I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.8 2022.11.30

comments(最新2件 / 7)

MI710    reply

非常に興味深いお話として、人間は排泄を食事から切断し隔離してきたという話があった。それによって、食事から排泄に至る人間の代謝過程を自然の循環の中で位置付けて意識することが難しくなっているという論旨だったと思う。なぜそのような排泄の隔離が起こったのかは不思議である。今にして思うと、確かに私は排泄を汚いもの、不浄のものとして教えられてきて、現在でもそのような認識は変わっていない。多くの人も同様だと思う。私見を述べると、おそらく、そのような排泄の隔離は人間にとって必要なことであったのだと考えられる。いわゆる「定住革命」が起こった後、人間は一つの場所に留まって生活することを余儀なくされ、その結果、決められた場所で排泄をすることを強いられるようになった。そうしなければ、自分達の住環境を衛生に維持できなくなるからだ。しかし、ずっと遊動生活を送ってきた人間にとって、毎回決められた場所で排泄をするというのは難儀なことである。実際、乳幼児がトイレで排泄をできるようになるまでは、通常長い期間を要する。そのため、私たちは排泄を行う空間をそれとして強く意識する必要が生まれ、それが最終的に排泄空間ひいては排泄行為そのものの隔離を引き起こしたのではないだろうか。さて、講義全体を通して感じたのは、現代とは、人工物が自然に大きく入り込んだが故に、人間とそれ以外という区別が機能しなくなっている時代であるということだ。むしろ、「人間」というカテゴリーが有効に働いていた時代の方が短いのかもしれない。ゲノム科学から文化人類学に至るまで、「食」の研究が学際的な様相を呈していることを具体的に知り、「食」をめぐる状況の変化が人間存在にどのような影響を与えうるのかという重要なトピックについて考える契機を得ることができた。

kent0316    reply

私がこの講義で最も印象的だったのは、排泄物と食との分離だった。
確かに私たちの生活において、排泄物は忌むべき、汚いものの象徴というイメージがある。
しかし、このように排泄物を循環から除外した「処理すべきもの」として扱っていると
近い将来、人口爆発の影響により、排泄物の問題はより深刻になるだろう。
やはり、排泄物を「処理すべきもの」としてではなく、循環の中で例えばたい肥・肥料などの
使い道を見つけてやることがこの問題解決の糸口になりそうだと感じた。

Taku0    reply

排泄やサケに関して、「循環から切り離されている」という話が非常に興味深かった。元来循環していたものが徐々にそのサイクルから失われる時、私たち人間はそれに自覚的である必要があると思う。このことは、廃棄が実は環境形成のための積極的な行為であるという話にも繋がってくる。自然のもとでの循環と、サケの人工孵化放流といった技術によって可能になった人工的な「循環」を、私たち消費者は同じようなものとして捉えがちだが、実質的には大きく異なっていることがわかった。「自然との共存や循環から撤退する方が合理的ではある」という話を受け、消費者や社会全体が今一度、自然な循環に含まれる価値を再評価してみることが大切ではないかと感じた。

mayateru63    reply

食と排泄物とが分離しているという話は印象的だった。確かに実際我々は排泄物を汚いものとして食事の話題と交わらせないようにしていることは多く感じる。食事があれば必ず排泄がある。これらは本来むしろ密接な関係にあるはずなのに現状がこうであるのはもしかしたら排泄物を介した感染症の存在が大きかったりするのだろうかと思った。講義を通して食学という学問を初めて知りその重要性に気づくことができた。

u1tokyo    reply

今回の講義では、食文化の変遷についてのお話を聞けた。特に培養サケのお話に関連して、人間のする食事という行為の意味が大きく変わって来ているという話があった。先生によると食事には二通りあり、一つは自然の循環の中での食事で、もう一つは人間の作り上げたサイクルの中でのある種「宇宙での生活的な」食事があるということだった。これについて自分はとても感銘を受け、確かに自然に生きている魚を獲ってその命を頂くのと、人間が食事をするために人工的に放流した命を頂くのとでは、もはや食事の持つ文化的意味が根本的に変わっているなと納得できた。僕が今回の授業を聞いていてふと感じたのは、自分は培養肉などを食べることにまだまだ抵抗があるなということだった。そしてこれはすなわち、僕はまだ宇宙的な食生活に支えられて生きている自分を心の中では受け入れられていないのかもしれないな、と感じた。僕としては魚だけではなく家畜などの肉もまた先生の言う「宇宙的な」食事だと言えると思うし、自分が支えられて来た「食事」と言う行為について今一度考え直してみたい。

YCPK4    reply

現代の社会が「死」や「排泄」を徹底的に生活、とくに食の場面から排除し、見えなくしているという話には色々思い当たる節があり、なるほどと思わされました。講義の中では、食べる場面において死や排泄といったものを意識することはそれほど強いストレスとなるのだ、というような説明がなされており、確かにそうだと思いましたが、さらに進化心理学的な観点からの説明もいろいろとできそうで、とても広がりのあるテーマだなと感じました。
「培養肉のような技術が普及したとき私たちの生活に何か根本的かつ不可逆な変化が起こってしまうのではないか」という問いがありましたが、普段の生活では私は肉を「生物の遺骸」ではなく、まさしく生き物の生死から切り離された「肉という何か」として食べているため、それが培養肉になったところであまり変化はないのではないか、というのが個人的な意見です。
また、培養肉といえばウシやブタのものだという固定観念があったため、サーモンの培養肉があると知ることができてよかった。培養サーモンについて、ちょっと勉強してみようと思います。

Roto    reply

天然肉と培養肉は、どちらかに全て置き換わるものではなく、むしろ培養肉は市場で別の需要を形成して、新たな食品のカテゴリーを作り出すのではないかと思う。天然肉は技術では再現できないある種の質を持っていて、それを培養肉がカバーすることは難しい。一方で培養肉は、人間によるカスタマイズが加えられ、より人間の需要に合わせて、むしろ生肉にはない美味しさや機能をもつ製品が開発されるかもしれない。つまり天然肉と培養肉の関係も、例えばバターとマーガリン、出汁と味の素といったような、よくありがちな天然品と人工品の構図に帰結するはずだ。ということは、人間が天然肉を食べる機会が、培養肉によって完全に奪われることはない。家畜を殺すという行為を省みる機会が減るのは確かだが、人間の生そのものの倫理が問題となるほど、人間が培養肉に頼りきりになることはないのではないか。

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