った。

goto114    reply

今回の講義は「科学者の信頼、その構造」という題の通り、科学系の学生に向けて、「信頼を得ること」について、その方法論をスーパーカミオカンデの再建といった具体的な事例を用いながら解説するという内容だった。私は文系の学生で、専門は哲学だが、講義の中にあった方法論については、人文系の研究、ひいては日常生活にも通じるところがあると感じた。講義の中で何度も強調されていたのが、「信頼の三つの構成要素は、『価値共有』の元、『能力』と『意図(人柄)』」という理論である。
「価値共有」とはどういうことだろうか。例えばロケットの打ち上げにおいて、万一打ち上げに失敗した場合は、それを海上で撃ち落とすことがある。そのため、ロケットの打ち上げの際は、被害が出ないように漁も制限されることになる。しかし、漁を制限されることは、当然漁業関係者にとっては好ましくないことであり、ここで利害の対立が起こる。この対立を解消するために話し合いの場が設けられるわけだが、そこで「ロケットを打ち上げることの価値」を共有しなくてはならない。おそらくは、ロケットの打ち上げが科学の分野、ひいては我々の社会に貢献するということの説明なしには事は進まないのだろうが、そのことによる価値の共有は、場合によってはいささか困難である。よく言われるように、例えば科学の分野での基礎研究は、その研究が直接に社会に貢献すると必ずしも言い難い(結果的に貢献することはあっても、それは結果が出るまでわからない)という点で、世間の承認を得ることが難しい。そういった研究が社会的承認を得るには、例えばノーベル賞など、専門家による価値判断と世間の評価が交差する点で成果を挙げるなどの方法が考えられるが、それには高いハードルがある。人文系の研究についていえば、これらの研究にはノーベル賞に比肩するような、世間的にも注目度の高い賞が与えられる機会が少ない。そのうえ、「この研究をすれば、こういう技術が生まれ、社会が良くなります」とわかりやすい結果を提示することが難しい点でも、人文系の研究は、科学系の研究より社会的に弱い立場にあると言える。駆け出しの研究、マイナーな研究、人文系の研究、それらを埋もれさせないために、われわれはどうやって社会の信頼を勝ち取ればよいのか。
講義の中にそのヒントがあった。「飲み会が何より、漁業関係者とロケット打ち上げに関わる人々との関係性を良好なものにする」という言葉だ。飲み会でお互いの思いや状況を忌憚なくさらけ出し、科学者ー漁業関係者の関係から、人と人の関係になるということが、信頼を得る上で何よりの手助けになる、という事である。情熱を傾けている姿を見てもらうことが何より、信頼を勝ち得る、という指摘は、大変興味深いものだった。自分が「この人、なんだかいい人だな、情熱的だな」と思っている人が大切にしているもの・価値を感じているものが、自分自身にとっても価値のあるものになる、という経験は私自身も覚えがある。
また、「能力」と「意図」について、専門家と社会の間で認識の齟齬があるという指摘も興味深かった。つまり、専門家はその「能力の十分さ」が信頼の基盤になると考えている一方で、「意図の十分さ(語られる意図の真実の度合いの高さ)」については配慮不足で、それこそがまさに社会が信頼の根拠として求めているものだ、ということである。
私が将来研究者になるかどうかはわからないが、何か成し遂げたいと思い、そのために他人にその価値を共有しなくてはならない場面というのは、これから先きっと出てくることと思う。その時には、今日の講義で語られた信頼を勝ち得るための方法論を思い出すことだろう。

Satoshi1024    reply

私は大学受験を経験するまで、科学者に対する絶対な信頼を抱いていました。その感情が崩れ始めたのは大学受験のための勉強をする際、科学への批判を趣旨とする文章を多く読んだことがきっかけでした。それ以来新たな科学技術に対して信頼と懐疑の混合した複雑な感情を抱くようになりました。この講義を経て学んだことは、科学は政治、政策と断ち切れない関係があるということ、また科学が自身の信頼を社会から得るためどのような取り組みをしているかということでした。特に具体例として挙げられたニュートリノ研究の事故における戸塚先生の対応などは科学者の信頼という観点を抜きにしても傾聴に値するものであり、今後に是非活かしたいと強く感じました。信頼の構成要素のうち「意図」がとても厄介なものであり、しばしば原発問題の要因ともなるという事例は非常に理解しやすかったです。

kfm1357    reply

横山先生は、講義の中でスーパーカミオカンデでの事故に関する対応を例に危機管理と信頼をお話しされた。当時の対応を評価して、迅速な初動対応と誠実な情報公開が良かったとおっしゃった。この話を聞いて思い出した問題があったため、その問題について検討してみたい。ただし、特定の企業を批判することは意図しない。
近年、建物の免震ゴムの検査不正が明らかになった。性能の誤差に関してどのような契約が結ばれていたか定かではないが、今回の件では顧客との契約違反であろう。契約に関する問題も重要であるが、本コメントの主眼ではないので、次の問題に移る。
技術面に関して詳細な知識がないため、安易に言及することはできないが、おそらく免震ゴムは震度7クラスの揺れを何度も受けても耐久できる設計のはずであり、多少免震ゴムの性能が落ちたとしても、震度7クラスの揺れを数回は耐えられるであろう。これが事実であれば、できる限り建物の利用者を安心させる情報公開が必要だろう。さらに、今回の件では、検査不正品が使用された建物がどの建物であるかの公表が遅かった。まず検査不正品が使用された公的な建物が公表されたが、次々に対象の建物が発覚していった。また、不動産価値の観点で、マンションといった民間の建物での公表は行われなかった。確かにこの判断は致し方ない。しかし、民間の建物への通知がかなり遅くなり、住民の漠然とした不安感が高まっていたと推察できる。さらに、建物の管理会社から実際に住民に事実が伝えられたのは相当あとになってからであったと予想できる。
以上のように考えると、不正の規模を正確に把握するのは時間のかかることであるが、この把握と全容の公表を可能な限り迅速に行うことが肝要だろう。あわせて、最初の発覚から全容の把握までに時間がかかることはほぼ間違いないため、このラグの間は特に誠実に対応することも大切だろう。

参考:https://www.jiji.com/jc/v7?id=201810kyb (最終アクセス2019年10月1日)

rshimamura    reply

まず、カブリ研究所に科学者の信頼問題に関する調査をしている先生がいらっしゃることに驚きました!宇宙の探求のためには当然、国民/市民からのサポートは必要なわけで、宇宙探究にマクロに取り組もうとするIPMUの姿勢が窺え、嬉しかったです。

信頼は共通見識の土台の上に能力と人格が備わってできるという点は、現在学生団体でリクルーティングしている身としては響くものがあり、信頼に対する理解が深まりました!

お時間を割いて講義に来ていただき、ありがとうございました!

sanryo1335    reply

今回は「科学者の信頼」ということで、現代社会の人々の目からすればある意味圧倒的な説得力を持つ科学も、なんの検証なしに盲目的に信用してよいものではない、ということが再確認出来ました。いくつかの例があげられていましたが、特に科学者による改ざん事件であるクライメートゲート事件は衝撃的な事例でした。また、講義終盤で説明されていた科学者批判や科学者バイアスについても、科学に触れる機会の多い我々が十分に注意すべき点だと思いました。現代人は科学の示す理論や観測結果といった「事実」に権威を見出し、つい無条件に信頼しがちですが、その「事実」を生み出す科学に対しても自ら真偽を問うていく姿勢が必要なのだと考えます。

shooji68    reply

大変興味深い講義でした。ありがとうございました。
先生が仰った内容に関してですが、私は今まで「温暖化などない」と考えていました。
そう考えるようになった契機は、確か昨年か一昨年の夏にとある気象予報士が当時の猛暑の様子を「千年猛暑」と例えていたことです。
この言葉は裏を返せば「千年前は今と同様もしくはそれ以上に暑い」ということになります。
以降私は、昨今の平均気温の上昇は千年もしくはそれより短い周期の気候変動の波によるものだと思い込んでいました。
特に排出量取引に関しては疑念の目を向けていました。
先生の講義を拝聴してからは、温暖化の実在についてだけでなく、「トランスサイエンス」という領域についても考えるようになりました。
貴重なお話ありがとうございました。

4geta6    reply

ここでは、科学を信頼する、とはどういうことなのか考えてみたい。
まず、先生の講義を聞いて、次のような問いが浮かんできた。「科学を信頼すること、と、科学者を信頼すること、は同じなのだろうか。」一般的な感覚として、「科学」と「科学者」は質的に違うから、科学を信頼することと科学者を信頼することは違うように思える。しかし、実態としてはどうなのであろうか。科学を信頼する、といったときの「科学」とはさしずめ知の一形態であろう。(尚、この文章における科学は自然科学のことを指している。)科学は概念であり、我々はそれが何たるかを直截的に把握することはできないが、その姿のほんの一部を間接的に伺い知ることはできる。その媒体とは、科学技術であったり、定理だったりするが、その大元は科学者である。我々は科学を科学者を通じて見ようとしているのである。そして、ここに、科学の信頼が簡単に失われてしまうメカニズムがある。現実世界においては、科学と科学者とが密接な関係を持っているため、科学者への不信感は科学への不信感へとゆくゆくは連鎖していってしまうのである。実態として、科学を信頼することと科学者を信頼することは重なっている。
以上が実態として起こっていることだとして、科学を信頼をする、とは一体何なのだろうか。科学者への不信感から科学の信頼性を否定するのは間違っている、という意見は理解できる。しかし、もし、科学者を信頼することとは区別されたものとして、科学を信頼するということを考えるならば、それは宗教のようなものではないだろうか。人間は間違える。ゆえに科学者も間違える。また、人間は嘘をつくのであり、ゆえに科学者も嘘をつく。そして、そもそも、我々は科学を科学者を通してしか知り得ない。正しいとされていた原理、法則が次々と塗り替えられていったり、科学者のデータ偽装が一つまた一つと暴かれたりするのを目にしながらも、科学者を通してしか感受することのできない科学というものを信頼するということ、それは、唯一絶対の真理への信仰のように私には思えてくるのである。
先生は、科学を信頼するということは、科学を信仰するということであるとの意見についてどう思いますか。

横山広美    reply

皆さん、
コメントをありがとうございます。これから専門性を学んでいく上で必要な専門知と公共性、その信頼構造について、講義をいたしましたがそれぞれに受け止めてくださったと拝見しました。スライド最後に20冊を超える関連書を紹介しました。ぜひ手にとってみてください。また本郷や柏でお目にかかれることを楽しみにしています。

martian5    reply

 貴重な講義、ありがとうございました。
 今回の講義で考えさせられたのは科学が信頼という言葉とともに語られるという事象自体の構造についてです。科学と社会との関係を科学、科学を媒体する代表、媒体された科学の受容体という三つの役の関係と見立てて考えるならば、科学を媒体する代表は科学者、媒体された科学の受容体は社会全体と考えることができると仮定します。なお、“社会全体”は科学者自身も含まれると考えることとします。
 科学と信頼という言葉がともに語られている事態というのはすなわち、科学が社会と接触する際、科学の表象が社会にとって正当性を欠いたものになっていると考えられます。この際、先にあげた三つの関係で考える上で、科学と科学を代弁する科学者をそれぞれある変数と考え、それを受容する社会全体をそれらの変数に従属する変数であると考えるとします。この方法を取るのは社会全体の科学の受容の仕方が議論の対象になっている以上社会の科学に対する反応を出力としてみなすことが考えの前提にあるだろうと判断したからです。
 以上を前提とした上で、私が以前もっていた考えを述べるとします。科学とはそれ自体では普遍的に真なる命題の集合、体系にすぎず、仮に真でない命題を科学の一部とするならばそれは科学の定義に矛盾する行為であると考えていました。したがって科学が社会によって信頼という言葉とともに語られる、すなわち科学というものになんらかの疑いの目が向けられるのは、ひとえに科学を社会に伝達される役目をも担う科学者集団による伝達方法の選択の結果に過ぎないと考えていました。
 しかしながら、大学で科学哲学などの授業を受けたり、本講義について反省を行ったりする過程で、科学という概念自体極めて曖昧な定義を持つものであり、科学自体を普遍的に真なる命題の集合として捉える行為に無理がある、と考えるようになりました。すなわち、科学者という変数の揺らぎに加え、科学という概念自体の孕む揺らぎが相まって科学の真性という概念の揺らぎを引き起こしていると考えるようになりました。ここでいう揺らぎとは科学の真性にたいする揺らぎのことを指しています。このように考えるならば、以前抱いていた自分の考えは科学を絶体視、神聖視する考え方の一つであると気づきました。おそらく以前の自分の考え方には物事を単純に考えることができるという、宗教の持つもっとも魅力的性質があったと思いますが、別の考え方に触れた今、あえて以前の考え方を固持することは何らかの政治的な意図を持った行為のように感じられるようになってしまいました。これからも考えを深めていこうと思います。

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