I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.11 2022.12.21 Koichiro KOKUBUN

Instructor

Koichiro KOKUBUN

comments(最新2件 / 8)

Roto    reply

個人的には哲学が好きなこともあり、國分先生が来るのを知ってから、著作を何冊か拝読した。講義前に先生の著作を読んでいた時に、哲学書を読んでいるときに特有の頭が痛くなるような感覚に襲われた。その感覚に講義中も襲われるのではないかと思っていたが、実際に教室で先生が話し始めるとむしろその感覚は氷解した。しかし先生に質問する内容を整理しようと手元にあった『暇と退屈の倫理学』を開いた瞬間にまた頭が痛くなる感覚に襲われた。本を書いた方がそこにいて、フランクな語り口で同じ本について話しているというその状況が、本を読むことの難解さの緩和にほとんど繋がっていないのは驚きだった。というのは、本を読むことはその著者とのコミュニケーションを図る一種の方法であり、例えばメールでのやりとりと直接会って話すのでは相手の印象の伝わり方が違うように、著者を前にしては著作の内容の伝わり方も変わると思っていたからだ。少なくとも自分はそのようにして今まで本を読んできた。著者に会えば、著作の内容がより自然に了解できるのだと思っていた。もちろん本を読み、実際に著者に会うというのは初めての経験ではないが、今回は顕著に、本の内容の見え方が、遠ざかっていくように思えた。この現象はどの程度一般性があることなのか知りたい。
循環に関係のあることでは、講義では取り上げられなかったが、『暇と退屈の倫理学』に「環世界」という概念が導入されていた。環世界とは、人間を含めた動物が、客観的な「循環」の中で生きることを運命づけている要素であり、この環世界同士をしばしば横断しながら生きるのが人間であるとされている。ただその環世界の横断こそが人間の退屈を生み出しているともされている。つまり、循環という言葉を使えば、自分の生きている循環が客観的に見えてしまうことが退屈の源泉だという。自分もその通りだと思う。自分の意見では、先生が最後に引用したラッセルの「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」という一節の「教育」が意味するのは、「循環」を客観的に見ないようにする訓練、それこそが「多分に楽しむ」ために必要な要素だと実感させる訓練、このようなものだと考える。

kent0316    reply

消費と浪費は異なる。この講義で最も新鮮であったのはこの点でした。
確かに20世紀から現代にわたって、企業側は最大量消費させることを目的としてきました。
その一例をあげると、マヨネーズの口の部分を大きくすることで消費を加速させ、購買頻度を増やすなどの「企業努力」です。
「この消費社会のなかで我々が浪費できていない」という一見明らかな矛盾に聞こえる主張も講義を聴いているうちに納得できていました。
自分自身理系なのですが、このような哲学的なことを考えるのは好きなのでとても楽しかったです。

Taku0    reply

日々工業製品のモデルチェンジがなされ、新作が次々と宣伝される現代の生活について違和感を抱くことはたびたびあったが、自分の場合、消費社会からの脱却の手段として「節約」
しか思いつかず、満たされなさと(身勝手な)正義感の葛藤を抱えていた。ところが今回「消費」と「浪費」という概念の比較のもとで、ものごとを我慢することではなく、十二分に楽しむことこそが消費社会への対抗策だという考えに出会い、深く納得した。ミニマリストや断捨離という言葉がかつて流行ったが、それは人によっては「慎ましく生きていると周りに思われたい」という感情から来る観念論的行為であり、消費と対して変わらない行為だったのかもしれない。行為の目的に関して自覚的であることが重要だと思う。お話にもあった通り、消費と浪費は人間のそれぞれの行為に明確に対応しているわけではないので、自分の行動や社会の流行を表面的に捉えてどうこういうのではなく、その奥にある意識や無意識について思索していきたい。

mayateru63    reply

消費と浪費が異なるというのは漠然と理解はしていたがこの講義を通じてより明確に意識できるようになった。自らやりたいことを不必要でも積極的に選び取って浪費することは現代の消費社会においても豊かな体験を得ることができる点で大きな美徳だなと感じた。人生は盛大な無駄の塊であってその無駄をいかに楽しむかが重要だと考えている側面も自分にはあり、この講義と通底するところがあるなとも感じた。消費社会に完全には屈することなく贅沢を享受できるように生きたいと思う。

futian0621    reply

個人的に、抽象的な概念を扱う哲学という学問に対して、とっつきにくい、敷居が高いという印象を持っており、受験勉強でも、現代文で哲学の文章が出てくると、難解で苦労したので苦手意識を持っていた。しかし、今回の授業で扱った消費と浪費、暇と退屈というテーマはとても身近なものであり、具体的に説明してくださってとてもわかりやすかった。現代社会のあり方やそこに生きる人々に鋭く切り込む内容で、哲学という学問の実学性を実感した。これまで哲学の文章を遠ざけてきたが、今回のお話に深く興味をもち、自らの生活に関わるものだと感じたので、國分先生の著作「暇と退屈の倫理学」を購入した。本作をきっかけに、哲学の素養を身につけて自らの生活に活かしていきたい。

YCPK4    reply

まず、消費と浪費のお話がすごく面白かったです。
浪費はいつか満足して終わることがあるが、資本主義社会は無限に成長するために無限に消費させる。無限に消費できるのは、物質ではなく記号が対象となっており、記号は決して満足をもたらさないから。これらのことは、私が日々の生活でぼんやりと感じていたことを鋭く指摘していると感じました。
そして、そこから「もっと浪費しよう」と繋げていくのが好きでした。よくある環境問題の議論では、「もっと我慢せねば」という論が多く、個人的には「それは正しいのだろうけど、それに人はついていくだろうか…」という疑いを持っていましたが、「もっと浪費を」という言葉にはそういった暗いイメージはなく、希望を感じさせるからです。今の私は、消費社会に最適化されたような生活を送っているように思えますが、少しずつでも、「楽しむための訓練」をしていこうと思います。

u1tokyo    reply


今回の講義では、「消費」と「浪費」の違いについて考えてみるところから、現代社会に生きる我々が失いつつある「感性」について考えた。その二者を比べると、「浪費」は有限な実体のあるモノを対象とするのでその行為の先には満足がある一方、消費を行う人は無限に満たされず消費を繰り返すという本質的な違いがある。さらに、フォーディズムから系譜を継ぐ現代社会の消費者を生み出す性質によって、我々は無限に「消費」を行わされているという話を聞くことができた。しかし、そのようにさせられている中でも人間の「感性」は死んでいない、だからその感性に正直に生きてみることから始めよう、という結論を先生は述べられていた。
この「消費」と「浪費」について自分なりに考えてみると、確かに頷ける部分が多く、自分のなんとなく普段から考えていた事にも近いな、と感じた。個人的にこの話に近いなと感じていることは、学校で学問を学ぶときの姿勢についてである。そもそも講義でも先生が述べられていたように、本来学校は「楽しみ方を教える」ための機関であった。その楽しみ方というのは、まさに授業で取り扱っていた「感性」である。しかし、大学や高校で課題や授業をまるで流れ作業のようにこなしていると、だんだんと自分の感性を見失うことが僕にはある。しかし、そんな中で図書館に足を踏み入れて自分の興味の赴くままに本を手に取ったり、授業内容を少し逸脱しながらもある話題について深掘りしてみたりすると、学問はとても楽しくなってくるものである。僕としてはこれこそ「浪費」の良い例なのではないかと考えている。他にも日常にたくさん「感性」の良い例はあり、先生の講義を聞いて言語化された「感性」の存在を実感することが講義後多い。
質疑では主体性と客体性という視点での消費と浪費について質問することができたが、その中で先生が話されていた「中動態」についても、先生の著書を読んで触れてみたいなと思った。
非常に楽しい授業でした。本当にありがとうございました。

u1tokyo    reply

今回の講義では、「消費」と「浪費」の違いについて考えてみるところから、現代社会に生きる我々が失いつつある「感性」について考えた。その二者を比べると、「浪費」は有限な実体のあるモノを対象とするのでその行為の先には満足がある一方、消費を行う人は無限に満たされず消費を繰り返すという本質的な違いがある。さらに、フォーディズムから系譜を継ぐ現代社会の消費者を生み出す性質によって、我々は無限に「消費」を行わされているという話を聞くことができた。しかし、そのようにさせられている中でも人間の「感性」は死んでいない、だからその感性に正直に生きてみることから始めよう、という結論を先生は述べられていた。
この「消費」と「浪費」について自分なりに考えてみると、確かに頷ける部分が多く、自分のなんとなく普段から考えていた事にも近いな、と感じた。個人的にこの話に近いなと感じていることは、学校で学問を学ぶときの姿勢についてである。そもそも講義でも先生が述べられていたように、本来学校は「楽しみ方を教える」ための機関であった。その楽しみ方というのは、まさに授業で取り扱っていた「感性」である。しかし、大学や高校で課題や授業をまるで流れ作業のようにこなしていると、だんだんと自分の感性を見失うことが僕にはある。しかし、そんな中で図書館に足を踏み入れて自分の興味の赴くままに本を手に取ったり、授業内容を少し逸脱しながらもある話題について深掘りしてみたりすると、学問はとても楽しくなってくるものである。僕としてはこれこそ「浪費」の良い例なのではないかと考えている。他にも日常にたくさん「感性」の良い例はあり、先生の講義を聞いて言語化された「感性」の存在を実感することが講義後多い。
質疑では主体性と客体性という視点での消費と浪費について質問することができたが、その中で先生が話されていた「中動態」についても、先生の著書を読んで触れてみたいなと思った。
非常に楽しい授業でした。本当にありがとうございました。

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