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第8回 11月20日

「信頼社会」のゆくえ──宗教と世俗の歴史から

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Tyuki23    reply

今日の講義で特に気になったのはアンソニー・ギデンズの近代に対する解釈である。信頼と近代の諸制度の結びつきについては、近代までの宗教など超人間的な存在を中心とし、あらゆる事物に関して宗教と切り離さず考える信仰の時代から、徹底的な合理化を必要とする近代において、宗教ではなく合理性のあるシステムづくりの過程で信頼という概念が生まれてきたという点で信頼とはそもそもシステムを中心とした確かな論理性を持つ対象に基づいているのであると感じた。また人も信頼の対象であるというのは近代までの神に対比した概念であり人の中でも論理性を持つ存在のことを言うのであろう。しかし、ここにおいて人とシステムを並列することにはいささか違和感を覚える。確かに近代までの神に対する信仰よりは人に対する信頼というのは幾らかの根拠を伴う概念であると考えられるがこの文脈における信頼は極めて主観的である。近代というのは合理化の必要性から主観の排除という目標を持っていたはずである。その意味でより信頼という概念に合致するのは人よりもシステムであると考える。近代という時代の訪れとともに信頼という概念が台頭してきたと考えるならば信頼は人よりもシステムを指すと考えるのが自然である。確かにシステムにおいてもシステムを創造するのは人であり、その管理を機械が行うとしてもその機械を生み出すのは人である。しかし、そこには人に対する根本的な非信頼性が存在するのであり、主観の排除こそが信頼の究極的な概念であると考える。したがって信頼という概念は時代とともにますます無機質なものとなるであろう。

youcan19    reply

マクロンが信頼社会の回復を一つのテーマにしているということから現代社会では分断があるということが読み取れるという話に始まり、フランスや宗教的な観点といったこれまで考えたことのないような観点から「信頼」について論じられていて印象に残った。
これまでの講義とは異なる観点からの講義であったが、「信頼は複雑化した社会を縮減する」や「極度に特化したプロフェッショナルは全体をとらえることが難しくなる」といったこれまでの講義でもたびたび論じられてきたことも登場し、これらのことは観点が変わっても「信頼」に対して共通に論じられるような「信頼」の根底にある内容であるということが確認できた。
日本は集団主義的であり見知らぬ人を信頼しない傾向がある一方で、インターネットの抽象化された社会で自らの内面をさらすこともあるというのは、現実世界と異なりインターネット上ではお互いが匿名化されており他者とかかわることで直接的な影響が生じにくいからであり、インターネット上で他者を信頼しているというよりも、インターネットという制度を信頼しているというべきなのではないかと考えた。

lyu39    reply

宗教学の先生だが、授業では世俗の話を中心に講義を進め、「信頼」という概念の宗教的起源、世界が世俗化していく中どう変容してきたのかを解説し、信頼の歴史をたどりながらいくつかのフランスの近現代の思想家の文書を取り上げ、本格的な「信頼の系譜学」を展開してくださったと言える。巨視的な視座から語られた先生の講義に、信頼の行方についていろいろ考えさせられた。信頼の対象になりうるものは沢山があり、例えば全体主義・権威主義のもとに暮らす人々は指導者の権威と力を信じるかもしれないし、急進的な共産主義者は革命を信じるかもしらない。しかし、現代となって世界は代議制民主主義が当然視されるような現代社会まで変貌し、特定の価値観や人物よりはもっぱら中立的な制度が信頼の対象となったのも確かだ。近代を支えてきた病院と学校というのもある意味独占的な性格があって、病院は治療手段の実践を独占し、学校も知識と教育を独占してきた。だが、大衆社会になってからはメディアと伝達手段が著しく発展し、誰もが「知識」を主張することができるようになり、またその発信がすぐ不特定多数の人に伝わる。従来かなりの時間をかけて初めて学校で得られた知識があまりにも簡単に誰でもアクセスできるようになるにつれ、人々も(情報社会の一つの特徴とも言えるが)自分の意見と一致するような情報にばかり目を向け、むしろ自分が信じたい知識の解釈を信じるようになったと時々感じる。知を独占してきた学校へ懐疑的な目線を向ける人々も、病院のかわりに治療を宗教的な手段に委ねる人も、少なくとも私のコミュニティでは増えている。知へのアクセスが容易になったが、真実が逆にもやもやしたものになってしまい、目に入ってくるすべてのものがむしろ特定の意図を込めた「真実の解釈」のように見える社会。公的制度、病院や学校などを信用するのが当たり前の時代はもはや遠ざかってしまって、何を信頼すればいいかわからず混迷しているのが多くの現代人の状態ではないかと授業を聞いて思った。

tanyn0580    reply

今回の講義を通してもっとも考えさせられたのは信頼と宗教と世俗のことより、信頼という言葉のことであった。
まずフランス語の引用が多く、そこでやはり今まで日本語で「信頼」にめぐる議論を聞いてきたが、他言語で信頼を検討することもできると気付いた。他言語で考えると、日本語と似ているあるいは異なっているところがどこにあるのかということも興味深いのではないかと思った。例えば英語を考えるとtrustが直訳になるが、faith、relianceという側面も大事であり、また、中国語だとシンガポールでは”信赖”より“信任”が使われるため、「信頼には責任が関わっている」ということも含まれていると思う。その上、信頼という言葉がない言語があるか、あるならどんな社会を反映するのかなども考えた。
日本語だとしても、伊達先生が教えてくれた通り、「信」という漢字は「人の言葉から」という意味が含まれている。それはとても新鮮なポイントだと思った。また、信頼の哲学的な検討から学校や病院という現場の話へと繋がることを通して理論と応用の関係も見えてきた。

yka710    reply

今回の講義を聞いて、二つの「対比関係」が印象に残った。
第一に、本講義を貫くテーマにもなっていた、中世と近代の対比(宗教の時代と世俗の時代との対比といっても良い)である。神への信仰が逆説的にその存在の内在化を促し、個人の自律を強めたことや、プロテスタンティズムの倫理が資本主義の土壌となったことからは、宗教的な価値観を引き継ぎながらもそこから抜け出して独自の制度を築いてきた西洋の様相がうかがえた。
第二に、こちらは必ずしも講義の中心的な話題ではなかったが、西洋と日本の対比である。以前阿部謹也氏の著作の中で、西洋では独立した個人が「社会」を形成しているのに対し、日本では近しい人同士が独自に「世間」を形成しているという記述を読んだことがあったが、これはまさに本講義で触れられていた「安心社会」と「信頼社会」という対立軸に符合する。日本で信頼という言葉が、政治家や政権への信頼という意味で使われることはあっても、フランスのように公的制度への信頼という意味で使われることが極めて少ないのは、(公的な)信頼という概念が日本人に馴染みづらいというシステム的な要因に由来するのではないかと思う。
本講義は、超越性なき社会の中心にあるのは近しい人への全面的な信頼であるという言葉で締めくくられた。しかし、先述の阿部氏は世間について、「排他性や差別的閉鎖性」をもつものと述べている。個人的な信頼を強調することは、かえって日本的な安心社会をもたらし、社会の分断を是認することにつながりはしないだろうか。本講義を通して、個人的な信頼と社会的な信頼は必ずしも合致せず、従って我々は政治家の言う「信頼」が指すものを冷静に見極めなければならないという危機感を抱いた。そして、我々は公的な信頼の概念に慣れていないからこそ、彼らが提示する具体的な政策が、本当に公的制度への信頼の回復に寄与するか否かを検証する批判的姿勢を、意識的に身につけなければならないと考える。

kfm1357    reply

宗教において、これまで信頼という概念が検討されてこなかったという事実はある意味意外でした。日本に住んでいるため宗教に対する意識が希薄であり、想像の範囲にすぎませんが、特に一神教では、人々は神を「信頼」しているのだと考えていました。しかし、伊達先生が用語を提示したように、神は「信仰」の対象であり、「信仰」と「信頼」は別物である、と。この気づきは、言葉に対する感性を鋭敏にさせます。
また、伊達先生が講義の最後にシュナペールの「目の前の人を信頼しよう」という言葉を引用しましたが、この「目の前の人を信頼」することは、広範な信頼を確立していく第一歩でしょう。さらに言えば、得体の知れない物や実態を伴わない制度・システムを信頼するよりも、「目の前の人を信頼」する方が、容易でしょう。しかし、わざわざ「目の前の人を信頼しよう」という言葉が唱えられることの背景には、「目の前の人を信頼」することが現状、不十分であることが推察されます。ただ、「知っている人よりも知らない人のほうが信頼できる」可能性があると、指摘していたように、複合的な要因を含んだ問題です。だからこそ、検討し続けるべき課題であり、今後の講義からもヒントを得ていきたいです。

shiori0310    reply

今回はマクロン政権の信頼社会というキーワードをもとに授業をしていただいた。フランス語選択ということもあり、この言葉は聞いたことがあったのでわかりやすかった。前半では、世俗の社会の中での信頼んl認識がが創造主などの超自然的なものから、自分自身の活動や意思決定に関するものへ変わっていったことがよく分かり、興味深かった。

Satoshi3104    reply

宗教などを通してみた歴史的な視点や、現代の教育・医療制度など幅広い話題を取り上げていただき大変興味深かった。特に、医療と教育制度についての話題では、医療は人の命を、学校は人の人格や教養の形成を担うものなので信頼がとても重要だと思った。しかし、現代でも医療過誤や学校での体罰やいじめへの対応などの問題がしばしばみられるように、信頼を維持し続けるのは難しく、我々はその方法を考え続けなければならないだろう。

phu884    reply

信頼社会を構築しようとして反発を受けたマクロン政権の敗因について講義内容を受けて考えると、社会の分断という背景がある中では十分な透明性を確保できないと、信頼の構築に結びつかないのではないかと感じました。医療や科学に対する信頼の喪失も、内容が高度に専門的に発展した事で一般人には分からないといった透明性の欠如が一つの原因と考えられる上、透明性の欠如が特定の相手への優遇や不平等を招く(あるいは疑心暗鬼状態を作り出す)とも解釈でき、どのように透明性を確保するのかがこれからの課題だなと思いました。

RY9248 吉村龍平    reply

知っている人よりも知らない人の方が信頼できる?という話がありましたが、個人的な意見としては、相手に対する信頼ではなく、自分の信頼を失った時のダメージの問題なのではないかと思いました。例えば、パチンコ中毒になっている人が、身内にそれを打ち明けると身内からの信頼を失う可能性がありますが、ネットに載せたぐらいならちょっとした笑い話で済むので、気軽に共有できるのではないでしょうか。

Suzu0705    reply

「知っている人よりも知らない人の方が信頼できる」というのは私たちの世代ではよくあることである。SNSでつながっている人は普段の自分の姿を知らないし、これからも知られる心配はない。また、自分と現実世界で直接関係を持っていないため、利害関係などが生じることもない。普段はこれからの相手との関係や自分の世間体を気にして言えないことも、SNSでなら吐き出せるし、いつでもその人との関係を切ることができると思うからこそ、逆に本当の気持ちを打ち明けることができる。だから若者は知っている人よりも知らない人の方が信頼できるのだと思う。また、SNSは基本的に文字の世界である。その人の人格は文字からしか読み取ることができない。リアルな世界であれば言葉以外からも、その人に関する様々な情報を集めることができる。仕草や経歴、普段の生活態度などがその人の人格を立体的に浮かび上がらせる。それとは対照的に、SNSの世界は文字からしかその人の人格を思い描くことができない。そこからは裏も表もない、平面的な人格しか浮かんでこない。SNS上で知り合った人の方が、得られる情報が少ないからこそ、その人を信用しやすくなるのではないか。

chihi0315    reply

信頼社会において、社会的不確実性は付き物であるが、制度に対する信頼が失われた今、簡素化、人間化された手続きが人の信頼を得られるとは考えにくいと思われる。信頼の形は時代の流れよって、その時々の社会的影響を受けて変容するものだと考える。

sanryo1335    reply

宗教と世俗、個人と制度という対立を通じて「信頼」を考えるという一貫したテーマ性が感じられる興味深い講義でした。まず「信頼社会」について考える前提としてフランス語のconfiance, foi, croyance という単語に着目し、「信頼」は「信念」と「信仰」の中間に位置する状態であるという内容がありました。これまでの授業でも何回か「信頼」という言葉そのものについて考える機会がありましたが、宗教学という一つの切り口からここまで掘り下げて考えたことはなく、抽象的なこの言葉に対して明確なイメージづけをする手がかりになったと思います。後半はイリイチの「脱学校化」「脱病院化」から脱制度化を考えるという内容、結論となっていました。現マクロン政権の政策は、脱制度化を進め、個人を中心にした人間的な信頼体系を築くものとなっているものの、ライシテ的な考え方に反するために批判を受ける、という問題は授業で指摘されていたところです。フランスの共和制理念は、イスラームスカーフ論争でも見られたように公私を厳格に区別し、公教育の場はあらゆる宗教、社会的影響力から自由で平等であることを保証しようとするという理念だと理解していますが、これは見方を変えればやはり公共、制度に対する信頼が前提となっていたからこそ成り立つのだと思います。それに対立する政策が登場するということは、現代のフランスは重大な過渡期にあり、ある種危機を迎えようとしていることを示唆しているということでしょう。以前の講義の内容にもありましたが、「信頼」は安定した時代には疑われない前提として働き、不安定な時代の転換期にこそ問題化するものだ、という見方を、今回の講義でも再確認することができたのではないかと思いました。

hikaaaa19    reply

近代国家の成立を制度に対する信頼の成立と見たことはなかったので,新しい観点を得ることができて面白かった.授業終了後に感じたことであるが,宗教の時代,世俗の時代,世俗が脱自明化した時代と進むにつれて信頼に対する制御可能性(controlability)は高まっているのではないかと感じた.宗教の時代においては神という絶対的な存在が存在し,人々はそれを信頼せざるを得なかったのに対して,世俗の時代になると,人々は自ら作った制度を信頼するようになる.そして,世俗が脱自明化した時代においては人々は周りの人間に信頼を置くようになった.以上のように考えると,人類の歴史は信頼の民主化の時代でもあるかもしれないと思った.

また,人類史においては信頼を発明することは人々の生活を大きく変えることであるということを非常に強く感じた.神に対する信頼によってそれ以前は不可能であった人数間による文脈の共有が可能になったし,制度に対する信頼によって近代国家が成立した.これからの信頼を踏まえて,私が重要になると考えている概念は「ポストノーマルサイエンス」である.これは,安全学における概念であり,専門家ですらリスクの評価が困難になった時代では,ひとびとは信頼を形成するために議論を重ねる必要があるという考え方である.科学によって信頼を正当化することが不可能であるので,議論に信頼を寄せようという考え方とも捉えることが出来る.このような議論を信頼の中心にすえる考え方というものはまだ人々の生活に根付いてないように感じる.これから私達が生きてく時代はこの議論に対する信頼を育んでいく時代になるかもしれないと感じた.

yuto0813    reply

マクロン大統領のライシテ政策の話から始まり、宗教と「信頼」がどのようにかかわりあってきたかを学べ、とても興味深かった。先生が最後におっしゃっていた、信頼して生きることこそ生きる意味だ、という趣旨の引用がとても印象に残った。

Tsyun94    reply

今回の講義ではフランスをメインに添えて宗教、特に近代社会への移行時期における信頼というテーマを深く掘り下げ、信頼がどのように生まれ、何に依拠しいるのかを考えさせられ授業だったと思います。何度もこの信頼というテーマの授業を聞いてきて、多くの先生方が信頼とは今まさにその意味を変えつつあって新たなかたちで存在しているとおっしゃられていました。今回もそのような視点からいうと、宗教が絶対視されていた時代から近代の世俗的な世界となり、そして制度・権威に対する信頼や科学に対する信頼が中心の時代から複雑化した世界にただ何も知らない赤の他人にも信頼を寄せるようになってきているという風に変化が感じられる。僕はこの兆候は人との繋がりの希薄化にもかなり影響されているのではないかと考えていて、どちらが原因か結果かということは簡単に論じられることではないけれど、赤の他人が相対的に信頼を寄せるに値するほどの存在になる程、みじかな存在を現代の人々は失っているのではないかと思ったりしました。

goto114    reply

宗教学にとって「信頼」は盲点である、との興味深い導入から、共和国・民主政における信頼社会の揺らぎ、再編についてお話をいただきありがとうございました。鈴木先生のお話にあった、ルーマンによる信頼の定義現代社会の複雑さを縮減するものとしての信頼、とつながるところもあり、また、「信頼」というキーワードが危機の時代において現れるという指摘が繰り返されたことで、われわれが今まさに直面している危機について、改めて考えさせられました。鈴木先生が「信頼」という言葉には賞味期限が来ている、と結論していたのに対し、伊達先生は、変わる時代の中でも変わらないことがあるとし、シュナペールの言葉を引いて、直接的な関係は忘れられてはならず、それはまた宗教に頼らない超越性なき社会の中心となるべきだということをおっしゃっていたので、そういった関係においては信頼が全く力を持たないものとはならない、むしろそこにこそ信頼の取り分があるということなのだろう、と受け取りました。知っている人よりもSNSなどでしか知らない人の方が信頼できるようなこともある、という例示も、これからの信頼のあり方を示唆する手がかりのようで、興味深かったです。

ayana2630    reply

言葉から「信じる」というものを考えるのが、おもしろいと思いました。特にフランス語選択者として、とても勉強になりました。アンソニー・ギデンズについてのお話のところからは、信仰という意味での「信じる」に対して、信頼は、近代社会の中で作られていったとても世俗的なものなのではないかと思いました。
医療と教育の制度について、代替を許さない、一種の法による囲い込みであるという見方はとても興味深いと思いました。確かに、実感としてもかなり明確な線引きが存在していると感じて、制度を作ればその裏で、排除される人、ことがあるのだと思いました。また、現在、従来とは異なる学校や教育の形が現れ、教育の機会がこれまでと比べて多様化している中で、制度や法がどのように関わっていくのかに興味を持ちました。また、講義の中で、神秘的権威主義は、宗教などに関する「難解なほどありがたい」というような意識と似ていると思いました。
最後に、信頼と期待の違いについて疑問が浮かびました。信頼が双方の契約的なものなのであれば、そこには相互に対する期待があり、その期待というものは信頼と置換できるのではないだろうかと。つまり、相手に対して「こうしてくれるはずだ」という期待を持つことそれ自体が、その相手に対する(相手との間に存在する)信頼といえるのではないかと思いました。自分自身の感覚としては、信頼が期待を包摂するように感じるのですが、言葉にしてみると、かなり近い概念であるように思われました。
興味深い講義をありがとうございました。

satoshi31    reply

現代社会において宗教と政治を切り離しているのが一般的であるが、古代や中世においては政治や統治と宗教は密接な関係を持っていた。現代社会では格差が大きくなっており、上流階層と下流階層の分断が深刻化していて、それを政治的に解決するのには信頼を得る必要があり、そこに宗教を持ち出してくるというのはまさに歴史は繰り返すというようなことだと感じた。
信頼という語は日本人にとって一般的であるが、宗教辞典には信頼という語はめったに載っておらず、信仰や信念といった宗教じみた言葉とは異なる性質を持っているのだなと思った。
イリイチの『脱学校の社会』の抜粋箇所が非常に興味深かったので、春休みにぜひ読んでみたい。

ryo7a    reply

信頼が宗教(あるいは道徳)に依存する(していた)ということに私自身異論はなく、そこから考えれば学校(=教育)が宗教が信頼を担保されなくなった後の信頼を担保することにもさして異論は出まい。少なくともフランス―カトリックという関係で見れば。革命後の教育はライシテが問題になった上で、教育が国民という連帯感を作る一助となったという見方には十分に説得力がある。では医療はどうだろうか、確かに中世以前の医療には宗教(魔術)的な要素が強く絡むものだったが、それは医療が特異的に宗教、この場合は信頼に依拠したものだったのだろうか、むしろ科学全般に対して似たような視線を向けられていたのではないだろうか。ニュートンが酷く神を信じてプリンキピアを書いた、などというのは有名であるし、現実に今でも低レベルプログラミングなんてできなくてもcpuを使うプログラマー、Ⅹ線解析の原理も知らず結晶構造を考える化学者なんて幾らでも居よう。多くのことをブラックボックスとして生きていくのが信頼だというのであれば、医療だけが特別に信頼の問題にかかわるというのは聊か説得力に欠けるように思われる。

martian5    reply

 貴重な講義、ありがとうございました。
 今までの講義のなかでは、比較的科学的アプローチが多かったため、宗教的な要素から考える視点を与えたこの講義は非常に興味深かったです。
 特にフランス語の単語の語感から考える信頼と、神、幽霊のお話は言語学的な側面からもテーマに関われたので、とても面白かったです。

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