跳出思维框架

第13回 01月08日

国際関係における「信頼」 歴史から考える

评价内容(最新2件 / 13)

Tyuki23    reply

本日の講義ではアメリカを中心に冷戦の始まりから国際関係における信頼を概観するというもので、現在イランとアメリカの対立が勃発しているため非常にタイムリーなテーマであった。まず感じたことは現在の国際関係における不信感の原因というのは冷戦から考えても大幅に変わっているわけではなく、ヨーロッパの近代化に伴う領土問題、軍事兵器の問題などが議論されるようになってから考えても本質ではあまり変化していないのではないかということである。世界大戦から現在までアメリカが世界の警察として権力を持ち様々な国家間問題に介入してきたが、そのこと自体が国家間問題を引き起こしてしまうという矛盾を抱えている。それと同時に対となるロシア、アメリカに代わろうとしている中国など大国同士の思惑が非常に複雑に絡み合っており、国際協調は大局的に見れば進んでいるとは言えない。不信を生み出すのは情報であるが、推測情報と確定情報の区別が非常に困難であることが国家レベルにおける不信の特徴であると考える。アメリカにはこんな思惑があるかもしれない、ロシアはあんなことをしようとしているかもしれないといった未確定の情報と、実際の行為との乖離は国家構造を揺るがしかねない。近年では、ある意味ではわかりやすい物理的な軍事攻撃だけでなく、サイバー攻撃やよりミクロな規模での不安因子が渦巻いており、情報の正しい評価がますます求められるとともにより根幹の構造的な矛盾を解消する必要があると感じた。

lyu39    reply

先生の講義とともにアメリカの戦後外交史を振り返ることで、高校の歴史教科で習った時気づかなかった、より踏み込んだところに触れることができた。アメリカとソ連、及び中国の関係の発展の流れを、「信頼」というキーワードで整理することによって、国際関係を見るための新しい視点、あるいは軸をも獲得できたと思う。「国家」という主体はやはり、国益の最大化を目指そうと、合理的に動くマシーンとしての側面が強く、国家同士が築く信頼関係も共通利益や現実的な協調の必要性に基づいているものがほとんどだろう。そこで「道義的信頼」が極めて困難で、「一般的恐怖」を乗り越えて一種の「戦略的信頼」を求めなければならないかもしれない。デタントは、まさにその種の恐怖を乗り越えようとする姿勢の体現のように思えた。しかし、アメリカがそのような姿勢をとったところで、ソ連と中国の権威主義体制が続いたし、逆に人権保護の停滞につながったのも事実だと思われる。そのため国際関係における信頼関係の構築以前に、当時のソ連と中国の事情を考えると、国家と国民、あるいは体制と人々の生活との間の信頼関係を確保することが極めて不可欠であると感じた。

youcan19    reply

イランとアメリカの関係が緊張しつつある中で、国際関係における「信頼」というテーマでの講義であり、非常にタイムリーな話題であると感じた。かつての米ソ冷戦時代での原子力に関する議論では様々な状況で「信頼」に焦点が当てられていた一方で結局ソ連に対しては「不信」を抱かせることになったということが分かった。そしてその「不信」がデタントの時代へとつながり、各国が「信頼」を生み出そうと尽力し始めることとなったということが面白かった。
Henry Stimsonの「人を信頼のおける人にする唯一の方法は自分がその人を信頼することである」という言葉は今の時代にも通用すると思ったので、この言葉を忘れずに生きていこうと思った。

tanyn0580    reply

西崎先生が非常に聞き取りやすく、授業の構造と結論の出し方、それから歴史学と国際関係と信頼との結び方もとても素晴らしく、今回の講義は本当に感動しました。
歴史に関しては、第二次世界大戦の終わりの頃、アメリカとイギリスのリーダーが前と比べてソ連に対してより厳しい態度を取る方になり、そしてアメリカが原爆のことを隠し、原爆を二回落としたのはTrumanがソ連を疑い、ソ連が日本に入って欲しくなかったからであるという解釈もあるらしいですが、それも「不信」への変化に貢献したのかなと思いました。Rooseveltだったらどうなっただろうと気になります。
また、そもそも信頼がありえないだろうと思いました。まず人間レベルでもありえないし(授業でちょっと触れた両親と子供であっても、恋人同士であっても完全な信頼が本当に存在できるのかという疑問を持つ)、国は人間からなるため、国レベルの信頼はさらに難しくなると思われます。しかしそれと同時に、信頼がないと国は共存できません。信頼は不可能でありながら不可欠だということは興味深いと思います。
そのため、信頼には種類があるという話は印象的でした。不可能の中でも可能があるというようなことになります。しかし、国と国の間は永遠に信頼と不信というサイクルで続いて行くと考えるのも少し悲しく感じます。
中学校からずっと冷戦について学校の授業で勉強してきましたが、また新しい観点から冷戦について考えることができ、非常によかったと思いました。

Suzu0705    reply

冷戦期におけるアメリカとソ連の間の「不信」は、互いの些細な誤解(=個別的恐怖)の積み重ねが、一般的恐怖(=不信)へと膨れ上がった例だと言える。アメリカの原爆開発計画がソ連に内密に進められたこと、原子力の国際管理案が廃案となったことなどは、それだけだとたいしたことがないように思われるが、積み重なると国家全体に対する不信感へとつながり、マッカーシズムによる「赤狩り」の進行やキューバ危機などの緊張状態を生む。最近の国際関係における対立も、この個別的恐怖の積み重ねが越えがたい溝を国家間に作ってしまう例が多いような気がする。例えば、米イラン関係や日韓関係もこれに当てはまるだろう。今回学んだように、このような危機を回避するためには、相手国の自国に対する不信感を個別的に払拭するのか、それとも全面的に払拭するのかを注意深く選択しなければならない。戦後ドイツの戦争責任のように、政府と国民の考えが一致していれば、全面的な信頼回復は比較的容易だろう。しかし、冷戦期の米ソ関係のように、国民が相手国に対して強い不信感を持っている場合、政府が無理に全面的な信頼回復を追求しようとすれば、国内での政府-国民間の信頼関係にひびが入ってしまい、計画が頓挫する可能性もある。国の指導者にはこのことをしっかり見極める洞察力が要求されるが、現在それを備えている指導者は少ないようだ。この状況を打開するには、まずは個別的恐怖を信頼に変える地道な努力を模索していく必要があるだろう。

satoshi31    reply

人間関係と違い、国家間関係では簡単に手切れという選択肢を選べないために、信頼と不信とがせめぎ合う状況が生まれるのではないかと推測した。特に冷戦期においては、武力衝突が起きなかったために、不信と信頼の交錯や駆け引きが最も盛んだったように思われる。情報が重要な地位を占めるようになった現代において、情報を開示するという行為は信頼に関わる重要な要素であり、企業の信頼や国家の支持率に直接的な影響を及ぼし、対立する相手に対する駆け引きの材料にもなるのではないかと思った。

yka710    reply

授業で登場した冷戦の例を見ても、例えば最近問題になっているイランとアメリカの外交関係を見ても、やはりイデオロギーや歴史認識を巡り対立する国家が信頼関係を築くのは一筋縄ではいかないというのは誰の目にも明らかだが、今回の講義を通して国際関係における信頼と個人間の信頼とは分けて考えなくてはならないという認識を新たにした。仮に国家の首脳同士が信頼を築いたとしても、それはある種のパフォーマンスに過ぎず、かえって世論の対外感情に油を注いでしまうことも多い。外交は教授のおっしゃる通り複合的な要因が絡むので、単なる個人的・道義的な友好を超えたところに信頼が築かれなくてはならない。本講義の帰結は、一般的恐怖を個別的恐怖に分けることで、個別的な信頼を蓄積することができるというものであったが、これは単に外交に携わる専門家だけでなく、世論を形成する国民の側も肝に命じなければならない言葉だと感じた。専門性の欠如ゆえにともすれば感情的になりがちな我々が、信頼の構築を妨げることも容易に想像されるからである。
これで全13回の講義が終了したが、学問領域の垣根を超えた知見が身につき、我々が日常的に見聞きする信頼という語に対し敏感にならざるをえないような、興味深い授業だった。教員やスタッフの皆さんに改めて感謝したい。

hikaaaa19`    reply

西崎先生のお話の中において最も印象的だったのは歴史学の意味について説明であった.我々は,日々大量の情報が届く状態にあってどうしても物事を近視眼的に捉えてしまう.大量の情報を処理する際には,どうしても個々の事象に対する深度は得られないからである.そのような情報はトレンドについていく上では非常に重要であるが,その情報の賞味期限は短いのではないかということを感じた.
それに対して歴史学には情報の賞味期限という概念が存在しない.存在していたとしても非常に長いであろう.しっかりと物事を系譜的に捉えることによって理解は進むし,長期的な視点を得ることができる.これは,人文社会科学に限った話ではなく,自然科学に対しても同様に当てはまると思う.私の専門は自然科学なので,流行りに身を任せるのではなく,しっかりとその前提となる知識に対しても目を向けたいと感じた.

shooji68    reply

ニクソン政権の外交と「信頼」についてのお話は初めて聞くものでとても新鮮でした。加えて「一般的恐怖」と「個別的恐怖」の分類について、またそこから派生して歴史学的観点の「一般」「個別」のお話で全体を締めくくられたのがとても印象的でした。貴重なお話ありがとうございました。

ryo7a    reply

キッシンジャー的な核抑止は前提条件として相互確証破壊をいれていたと記憶している。しかるに冷戦期の両大国の行動を信頼から考えるにはいまいち甘い議論だったように思われる。

4geta6    reply

トルーマンドクトリンが、東と西の対立をイデオロギーの違いに還元し
これによって東西対立が深刻化していったことを考えると、先生が仰った、信頼関係の分節化はある程度説得力を持つように思われる。また、これに加えて民間同士の国際交流がより活発になれば、ある分野における信頼関係の損傷が他の領域における二国間関係に波及することも減るのかもしれない。

baya0903    reply

国際関係においては、一度信頼が破綻すると、冷戦しかり、多くの人命や生活の著しい悪化にもつながるため、信頼の維持が重要であると分かった。と言うとごく当たり前のようだが、これまでの講義で展開されてきた「信頼」という概念と、国際関係における信頼というものが、やはり異なる次元で語られなければならないということは、記憶しておくべきだろう。繰り返し囚人のジレンマのような個別的、局所的状況においては、意図的に裏切りをすることが必要な局面も生じうるが、国際関係のような一触即発の状況では決してとりえない選択といえよう。しかし、日本で集団的自衛権の議論がなされたとき、左右ともに積極的に国際関係を卑近な人間関係に置き換えて説明しようとした論者が一定数いたのも事実だ。しかし、そのような「わかりやすさ」のみを追求した議論は、nationalな次元の困難さを無視する短絡といえる。今後の国際社会を考える上で重要なのは、このnationalな次元を、個人の次元と区別した上で、どう調節していくかという思考だろう。

yuto0813    reply

冷戦期の国際情勢において互いの勢力を「信頼」することがいかに困難であったかを知ることできた。冷戦期には「不信」と「信頼」が交錯した時代であったということで、そのような中で相手国を信頼するには平時における外交関係において地道に良好な関係を構築していくことしかできないのではないかと感じた。

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