ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第5回 11月07日 清水 晶子

変わるもの、変えられないもの、変わってしまうもの

固定的なアイデンティティや主体への批判をその出発点において取り入れたクィア理論は、そのため、しばしば可塑性や流動性に注目する議論として理解されてきました。とりわけ、セクシュアリティの流動性や創造的なジェンダー・パフォーマンスへの着目は、クィア理論のいわば「華やかで楽しそうな」魅力であった と言っても良いでしょう。けれども同時に、病によって「変容」を余儀なくされる身体や、あるいは「変容」のままならなさといったテーマもまた、クィア理論 にはその最初からつきまとっています。本講義ではクィア理論が「変容」をめぐるこの2つの側面をいかに扱ってきたのかを説明しながら、「わたし」や「わたしの身体」が「変容する」とはどういう事なのかを、考えていきたいと思います。

※ この講義では、普段中継を聴講している南京大学日本語科の学生の一部が、東大の同じ教室で一緒に聴講します。詳しくはこちらをご覧ください。
講師紹介

清水 晶子
東京大学大学院情報学環/総合文化研究科准教授。 英文学修士(東京大学)、MA in Sexual Politics、 PhD in Critical and Cultural Theory (University of Wales, Cardiff)。主な研究分野はフェミニズム/クィア理論。著書にLying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision(Peter Lang Pub Inc, 2008)。
授業風景

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コメント(最新2件 / 5)

koco2    reply

現代の日本では「ニューハーフ」としてテレビに出演する方や「おかま」としてのキャラクターを売りにする方が多く見られ、それが一般家庭にも浸透している一方、女性同性愛を公表(この言葉自体が不自然ですが)する方は少なく、また男性同性愛者の現実的な生活に関しても広い理解がなされているとは言い難い状況です。今回、クィア理論の背景としてアメリカのフェミニズム運動のお話を聞いたわけですが、私は日本の社会が、ある意味表層での受容を行うことでアメリカのように、より本質的な社会問題となることを避けているような印象を受けました。私は二回の講義を通して、まず自分がクィア理論と向き合い、それを社会を考える上での一つの本質的な視座にできるよう、心して授業に取り組みたいと思います。

You    reply

クィア理論とクィア・ムーブメント、またバトラーの理論などは耳に新しく、非常に興味深いものでした。ジェンダー論を語るときは「ジェンダーとは何か」を意識しなければ無為になってしまいかねない、と誰か(名のある教授ではなく確か友人だった気がします)に言われた覚えがあり、それを今真に理解できたような気がします。今世界中で女性やマイノリティとその環境を巡る論争が変容しつつある中で、捉え方自体が変容しつつあるのは、表面的な問題の解決ではなくもっと根源的な何かを解決しようという意志を感じて、面白いです。次回の講義を受けて、さらなる理解と新たな視点を得られることを楽しみにしています。ありがとうございました。

mushamusha    reply

社会的マイノリティーが同化しようとする運動を僕はむしろ嫌っています。それよりもむしろ差異を強調することによって自己主張し、己の存在を認めさせる方がずっとへりくだっていない正しいやり方だと思います。これは個人の間でもいえることです。相手に合わせるということは、自分を相手に従属させ、永遠に相手なしでは自分を決められない状態を作ってしまうことになるのですから。それから、女性の定義とはなんなのかということですが、定義というのは何かを当てはめようとするたびに考え直さなくてはならないものなのだと思います。つまり、イデア論のようなものです。リンゴは赤いと言っただけでは言い切ったことにならない。リンゴを見て、なぜこれがリンゴなのか、というのを考えていくことによってますますリンゴははっきりとした印象を持ちますし、何よりもリンゴを決めつけないで済むというメリットがあります。定義はあいまいにしておいて、手つかずにしておくというのが正しいというよりは、定義とは帰納的なものであって決して演繹的にトップダウン式で決められるものではないということです。女性や男性といった非常にデリケートなものを扱うときはことにこういった配慮が必要なのだと思います。

luke    reply

今回の講義で、最も強く感銘を受けたのは、一般には「生物学的な不変の事実」だとみなされている(性別としての)セックスが、実は、文化的に構築されたものにすぎない、つまり、結局のところセックスは既にジェンダーである、というJudith Butlerの考え方です。この見方は、たとえば「男性的」なレズビアンのように、従来のフェミニズム(具体的には1970年代のレズビアン・フェミニズム)の中では排除されていた「本当の」セクシュアル・マイノリティを包摂することを可能にした点で、非常に画期的だったと思います。
しかしその一方で、「セックスという概念も、言説空間の中の引用と反復を通じた文化的産物にすぎないのだから、その引用と反復の運動に一種の「ノイズ」を入れ込むことで、ジェンダーとセックスの見かけ上の結びつきを切り離し、身体に従属しないジェンダーを作り出そう」という発想には、少し懐疑的にならざるをえませんでした。
ミシェル・フーコーの言説分析以来、人々が日常的に生み出す言説が、いかにその言説空間が拠って立つところの概念や権力や世界観の維持・強化に寄与しているかが明らかになり、学者や批評家たちは、そうした言説空間に「ノイズ」を入れ込むことで、究極的にはその社会で共有されている概念や権力や世界観までをも変化させうると信じて、自己の主張の発信に努めてきました。しかし、そうした力を、あらゆる批判的言説が持つことができるのか、という点については、かなり不明瞭なのではないかと思います。ある批判的言説が、その社会の中である程度の影響力を獲得するためには、何か他の要因も関わっているように思うからです。その要因が何かを考えることが、Butlerの提案を本当の意味で有効なものにするために必要なのだと思います。
このような問題意識を念頭に置いて、次回の清水教授の講義に臨みたいと思います。
本日は刺激的な講義をありがとうございました。

HAT    reply

授業内の質疑応答でも触れられた、ニューハーフ・おかまの方々がバラエティー番組などで広く露出しているのに対し、レズビアンのタレントは極少数、少なくとも私は知りません。この違い、大変興味深く思います。何か違いがあるのでしょうか?
また、この所謂「カミングアウト」についてさらに言えば、クィアの方々にとってカミングアウトは、周りとの人間関係、社会的位置づけを「変容」させるものでしょう。
しかし、例えばクィアであることを隠していたのが周りにバレる、クィアであることを尋ねられるなど、「カミングアウト権」とでも言うべきものは、彼/彼女が一手に収められているわけではありません。「変容」を自身がコントロールできないというのは、大きな問題であると思います。
さらに、このカミングアウトのリスクは、常に「する側」が全部被ることになります。どのようなセクシュアリティを持っていても何のリスクもなく暮らせる社会、もしかしたらそれは夢物語なのかもしれませんが、私たちに何ができるか、考える良い機会をいただきました。

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