I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.1 2014.10.08 HARA, Kazuyuki

“Elimination” in Development: From the Psychoanalytical Angle

Sigmund Freud, the Viennese doctor who came up with “psychoanalysis” as a cure for hysteria, later came to believe that in general, the unconscious desire is the trigger for the disease, departing from his initial conception of trauma, or the recalled memory of immense shock experienced by the subject. The unconscious desire not only generates and sustains pathological symptoms but also manifests itself as resistance to treatments that attempt to cure such symptoms. The latter became more problematized as discussions about analytical methodology gained more depth, and it led to the theoretical question of how human desire is formulated in the first place. This question gave rise to the so-called “theory of libidinal development,” which discusses the process of transformation that various forms of desire (or “libido”) for various objects go through in the course of human development. The theory of libidinal development situates basic kinds of human desire at earlier stages of human development, and here, elimination or excretion, was understood as an important turning point alongside eating.

This lecture will provide an overview of how various turning points concerning elimination or excretion are situated within the psychoanalytic discussions of desire. Our main points of reference will be theories of the 20th century British psychoanalyst Melanie Klein as well as the 20th century French psychoanalyst Jacques Lacan, among others in addition to Sigmund Freud.

Instructor

HARA, Kazuyuki
Associate Professor at Multidimensional Analysis of World Structure, Department of Area Studies, Graduate School of Arts and Sciences, University of Tokyo. Majored in Area Studies (France) at University of Tokyo's Undergraduate Program and subsequently its Graduate School. Studied Philosophy at Université Paris 1 as well as Université Paris 4. Ph.D. from Université Paris 4 (History of Philosophy). Assistant Professor (Associate Professor) at the Department of Area Studies, Graduate School of Arts and Sciences, University of Tokyo since April, 2004, after serving as Full-Time Lecturer and Assistant Professor at University of Electro-Communications. Publications include Lacan: an Exodus of Philosophical Space (Kodansha).
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comments(最新2件 / 12)

taro    reply

クラインはファルス的母によって男根期以前のエディプス・コンプレックスについて説明していましたが、ただ単にその時期の子供の男女の区別があいまいなだけだと思ったのですがどうなのでしょうか。

とも    reply

幼児オナニーについて。子供が成長してくると、親が抱く考えが変わるというのが面白かった。その境目はいつなのだろうか。

きお    reply

自分が精神分析の勉強に触れたことが無かったので、「幼少期の排泄の問題が人間の性格形成にあたって重要な役割を果たす」という考えが新鮮でした。自分は性格は他人に言われることや両親の仕事などで形成されていくような気がしていたので、排泄の問題が正確に影響するというのが納得しずらいです。性格類型も、几帳面、倹約、強情だけであるのも他の性格もある気がしました。自分の理解が追いついていない部分が多かったので、もっと詳しくゆっくり勉強したいと思いました。

うひろ    reply

おむつの取り替えの際に赤ん坊が泣き叫ぶという現象に関して、フロイトの理論に基づけばそれはナルシス的な肛門性愛への固執から生じたものであると考えることが可能であると授業中に言及されていましたが、私はこの事例においてはラカンの欲望の弁証法における考え方がより正しいのではないかと思います。すなわち、ラカンの欲望の弁証法による考えに基づけば、それは母への愛の要求として、母を引き止めるために泣き叫ぶのだということでしたが、私はこちらの方が正しいと思うのです。というのも、おむつの取り替え時における赤ん坊の涙と、例えば親による「あーん」(食事)の拒絶の涙(この涙は明らかにラカンの欲望の弁証法に該当するかと思います)は、感覚的に同質のものだと思われるからです。

りな    reply

フロイトの理論に基づくと、排泄物は単に自らの身体的快楽を得るためのものというだけではなく、他者との関係の媒介者として、攻撃手段とも愛する人への贈与物とも考えられるというのが興味深く面白かった。

なな    reply

精神分析理論の観点から排泄について考えるという事は興味深かったです。講義中、「母を欲望する」ということに言及されていましたが、これは子の性別による差異はあるのか気になりました。また、母を欲望する理由として母が最初に子の空腹を満たすから、などいくつか挙げられていましたが、これは人口授乳の場合など特殊なケースではどうなるのでしょうか。

post    reply

フロイトの精神分析理論については予備知識があり、興味深く聞くことができました。排泄に関連の深い側面から話を深められたことは、とても斬新でした。特に、子が思い描く母子関係が、父母が強固に結びついた存在であるファルスであることには驚きでした。ちなみにここでいうファルスは、両性具有者かそれに類するものと考えても良いのでしょうか。

いとう    reply

人間が生活する上で避けては通ることの出来ない「排泄」を精神分析の観点から考えてみるという今回の講義は非常に興味深いものでした。以前から精神分析については興味があり、いくつか本も読んでいましたが、この講義で改めて「排泄」というものの精神分析的な位置づけを概観することが出来ました。ただ講義では主にフロイトの精神分析理論の紹介だったのでもう少しラカンについての紹介があると良かったです。ラカンによれば糞便は対象aとのことですが、機会があればこの辺りを詳しく講義していただけると良かったのかもしれません。(そうなるとラカンについての講義になってしまうかもしれませんが・・・)

たこ    reply

 このテーマ講義の主題は排泄であるが、各々の回によってその言葉の意味するところは変化しているようだ。
 初回の「排泄」は文字通りの意味、それも人間の排泄に焦点を絞った話であった。人間における排泄は講義の冒頭で触れられていたように一般的には忌避されるものである。これは、自分を一般的な観点から観測すると至極当然のものに感じる。なぜなら、排泄という行為は必ず「汚い」というイメージを持つからである。しかし一見当然に思われるこの考えも実は大きな矛盾を抱えている。
 まず第一に、その行為のもつ不可避性である。排泄という行為は人間が生きている以上付き纏う、避けられない行為である。トイレ・トレーニングを完了していないような幼い頃から、年老いて自分では身動きもとれないような最期まで、この行為なしでは人間は健康に暮らすことはできない。しかし、このような不可避性を持つ排泄という行為が日常で話題に上がることは稀であるし、話題に上げれば忌み嫌われる。このことは大きな自己矛盾と言えるだろう。
 第二に、間接的な不可避性である。「自然には解消されない」という話が講義にもあったが、処理に関する問題である。人間の排泄物は時間をかければ自然に消滅するものの、消滅するまでは人間にとって害悪なものである。したがって、排泄物の処理は人間が真剣に取り組まなくてはならない問題なのである。しかし、先に挙げたような忌避する風潮に加え、処理は多くの場合他人任せである。
 以上のように排泄に関して扱うとき、人間は常に自己矛盾と向き合うことになる。したがって、今回の講義を聴講した際、ほとんどが目新しい解釈に感じられた。まだ自分の中で消化しきれていないのだが、理解が進んだ際や今後の講義を経て今回の解釈を多角的に理解できると思う。

たか    reply

フロイトのリビドー発達論については多少の基礎知識があったため、興味をひかれた講義だった。フロイトの研究がヒステリーなど従来の神経学が通用しない病気に対処するために興ったことや、フロイトの後の精神分析家の理論が様々であることなどを学べ、たいへん意義のある講義であった。文献を読んでさらに自らの理解を深めたいと思った。

てつ    reply

精神分析理論を知らないところからのスタートで始めて聞く用語が多く深い考察までは至ることが出来ませんでしたが、フロイトの糞便を幼児の贈り物として捉える発想やクラインの絵を見てのファルス的母の解釈を聞いた時には新鮮な驚きを覚えました。知らない学問分野であらゆる方向から排泄というひとつの言葉について論じられるこの講義を知らない学問を学ぶきっかけにしたいと思います。

po-nomo    reply

 精神分析の観点から「排泄」というテーマを扱う今回の講義はとても興味深いものでした。精神分析を学んだことのない身としては、フロイトやラカンの学説に触れられる貴重な体験でした。
 フロイトとラカンの思想の比較軸として「愛が先か、身体が先が」という論点が挙げられていましたが、授業中の説明だけでは両者の説ともに納得しかねるというのが個人的な感想です。両説ともに幼児の行動を論理的に説明はしているのですが、実定的な根拠に欠ける後付の説明と感じられるのです。つまり、愛が幼児を動かすにせよ、身体が動かすにせよ、幼児に欲動が生得的に備わっている根拠は何なのか、ということです。
 また、幼児期に限定しない人間の行動が精神分析の観点からどのように説明されるのかにも興味がわきました。幼児期に”贈り物”であった糞便が如何にして忌避の対象へと移り変わるのか、など調べがいのあるテーマに思えます。(そう考えると、口では「うんこ、うんこ」言いながら(僕はそんな下品な少年ではなかったのですが)、一方で学校で大便をするのは頑なに拒む小学生の姿が思い起こされます。)これを機に学習を広げていきたいです。

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