中国の学生との共同フィールドワークを体験したい

学生による意見・感想 東大×南大共同フィールドワークin東京【11月】2012年度

受講した講義に関する考え/意見・感想(南大M1)

私はこの一週間でいくつかの授業を受けた。その中に、とても興味を持っている二つの授業は刈間先生の「映画論―中国映画とその表象」と清水先生の「変容」であった。「映画論」の授業では、中国で有名な監督である陳凱歌の映画を紹介してくださった。主に「黄色い大地」と「大閲兵」という二つの映画を紹介された。その中に、「大閲兵」という映画は深い印象に残った。この映画は1985年に撮影された映画である。激しい起伏はあまりなく、全体的に穏やかなリズムだと思う。これは私が生まれる前の作品であり、私はその時代の映画をあまり見たことがなくて、非常におもしろかったと思う。この授業のおかげで、中国の昔の映画に興味を持つようになった。「大閲兵」という作品が撮影されたのはちょうど建国35年にあたって、文化大革命が終わって10年も経ってなく、中国は発展し始める時期である。この映画は個人の個性は国家或いは集団の利益に従うという思想を表している。それ故、この映画を撮影した目的は何かといえば、建国35年、それに中国が古い時代から脱して新しい発展する時代に入ろうとする微妙な時期にあたっては、非常に意義があると思う。違う時代の映画を通じて、その時代の社会背景や文化、人間性がわかるようになると感じた。

二つ目の授業は清水先生の「変容」*1である。私たちの今まで伝承してきた考え方では、人間は男性と女性のように分かれられている。したがって、恋愛と結婚というのも男性と女性の結合である。しかし、同性愛という現象がだんだん普遍的になってきている。これに対して、引き受ける態度もあれば、それに対して批判する態度のほうが多数である。これはなぜかといえば、同性愛ということは人々の今までずっともっといる価値観に背いているからである。しかし、異性愛者として同性愛の存在が理解できないと同じように、同性愛者としては異性愛のほうが合理的ではないと考えてもいいだろう。性というものは生理的のセックスと身体に意味づける文化的のジェンダーのように分けられている。今、多くの人は性に対してやはり「男」と「女」のような考え方に制限されている。しかし科学と医学技術の進歩にしたがって、生理的の男女の区別がぼんやりになる可能性もあれば、人々の思想がオープンで自由になるにしたがって、文化的の男女の区別もはっきりしなくなる傾向がみえる。人々は男、女のような存在がなくなり、だれでもただ一人の人間として存在するようになる可能性がある。したがって、異性愛か同性愛かの存在もなくなり、互いに引かれあう人間であれば、恋愛や結婚ができるようにもなると思う。これは「性の変容」に対して、私なりの拙見である。

今の社会には
自分の専攻の知識しか身につけない人より
多様性な人材が必要とされている

教養学部の授業を受けたら、教養だというものは大学生に対して実に不可欠なものだと私は思った。今の社会には自分の専攻の知識しか身につけない人より、多様性な人材が必要とされていると思う。だから、教養学部に入れば、いろいろ勉強できると思う。それに、先生たちは親切で、授業は面白かった。

(南京大学日本語科修士1年)

*1 2012年度テーマ講義『変容』「変わるもの、変えられないもの、変わってしまうもの」

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