跳出思维框架

第3回 03月07日 渡边 正男

中世纪历史档案所提示的记忆与记录

2011年3月7日~8日

从13世纪后半叶起,日本中世时代的法律、裁判等产生了各种方面的变化。本讲座将通过阅读实际史料,具体考察在这种变化之中法律是如何被记忆、记录的。

講師紹介

渡边 正男
东京大学史料编纂所副教授。 专业方向是日本法制史。考察法、制度以及权力的关系在历史上经过怎样的变化,力图在史料的基础上具体并明确地作出解答。现在主要关注的是,在14世纪的社会秩序构造变化中,具有法律知识、法律技能的在野人士起到了怎样的作用。  

评价内容(最新2件 / 15)

徐格非    reply

渡邊先生の話から、一つ特に気になっていた言葉があります。それは、「動いている」ということです。
先生も言及したように、授業中に出された資料は中世の法律と裁判の文書なのですが、どうやら現在の法律とはどこか違うような気がするのでしょう。たしかに、いま私たちの目で見れば、当時の式目と追加法は「法律」というものの基本的な性質を有していないかもしれません。だが、こういうような「法律」と文書を用いて、当時の政府機関はなんとか行政を円滑に行い、国家を動かせたのは事実です。というと、御成敗式目は本物の法律かどうかはさておき、肝心なのは、そういうような「法律」は当時の行政様式にあっていたと言ってもよいでしょう。言い換えれば、当時の「法律」および追加法は可能になったのは、当時の政治制度、慣習、さらに物の見方など、細かいところまで文字化しがたいことが「動いている」、また「生き生きしている」からであると思います。
あくまで自分の推測ですが、先生が判明させようとするのは、おそらくそういう「動いている」、つまり文書の文字の裏に隠されている政治制度、慣習、物の見方でありましょう。その努力も、当時の人間の世界観、そして当時の「時空」を豊富に呈示させようとするものでしょう。
そして、ひとつお伺いしたいことがあります。先生が、自分が最初に近代に関する研究をしていたが、後に中世などの時代の状況からその近代まで及ぼした影響を探し出すことに移したとおっしゃいましたね。その影響を一つでも教えていただけませんか。
徐格非 より

前原一輝    reply

 貴重なお話をありがとうございました。
 中世の法に対する考え方が現在と違うというのは目からうろこでした。また、その法律観が徐々に今の法律観へと変化しているところを拝見し、今の法律観の相対性を感じることができました。
 一つ渡邊先生と、これをご覧になっている学生さんやTAさんにご意見をいただきたいのは、学問とくに歴史学に対する考えです。
 今回の講義で渡邊先生は自身の研究の動機を中世への興味と語られており、また、その興味は近代研究の中で疑問に思いつづけていたことを突き詰めた結果生じたとおっしゃっていました。それは非常に共感できます。歴史学にはこのように個人の興味から研究が発生することが多いようです。

 そしてその研究の結果としての意味は、おそらく今回の講義
で私たちの法律観が相対化されたように、現代の事物・制度を相対化することでしょう。それが歴史学の使命と言えるのかもしれません。

 問題はここからです。「歴史学の使命=相対化」という前提に立った場合、相対化を行うことはいったいどんな目的を持っているのでしょうか?私が思いつく目的と言ったら、現代社会の変革期において次のシステムを作る上での参考になるという一点だけです。それ以外にもあるのでしょうか?

 以上、前提部分と、私の意見へのご批判・ご感想、そしてそれ以外の「目的」等がございましたら、教えていただけるとありがたいです。

Reply from 渡邉正男 to 徐格非    reply

徐格非 様
コメントありがとうございます。
御質問については、討論会でも少しお話ししましたけれど、上手に伝えられなかった点もありますし、記録としての意味もこめて、ここにも簡単に記しておきたいと思います。
日本では、明治維新、地租改正によって、土地所有が近代化されるまで、いったん売られた土地であっても、なんらかのきっかけで取り戻され、再び同じように売られるという事例が、広汎に見られます。また、それらの事例では、今後取り戻さないことを約束する場合には、売買の文書に「徳政があっても取り戻さない」と記述することが多く見られます。
この「徳政」で思い出されるのは、永仁5(1297)年の鎌倉幕府追加法、「永仁の徳政令」です。この追加法は、御家人が売ってしまった土地を取り戻させること等を規定したもので、これによって、実際に多くの土地が取り戻されたようです。
「永仁の徳政令」は、「追加集」などにも記録されず、法文自体は忘れられてしまいました。にもかかわらず、「徳政」によって土地が取り戻されるということ自体は、明治維新に至るまで、人々の記憶に残り、土地所有のあり方に影響を与え続け、それ故に、「徳政」という言葉が、土地売買の文書にも現れたのでしょう。
渡邉正男

Reply from 渡邉正男 to 前原一輝    reply

前原一輝 様
コメントありがとうございます。
「学問の使命」・「学問の目的」という問題は、学問に携わる全ての者が、常に考えているべき問題ではあります。しかしながら、簡単に回答が見つかる問題ではありませんし、回答が見つからなければ学問をしてはいけないというわけでもありません。
今回の講義が学問の一端であるとすれば、その目的は、小さな興味・小さな違和感等を感じてもらうことです。そして、その興味や違和感等を記憶に留めて、社会の変革期に次のシステムを作ろうとする時、今、目の前の誰かと話しをする時、ほんの少しだけ思い出してもらえれば、と願っています。
真剣な問いに対して逃げるようなことしか言えず、申し訳ありません。
他の方々の御意見も、是非お聞かせください。
渡邉正男

渡邉正男    reply

講義では時間が足りなかったため、また、「記憶と記録」という主題からも少し外れてしまうため、紹介することができませんでしたが、講義の記憶を確かめるために、という理由をつけて、一つ「追加」の質問をしてみたいと思います。
次の文書は、「法印」某という人が、六波羅探題「陸奥左近大夫将監」に宛てて、雑掌の訴えを受け付けてくれるよう、依頼したものです。ただし、鎌倉幕府から六波羅探題へ追加法を伝えるような公式の文書ではありませんので、何年のものかが書かれていません。

 法印某挙状 「高野山文書宝簡集」三十三

法勝寺末寺寂楽寺領紀伊国阿弖河庄雑掌重申状(副具書、)如此、子細見于状候歟、任道理可有計御成敗候哉、恐々謹言、
   九月廿九日     法印(花押)
  謹上 陸奥左近大夫将監殿

東京大学史料編纂所が編纂した『大日本古文書』という史料集では、この「陸奥左近大夫将監」を「北条時茂」であるとしています。それを踏まえて、河野通明氏は、論文「阿弖河荘をめぐる寂楽寺と円満院」の中で、この文書を文永5年ないし文永6年のものであるとしています。
この点について、皆さんの御意見をお聞かせください。

前原一輝    reply

渡邊先生

 貴重なご意見ありがとうございます。
 非常に参考になります。
 興味や違和感という点でしたら、今回の講義で私含め多くの学生は刺激をうけたのでは、とおもいます。

 追加の質問、難しいですね…
 陸奥左近大夫将監が存在しない文永5・6年をあげた点がよくわかりません。また、陸奥左近大夫将監を時茂と断定している点に関しても疑う必要があるのではないかと思います。

徐格非    reply

渡辺先生
わざわざ徳政令に関する情報を再び紹介してくださって、まことにありがとうございます。もともと歴史学にも大変興味を持っていますが、今回の講義と先生とのやりとりで一層関心をもつようになり、明治以降及びそれと関連する近世と中世の制度の面白さを感じてきて、先生のおすすめの本を是非読ませていただきたいと思います。
そして、先生が出した問題をこの数日考えてきましたが、どうやららちがあかない用です。多分歴史、特に日本史の修行がまだまだ足りないため、官僚制度の全体図も頭の中で全然できてありませんが、一応自分の思うことをそのまま述べます。
最初はこの「雑掌の訴えを受け付けてくれるようと依頼した」「法印」は、授業中に出ている「従蓮」のために陸奥左近大夫将監にこの文書を出したと思い込んでしまいました。つまり、授業に紹介された裁判とは同一ものだと勝手に頭の中で先入観が入ってしまいました。けれども、授業の裁判は建治元年から始まったものなので、もし宛先の陸奥の左近大夫将監は北条時茂だとすると、時間的には不可能なことになります。それは無論、北条時茂が文永七年に死去したからである。もしこの文書が言及した裁判は別のものだとすると、それは、北条時茂が六波羅探題を務めた14年間(建長8年から文永七年死去まで)の間のものだと考えてよいでしょう。だが、なぜ河野氏はこの文書を時茂が陸奥守を務めた文永5ないし6年のものとしたのは、実に理解できません。今持っているわずかの知識からすると、この二年はきっと最初から排除されるとしだろうと思います。
わからない問題がいっぱいです。まずは、なぜ史料編纂所は年の記載のない文書の宛先を北条時茂としたのでしょうか。その根拠はなんでしょうか。
文書の出場所の「高野山文書宝簡集 三十三」は、授業に出た裁判の最初の訴状とは一緒です。それらの文書の編纂は、時間とかの順で並べるのでしょうか。あるいは、これはただの偶然で、両文書は無関係なのでしょうか。
陸奥守と陸奥左近大夫将監という二つの官職はどんな関係でしょうか、また、兼任出来る両職なのでしょうか。これはこの質問のポイントになるのではないかと推測しています。
ばかばかしい質問をしましたが、どうかお答えお願い申し上げます。
徐格非より

渡邉正男    reply

前原一輝 様
徐格非 様
コメントありがとうございます。
追加の質問について、お二人が疑問に感じた点は、正鵠を射ています。
『大日本古文書』に基づいた、河野通明氏の見解に従うことはできません。
そして、お二人の疑問点は、講義でお話しした事例の中で、地頭が提出した追加法に対して、雑掌(ないしは唯浄)が指摘した疑問点と共通するところがあります。
そこで、もう一度、追加法をめぐる雑掌と地頭とのやりとりを思い出し、追加の質問と比較してみてください。
その上で、「陸奥左近大夫将監」が誰か、この文書が何年のものか、考えてみてください。
御意見をお待ちしています。
渡邉正男

徐格非    reply

渡辺先生
ご返事とヒントありがとうございます。
その後もう一度配布された資料を読んで理解しようとしました。まだ理解出来ないところいっぱいありますが、先生の授業の中で消化していなかった部分をわずかながらもわかるようになったのです。そして、先生の質問に対して自分の意見を述べたいと思います。
まず、この文書の宛先は「陸奥左近大夫将監」だけで、「相模式部大夫」をならべずに書くのは、当時北方だけに六波羅探題が存在している一方、南方には不在であったと推測できるでしょう。そして、日付は九月廿九日であるため、「相模式部大夫」不在の文永九年から建治元年の四年間の間に書かれたものだと考えては良いでしょう。しかも雑掌の申状もついているなら、雑掌の訴えを出したあとで出された文書だと思います。そうすると、従蓮が最初に出した訴状の日付(建治元年九月 日)ともほぼ同時で、時間上にもあっているようです。以上をまとめてみれば、東京大学史料編纂所が編纂した『大日本古文書』の結論とは食い違いがありますが、この文書は建治元年のもので、「陸奥左近大夫将監」は北条義宗だ推測します。
けれども、まだいくつかの疑問点が残っています。
1、 法印がだしたのは雑掌の「重申状」であります。先生が配布した資料によりますと、従蓮が建治元年九月出した訴状は、どうやら重申状ではないようです。
2、 法印とは誰でしょうか。法印が文書を出した意図は、無論六波羅探題「陸奥左近大夫将監」に、雑掌の訴えを受け付けてくれるようとするのですが、もしかして唯浄ではないかと、私が勝手に推測しています。そして、法印の文書を収録した「高野山文書宝簡集」三十三は、授業の資料の中の「唯浄注進状案」とは一緒で、一体どう意味するかわかりませんが、何かつながりがあるのではないと悩んでいるのです。
3、 河野先生の推測の根拠はどこにあるのでしょうか。わざと「陸奥左近大夫将監」が不在で、しかも「相模式部大夫」が存在する文永五と六年を取り上げたのは、どうしてもその論理が理解できません。
以上は私の推理です。先生のご回答をお願い申し上げます。
徐格非 より

渡邉正男    reply

徐格非 様
貴重な御意見、ありがとうございます。
少し長くなりますので、何回かに分けて、私の考えを記したいと思います。お付き合いいただければさいわいです。
まず河野通明氏の見解について。
河野氏は論文の中で次のように述べています。
「宛所の陸奥左近大夫将監は『大日本古文書』の編者の比定で六波羅北方北条時茂。その陸奥守就任は文永四年一〇月二三日、六波羅北方退任は文永七年一月二七日だから、この文書の年号は文永五、六年に絞られる。」
河野通明「阿弖河荘をめぐる寂楽寺と円満院」(中世寺院史研究会『中世寺院史の研究 上』所収)300頁
河野氏は、「陸奥左近大夫将監」の「陸奥」について、時茂自身が陸奥守であることを意味すると考えているようです。しかし、文書の宛名で、時茂が「陸奥左近大夫将監」と記されるのは、陸奥守就任以前です。陸奥守就任後は「陸奥守」と記されます。「陸奥左近大夫将監」の「陸奥」は、父親が陸奥守であったことを意味するのであって、時茂自身が陸奥守であることを意味するのではありません。雑掌や唯浄も河野氏の見解には賛成しないでしょう。
また、『大日本古文書』の比定を信じてしまったのも問題です。『大日本古文書』は、基礎的な史料集ではありますが、編纂された物で、残念ながら、完全ではありません。「六波羅探題一覧」に示したとおり、六波羅探題で「陸奥左近大夫将監」と記される人物は、時茂だけではありません。『大日本古文書』が時茂と限定する根拠は明確でなく、再検討する余地があります。
これらの点に関するお二人の指摘には、私も賛成です。
渡邉正男

渡邉正男    reply

徐格非 様
河野氏の見解には従えないことを確認した上で、「陸奥左近大夫将監」が誰か、この文書が何年のものか、考えてみましょう。
宛名が「陸奥左近大夫将監」ですから、時茂であるとすれば、陸奥守となる文永4年10月以前、義宗であるとすれば、六波羅探題北方となる文永8年11月以降、ということになります。
さらに、宛名が「陸奥左近大夫将監」一人ですから、六波羅探題が一人だけの時期、南方時輔が死亡する文永9年2月以降、時国が南方となる建治元年12月以前に限定できそうです。この考え方は、雑掌が追加法について指摘した点で、徐さんの御意見とも共通します。
しかしながら、質問した時に触れた通り、挙状は、鎌倉幕府が六波羅探題に追加法を伝えるような公式の文書ではありません。ですから、六波羅探題が北方・南方両方そろっている場合でも、必ずしも宛名に二人を書くとは限らないのです。実例を集めてみると、公家から六波羅探題に宛てた文書の場合、一方のみを宛名とする場合が多く見られます。
この点を踏まえると、宛名が一人であることから、この文書が何年のものかを限定するのは難しいと考えます。
渡邉正男

Reply from 徐格非 to 渡邉正男    reply

渡辺先生
ご解説まことにありがとうございました。先生の文章を読んでから再び自分の知識構成、特に日本史に関する知識構成はまだまだ足りないとのことに気づきました。確かにお恥ずかしいことですけれども、先生のご指導に再び感謝の気持ちを申し上げます。
先生の話した通り、挙状は、鎌倉幕府が六波羅探題に追加法を伝えるような公式の文書ではありませんので、六波羅探題が北方・南方両方そろっている場合でも、必ずしも宛 名に二人を書くとは限らないゆえ、宛名が一人であることから、この文書が何年のものかを限定するのは難しいとみられるようです。そして、「陸奥左近大夫将監」と「陸奥守」との関係も先生の解説によってやっと解明されました。それにしたがって、この文書は文永4年10月以前、あるいは文永8年11月以降のものと限定されるのでしょう。だが、それ以外に、私がどうやら手の施しようのない境地に陥ったようです。自分の知識の範囲で使える証拠はただ「重申状」という言葉だけです。もしこの文書ででいる裁判が授業と同じでしたら、この文書は、雑掌が重申状を出した建治二年6月(授業プリント八により)以降のものとなるだろうと思います。しかし、これはなんの裁判に関する文書だかわかりませんので、やはり先生のご意見をお伺いしたいと思います。
徐格非 より

Reply from 徐格非 to 渡邉正男    reply

渡辺先生
ご解説まことにありがとうございました。先生の文章を読んでから再び自分の知識構成、特に日本史に関する知識構成はまだまだ足りないとのことに気づきました。確かにお恥ずかしいことですけれども、先生のご指導に再び感謝の気持ちを申し上げます。
先生の話した通り、挙状は、鎌倉幕府が六波羅探題に追加法を伝えるような公式の文書ではありませんので、六波羅探題が北方・南方両方そろっている場合でも、必ずしも宛 名に二人を書くとは限らないゆえ、宛名が一人であることから、この文書が何年のものかを限定するのは難しいとみられるようです。そして、「陸奥左近大夫将監」と「陸奥守」との関係も先生の解説によってやっと解明されました。それにしたがって、この文書は文永4年10月以前、あるいは文永8年11月以降のものと限定されるのでしょう。だが、それ以外に、私がどうやら手の施しようのない境地に陥ったようです。自分の知識の範囲で使える証拠はただ「重申状」という言葉だけです。もしこの文書ででいる裁判が授業と同じでしたら、この文書は、雑掌が重申状を出した建治二年6月(授業プリント八により)以降のものとなるだろうと思います。しかし、これはなんの裁判に関する文書だかわかりませんので、やはり先生のご意見をお伺いしたいと思います。
徐格非 より

渡邉正男    reply

徐格非 様
コメント、ありがとうございます。
講義でお配りした史料・お話しした内容のみから考えられることは、前回までの論点でほぼ尽きています。以下、御紹介しなかった史料もあわせて、もう少し検討してみようと思います。
まず、疑問点にもありました、差出「法印」について。
花押(図案化された署名の一種)の形が、建治3年12月21日、阿弖河荘を、寂楽寺から高野山に譲った文書の差出「法印」の花押と同じであること等から、差出「法印」は、寂楽寺別当(長官)の宰相法印任快であると考えられます。そして、任快が、寂楽寺別当として、阿弖河荘の訴訟に関与し始めたのは、関連史料によれば、文永3年4月頃からです。これによって、この文書は、文永3年4月以降、建治3年12月以前のものであると言えます。
そこで、差出と宛名とをあわせて考えると、「陸奥左近大夫将監」を時茂とすれば、文永3年ないしは4年、義宗とすれば、文永9年~建治3年の間のものであると考えてよいでしょう。
ただし、文永9年~11年、阿弖河荘に関する裁判が六波羅探題で行われていた形跡はありません。また、御指摘の通り、建治元年とすると、最初の訴状が「建治元年9月日」のもので、9月29日のこの文書には「重申状」とありますから、9月の内に2回目の訴状が提出されたことになり、訴訟の経過から考えて、これは難しそうです。さらに、現在残っている雑掌の訴状は「建治2年8月日」のものが最後で、雑掌と地頭との訴状・陳状のやりとりが行われたのはこの頃までと考えられますから、建治2年ならわずかに可能性があるものの、建治3年とするのは難があります。
文永3・4年にも、阿弖河荘の年貢等をめぐって、雑掌と地頭湯浅成仏(宗親の父)との間で裁判が行われていました。しかしながら、文永3年9月3日、「解状」(訴状)に基づいて、六波羅探題から地頭に対して出頭を命じた文書が現存しており、一方、同じ9月の29日までに重訴状が提出された形跡はありませんので、文永3年とするのも難しいでしょう。
これらを踏まえて、この文書は、文永4年、時茂に宛てたもの、ないし建治2年、義宗に宛てたものであると考えます。
渡邉正男

Reply from 徐格非 to 渡邉正男    reply

渡辺先生
こんにちは。ご回答ありがとうございます。返事が遅くて申し訳ございませんが、実は、約一週間前に日本に到着し、新たな留学生活を始めたのです。この一週間、いろいろと手続きをし、生活必要品も購入しつつある忙しさの中、先生への返事を怠慢いたしまして、再びお詫び申し上げます。
先生とのやり取りが現在まで続いてきて、やく一ヶ月もたちました。この一ヶ月の中、阿弖河荘をめぐる裁判の真相だけではなく、室町時代の法制度の具体像をも少しだけでも垣間見えた気がします。もともと法制度及び法哲学に興味を持っていましたが、相当の知識蓄積をしなければならないうえ、研究に全身を沈めこむ根性も不可欠だろうと考え、自分にはそういうような修行はまだまだ足りないとわかりました。しかしながら、法制度にあkんする知識も、自分現在の研究テーマに関する文化的背景の一環として念頭に置かなければないものだと思いますゆえ、手元の問題をできるかぎり追求するつもりでございます。先生がいままで付き合っていただき、日本史の素人の私の質問を一一答えてくださいまして、まことにありがたいことであります。感謝の意をここで表したいと思いますが、気持ちを言葉だけでは尽き難いです。
徐格非 より

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