跳出思维框架

第4回 10月17日

出家生活と「食」:上座部仏教徒社会ミャンマーの事例から

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kyomasu0616    reply

上座部仏教に関して、あまり詳しくなかったが、上座部仏教の目指す涅槃とそのための出家と厳しい戒律について知ることができてよかった。

ren9muni    reply

今回の授業では、文化人類学を軸に「食」を宗教的観点から見直した。別の文化人類学の授業で藏本先生にお世話になっている他、現在本郷で宗教史の授業を受けている関係もあって、普段学んでいることが一堂に会し個人的にとても有意義だった。宗教の教義の方から(といってもそれが本来のあり方だが)食文化について考えるのは初の試みであり、これまでは「この宗教ではこれを食べない、飲まない」と上辺だけの知識で満足していたのが恥ずかしく思えた。出家の経験のある人の話を聞く機会は貴重で、これぞ文化人類学か!と感嘆した。授業内容に関しては、ミャンマーの上座部仏教僧侶は物欲からの解放を目指す中に(食(布施)への)物欲が内包しているのが興味深かった。

yokamoto9858    reply

信徒からの布施によって食が支えられているミャンマーなどでは食の問題が寺院の組織や僧の生活などに直結するということがわかった。こうした現象はミャンマー独自のものなのか他の上座部仏教国でも見られるものなのかということが気になった。

tomoko0422    reply

今回の講義で、食と文化は本当に切っても切り離せない関係にあると感じました。私は12年間ミッションスクールに通っていたことから、様々な宗教と文化の関係に興味を持っていました。私は母校の押し付けるような感じが好きではなく、だからこそ宗教とは何を説いて何のためにあるのかということを疑問に思っていましたが、究極的には「幸せ」とは何かを解くものであると言われて納得しました。仏教は高校の日本史レベルの知識しかなかったので、知ることができてよかったです。托鉢には幸せに向かって頑張るのを在家者に見せるのも目的の一つだというお話がありましたが、食という生物には必須の行為に文化的多義性を感じました。更に、今回ミャンマーの若者の出家の背景には都会と地方の情報格差、教育格差、貧困があると知りました。私は出家などははるか昔かもしくは遠い世界のことだと思っていましたが、その背景にあるものは現代の日本にも存在するし、問題視されているものです。そう考えると、宗教は社会の不均衡の解決の糸口にもなり得ると気づき、それはもしかしたら現代日本の曖昧に確立しきれていない社会保障制度よりも健全なものかもしれないとも思いました。沙弥は儀礼的に食事の前に比丘に布施するという話や、食事は楽しむものではないから一品はぐちゃぐちゃに混ぜて出されるという話、住職から美味しいおかずが回ってくるという話など、先生の出家の体験談も大変面白かったです。

2754@riben    reply

宗教学と食ということで、宗教学を専攻する予定の身としては大変興味深かった。
現代社会において、托鉢の仕組みがどの程度まで存続できるかはとても興味深いです。

taku98    reply

味を楽しんではいけないので托鉢で得た食材をすべて混ぜて食べても、実際は出家者は味を楽しめてしまうのは面白い。
上の例のように律を守って行動しても、人間の体の性質のせいで律の意図するところから外れてしまうことがあり、律を完全に守ることは不可能で、そんな律は不完全と言えるのではないかと思った。
上座部仏教が主流の国では、今でも厳しく律が守られているところが多いように思うが、非常に守るのが難しい律が日本などの仏教のように形骸化せずに残ってきた理由は何があるのか不思議に思った。

m0e0g    reply

上座部仏教では食を托鉢に頼るからこそ食事内容の制限が穏やかになっているという点や、大規模の僧院では貧しいので托鉢をするグループに分化して独立して食物を調達していて独立、解体が進んでしまうという点などは、食の不足や調達難が宗教や生活に強い影響を及ぼしており、そもそもの食の不足や貧困をなんとかしないとどうしようもないと思った。
托鉢に半日近く費やしているようだが、だったら何か作ったりサービス業とかして稼いだりするための職業施設や働き口があれば貧困対策になるし、仏教への関心もないのに貧しくて仕方なく出家してる子とかがそんなことしなくて済むのになぁと思ったが、実際のところそんなうまい話は実現しにくいだろうし、人口の1%しか出家していないので仏教に縛られずに貧困を切り抜けている人もいるだろうから今のままでも社会が成り立っていくんだろうと思った。

becky828    reply

私の個人的なイメージでは、仏教において商業などの直接金銭にさわる経済活動は卑しいものとして禁じられているけど、農業で自給自足で食料を調達していると思っていましたが、上座部仏教では農業も含めた生産活動までが禁じられていることに驚きました。しかし、食は人間の生活維持に欠かせないものであるからこそ、在家者という出家者の食料調達を助ける存在が宗教組織のなかに組み込まれ、食料供給システムが構築されていったのはとても興味深いと思いました。

iwa1023    reply

今回の授業では、実際の体験を交えながら話をしてくださったので、出家生活のリアルな側面を垣間見ることができ、面白かった。

食との関わりでは、生活手段・死活問題である食が、出家生活の質を決定していることがありありとわかり、とても興味深かった。食の確保のため、教学僧院が僧坊ごとの解体に繋がって行ったり、仏教の側でもルールが変更され、僧院での出家者と在家者の共存が発生したりする様は、いかに食という生活の要素が人間にとって避けられないものであり、優先されるものであることを実感させてくれた。

個人的には、これから経済成長などで出家生活をする人が減ったり、都市のアパート化や都市と農村の格差拡大によって托鉢が困難になったりという問題が発生するのではないかと思った。

tomii1227    reply

私たちが毎日あまり身近に触れない仏教×食。今回のテーマは私にとって新鮮だった。
まず、上座部仏教における食の役割・重要性について導入部分があり、次に先生ご自身の実体験に基づいたミャンマーの僧院における食生活を紹介していただいた。そこには食事内容といった一面的な問題だけではなく、僧院組織の問題や現地の人々のライフコースの形成など、様々な側面・問題点が含まれていた。ミャンマーも都市化が進み、僧院の食事の調達が困難になっていく中、改めて近代化と土着の文化、宗教の関連性や摩擦を考察できる機会であった。

daiki7141    reply

私が中高の6年間を仏教寺院に隣接する学校に通っていたこともあり、修行中の生活では食事にも制約があり大変に退屈なものであるという印象を持っていました。しかし、彼らは肉類の代替品となりうる食料を調理法などを工夫して作り出し、自らの食生活を少しでも充実したものにしようと努力していたように思います。そのような経験を通して、人間が安易に他の動物を殺生することを戒め、仏教の教義である命の尊重を人々に浸透させていったのだと実感しました。

Saki0204    reply

生物学的には人間は雑食動物であるとされているが、実際は菜食主義者がいたり、特定の食べ物が食べれない民族がいたりと、文化によって様々であると感じた。その中で、上座部仏教徒について授業ではとりあげられていたが、宗教に無頓着な私からすると不思議なことばかりであった。上座部仏教徒は托鉢でしか主体的に食事を確保することができないことを考えると、社会の発展によって宗教のあり方、そして食のあり方か変化していく必要があるのだと感じた。

Umay9002    reply

高校で大乗仏教と上座部仏教の違いはある程度習ったが、用いる仏典や理想像にも違いがあるとは知らなかったので、この2つの宗派についてもっと調べて見たいと思った。ミャンマーの僧院で学ぶ出家者にとって、唯一の主体的な食糧調達手段である托鉢とともに在家者の助力が不可欠である一方、在家者の不足・金銭横領といった問題が起きている現状を知り、理想を追ってある道を極めるということの難しさを改めて感じた。

伊藤宗晃    reply

宗教的な理由で食に制約を受けてしまうのは無宗教者の自分からすれば非合理的で食の楽しみを奪われることに他ならないと感じた。しかし文化という視点で見れば僕らも昆虫食などには馴染みが無いしそのことを惜しいとも感じてないので、宗教的な制限の中で生活する人々もそれを制限とは思って無いんだろうなあと思いました。

s100Horn    reply

私は中高で仏教の授業があったので八正道などは聞いたことがありましたが、仏教の考えが食にまで影響を及ぼしているということは知らなかったので、とても興味深かったです。今、私たちは身近なところにコンビニエンスストアやスーパーマーケットがあり、いつでも食べ物を入手することができますが、ミャンマーの修行者たちは決まった時間に、町まで歩いて托鉢をもらわなければ自分の食べるものすら確保できないという状況にあり、その違いに驚きました。幸せを求めるために出家することは良いことであると思いますが、十分な托鉢を確保できない地域があるなど健康的な生活をすることができない状況があるのは問題であり、改善されるべき点であると思います。

nas123    reply

実際にフィールドワークを通じて宗教の世界に触れられた先生の話を聞いて、自分が普段の生活ではあまり直面することのない食の宗教との関係をリアルに感じ、学ぶことができた。出家者たちが食を布施に頼るというのが、日本の一般的な食料事情と大きく異なり、宗教の影響が強く見られる部分だった。貧しい老人から托鉢を受けるという話で、物質的な豊かさを基準にするにではなく、宗教の実践で心理的な満足を得ることを基準にして幸福を感じるという生き方があるということを知った。今回はミャンマーの上座部仏教が対象だったが、ほかの宗教の国や地域、あるいは同じ上座部仏教でもほかの国を対象にした場合、どうした違いや共通点が現れるのかを知りたくなった。

bnk258gi    reply

そもそも上座部仏教について話を聞く機会が今までほとんどなかったので、新鮮な思いで講義を聴くことができた。上座部仏教における幸せの概念についての部分がとても興味深かった。食に関する部分で言えば、出家者は在家者の協力なしには出家生活をおくっていくことが厳しいというのが最も興味深かった点で、托鉢というのは想像以上に上座部仏教の僧侶にとって非常に重要な意味を持っているのだということがひしひしと感じられた。

akanexwx    reply

出家生活と食を結びつけたことは今までなかったのですが、お布施を多くもらえる寺院とそうでない寺院、またお布施をもらいに行くために三時間もバスで移動するなどの話を聞いて、人間は生きていくうえで何をしても食とは切り離せないのだと再認識しました。

rakim1099    reply

仏教校出身だったこともあり、とても面白い講義でした。また先生自身が托鉢僧となって実際のミャンマーの僧侶の生活を体験されていたというのも大変興味深かったです。
 大乗仏教に慣れ親しんでいる日本人にとって、上座部仏教は少し縁遠いものの様に感じてしまうものなのではと思います。私も今までは、豪華絢爛な仏塔や色の異なる袈裟など、とても同じ仏教とは思えませんでした。本講義で上座部仏教の教義を知ってからは、むしろ釈迦本人の教えにより近いのだと知り、親近感が湧きました。日本の仏教はかなり分化しかつ独自の進化を遂げており、また日本人の宗教に対する興味の低さも相まって、むしろ日本の仏教の方が捉えにくいものだなと感じました。
 本当は教義について色々思うところを書きたいのですが、”食”がテーマなので諦めてテーマに関することを書きたいと思います。托鉢の存在は前から知っていたのですが、想像以上に美味しそうでしたし、豪華でした。僧侶の位によって食事内容が変わるというのも(考えてみれば当たり前ですが)初耳でした。また、教義の厳格さとは裏腹に(一部でしょうが)食事がとても豪華だったり、仏塔や祭壇が金ピカであるというギャップもおもしろいと思いました。日本とは違い、ミャンマーでは仏教が人々の生活に深く絡んでいる様で、それを考えればその様な矛盾も致し方無いのかもしれません。

Keisuke1014    reply

上座部仏教徒が托鉢をするというのは知っていたが、食事を布施に依拠しているということを知って驚いた。出家者は律によって経済活動や生産活動が禁止されているのでそのような形式にならざるを得ないが、都市化や在家者の量・質的不足によって制度の存続が厳しくなっていることもわかった。東南アジアは「第2の中国」として先進国が工場の移設など開発を進めているところであり、さらなる経済発展が見込まれるだろう。そうなると都市化が進行することはもちろん、出家者の大半を占めている農村出身の貧困家庭の子も減っていき、さらに布施に依拠した出家生活は営みづらくなるだろう。そうなると実際の生活を保つため、今は律によって禁止されていることも解禁しなければならない状況が発生するだろう。社会の仕組みの変化とともに、信仰をどこまで守り、現状をどこまで変えていくかと言う難しい問題に、食という生活に不可欠な要素が密接に関わっているのだと感じた。

hoku125    reply

 蔵本先生は講義の中で、ショートケーキを一週間後に食べることができるだろうかという問いから初めて、いやそれはできないだろう、なぜならばショートケーキの構成成分は一瞬一瞬変化しており、一週間経つうちにケーキは腐ってしまっているだろうから、と誰もが納得できる説明をなさった後に、このように世の中のすべてのものは無常である、と解説してくださった。無常という仏教の概念がとてもわかりやすく示されており、印象的だった。
 また、五戒のうちで飲酒が殺人や盗み、淫蕩、虚言と同等の禁止事項とされているのがなぜか、今まで不思議に思っていたが、それは、飲酒がそれら(殺生、偸盗、姦淫、妄言)を容易にするためだという説明も非常に納得できた。
 僧院内では非常に厳しい戒律が敷かれており、僧の身分によってお金に触れる、触れない、ご飯を作れる、作れない、托鉢という形でしかものをもらえない、などといった制限があることを初めて知った。また、僧たちは食べること自体を楽しんではならないとされており(なぜならば仏教においては快楽や執着は避けるべきものとされているからということだった)、修行をするためだけに食べるのだ、というお話は衝撃的だった。私にとって食べることは、人生の中で最大の喜びの一つといって過言でないと思っているのだが、このように豊かな食生活を持てていることに感謝しなければならないと改めて思った。
 また、ミャンマーやスリランカなどの国々では、仏像を新しくきらびやかなものに変えていくことが信仰の証である、と考えているらしいということだった。日本の感覚からすると、古いものは古いまま、その経てきた年月を感じさせる状態で保存するのが最良だと思うのだが、ここでも文化の違いというものを感じた。
 宗教が食に関係しているということを今まであまり考えたことがなかったが、確かに宗教的な戒めや習慣が深く食生活に影響を与えているといえそうだ。日本にいると、日本食だけでなく中国料理、インド料理、イタリア料理、ロシア料理、ファストフード、などなど世界各地の様々な料理を食べることができる。宗教という観点から考えてみると、日本人が世界的にも有数の豊かな食文化を持つに至ったのは、他の宗教や文化に対して寛容なためではないだろうか。その根本には、万物すべてに神を見出した古代日本人の考え方が息づいているように思われる。今後世界の様々な国を訪れる際には、宗教と食のかかわりを読み解いて、その土地の人々の生活をより深く理解できたらよいと思う。

 蔵本先生に質問です。先生が、ミャンマーの僧院で僧として生活しようと思ったのはなぜですか?また、僧院での生活の中で一番心に残ったことは何でしょうか?そして、海外にて宗教と食の関係を読み解く上で、何か心掛けていらっしゃることはありますか?以上三点、お答えいただけましたら幸いです。

yutoun28    reply

出家した上座部仏教徒の食生活に関して詳しく知ることができてよかった。特に印象的だったのは、出家者たちの食事は作法や調達の面での制限が多く托鉢や布施が行われている一方で、意外にも食事内容についての制限が緩やかである点である。キリスト教やヒンドゥー教、などの主要宗教のいくつかでは肉食や飲酒に関する制限があるからだ。自分は特定の宗教を信仰していないが、ある食物を不純のものとして捉えるのではなく、「律」つまり制欲と物欲をなくすことを食事作法として昇華させていることには非常に納得がいった。また、そのような制限があるが故に僧院組織の運営が困難であることも新鮮だった。在家者の役割も含めて、国家全体が出家者を支えまた出家者からも恩恵を受ける形で成り立っていることに、驚きを受けた。

411haruki    reply

これまで、宗教と食といえば、イスラームやヒンズー教の禁忌といったイメージしかなく、仏教においては両者は相互関連性が薄いとばかり思っていた。
 ところが、ミャンマーの事例を通して、同国での食生活が、上座部仏教における「律」の根底にある涅槃の追求という考え方をもとに出家者の間で厳しく制限する一方、出家事情や僧院組織の構造といった社会的な事象を色濃く反映する側面をも有していると知った。
 そして、仏教と食とのつながりに関して新たな知見を得るとともに、極力禁欲を目指すという理念の下でも、やはりkwン全な生活を確保すべく「食」に憂慮をめぐらす内在的な本性が人間には備わっているのではないかとも考えた。

naga2018    reply

上座部仏教というと日本に普及している仏教とも違うため、出家が重要といった高校で習った程度のレベルでしか知らなかったので、「食」の観点からミャンマー仏教僧の出家生活を切り取りその内実を見ていけたのがとても良かったです。同時にほかの宗教でもどのような食の制約があるのか、そしてその制約の中でどのような生活が営まれているのか、また何故そのような制約がうまれるのか興味が湧いてきました。

okayu0523    reply

仏教という同じ宗教を信仰する東・東南アジアでもその宗派は大きく二つに分かれる。一つは北伝仏教と呼ばれ、現在の日本や韓国、中国を中心に進行されている大乗仏教。そしてもう一つが、南伝仏教と呼ばれ、現在のタイやミャンマー、ラオスなどで信仰されている上座部仏教である。これまでの高校の地理の学習を通して、これらの国・地域で異なる仏教が信仰されていることは学んでいた。勿論上座部仏教では出家することが重要な意味を持つことも学んでいた。しかしながら、これまで「これらの国々でなぜ出家が行われるのか。その直接的な理由は何なのか。」ということについて疑問を抱くことはなかった。
今回の講義を通して、宗教的行為である出家に彼らの社会経済的状況が絡んでくることを初めて知った。上座部仏教徒の多いミャンマーでは経済的な貧しさと子供の多さによって、年長のものには高等教育が十分普及していない。十分に成長すると出家するか軍人になるかのどちらかの選択肢しか取れないという貧困に苦しむ若者が少なくないのが現状である。彼らはとりわけ仏教への信仰心が厚いわけではなく、他の選択肢がとれないために出家しているという側面は否定できない。
「ある国では○○という宗教の▽▽という宗教行為が盛んである。」ということを聞くと何となく「信仰心の厚い国だ。」という感想を抱きがちである。しかしながら、このミャンマーの事例のように、そうした行為には何か他の要因が絡んできている場合の少なくない。多面的なものの見方の大切さに気付くことができた。

fuya0469    reply

上座仏教において「食」がその生活を大きく制限している非常に重要なファクターであることを学びました。また、出家をする人々の多くが貧困や教育機会に恵まれない状況下にあったという事実も我々が考えなければならないことであるように感じました。宗教自体が「幸せ」を求めるもので、その「幸せ」のあり方としての涅槃の概念も改めて興味深く感じました。

n2018o    reply


講義ありがとうございました。
私はこのセメスター、田辺明夫教授の文化人類学を履修しており、藏本准教授も文化人類学が専攻でいらっしゃるということで、早速興味を惹かれました。
現在、田辺教授の講義では純粋贈与と売買を取り扱っており、そのような観点からも、仏教における布施を考えてみよう、と思い講義を聞き始めました。
私たちの食文化がどのように特徴付けられるかということを考えた時に、もちろんその地域で取れる食物が使われることは自然なことですが、それ以外の要素といえば、確かに宗教が多分に関わってくると思いました。
「何々を食べてはいけない」「何々を儀礼的に食する」というのは宗教あってのものです。
「信徒の生き方に宗教の食のルールがどのような影響を与えているのか」という問いは非常に興味深いものでした。
最初に流れを説明していただいたり、問答の形式をとって講義していただいたりと、様々な工夫のおかげで興味を持って聞くことができました。全く眠たくなりませんでした。
上座部仏教と大乗仏教の違いは、受験世界史である程度知った気になっていましたが、思ったより相違点が多く驚きました。キラキラした派手な大仏を初めて見ました。輪廻転生に神様が含まれるという信仰は、他の宗教では見られないものではないかと気づきました。
ミャンマーの出家僧に食べ物の制限が少ないのは意外でしたが、お布施という仕組みだからと聞いて納得しました。
ミャンマーは栄養状態が悪いですが、これは単に経済水準が低いからという理由だけではなく、幸せを求めるために禁欲するのも理由の一つではないかと考えました。
出家の実体験について聞くことができて興味深かったです。

lily722    reply

実際にミャンマーで出家生活をした経験のある先生からリアリティのある興味深いお話を聴かせていただいた。
最初に「出家生活と『食』」と聞いたとき、私は精進料理を思い浮かべたのだが、上座部仏教の布施という制度上、頂いたものは肉でもなんでも食べるのだと知ることができた。
さらには、布施という制度が僧院組織のあり方だったり出家者たちの生活・ライフコースに大きく関わるということも非常に興味深かった。
「食」との関わりの話の前に、我々に比較的馴染みのない上座部仏教についても詳しく説明してくださったが、特に大乗仏教と上座部仏教の違いなどは高校時代に日本史の授業で習ったもののいまいちピンと来ていなかったので、今回改めて学ぶことができて良かった。
私はキリスト教学校出身で、収穫感謝礼拝などで食と宗教のつながりを感じていたが、今回の講義を受けて、食は、人間の基本的な営みであるゆえにどの宗教とも関わりが深くなってくるものなのだなと思った。他の宗教でも食との関わりを見てみたいと思った。

toriimo0817    reply

ミャンマーの上座部仏教の出家僧の食についてのお話でした。
特に印象に残っているのは出家した後の食事は「ただこの身体の存続のため、維持のため、飢餓病気を静めるため、最勝行を護るため」であり、決して楽しみとして取るものでは無いということです。食事は本来的にはたしかに生存のために行うものなのでしょうが、「人間的」な在り方としては、食事はやはり楽しみの1つであると思います。自分では決して生産、調理を行うことができなくなった身で、在家の人々からの施しによってしか食料を得られないというのは、私には想像もできないことです。ミャンマーの人々にとっては、上座部仏教の教えはとても身近であり、出家することはいかなることかを理解した上でのこととはいえ、食をここまで制限されるのは厳しいことなのではないかと思います。
そうであってもやはり国民の多くが出家の道を選び、食の楽しみのない暮らしを続けているということは、ミャンマーでは上座部仏教が本当に大きな存在であるということだと思いました。もちろん、経済的理由から出家をするケースも多いという背景もありますが、これほどまでに仏教と深く関わりあった国民生活はなかなか無いでしょう。実際、出家する人々のどれほどが、「望んで」出家してゆくのかは気になるところです。
私は上座部仏教徒ではないですし、特に特定の宗教を深く信仰してもいないので、食を外的なものから制限されることはありません。今回の講義では、世界には食を純粋に生命活動の存続のためとして位置付ける文化があるのだと再認識することができました。

kensugawar@food2018    reply

ミャンマーの上座部仏教と僧侶の食生活の関係について、自分の固定観念とはかなり違った発見がありました。一般にどの宗教でも少なからず食事に関する規定は存在し、現にムスリムは豚を食べなかったりする訳ですが、仏教は割合食に関する規制が少ない方で、かなり自由な食生活であると思っていました。しかし講義を受講し、仏教の理想とする涅槃に至るための最適な食事を行うべく、実際には食に対するアプローチがかなり限定されていると知りました。上座部仏教の教えが日常の修行生活だけでなく食事のあり方も制限し、それがさらに仏教の教えにある以上に、僧侶の修行生活や周囲の信者の生活に影響を与えている状況は予想外でした。日本の仏教僧侶の様子を見ているとより多くの時間を食事以外のことに当てているようであるが、このような状況は大乗仏教と上座部仏教の教えの違い、檀家制の有無、といった要因に左右されているのだと思うと、仏教の教えが実際の僧侶の生活に与える影響について興味が湧いた。また、日々の食に困るから出家して僧侶になる者がいたり、また食を確保するための布施が指導者のカリスマに多く左右され、農村では布施も手に入りずらくなる現実はミャンマーが発展途上であることも示していると考えた。

Gooner0919    reply

普段イメージする固い雰囲気の海外における仏教の現実を知ることができ、勉強になりました。特に、現代社会のシステムと教義との狭間でやりくりしていかなければいけない難しさやそれを乗り越えていく強かさのようなものが興味深かったです。

松本剛    reply

先生のミャンマーでの経験を通じたお話から、ミャンマーの上座部仏教の特徴を学びました。貧しい子供が兵役から逃れて信徒になる場合が多いということが印象的で、欲を断つ厳しい宗教が今も強力である一つの理由なんだと納得しました。また、布施を通じて村落内での関わりが強化されるというのは、今の日本では考え難く、羨ましいかも、と感じました。

ilovefood7    reply

自分は大乗仏教の日本に暮らしていることから、上座部仏教については定義や概要などについてしか知らず、食といったようなミクロな視点からの情報には無知であったため、大変興味深く感じた。

rika0817    reply

ミャンマーの上座部仏教の宗教組織の運営をミャンマーの上座部仏教から「食が集団の生活を規定する」という点を見たが、考えたことを2点のべる。
一つ目は、食べてはならない及びしてはならないという方向性の制約についての話が主だったが、宗教によってはこれを食べるべきとかこれをしなさいという制約もある。(ミャンマーでは托鉢で食事を獲得するから食事の内容に制限はないという話は意外だったが、納得した。)例えば原始宗教ではあるが神道での御神酒やキリスト教でのパンやぶどう酒など。このような制約は不都合があまり生じないからフォーカスされることは少ないが、やはり集団に対して何らかの影響はあるのではないかと思った。
二つ目は日本の社会は食によってどう規定されているのだろうかと思った。米を作る社会の方が関係開放性が低いとは適応行動論でも習ったが、食の西洋化と多様化が進んだ中でそれでも日本社会、もしくは日本の一地域で共通な食と生活の関わりはないだろうか。宗教的なものは私には思いつかない。お屠蘇は未成年飲酒に抵触しうるが、田舎で一口で良いからお屠蘇を飲めということになった場合人の行動が法よりも宗教(ここでは神道。原始宗教ですが。)によって規定されたと言えるかもしれない。しかし、集団としての例はなかなか思いつかなかった。

Reply from 藏本龍介 to hoku125    reply

ご質問、ありがとうございました。①ミャンマーの僧院で僧として生活しようと思ったのは、直接的には、出家生活(特にお金という経済的な問題)を研究していたからです。それまでもいろいろな僧院に通って調査していましたが、より具体的に知るためにはある程度、長期的に僧院に滞在した方がいいだろうと考え、出家しました。ただし、当時は外国人がミャンマーに長期滞在するのが難しく、実際に出家した期間も2ヶ月間だけでした。②短期間ではありますが、僧院生活ではいろいろなことを学びました。一番心に残ったのは、出家生活中にみた夕焼けや満月の美しさでしょうか。私が出家した僧院は律に厳しいことで有名で、いわゆる世俗的な刺激とは無縁の生活を送っていました。そうした中で、当たり前の自然が普段よりも鮮明に見えたのかもしれません。あとは出家者用の「おやつ」の美味しさですかね。出家者は午後に固形物を食べてはいけませんが、飲み物や流動物は摂取できます。それでヤシ砂糖や蜂蜜などを溶かしたペーストのような「おやつ」があるのですが、それを食べたときに腰が抜けるほど美味しくて驚きました。あまりにも美味しかったので、日本にも持って帰ったのですが、日本で食べたらびっくりするほど不味くて、すぐに捨てました。生活の違いが味覚に影響を与えるということに気がついた次第です。③宗教と食の関係という問題で、個人的に面白いと思うのは、教義と現実のギャップです。宗教が掲げる理想がいかに高邁なものであったとしても、信徒がその理想を実現するためには、日常を生きぬくことが必要不可欠です。そしてその根幹には、「食」という問題が歴然と横たわっているわけです。したがってある宗教の信徒たちが、実際にどのように「食」と関わっているのか(どのように獲得・所有・消費しているのか)という問題をみることは、宗教の現実の姿を解明するための重要な視点になるかと思います。

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