I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.2 2014.10.22 MORIYAMA, Takumi

“Elimination” from a Social Anthropological Perspective

Social Anthropology is an academic field that engages in fieldwork in a particular place and studies the lives of the people and social organizations there on the basis of the fieldwork. In this lecture, I will first provide an overview of the history of the discipline and fieldwork as its method so that you will have a better understanding of this academic field. I will then dwell on how we might approach the theme of “elimination” from the social anthropological standpoint. “Elimination,” as in excretion, can be highly physical, and it goes without saying that it intersects with theories of the body. However, even without limiting our scope to the physical level, we may think of a certain social group and a kind of social dynamics at work there, in which something becomes “taken in” from outside, is “digested,” and then is “eliminated” to outside. We may also think of another process in which what has been “eliminated” is given a different meaning, “incorporated,” and “reused.”

In this lecture, while understanding “elimination” in the physical sense, we will extend our scope to the metaphoric realm, thereby considering “elimination” on various levels ranging from individual to social.

Instructor

MORIYAMA, Takumi
Professor at the Department of Area Studies, Graduate School of Arts and Sciences Professor Moriyama has been serving in the current position since 2012, after serving as Full-time Lecturer and Assistant Professor at Hiroshima City University; Assistant Professor and Associate Professor at the Department of Area Studies, Graduate School of Arts and Sciences , The University of Tokyo. While his research centers around the Malagasy society and its cultural anthropological explorations, his interests extend to issues of colonialism and wider Francophone cultures. His research areas include: 1) cultural anthropological research based on fieldwork in certain areas in Madagascar; 2) Malagasy linguistics relying on studies of Malagasy culture; 3) study of wider regional cultures attending to Madagascar's historical relationship with France and Europe; 4) contribution to general theories of cultural anthropology on the basis of studies of Madagascar and Malagasy-French relations, which aims to craft a theoretical framework with general scopes of cultural anthropology by using detailed sources on Malagasy society and culture that have been gained through methodologies of cultural anthropology and area cultural studies; research on the disciplinary methods of cultural anthropology.
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comments(最新2件 / 14)

てつ    reply

人間は身体という自然的なものを文化という衣をまとい様々な環境で生き、人の排泄という自然的なものの最たるものにさえ文化の刻印が色濃く残っていることを様々な排泄様式の例を見たり、文学中に出てくる話から学ぶことができました。
排泄というテーマの切り口から、自然と文化の間に生きる生、社会同士の中で何が出され、何が出されないのかまで広く触れていただき、興味をもって聞くことができました。谷崎潤一郎の便所が清潔になり風流味がないという主張は、現代のトイレしか使ったことのない私でも共感できる気がして、排泄という行為は、その瞬間自然との関わりを強くもち、自然の中で行われるところに風情を感じることができるきがしました。

たこ    reply

身体という自然的な存在の活動にも、人間が「文化」という衣を纏っているという様子が見られるというお話はとても興味深かった。
これは、特に生殖活動と排泄行為に如実に表れており、身体的規定を文化的規定により対処しているということが了解できた。
しかし、中世の西欧諸国や近代の日本では、現代に見られるような「過度な」文化的規定の影響は見られないようであった。これは、文化という時代によって多様なものであるという以上に、人間の生活が近代化・都市化に伴って自然とより切り離されたものになっていった結果なのかとも思われた。

taro    reply

排泄に関わるいくつかの物語、特に谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」から抜粋したものが心に残りました。授業でのスライドから見るに江戸時代の厠は今のような閉鎖的なものではなかったようですし、昔の日本人のトイレへの関わり方にはとても興味深いものがあります。

うひうひ    reply

人間は「文化」によって「自然」に適応するという考え方が非常に興味深かった。この考え方を、(日本の)前近代において適用するとするならば、その当時排泄に対して羞恥心を今日に比べてあまり抱かなかったのは、それは羞恥心を抱くという「文化」がその当時の社会環境、「自然」において不要であったから、ということになるのだろうか。もしそうならば、逆にどうして今日において羞恥心を抱くという「文化」の形成が、現代の自然環境への適応において必要であったのだろうか。

post    reply

文化人類学は初めて接する学問でしたが、それでも排泄が社会的行為ということは驚きでした。また排泄という行為に時代的・文化的多様性が伴うことは個人的には新たな発見でした。先生は身体からの排泄、いわゆる狭義の意味での排泄から社会における排泄にまで広げてお話をなさいましたが、狭義の排泄に多様な社会性が認められるのであれば、社会における排泄にも多様性や発展の跡が見られるのでしょうか。少し疑問に感じました。

あつし    reply

まず、排泄を社会人類学の観点から考察しようという試みが興味深く、さらに排泄を社会におけるものにまで発展させた議論には驚かされた。排泄は極めて自然なものであるが、そこには様々な文化的規制がかかり、そのために発展や多様性が生まれてくるなど、排泄への新たな視点を得ることができた。

なな    reply

人が自然的かつ文化的な存在で、食事・生殖などを含めた極めて自然的な行為が実は文化的だという話は興味深かったです。フランスにおける香水の発明や日本におけるお香の発達は、人間の排泄の問題とも大きく関わっていると聞いた事があったので、より印象に残りました。

po-nomo    reply

社会人類学の視点から「排泄」について考察するという今回の講義はとても興味深いものでした。排泄という自然な行為にも文化性をみるという切り口は斬新で刺激的でした。江戸時代の日本や中世西欧などを材料にした例証は面白かったのですが、むしろ社会人類学がどのような学問であるかという概論にもっと触れてほしかったように思います。また排泄の主体に社会を見る視点における、排泄される対象が同時に他の社会での受容の対象となる、という見方について、いずれの人間社会でも受容され得ないような対象を考えてみるのも面白いかもしれないと思いました。もちろん、社会人類学において「排泄」は一つの比喩にすぎないかもしれませんが、適用できる限界までその比喩を押し進めてみるのも悪くないかと思います。

たか    reply

排泄という「自然」な行為に「文化」の影響をみとめる今回の抗議は新鮮でした。江戸時代の排泄のスライドに実に開放的な便所の様子が描かれていましたが、厠の前に人を通らせて恥じらわぬあたり、現代日本人も見習ってほしいものだと思いました。また、授業で「排泄」がヒトという動物において特殊な意味を持つに至ったファクターとして、直立二足歩行に伴う処理の必要があげられていましたが、ヒトの「排泄」と他の動物の排泄行為とを区別する根拠として処理の必要をあげるのには多少の疑問が残りました。私は以前、実家の猫が庭に尻をこすりつけるようにして排泄物をこそぎ落とそうとしている場面に出くわしたことがありますが、斯様に排泄に伴う処理は動物にとっても時と場合により必要となるものなのではないでしょうか。むしろ、ヒトと動物の区別において、「文化」による「自然」の浸食を考えることはできないでしょうか。つまり、被服や居住空間を快適に保つという文化的な需要が、ヒトの排泄という自然的な行為に一定の制限を与えたという考えです。

かずき    reply

排泄が文化と密接に関わっていることが容易に想像できるけれど、地域的な差異のみならず、時間的な差異もそんざいすること(というより、むしろ後者のほうが大きいかもしれないこと)を改めて学び、驚きました。
また、社会的な広義の「排泄」の話を聞きながら、「排泄」の語を用いることで人間社会の特質を実感できるという、(学問的ではないけれどある種実用的な)意義を感じました。

トミー    reply

人間の営みで、食事や生殖はほとんど文化的問題である一方、排泄はまず「尻に大便が付くのでどうにかしなければならない」という人体の構造上の自然的問題が発生し、その後処理が文化的問題である、ということが強く印象に残りました。
また、私はここ数十年にわたる日本での、トイレや排泄についてもっとオープンにしようとしている傾向からの類推で、そのさらに昔は日本でも海外でも、排泄行為そのものについては現代・近代よりも更に不可視が強制されていたのかと考えていたのですが、今回の講義から、そうではないということが分かりました。(「排泄物自体」が昔は今よりも可視化されていたのは、欧州での窓からの投下等の例から少し知っていました)

「排泄」という言葉の意味を、「何らかの境界の内部から外部に何かを出す行為」と一般化することも、(確かに「排泄」の言葉を使うのが躊躇われるケースもありますが)面白いと思いました。

いとう    reply

以前ある本を読んでいて、伝統的なドイツのトイレは便を流す穴が前についていて便の様子を見ることが出来、フランスのトイレは穴が後ろについているので便はすぐに姿を消し、アメリカのトイレは折衷型でありトイレの中に水が満ち便が浮くが調べる暇は無い、という記述に出会った事があった。この本では、これらのトイレ様式の記号的三角形をそれぞれの実存的姿勢とつなげていた。一方で日本でのトイレの様式の変化について考えてみると面白いかもしれない。川屋、樋箱、くみ取り式、和便器、水洗トイレ。このような変遷を辿っており、上であげた三つの様式の全てが含まれている。授業で学んだ「文化を変化させることで環境に対応することが出来る」ということを念頭において、歴史や環境の変化の考察ができるかもしれない。

きお    reply

最近、制汗剤で体臭を消したり、強い香りの洗剤を用いたりする人が多いように感じて、それは人間の動物の部分から逃れようとしているようで、しかし人間は動物から逃れることはできないので、どうなるのだろうかという思いがあったのですが、先生が「人間は自然の身体に文化という衣をまとっている」とおっしゃっていて、人間のあり方がすっきり理解できました。人間は文化だけでできているわけではないということを改めて感じました。
社会が女性を排出することで、社会と社会が関係作りを行うという話でしたが、現代の日本ではその意識は希薄であるように思います。むしろ個人と個人が結婚するという感覚で、社会(もっとも小規模なら家族)に反対されても自分たちの意思で結婚する人もいます。現代日本では、結婚というものも変化しているように思いました。

藤ノ川    reply

講義では、人間の持つ文化が、排泄という「自然」の行動に文化的側面を与えたと説明したが、私の考察はそれだけにとどまらない。私は更に、講義において「社会にとっての排泄」を説明する際、異なる社会が政略結婚により連帯することを例に、「内なるものを外に出すことで新たな関係を得る」のも排泄の役割であると結んだ点に注目した。それ自体完結していて孤立した社会が、「外」とかかわったことから何かが始まる。これは「社会」を「一個人」と読み替えても同じことではないか。風が吹くところに波が立つように、人間の活動により、少なくとも何かが起こることは確かだ。これだけであれば、人間に限らず、自然の中ではごく普通のことである。人間の特異な点は、この自然の法則を認知し、「風」が吹いたからといって、「波」が立つのをおいそれと傍観していたわけではないことなのだ。生理的に出してしまった排泄物を肥料にしたり家畜の餌として与えたりするうちに、排泄物を文化的にとらえる素地が出来上がったのだ。排泄とは、人間と自然の切っても切れない関係を教えるものであると同時に、人間の文化的な営みを成熟させるのに貢献した教材だったのである。

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