跳出思维框架
第1回 02月28日 石井 弓
从口述历史角度探索记忆与记录
2011年2月28日~3月1日
本讲座想与听讲者们一起思索关于社会大众分有记忆的问题。具体内容将围绕主讲人在山西省进行的关于抗战记忆的田野考察展开,来讨论战后出生的年轻人们是如何将未曾经验过的历史事件作为自己的记忆来分有的。主讲人将介绍自己的研究过程,即通过田野调查来考证“记忆是如何被理解的”这一问题。希望听讲者们也能对“理解他人的记忆是怎样一回事”进行一番思考。
- 講師紹介
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- 石井 弓
- 专业:中国地域研究/口述历史 2007年在东京大学综合文化研究科博士课程修满学分之后,担任东京大学EALAI项目的特任助教至2010年3月。2010年4月起成为东京大学综合文化研究科特任讲师。2010年6月获得博士学位(学位论文为《作为记忆的中日战争》)。2009年获得第六届太田胜洪纪念中国学术研究奖。现在继续在山西省进行田野考察,并开始在北京的调查研究。
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- 2011年03月03日 17:50 reply
石井先生、こんにちは。
日本語学部二年生の黎黎です。
先生のおかげで、大変勉強になりました。先生の講座は本当にとても面白いです。それに、先生の上手な中国語にも本当に頭が下がります。
実は講座の内容について、ちょっと分からないことがありますが、ご指導お願いできますか。
記録と記憶の関係はいったいなんですか。記録は記憶を消すために作りましたのか。でも、記録と言うもの自身はあるものを忘れないように作ったのではありませんか。
ちょっとばかばかしい問題かもしれませんが、教えていただけませんでしょうか。どうも有り難うございます。
黎黎 より
- Reply from 安然 2011年03月04日 02:11 reply to
安さん
まず一つ目の質問に対する答えですが、次のようなことが言えます。
1)趙家荘など虐殺事件の起こった場所では、この夢を見る若者は多いのですが、必ずしも全員とは限りません。特に1960年以降に生まれた人は趙家荘でもあまり夢を見ていないといえます。
2)インタビューに答えた若者たちは、たとえ夢を見ていたとしても、必ずしも「夢を見た」と答えるわけではありません。自分が毎日見る夢をはっきり覚えている人は少ないと思います。「夢を見た」とはっきり答える人は、かなり長い間その夢に悩まされたり、特に何度も見ている人たちです。その意味でも、これだけ多くの人が同じ夢を見ていると「答える」ことは、戦争に対する強い記憶の反応であると考えられると思います。
3)記憶を共有する範囲は、村だけに限られません。趙家荘の村人であっても、自分の家族の中に被害者がいない家もあります。やはり家族が被害にあっているかどうかで、戦争に対する感情は大きく違います。記憶は村などのまとまった集団の中で分有されますが、村の中にも家族、男性のおしゃべりグループ、女性のおしゃべりのグループなど、さまざまな集団が交錯しており、その中でそれぞれ少しずつ異なる記憶が分有されているのだと考えられます。以上のような理由から、趙家荘の村人であっても、夢を見ない人がいることが説明できると思います。また、分からないことがあれば、何度でも質問してくださいね。
石井 弓
- Reply from 安然 2011年03月05日 01:56 reply to
安さんの二つ目の質問にお答えします。
インタビューを始める前、きっと多くの人が日本人の私に対して批判的だろうと考えていました。実際は多くの人が協力的で歓迎してくれたのですが、中には私に怒りをぶつける人や、はっきり話してくれない人もいました。だから、初めの頃、村に入る前には、おなかが痛くなりました。
でも、インタビューを続けていく中で、反発的な態度をとる人こそ、感情記憶を持っているのだと気付くようになりました。だからできる限り何度も訪問をして聞き取るよう努力をしました。その中で聞き取ることができた内容は、私が戦争の問題を考える際に最も貴重な語りになったと思います。最後まで話してくれない人については、なぜ話してくれないのかを、周囲の人の語りから考えるようにしました。記憶を考える上で、「沈黙」も大変重要な要素だと思ったからです。
日本とは全く異なる社会に入って、日本人として聞き取りをすることは、他者を理解する貴重な経験となりました。客観的にデータを集めるだけでなく、語り手に触れ、その人が生きてきた環境に触れることで、コミュニティ内部での記憶の受け渡しが初めて見えてきたと思います。石井 弓
- 2011年03月05日 23:51 reply
石井先生
二回の講義を聞いて、とても感心いたしました。学問に対する熱心さと勤勉さは無論のこと、ひとりで異国の辺地で膨大な資料を集め、そして整理したうえで分析を行うことも、おそらく想像のつかないほど大変な仕事でしょう。
実は、去年に先生と話して以来、先生の研究領域に関して相当な興味をもつようになってきました。なので、今年先生も講義をしてくださると聞いて、抑えられないうれしい気持ちでいっぱいです。
授業の内容について、主に二つの感想を述べたいと思います。まずは、趙家荘惨案を記憶されるのは、村落というコミュニティを存続させるため、また、個々の村人に分有されることによって精神的紐帯としての役割を果たしていると、先生がおっしゃったのですね。だけれども、この惨案は1970年の「憶苦思甜」運動で宣伝され、国家の記憶としても記録され歴史に回収されました。そうすると、この事件は、新中国というコミュニティを作る、また国民をまとめることにも手伝っているのでしょう。おそらく、これは、国家の権力が個人の身に染み付いた事例と考えてもよいでしょう。もしそうでしたら、現在趙家荘の村人の記憶には、当時の政治権力が介入した部分もあると推測してもよろしいでしょうか。
そして、先生が授業の最後に「理解」について自分の見解を述べましたね。先生のご見解は、私にまさにヘーゲルの「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なもの はすべて現実的である」という命題に聞こえてきます。私の考えでは、「理解」というものは、相手になりきって、相手の感情や思想をすべて身を持って感じるのではなく、相手の感情や思想が形成されるのは、あくまでも相手のいる文脈でそれなりの論理に沿った結果にすぎないことをさえ理解できれば、「理解」ということが成立できます。中日両国間は現在、歴史問題をめぐって様々な葛藤や不理解があったのも、「理解」を達成させられないことが原因でしょう。先生の努力は、まさに相手の文脈において、相手を理解する糸口、また自国と相手の国の歴史認識の差異を理解する糸口を探し、その奥ところにある「理解」を復元する努力であると、私が考えているのです。
- Reply from 黎黎原上草 2011年03月07日 01:33 reply to
黎黎さんこんにちは。
質問に対する私の考えを書いておきます。
記録は確かに人間がものごとを忘れないようにするひとつの手段だと言えます。それは記憶を外在化させることで、後に参照できる形で過去を保存するものです。しかし、外在化されることで、出来事が記憶から抜け落ちてしまう(忘却される)傾向があるのも事実です。
例えば私が調査をしている農村の人々は実に多くのことを記憶しています。彼らはメモをとるという習慣がなく、出来事の保存を記憶に頼っているためだと考えられます。
また、「〇〇の過去は歴史になってしまった」と言われることがあります。それはある出来事が人々の記憶から抜け落ち、記録の中にしか残っていない状態を表現するものだと思います。
さらに、過去の出来事は歴史に編纂されることで、何らかの解釈が加えられたり、編集が容易になるため、記憶の形を変えてしまうこともあります。
以上のような理由から、私は「過去は記録されることによって記憶から抜け落ちる」という表現をしました。しかし、記録された過去は、それが忘却されてから何年も経ってから再発見され、想起・再記憶化されることがあります。このため、記憶と記録は相互に参照しあう鏡のような関係にあると考えられます。
これは私の見方ですが、黎黎さんはどう思いますか?
- Reply from 徐格非 2011年05月12日 00:07 reply to
徐さん、返信が遅れてしまい、本当にごめんなさい。徐さんがまだこの掲示板をのぞいてくれることを期待しつつお返事します。徐さんの質問は、とても良い質問ですので、受講 された他のみなさんにも一緒に考えてもらいたいと思っています。 まず、「憶苦思甜」と記憶の関係について。趙家荘では、確かに1970年代に周辺の村人たちを集めて「憶苦思甜」大会が何度も開かれました。「過去の苦しみを思い、現在の幸せをかみしめる」というこの政治運動を通して、趙家荘惨案はこの地域一帯に知られるようになりましたし、趙家荘村の若者たちが過去を知るきっかけにもなりました。これはある意味で記憶に対する国家権力の介入だったと言えますが、そこで形成された村人の記憶は、単に「歴史に回収された記憶」とばかりは言いきれないと思います。むしろ、この介入も含めて個別の記憶が形成されてきたと考える必要があるでしょう。授業でも少しお話ししたように、「憶苦思甜」では、惨案で日本に加担し村を裏切った李新年が「漢奸」として地域一帯に広く知れ渡りました。しかし、趙家荘の村の中では逆に、「李は兵士になることを強要した村を恨み、村へ復讐したのであり、彼こそが犠牲者であった」という語りが広がりました。村の中では、「憶苦思甜」をきっかけにして、国家の語りとは異なる過去が語られるようになったのです。私はそこに、村落コミュニティの意思が働いていると考えます。国家のすべての政策が計画通りの結果を得られるわけはありません。なぜ、村人たちは李新年の「復讐」という辛い過去を語り継ぐのか、それを考えることこそが、記憶の問題と向き合うことであると思います。インタビューの中から分かってきたことは、李の復讐を忘却してしまうと、李の徴兵を巡って村の中で起こった様々な出来事もまた忘却され、過去が単純な歴史に回収されてしまうということです。私たち一人ひとりは、自らの経てきた過去によって自己を認識します。同様に、村では過去を共有することによって、村人の一員となり、コミュニティを維持していると考えられます。過疎化によって趙家荘における戦争の語りが増えたこともまた、コミュニティ保存の意思と過去の語りのつながりを示していると言えるでしょう。
また、もうひとつ考えたいのは、山西省の村の中で、一人の若者の犠牲と復讐が語り継がれることは、高橋先生の講義で議論された「ルサンチマン」をどう扱うかと繋がる問題だと思います。みなさんはこれをどう捉えるのか、今度は私が意見を聞きたいところです。石井 弓
评价内容
- 参见其他课程
石井先生、こんにちは。
先生の講義を拝聴しまして、大変感心しました。とくに、趙家荘の人たちがしゃべっている方言については、私は中国人としても分からないのに、先生はこんな困難を克服し、研究を続けるということにはとても敬服しております。
さて、講義の内容について、ちょっとお聞きしたいものがありますが。
まず、やはり28日に王先生が提出した質問についてのです。先生が翌日に補足して説明してくださいましたが、まだ分からないところがあります。それは、1960年以降生まれた人々の中に抗日戦争の夢を見た人もいるというところです。南さんを例にして、その原因は南さんが趙家荘事件が起こった趙家荘で生まれたからと説明してくださいました。しかし、南さんの欄の上の(名前がはっきり見えないですけど)その人も趙家荘の村民じゃないですか。では、どうして同じく趙家荘生まれなのに、その人が夢を見なかったのですかという質問です。
もう一つは、先生の研究方法としてのフィールド・ワークに対して、すごい興味があります。ちょっと変な話ですけれども、先生が日本人として、日本軍が侵略したことのある趙家荘でインタビューをしたとき、多分協力してくれなかったときもあるだろうと思います。そのときは、先生はどう処理しましたか。それについて、ちょっと教えていただけませんか。
だいたい以上のようなふたつの質問であります。どうも有難うございました。
安然 より