I Want to Learn How to Think Beyond Academic Disciplines

Vol.13 2014.01.22 NAKAJIMA, Takahiro

Water and Philosophy

In this lecture, we will first explore the significance of the Ionian School of Natural Philosophy, a school distinct from the Athenian one, by looking at how water in ancient Greek philosophy was represented as an arche (origin, beginning). We will next take up Laozi as an example of how water was represented in Chinese philosophy, and think about the meanings of the comparisons that have been made between Laozi and Greek philosophy by modern Chinese philosophers. We will then take up modern European philosophy that interpreted Laozi's texts and argue that water is a metaphor for resistance.

Instructor

NAKAJIMA, Takahiro
Associate Professor at the Institute for Advanced Studies on Asia, the University of Tokyo After graduating from the Faculty of Law, the University of Tokyo, Professor Nakajima studied Chinese philosophy at UT's Graduate School of Humanities. He has a Ph.D. from the University of Tokyo. After serving as Assistant at UT's Faculty of Letters, Assistant Professor at Ritsumeikan University, Assistant Professor/Associate Professor at the Graduate School of Arts and Sciences (Culture and Representation Course), he has been in the current position since October, 2012. He has written books including:  The Chinese Turn in Philosophy (UTCP), The Chinese Philosophy of Echoes: Language and Politics (The University of Tokyo Press), Humanities: Philosophy (Iwanami Shoten Publishers), Laozi: Be a Chicken and Tell the Hour (Iwanami Shoten Publishers), Deconstruction and Reconstruction: Possibilities of Chinese Philosophy (UCTP), The Praxis of Coexistence: State and Religion (The University of Tokyo Press), Practicing Philosophy between China and Japan (UCTP) Philosophy of the Evil: Imaginations of Chinese Philosophy (Chikuma Shobo Publishing).
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comments(最新2件 / 23)

nigauri    reply

水は私たちの生活に深く根付いたものである。私たちは水なしでは生きていけないしそもそも私たちの身体のかなりの部分が水分でできているのである。今ある世界は我々人間が認識するから存在すると言える。そう考えると人間個人の営みが世界の全てであり、人間を構成する水こそが万物の根源と言えるのかもしれない。そうすると、人間、ひいては人間の頭脳こそが万物の根源と言えるのかもしれない。おごりすぎであろうか。

S.M.    reply

「水は低きに流れる」という言葉、「水平」という言葉から、自分の中にはどことなく水は平等の象徴である印象がある。その点でタレスの思想に最も共感するところが大きかった。清浄な水は自らを汚しながら他のものを綺麗にしていくことから自己犠牲の精神にも例えることができるように思う。水は雨や雪、上流からの水として再び人の前に現れる、無限の循環の象徴と考えることもできると思う。

tagaya    reply

水と哲学というテーマでの講義内容はかなり難しく感じ、本当に理解できたかというと、そうではない気がする。様々な哲学者が、水に対して様々な哲学的な概念を見出していた。水を単なる水と考えず、そのような考え方もあるのかと新鮮に感じた。

黒澤 貴    reply

自分は、哲学に対する見識が深いわけではないが、水について考えるときに、最初に思い浮かぶのは、流動性である。それは、時間的、空間的なものであるといえる。川の水は、絶えず流れ続けるし、海では、広大な空間としての水を見ることができる。
水というものを通じて、我々は、そうしたものを垣間見ることができ、哲学という学問において水が論じられることがある理由の一端もそこにあるのではないかと思う。

平井 悠登    reply

今回は哲学の話でしたが、僕はそういった話の中で水というものが関わってくる例をあまり知りませんでした。今回初めてベルトルト・ブレヒトという人を知ったのですが、老子のイメージを「岩を貫く水のイメージ」と言っているのが、理屈っぽい哲学のイメージと異なり、堅苦しいイメージを少し払拭してくれたと思います。

W.S    reply

私は哲学には興味がなく、高校の授業でも倫理の授業は楽しく感じなかったが、老子に関する部分にはなるほどと感じ、親しみを持つことができたので、それをきっかけとしてこの問題を考えることができれば良いと思った。

しゅうへい    reply

哲学という学問に触れることは今までなかった。哲学を学ぶ機会は理系であるという理由もあり、ほぼなかった。それゆえに哲学という学問について明確なイメージを持てていない。人々の物事に対する様々な考え方の提示している、といった程度である。このように背景知識のないまま述べるが、人々は物事を考えるとき、身近な物に影響を受ける、自らの環境が大きな影響を与える。そんな中、人々は昔から水のそばで生きてきた。水がないと生きていけないからである。そんなとき、一定の形を持たずある方向からある方向へひたすら流れ続ける物体、存在としての水は万物の根底にあるものと考えられることはおおいにありえることなのでは。

山田 晃平    reply

タレスにせよ老子にせよ、元のテキストがない(残ってない?)人の考えというのは、世代を超えて再生産されたものを味わうしかないわけですが、これは、地層の深い所を通って湧き出してくる水を飲むようだと思いました。水の場合、水が何であるか私たちは知っているので、寧ろその湧水から地層について知ることができますが、老子やタレスによっては、それも難しいのだなあと感じます。

戸塚 啓介    reply

「水」という概念を用いて、万物の根源から人間の進むべき方向まであらゆることに示唆を与えられた授業であった。「水と哲学」、他の物質よりもさらに人間に身近な「水」を用いて、世界を探るものであった。

横山 怜太郎    reply

「水と哲学」と聞いて思い起こされるのは、『孟子』のなかの「怵惕惻隠の心」で出てきた「水が流れるのと同じくらい自然に」という比喩である(もしかするとうろ憶えで間違いがあるかもしれないが)。私は水を取り上げて「神的なイメージをそぎ落とした哲学」という議論に引きつけるつもりはないが、人間の本性を論ずるうえで水の流れるさまを引き合いに出した孟子の感性には共感を覚えた。タレスのように、水そのものを絶対化する哲学の立てようはないが、これまでも、そしてこれからも、水は哲学を生み出す刺激であり続けるのだろう。

T.H.    reply

水というところから考えれば、その水平性(友情)ゆえにその神々を否定し、平等をもたらすものであると、イデオロギーとしては共産主義にたどりつくと思われる。
水というものが、身近で生命に必要不可欠だからこそ、多くを知っており、自らの思考を帰着させられるものと考えられる。

森山 健太郎    reply

人間はその由来からして水中生物から派生した生き物の一種であり、自らの生存や生活には水が必要不可欠な存在である。その為、人々は水の持つ役割を非常に大きいものであるとして考え、さまざまな思索をめぐらせ、その結果として生物の存在の根源として水を認識する者が現れることから、水と哲学の関係が生じたのではないだろうか。

ikeda    reply

水は、世界のどこにも同じように存在するはずであるが、見る者によって、異なる様々な印象を与える。しかし、ある個人は、自分が水に対して持った印象から離れられず、他人も同じ印象を持っていると信じ込んでしまう。そして、2人の考えを比較するときに、その共通点を見いだそうとするのだが、実際には全く違う。結局、水から得たイメージは自分の中で完結するだけで、他人に移すことはできない。

M.A.    reply

水は、森や土などと同じ自然であるが、形をもたないものであり、他の自然のものとは一線を画すものだとおもう。それは、形はないが、流れがあれば、大きな力になり、汚せば濁り、害になる。これは、人間の社会に通じるものがあると思う。だから、タレスや老子などが、哲学を考える上で水をもち出すのは、納得できる。物としての「水」と哲学は似ても似つかないものだけれど、性質としての「水」を考える上では、哲学に用いてもおかしくない。多くの思想家が、哲学する際に、「水」という考えを用いるのは、とても納得できた。

福井    reply

かつては科学技術が発達しておらず、万物の構成要素がわからず身近で重要な水がアルケーとして考えられた。現代のように加工物であふれた世界ではなかった時代では、食べ物や木などの利用する資源の多くにとって水が重要であり、当然のものでもあったと思う。そのため水が哲学と結び付けられて考えられることも必然であったと思った。

miyakawa    reply

これまでテーマ講義「水」で様々な分野の先生から「水」をテーマとしたお話をうかがってきたわけだが、今回自分にとっての「水と哲学」を考察しようと思った際に、それらの学習内容とつながるところがある(ような気がする)ことに気付いた。
たとえば三浦先生の「水辺の印象派」では、絵画の作者が水辺の風景の中に鉄道などの近代化の象徴的な事物を織り込むことがあることを教わった。そのようなところでも、人間のそれまでの生活を一新する「近代化」を「水」とともに描くことを、「水」の人間という存在の根本へのかかわりと結び付けることで、「水と哲学」という思考を立ち上げることができるのではないかと思った。

中村健    reply

水と哲学とは自分にとって何か。自分の出身は滋賀県で、幼少の頃から琵琶湖という大きな水場とともに生活してきた。学校でも琵琶湖についての学習の機会が与えられたり、自然体験といえば琵琶湖疏水探検などであった。自分の人生の中で、自分の考え方を形成する一要因が琵琶湖を通じた水であったと自分では思っている。

この授業では哲学者タレスの万物は水であるという考え方を起点に様々な哲学者・思想家の考え方を紹介してもらった。それは期間・地域を問わず様々に縦横するもので、相対比較的に色々な考え方があり興味深かった。

KY    reply

考えてみると、水は私たちが日常囲まれているあらゆるものの中で特殊なものである。形というものを持っていないし、海や雨など自然として存在する一方、植物を育てたり、我々人間を含む動物を生かしたりしている。これまでの講義の内容のバリエーションを考えても水の特徴はほかにももっとある。この水の多様な性質が人間を魅了したのは当然だと思ったし、哲学においては様々な思索に導いてくれるものなのだと思った。

sawa    reply

我々の生活には水というものが不可欠でありそれは普遍的概念ある。こうした中で、タレスに代表されるように万物の根源や構成要素を水であるとする哲学が現れたのはある意味必然なのかもしれない。現代ではありえないと一蹴される考えではあるが、こうした発想は意外と有効なのかもしれない。

石川 大希    reply

私自身、哲学という分野はどうしても苦手で、今回の講義も完全には理解できなかったが、哲学者の中には水というものに万物の根源、あるいは人生の道を見出した者もいたことはわかったし、何となく想像できなくもない。たった一滴の雨となることもあれば大きな海や河になることもある水に昔の人々は何か大きな魅力を感じていたことは確かだろう。そのような水に、自らの生や世界の理を見出して哲学へ発展していったように思った。

koya    reply

水についてそれを哲学的に述べよと言われても水について深く考えたことがないので即座に尤もらしいことを書けない。だが、水は人の心情イメージと符合しやすいのかなと思う。淀んで濁った水は停滞感、閉塞感を表すし、勢いよく流れる水は新鮮な気分を表す。水の時に激しく動くさま、時に静かに佇むさまに何か人間の意を超えた大きなものの存在を感じることは不思議ではないし、実際水には神が宿ってるかもしれない。

大野    reply

私の考える水と哲学といわれても、先人達がなしてきたのは根源の追求であって、物質としての水そのものについて哲学することにそれほど意味が有るとは思えない。しかし、根源を追求する上でなにやら水という概念がまとわりついてきて離れないのも事実で、思考が「水」周辺に縛られてるような気がしてくる。水というのは妙なテーマだと感じる。


あと授業中に先生が触れられていた柄谷行人ですが、文系研究者志望の友人の影響で世界史の構造は読んだことありました。内容をはっきり理解し記憶しているといえないのが悲しいところですが……

tarou    reply

概念・物事を表現する際に、比喩表現によって他の具体的なものにたとえることがある。水には、他の物質はない流動性や滑らかさ、透明感などの特別な性質を有しているため、物事の一面を表現するためによく利用され、その結果として、哲学との結びつきが生まれたのだと思う。

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