I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.2 2019.10.02

comments(最新2件 / 29)

ryo.k777    reply

現在の医薬品の業界についてかなり懐疑的になった。世の中をうまく動かすためにはある一定のルールやガイドラインが必要で、問題が確実に生じないようにそれらを事前に定めることの難しさも痛感した。「信頼」という点に関しては素性も知らない人間が「安全」だと評価した薬を何の疑いもなく摂取していた自分は呑気だったと思った。私は工学部への進学が内定しているが、安全性への評価に際して「安全」だと言わなければならない立場になるかもしれないということに責任を感じるとともに、少し恐怖も覚えた。

Tyuki23    reply

私たちは風邪を引いたときや何らかの病気にかかったときに病院に行き、処方される薬をあまり深く考えることなく服用しているが、本講義を受けてみると自分が服用する薬は本当に効果があるのか、また副作用はないのかという疑念が生まれた。この「効果がある」、「副作用がある」という言葉の意味を論理を使って厳密に考えなければいけないという点はとても新鮮だった。確かに市販の薬でもそのような曖昧な表記の仕方がしばしばなされていると感じる。言葉の定義の仕方によっては薬に対する信頼というものも揺らいでしまう可能性があるためこの定義について議論することは非常に意義があることであるが、議論が終わることは容易ではないということを今回学んだ。また、医薬品がらみの不祥事(表に出たものだけではあるが)が日本国内だけでも相当数あることに驚いた。加えて薬の副作用等によるものだけでなくデータの操作等、意図的なものも多く、薬に対する信頼が多少揺らいでしまった。私は昔から漢方を飲むことが多く、その多くは動物性由来であり、私自身はその効果を実感しているが、よくよく考えてみると効用はかなり曖昧なものになっている。今一度自分が服用する薬について効用などを確かめ、何も考えずに飲むということはしないようにしたい。

youcan19    reply

安全な薬かどうかのチェックリストを作ったとしてもそのチェックをした人が適格であったかどうかがわからないためそのチェックをする人が必要で、さらにそのチェックした人をチェックする人も必要で......と無限にチェックをしなければいけなくなってしまうため、実際にはどこかでそれをやめてチェックした人を信頼する必要があるということを知った。また、がん患者の感じる疲労と、患者をみて医者が判断する患者の疲労では差があり、主観的な疲労よりも客観的な疲労のほうが患者の生存率との相関が強いということを聞いて驚いた。自分が一番わかっているはずである疲労も実際には他者から見たほうが正確に寿命を予測できるというのは興味深かった。
薬の有効性や安全性の基準は厳密に定められたものではなく漠然としたものであるということを聞いて、今実際に服用している薬が本当に効いているのか、重篤な副作用を引き起こすことは無いのか少し心配になった。

lyu39    reply

文系の学生として日々社会科学や人文科学で時々用いられた形而上学的・経験的な方法論に触れており、研究者たちはそれなりの厳密さを追求していますが、やはり主観や偏見が入りうるような隙間のようなものが存在するように私には思えました(まだ一年生の分際でこんな僭越なことを言って申し訳ありませんが)。なので量的な実験などで進められてきた自然科学は客観的で信憑性があるのだろうなという印象を持っていました。概念として用いられた「平均人」は実在しない以上、人間や社会といった複雑性に富んだ主体を扱う学問である以上、自然科学か人文・社会科学かに関わらず絶対的な厳密さはある意味でありえないし、疑いようのない客観的な結論もそう得られないのでは、とこの授業を聞いて考えました。この授業では薬を中心に信頼についてのトピックが展開されていますが、信頼できる結論の導き方・方法論と、それが実際に社会から信頼を得るアプローチについて考えさせられた、啓発的な内容でした。十分に理解できているとは言い難いかもしれませんが、要するに、厳密とされている実験科学にも、複雑で多様的な対象をモデル化することで現実とのギャップが生じたり、物事について考えるベースとなっている言葉そのものに一種の不確か性があったりといった信頼を妨げる要素が含まれている、ということなのでしょうか。

baya0903    reply

「効く」という概念についての一項述語、二項述語の考え方が刺激的でした。これは、社会保障・福祉、公共政策においても有効な考え方であり、「誰に効く」政策であるかという、対象を、仮構された「国民」という概念に帰属させてしまうことへの警鐘ともなると考えました。つまり、たしかに誰が国民であるかは(ある程度)確定できるが、その国民がどのような属性であり、何を要求するかは、マジョリティの思考枠組みの中では正しく把握されえないでしょう。指導者によるこのような先入観を監査する際に生じる、無限性のパラドクスは、こと政治領域においては多元的民主主義によって解決が模索されるべきであると考えました。

Suzu0705    reply

今回の講義は、テーマとなっている「信頼」だけではなく製薬業界の黒い話や教養として知っておかなければならないゲーム理論の話、海外の薬事情、臨床試験がどのように(いい加減に)行われているかということなど、実に様々な角度から「薬」というものを学ぶことができた。私が特に興味深いと思ったのは「薬が効く」という表現のはらんでいる矛盾である。今までその矛盾に気づかなかったけれども、いったん指摘されると確かに「何(誰)に対して」効くのかという対象が示されていない。しかし日本国民の多くがごく自然にこの言葉を用い、薬剤師までも「このお薬は良く効きます」と得意げに言っている。誰に対して効くのか。人類全体なのか、日本国民なのか、はたまた同じ国民でも効かない人がいるのか。その定義が曖昧なまま新薬開発に莫大な費用が投じられていく。よく考えたら滑稽な話である。人類皆兄弟という理念だけで薬が世界中の人びとに効くと言い切れるはずがない。しかし実際は、そのような非常に抽象的な理念だけで、日本で販売される新薬の臨床試験が中国で、ハンガリーで、南アフリカで行われているのである。前回の講義では、私は「科学者はいかにして誠実であるべきか、どのようにして信頼されるべきか」という信頼の「表」の面を学んだが、今回の講義では「製薬業界の人びとはいかに信頼できないか」という信頼の「裏」の面を学んだ。同じ言葉なのに人が変わるとこうも話す内容が変わってくるのかと、改めて驚き、またこれからの講義にますます興味がわいた。

pulpo10    reply

薬の周りの産業、薬に限らず、様々な科学において、言葉がふわついていることによって起こる問題について、薬学に関する様々な例を用いて面白おかしく解説してくださっていて、非常に楽しく学ぶことができた。
日常生活において、言葉をそこまでしっかりと使うことは少ないが、科学の分野、こと人命の直接的に関わる薬学の分野において、その重要さはわかりやすかったように思う。
ただ、先生の話にあった通り現状、売れればよし。というビジネス、資本の流れに裏づけられ、言葉がふわっとしたまま資本を持つ側にとって都合のいいように科学が利用されている現状が打破されない、という問題について感じたのは、そう言った問題に対する大衆、いわゆる普通の人、一般人の理解が異様に低い。ということです。
結局市場の言うことに従順な大企業にとって一番重要なものは市場の声、つまりは大衆の総意であるので、その総意に働きかける工夫をしていかなければならない。その際、薬、という分野は人命に関わることでもあるため、大衆にも響きやすく、この、「言葉の明確な使い方の重要性」を認知させていくには非常にやりやすい分野だと考えられます。
が、それを実現していくにあたって、資本にとってのメリットがいまいち思いつかないため、未だ遅々として大衆へのその認知が進まないのだろうなあ、、と感じました。
逆に何かしら、大資本にとっての大きなメリットをそこにつけられれば、と以降考えてみたいと思いました。

chihi0315    reply

市販の薬や病院で処方された薬を服用してあまり効果が感じられなかった時、「この薬は本当に効いてるのか?」と思ったことはあるが、薬を服用する前に「この薬は効くのか」と考えたことはなかった。むしろ病院に行って薬を処方してもらえばなんだか安心感があるし、なんなら少し良くなったような気がする時もあるかもしれない。しかし製薬会社の不正や薬害が実際には無数にあったことを知れば、そんなに盲目に薬の効果を信用するのは危険なのかもしれないと思った。また「薬が効く」という言葉には対象が欠落しているというのは興味深かった。確かにその薬は効くのか明示されていないとその薬の信憑性は薄いと思った。しかしだからと言って製薬会社が個々人に最適な薬をいちいち開発するのは不可能であるし、そもそもそんなことを気にして薬を服用している人なんて恐らくほとんどいないし、今回の講義を受講した私自身もこんなことはあまり気にせずに薬を服用することになるのだから、対象を明示しないことはある意味合理的なのだろうと思った。

tanyn0580    reply

小野先生が薬学だけではなく、統計学、経済学、言語学、心理学、国際関係まで様々な領域も触れて非常に興味深かったと思う。
最初のところ、確かに信頼だというと、最初に頭の中に浮かんで来るのは「ヒト」なので、「もの」も信頼の対象であるという点は気になった。しかし、医薬品の場合でも、講義で説明してくれた通り、その製作者、審査を行う役所、薬を勧める医者、薬を飲む自分などが信頼できるかどうかというのは本当の問題ではないか、つまり、結局のところ、人間がいる世界にいる限り、信頼は必ず人間と関わるものであるのではないかと思った。
そして、講義を通して、100%の信頼が存在しないということが分かった。どんな医薬品、又はどんな状況であっても、例外は必ず存在する。そのため、100%を求めるより、私たちは当たり前だと思ってしまうことについてよりまじめに考え直すべきだと思った。また、人間はおそらく言葉でしか考えを表現できないが、言葉は制限と限界があるため、それについても気付くべきだと思った。また、薬を飲む人は最初から自分には薬が要ると考えているので、それも心理的な効果があるかもしれないと思った。
今回の講義は非常に分かりやすく、色々考えさせ、とてもよかったと思う。

martian5    reply

 貴重な講義ありがとうございました。
 着眼点を「薬」に固定し始まった講義であったため、議論を追うのに専門的な知識を必要とするかと思いましたが、終わった後の感想としては、この「薬」の周りに存在する種々の現象、問題は他分野でも類似の例が見つけられるものが多く、むしろ人間社会に普遍的な人と人との接触に起因するものであると思いました。
 比較的想起しやすい例としては、「当局と企業の(非協力)ゲームというアプローチの例」と題されたスライド(pg. 8)やRCTについての議論などが挙げられるでしょう。これらの概念、考え方は経済学をはじめ様々な分野を横断して広範に浸透しているものであり、その最たる理由はそれらが人と人との関係性に少なからず起因し、影響するものであるからでしょう。また一方で、スライドで指摘されているRCTにまつわる問題点は他分野にもまた還元される知の形態の一つであると思います。
 一方で、「薬」という人の命に直接的に影響するものを扱うからこそ浮かび上がる特殊な論点にも触れることができました。「薬」は市場原理のもとで取引される「商品」としての性質と、人の命という金銭で推し量れない価値をもつものと少なからず共通した価値をもつという性質と、二つの相反する性質の境界に存在する対象であると思います。「薬」がそのようにして商品と生命という概念の境界に位置しているからこそ、「薬」に関係する問題はまた複雑さと特殊性を持っているのでしょう。また、同様のことが「医療」などの分野でも共有されることでしょう。
 「薬」に関して専門的な知識を持たない一般市民は、「薬」の妥当性を議論することは難しく、往々にして「医者」あるいは「AI」など、社会と「薬」を媒体するものに関する議論を行なってしまうと思います。しかし実際には「薬」を用いる主体は患者であり、一般市民です。もしそのような現場でも民主性を尊重するのであれば、患者自身が「薬」を選別することが必要です。しかしながら一般市民に関してはそれが最大の関門となるのでしょう。
 最大の疑問として残るのは、では「薬」を作った人はその「薬」を率先して選択するのだろうか、ということです。これからも考えていきたいです。

ykiki373    reply

授業スライドの中で、製薬会社が意図的では無いものの、人体に悪影響を及ぼすものを薬に混入してしまったことで薬を飲んだ人が亡くなったり、それ以上にひどい事例では、製薬会社が臨床実験の結果を改ざんして薬を販売するなど、身近な薬に対する信頼が揺らいでしまうことばかりが起こっていた。しかも説明されていたのは日本の事例に絞られていて、外国を含めるとものすごい多いと容易に予想できた。また、臨床実験を受けているのが、実際に薬を使用する日本人ではないことも多々あるらしい。その他にも、日本で言う厚生労働省の役人と製薬会社との間に友好関係があり、また役人は薬の承認をはやく行うように指示(命令?)されているために、製薬会社から圧力がかかってしまうと簡単に薬の販売許可が下りてしまっているのではないかと感じた。しかし、これは日本だけで起きている問題ではなく、外国でも起きている問題で、解決策がなかなか見出すことができないと思った。

satoshi31    reply

医薬品の世界においては信頼性や安全性といった言葉が非常に不透明であり、治験の質を保証するチェックリストを作ろうとしてもそれが不完全なものであることや、チェックする担当者への信頼性・適格性といったものはどうやって判断するのかといった問題が残ってしまうことがわかった。薬の効果についての定義がなく、また治験の母集団が日本人ではないこともあるということを知り薬への不信感が強まった。誰に効く薬なのかというのは非常に大事な問題であるのにそれを無視した治験の結果が用いられていることはおかしいのではないかと思った。新薬の承認審査期間がAIによって大幅に短縮ということが事実だとしても私は信頼性という点において今まで通り人が時間をかけてやっていくべきだと思う。

ryo7a    reply

医薬品承認の本質が国家によってとある物質を「薬」とラベリングすること、という指摘。あるいは治験の質を保障するものを保障するもの、そしてこの無限回の繰り返しの揶揄。これらは「上位の権威が下位の権威を与える」という構造に付き物の権威の源泉の不在を指し示していると受け取って良いのだろう。中盤で承認審査が神事であると皮肉っているが、中世であれば国家の権威を与えるのが神であり、神の権威は所与のものとして扱えばそれでよかった。しかし現代にいたり、国家の権威を保障するのが同格の国家というとんでもない欺瞞、あるいは循環エラーのまかり通るこの世界において、「薬」の如き下位の権威でこのようなことが起こるのも致し方ないのだろうか。

yka710    reply

授業の終盤で、「膨大な量の文書を数秒のうちに処理して新薬を認可するAIがあったとして、そのAIが承認した新薬を信頼できるか?」という問いかけを先生がなさっていた。直感的に言えば、答えはノーである。しかし、今回の授業を踏まえると、この問いは「人間が1年間かけて認可した新薬を信頼できるか?」という問いとさほど変わらないのではないかという気がしてくる。生命科学・薬学の高度な知識を持たない我々にとって、新薬承認に至る過程は、それが人間によってなされるか否かに拠らず、不透明なものに変わりないからだ。しかし、現実には我々の医薬品への信頼は極めて厚い。この信頼は、病に対する人間の根源的な恐怖と、それを払拭してくれるかもしれない薬品への期待感によるものだと考えられる。人間は、自分の期待に合致する情報をどうしても信頼してしまう。では、新薬開発に携わる人々はこうした期待にいかにして応えれば良いのか。自分なりの結論としては、100%の信頼がありえない以上、現実的には人為的なミスや不祥事を防ぐ(説明責任や罰則の強化)よりほかに信頼性を高める手段は無いのではないか。今回の講義で人為的要因以外にも薬への信頼を揺さぶるファクター(チェックリストの無限性や母集団の要因など)が存在することがわかったが、かといって医薬品のすべてを疑ってかかるようではかえって健康を害してしまう。自分なりに明確な結論が得られなかったのは残念だが、少なくとも自分が受けようとする医療行為が本当に必要なものなのかを再考する一助にはなると思われる。いずれにせよ、これまで医薬品の効能を盲信してきた自分にとって、本講義の内容は刺激的なものだった。

rshimamura    reply

講義の主軸からはややズレるのだが、40スライド目の「患者『私は疲れ果てている』 医師『いや、あなたは疲れていない』」のスライドが、今の私が考えていることと作用し、最も印象深かった。心理的に「もう限界だ」というところで当人をもうひと押しすることは心の傷を残すことを(周囲のサンプルを見ていて)実感するが、一方で医学的・身体的には医者のほうが「限界」の判断が正しくできるということは、当人の主体性、自己決定の観点で薄気味悪く感じてしまった。

yuto0813    reply

まず初めに、「信頼」と一言で言っても研究分野によってその言葉に対する捉え方がかなり異なるということを認識させられた。今回の授業では、「信頼」を「物をどう信じるか」程度の意味で使用しており、今後の講義ではどのような使われ方、捉えられ方が出てくるのかにも注目してみようと思った。薬に関する不祥事は予想以上に多く、自分の身近でも起こりかねないことだと知り、薬の服用に対して不安も抱いたが、様々な臨床試験を経ているという対策もあるため、メリットとデメリットを考えながら、うまく薬と付き合っていかなければならないと感じた。また、薬を信頼する以前に、謳われている言葉の意味を考えていくべきだというのがとても印象的だった。今まで考えたこともなかったが、確かに「薬が効く」と書かれていても、「誰に」という目的語がなければ意味がない。一見遠回りに思えるかもしれないが、そうやって言葉の意味などを地道に考え使用していくことが、他者との信頼関係の構築に役立つのだろうと感じた。

吉村龍平 RY9248    reply

プラセボ効果を本格的に利用して薬を投与するとなった場合、実薬とプラセボでは製造費等も大きく異なってくるため薬自体の値段に差が出ると思いますが、プラセボ効果を最大限に発揮するためには実薬と同じ値段で投与するのが1番だと思います。
ただ、捉えようによってはそうなると安く作れるものを高く売るというある意味詐欺まがいのことにもなりそうな気がします。
先生はどんな値段設定が適切だと思いますか。

reon2012    reply

今回の薬の信頼についての講義の中で興味深かったのは治験の話である。治験と聞いて高時給高リスクのバイトというイメージは漠然と持っていたが、その質がどのように保証されるかまでは考えたことがなかった。治験の質を保証するチェックリストを作ろうとすると、そのチェックが適切に行われたかのチェックが必要になり、さらにそのチェックのチェックが必要になるという無限のチェックリストが出来上がってしまうという根本的な欠陥が生じてしまうという問題が生じる。これは治験に限った話ではなく、様々な審査や確認にも言える話だと思う。科学の信頼が確立されるにはまだまだ大きな壁がありそうだ。

kfm1357    reply

薬を服用するとき、「薬を飲むことによって病気を治してほしい」や「副作用は絶対に起こってほしくない」と思うことは当然だ。しかし、そう楽観視できるほど、薬を取り巻く状況はたやすいものではない。小野先生が講義中に紹介されたように、薬の服用量は各人によって常に微調整するわけではなく、薬の効果は「平均的」な人を想定しており、また、「医薬品がらみの不祥事は星の数ほどある」。さらに、新薬の開発には、度重なる失敗、巨額の投資費、機関による審査など、多大な努力が必要である。この気の遠くなるような努力は敬意を払うに値する。ただ、その一方で、多額の課徴金をいとも簡単に支払ってしまうほど、製薬企業は膨大な売り上げを得ている。製薬企業は、製造する薬で患者の生命を脅かす可能性があることを常に意識し、謙虚に、透明性を保って、医薬の発展に尽力してほしいと切に願う。

4geta6    reply

先週に引き続き理系の先生の講義だったが、内容のテイストがかなり違い興味深かった。私たちが何気なく使う「信頼性」「安全性」「有効性」といった言葉は、何か言っているようで実は何も言っていないのだと気づかされた。EBPMなど、さまざまな場面で客観的データなるものの重要性が喧伝される今日この頃であるが、無色透明なデータなど存在するのか、そこを疑ってみる必要があると感じた。(開き直れと言っているわけではなく、データをつくる側・受け取る側の双方が自分の行為に批判的に向き合うことが、信頼を盲信と≒にしないために必要ですよね、ということ)
話は変わるが、有名製薬会社の過去の不正について聞いていたとき、信頼はどのように回復されるのか気になった。忘却によって信頼が知らぬ間に回復されているならば(積極的に信頼していなくても、無思考にその会社の商品を買い物カゴに入れていればやっていることは同じだろう)、不正の責任の一端は私たち消費者にもあるかもしれない。

ayana2630    reply

「薬が効く」や「有効性」、「安全性」という言葉は、それだけで何かが保証されているようでとても便利で無意識的に使ってしまうけれど、では、その言葉が何を意味しているのか、その裏にある事象を理解しないことには、思いこみで使うととても危ないと分かりました。
インフォームド・コンセントについて、専門家である医師と患者として同意するかの判断を迫られる素人の間の感覚のズレのようなものにも目を向ける必要性があるのではないだろうかと思いました。例えば、投薬や手術による副作用や不慮の事態が発生する可能性について、確率などを用いた正確で十分といえるような説明を受けたとしても、その受け止め方や認識まで両者の間で共有できるかという点においては、統計学の知識や医療経験、感覚が関わってくるため、難しいものがあると思います。自分自身も、現在、海外渡航のためにワクチンを打ってもらっていて、その病気にかかる確率とワクチンや内服薬で予防できる確率、治る確率などの説明を受けましたが、医師の捉え方とは少しズレがあるように感じました。もっとも、母集団が何を指しているのかも今思い出すと明らかではなかったので、「安全」や「有効」の概念の時点で実際とはズレがあるのかもしれません。
薬という領域だけでなく、言葉について、表面的に想像で捉えるのではなく、その裏付けとされているものについても考慮しつつ、事象を捉えるようにしようと思います。
ありがとうございました。

phu884    reply

医薬品の評価方法は、その原理上有効性や安全性を確保する事ができないという点が印象に残りました。
しかし、仮に薬の信頼性が欠けているとしても、患者は結局それに頼らざるを得ないのではないでしょうか?

Tsyun94    reply

 薬品に関する信頼ということで今回授業をしてくださった中でまず感じたことはやはり専門的な内容が一般人にわからない以上その説明責任と周りからの同意を丁寧に取る過程はとても大切だなと感じました。ことに今回の議題は場合によっては深刻な健康被害や死につながるリスクを秘めているだけにその扱いはとてもセンシティブなものかと思っていたのですがあの様な事故が起こっていたことを知り、薬に対する信頼性の問題の難しさを感じました。
 この講義で一番面白いなと思ったのは治験のチェックリストのところ先生がおしゃっていた完全なチェックリストは存在せず現実に存在するチェックリストでいくらその正当性を他の人がチェックしたとしても無限にその作業が続くことになるという部分です。この様なことは医療の現場や生命科学の研究などある程度個体差による不確実性を伴った分野ならば起き得ることであり、物理学などの理論と実験によって成り立っている世界とはまた違うのかなということを感じました。
 先生はおっしゃっていた様に自分の思う信頼という言葉の意味にとらわれずひとつの言葉の新たな側面を垣間見ることが信頼の授業でできれば良いなと思います。今回は講義ありがとうございました。

shiori0310    reply

薬品はきちんと公的機関の認可を得ているので信頼が置けるものだと思い込んでいたが、そうではないということを知って驚いた。特にアメリカでは薬品会社とFDAの間で様々な不祥事が起こっていたと知り、薬品開発においてもっとも先進的な国でそのようなことが起こるのでは、薬品とはそう簡単に信用のおけるものではないのかもしれないと思った。しかし、我々は病に冒されることも人生の中で少なからずあるので、消費者としては薬品の認可のプロセスやどのようにして有効で安全性の確保された薬を見極めるのかを知っておくのは重要だと思った。また、開発者や認可を行う側に対しては、多くの人の健康や生命に関わるものだという自覚を持って欲しいと思った。

Satoshi1024    reply

薬品会社と公的機関における不祥事の存在を知り、薬品の信頼というのは思っていたよりもずっと脆いものかもしれないと思った。しかしながら、今回の講義を通して薬の信頼性や有効性とはどういったものなのか、新薬開発や治験、認可など様々な事例を通して知ることができ薬についてより理解を深めることができた。特に、囚人のジレンマを用いた当局と企業の関係性の説明はとても興味深く、面白かった。

shooji68    reply

「薬が効く」という当たり前の言葉の意味を疑うなど考えたこともありませんでした。
このことは薬に限らず、あらゆる「信頼」の再検討につながるものだとも感じました。
また、製薬現場の生々しいコメントを拝聴でき、貴重な経験となりました。

goto114    reply

薬が効くとはどういうことか。というタイトルでしたが、薬を売ることはどういうことか、効く薬を作るということはどういうことか、そんなことについても考えさせられた講義でした。
講義の中で一番衝撃的だったのは、新薬の承認は見ようによってはただの儀式かもしれない、ということ。「この薬には効果が認められます、資料もトラック3台分あります、売ってよし」。そうなのか、ほんとうにそうなのか。ほんとうに効果はあるのか、誰に対してあるのか、どのような用法のもとで効果があるのか、実験の結果は正しいのか、データの取り方に問題はないのか、副作用はないのか、適切にチェックが行われたのか……。確かに、追求しだせばきりがなく、承認作業に携わっている役所の方々も、最終的には祈るような気持ちでハンコを押すのかもしれない。神のみぞ知る。新薬を承認している人たちでさえそうなら、具体的なデータや創薬についての知識を持たない一般人の我々はなおさら薬の効果を疑っていたっておかしくはないように思える。しかし、それでも私たちは薬に対してある一定の信頼を置いているのであって、もしも私たちが信用するものがそこに何かあるとすれば、それはおそらく、薬そのものではなく、その効果でもなく、その薬を作り、あるいはその薬を承認するために奔走したであろう多くの人々の血と汗と涙と、何かよくわからない執念のようなもの、彼らの仕事に対するある種の誠実さなのだと思う(自分たちの作ったものに誇りを持っている製薬会社の方々には大変失礼な言い方になってしまい、申し訳ありません)。
中国の製薬会社の前局長が、1億円の収賄で死刑になった。偽薬承認で1億円の命。安すぎる。
けれど、もしも私たちの信じていた「製薬に携わる人々の、仕事への誠実さ」がないとなれば、きっとそのくらい高くつくんだろう。その一方で、収賄でぼろ儲けした上に製薬会社の重役に転身したFDAの役員がいる。なぜ誰も彼を糾弾できないんだろう。薬を信じている人などそもそもいなかったのか、それとも、薬への信頼は、その程度で揺らぐものではないというのか。
有効性とは、安全性とは、という言葉の定義をはっきりさせないことには、それを保証しようもない、という結論には、確かにそうだ、思ったのと同時に、その大変な仕事を請け負いたいと思う人が、そして実行に移す人がどれだけいるか、という考えも浮かんだ。薬が効くとみんなが信じている、そしてその薬はある程度あらかじめ期待されたところの効果を発揮する、という現状に、満足していないにせよ、不満こそないという人は大多数だと思う。薬が効くということは、ある種神話的な出来事であるにせよ、そこにはある程度の裏付けと、人間の血が通った行為がある、それだけで十分ではないのか。

sanryo1335    reply

今回は薬の信頼というテーマで、医薬品の研究開発における「信頼性」と医薬品そのものの効果等に関わる「信頼性」の両面からお話いただきました。
前半の内容については、製薬会社や省庁関係の汚職、不祥事が多いという話を自分もよく耳にすることがあったので、違和感なく聞くことができました。また、実地調査によってデータの質を保証しようというプロセス自体に論理的な欠陥が存在しているという点について、チェックリストの設問づくりを例に説明されていました。これは、信頼性を「誰が」担保するのかという問題として考えると、薬の世界のみならず他分野でも考えるべきテーマであると思いました。
後半では、まず薬の効果の「定義」について、薬理作用だけでなくプラセボ効果も含めて薬が「効く」ということになるというお話があり、少し驚きました。臨床試験では、プラセボ群と投薬群を比較して薬の有効性を確認するという話を以前聞いたことがありましたが、プラセボ製薬の実例などを鑑みても、プラセボ効果を完全に排除することは難しいという事実は興味深いものだと思いました。
最後のお話で、新薬の承認をAIが一瞬で行うようになったら信頼できるかという問いがありましたが、これは人間の価値観に関わる難しいものだと感じました。近い将来AIが人間を能力的に超える時代が来たら、「人間の行為」に信頼を置く従来の価値観は逆転しうるのではと考えました。

小野俊介(薬学部教員)    reply

受講した駒場の皆さん、お疲れさまでした。
ややこしい話をしたのに、講義をちゃんと聴く力が高いことに感心しました。また、コメントも思考の跡がにじみ出ていて素晴らしいと思います。本郷の学生さんに爪の垢を煎じて飲ませたいです。
薬のビジネスの世界の怪しさ(そして、たくましさ)、医薬品評価という科学風の営みの怪しさをいろいろと説明しましたが、そこでメシを食っている人たち(私を含む)は悪人ではありません(偽善者ではあるかもしれないけど)。また長い目でトータルに見た時に社会に害をなしているわけでもなさそうです(おそらく)。皆さんもお腹が痛くなったら、お医者さんに行ったり、薬を飲んだりすると思います。私の講義のことなどすっかり忘れて。それでOKです。というか、むしろそうしてください。
いろいろな学問に触れていると、いろいろなことが怪しく思えてきます。むろん自分自身も。それがとても愉快なのですが、でも、それを愉快だと思えるのは、やはり自分が何か大きなものを信頼しているからだと思います。それって何だろう?
がんばって勉強してください。立派な徳のある大人になってください。

More

Post a Comment

 
Other Lessons

Loading...