I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.10 2011.12.21 IINO Yuriko

On the Ambiguity of Stories Narrating <Us> -- The Politics of Memory and Documents

In this lecture, using minicomi (small magazines with limited circulation) published in Japan in the late 1970's, I will talk about:

1) What kinds of subject were established as "lesbians" in those magazines;
2) in the process, what kinds of "lesbians" were included in the collectivity of <Us> and what kids of "lesbians" were excluded as "external" to <Us>;
3) and what the above-mentioned points suggest to the contemporary politics of memory and documents.

It is my hope that through this lecture, we will further our thinking about the ambiguity of "<Our> Story" narrated by socially and culturally marginalized peoples in representing their collectivity.

Instructor

IINO Yuriko
Adjunct member of the Faculty at Tokyo University's Research Center for Advanced Science and Technology (Adjunct Assistant Professor). She graduated from Sociology Department at Washington State University (summa cum laude). She received her Ph.D (Comparative Culture). at Josai International University's Graduate School of Humanities with a major in Comparative Culture (Comparative Gender Studies). Her main field of research is Gender/Sexuality Studies. She is the author of a book The Stories of <Us> Lesbians (Seikatsu-shoin, 2008).
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comments(最新2件 / 7)

紅葉咲姫    reply

 ご講義ありがとうございました。
 私は物語というものに重点を置いた記憶、記録のとらえ方を面白く感じました。知識、知覚を物語化されるものとされないものに分類し、個別の物語を記録、物語の全体を記憶とみなすのは、記述されたものを記録とみなす考え方とまるで違い、とても新鮮でした。
 また、物語の形成を内的要素と文化の組み合わせと考えるのは、外的要素の中でも文化を特別に扱っているという点で、興味深かったです。外の環境の中でも、特に自分の所属する団体の考え方、行動が自分自身に大きな影響を与えるということは、他の外的要素とは何が違うのか、内的要素とのバランスはどうなるかなど、興味深く感じました。

yu    reply

今までうけた講義とまた違った視点で見る記憶と記録というものに興味を持ちました。知識などを物語化できるかによってわけ、個々の記憶を記録全体を記録とみなすとかんがえるのはおもしろかったです。文化の組み合わせによる物語の形成に影響を生じるというのもびっくりしました。

宮崎榛名    reply

ご講義ありがとうございました。
自分は何者であるかを語るストーリーという、記憶の視点が興味深かったです。自分のストーリーは自分だけで構成できるものではなく、文化の制約、そして語る目的からの影響を受けるということが分かりました。
個人のストーリーと集団のストーリーの関係については、コミュニティーの性質について考えさせられました。個人のストーリーを受け入れ、共感してくれる場であるはずのコミュニティーが、一方では規範から外れる者を排除するという矛盾は、社会全体における差別構造と同様のものに思われますが、それはコミュニティーというものの本質によるものなのでしょうか。この点について、より詳しく知りたいと考えました。

s.s    reply

 ご講義ありがとうございました。
 記憶や記録を知覚や知識を物語化できるかどうかという視点から考えていくという考え方は斬新で興味深いものでした。

C.O    reply

ご講義ありがとうございました。

セクシャルマイノリティを巡る論争については以前から興味があったものの、如何せん知識が素人のそれでしかないので、以下の感想に対して間違った考え方を多分に含んでいるかもしれませんが、ご容赦ください。

まず、「自分は何者か」という問いに対して、様々なジャンルに自分を所属させていく方法があると思います。授業で扱われた「私はレズビアンである」もその過程のひとつだと思います。
しかし、この自分語り、自己認識というのは、自己の探究という面と同時に、他者への語りかけという意味合いも持つ。このとき、私が私について語る言葉というものは、他者と共有された前提として存在している(実際そうであるかは別として)と、私たちは思い込みがちであると思います。

この時、「私はレズビアンである」ということを誰にとっても明白な形で証明することはできるのでしょうか。「レズビアン」の定義を調べてみたのですが、それは生物学的に(つまり再現可能性を持った「科学」の方法論に還元して)定義されるものではなかったように思います。すると、「私はレズビアンだ」という語りに対し、「あなたはレズビアンでない」という反証が起こっても、誰もその「正しさ」を判断できない。そもそも、「正しさ」といったことが存在するのか、必要なのかすらわからない(少なくとも、それを学問として専攻していない大多数の人にとってはそうなのではないでしょうか)。こういったことが、「レズビアン」というくくり、コミュニティの中で、論争として持ちあがることはなかったのでしょうか。

いまだにセクシャリティというものが、どれほど人間の生物学的な要素に依存しているものなのかは、多分はっきりしていないのだと思います。それは単に科学が進展していないというより、セクシャリティというものがあまりに多様すぎるために、概論を組み立てることが困難であるということも原因の一つなのではないでしょうか。

「私は何者なのか」に対し、「私は何者でありたいのか」という問いを立てることもできた。「語る」と「騙る」が同音であるように、自分について問い詰めていくことが、時に自分を騙しこむことがある。騙しこんでいるのではないかと思いながら語ることがある。そもそも何が自分にとって所詮欲望にしかすぎない嘘であり、何が真実なのか、それを掴み取るための語りのはずなのに、語り自体が嘘と真実、あるいは「嘘・真実といった区分は存在するのか?」というような問いの間で微妙に揺れ動いている作用なのだとおもいます。
「私は・・・だと思う」という自分語りが他者へ自分を開く側面を持っている以上、外から見た自分と内から見た自分に乖離を生じることがありうる。乖離それ自体について語ることもできる。感想を書いているうちに、結局語り続けるしかないような気がしてきました。というのも、私は理系の学部にいる人間で、「普遍的に通じる概念」なしに語るのが怖いからなのかもしれません。

授業でも触れられていましたが、コミュニティというのは少なからず排他性を持っていると思います。そしてそこに所属するためには、ある程度、自分にとっての自分の語りと、他者による自分の語りが、一致していることが求められるのだと思います。

社会学というのは、こういった微妙な差異やぶれや揺らぎや乖離を扱うときには、どういう手法をとっているのか、というのが疑問として湧いてきました。


最後にもう一つ、今回の授業では「私はレズビアンである」という自分語りがすでに起点として置かれていましたが、そこに至るまでに(まだ「私」がセクシュアリティの観点からして定まった自分語りができていないときについて)どのような語りがあるのか、その具体例に対して関心があったので、そのようなお話があったらいいな、と思いました。

mamamama    reply

ご講義ありがとうございました。

自分と自分を取り巻く共同体に所属する人々の語りの性質についての問題は日々考えさせられるところが多いです。私はセクシャルマイノリティのようなような繊細な問題を語るコミュニティの人間ではなく、単に文芸とかの話をする集団の一員ですが、それでも周囲の人間と共有している語りの質は、時に溶け合うようであり時にまったく異人的です。
どうみても周りの人とは全然別個の人間だし、興味範囲も異なっているんだけど、それでも同じ言説を回して読み合っている人間同士というのは語りの質が同質化してくるし、そのシンクロニシティの妙に興奮したり、逆に自家撞着に陥りすぎて憂鬱になったりするものです。
評論っぽい文章を書く際には「わたしたち」「ぼくら」といった語りはキラーワーズで、濫用できないし失敗すると大変なことになってしまう言葉です。しかし、私はやはり一方でそのような自家撞着性の中でしか生きられない表現というのがあるし、そのコミュニケーションの緊密さから生まれてくるものがあるのだと信じずにはいられません。

細川大吾    reply

 ご講義ありがとうございました。
 物語全体を記憶、各自が持つのを記録とする概念設定は自分にとって斬新で得るものが多かったです。
 文化や環境、コミュニティなど、ストーリーを規定するものは確かに多くあり、自らだけでストーリーを築けるものではないのは間違い無いでしょう。それでもやはり「個人」にとって唯一実感できる価値は「納得(自らのストーリーに体験を位置づけること)」ではないかな、などと思っております。自らを規定する「共同体のストーリー」も、結局のところその個人が「最も納得の行くように」時に採用し、時に破棄するものではないかな、と思います。自分の認識する世界を可能な限り安定したものにすること、全てを自分のストーリーに位置づけること、それに寄与する範囲でコミュニケーションも意味があるのではないか…?まとまりませんが。

 まぁ、歴史学をやろうとしている人間にとって、一種冒涜的な考え方です…。もっと考えなきゃと思いました。

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