ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 03月12日 斉藤渉

西洋思想史のなかの〈鏡〉

2015/3/12-3/13

〈思考する〉という営みは――それが創造的なものであるかぎり――メタファーを避けて通ることができない。とりわけ、その思考があらゆるものを対象とし、したがってまた自己自身をも対象としようとする哲学の場合、〈鏡〉というイメージは抗いがたい誘惑となる。

実際、西洋思想は〈思考が思考それ自身を思考する〉という事態を示すため〈鏡〉のメタファーを繰り返し援用してきた。だが、比喩がただ暫定的な表現でなく、他の表現とは交換不可能なものと見なされるとき、それはH. ブルーメンベルクのいう「絶対的メタファー」となる。例えば、ライプニッツは精神について、永遠に世界を映し続ける「生きた鏡」だと述べた。するとやがて、この比喩のなかに彼の形而上学全体が集約され、いわばこの比喩に拘束されはじめる。思考が利用しようとしたイメージは、思考に反作用し、思考を支配していくのだ。ライプニッツ以降の思想史において、精神という〈鏡〉に映るものよりむしろ映りえないものがクローズアップされるのは、そのためだと言えるだろう。

この講義では、西洋思想史のなかに現れた〈鏡〉の比喩を紹介しながら、思考にとってメタファーが果たす役割を、受講者と一緒に考えてみたい。第1日目は、ナルキッソスの神話、ライプニッツ、ヘーゲル、第2日目はラカン、マルクス、ベンヤミンをあつかう予定である。

講師紹介

斉藤渉
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化コース准教授。 京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。大阪大学大学院言語文化研究科を経て現職。専門はドイツ思想史・言語哲学で、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの言語研究とドイツ語圏を中心とする啓蒙主義を対象とする研究を行っている。
授業風景

●南京大学集中講義「鏡」第5講(2015年3月12日)

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 初日の講義では、西洋思想の歴史について紹介し、「思考・認識のメタファーとしての〈鏡〉」と題して、「 A: オウィディウス『変身物語』「ナルキッソスとエコー」、「B: 旧約聖書「創世記」: 人間 =「神の似姿」」と「 C: ライプニッツ「モナドロジー」: 世界を映す「永遠の生きた鏡」」について話した。

 講義に入る前に、一匹の猫が鏡に向かって、鏡の中にいる猫に攻撃したり、怒ったりしている動画を見せた。そこで、猫が鏡の中に映されている猫は実際に自分として理解しているかどうかという問題提起から議論が始まった。はっきりと言えるのは、あの猫は鏡を〈鏡〉として認識していないため、上記のような振る舞いを取っていると考えられるだろう。次に、古代ローマの詩人オウィディウスが書いた『変身物語』(15巻ある神話の詩)について紹介する。こちらの「変身」というフレーズはキーワードであり、本日はその中の「ナルキッソスとエコー」に焦点を当てた。

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 さて、古代ローマの詩人オウィディウスが書いた『変身物語』(15巻がある神話の詩)について紹介する。こちらの「変身」というフレーズはキーワードであり、本日はその中の「ナルキッソスとエコー」に焦点を当てる。少年ナルキッソスが水を飲んでいるうちに、泉に映った自分の姿に見惚れて、実体のないあこがれを恋した。影でしかないものを実体と思い込んだ。ようやく、ナルキッソスが泉に映されている虚像が実は自分なのだと気がついた。しかし、彼を待っているが「死」そのものである。

 ここで、〈鏡〉というものがもたらす多く面白いアスペクトから議論を深めていきたい。例えば、鏡は〈鏡〉であることに気がついていない。あるいは、〈鏡〉が自分と関係があるが故に、嵌まり込んでしまうケースもある。

 西洋思想史のなかの〈鏡〉というテーマとして、二つの方向性に分けられる。一つは「ナルキッソス」で表れている自分と一体化したいという特徴がある。もう一つは自己を知ろうとする関心がある。ここで、西洋思想史のなかの〈鏡〉において、避けてはならない議論は旧約聖書「創世記」に言及されている神は御自分にかたどって人を創造されたという箇所である。換言すれば、人間(被造物)は神(造物主)の〈鏡〉である。したがって、〈鏡〉を調べることによって間接的に神を認識しうるのかという仮説が立てる。これが大変重要なヒントである。さらに、思考・認識のメタファーとしての〈鏡〉について言えば、メタファー(metaphor 隠喩)は未知の(理解の難しい)内容を既知の(理解しやすい)内容に例える。すなわち、メタファーとは考えるのが難しい事柄を考えるための手段・道具だと言える。メタファーを使わずに思考することは恐らく不可能であるため、どんなに厳密に考える場合でも、大抵何等かの形でメタファーを使っているのである。しかし、メタファーが時々人間の思考を支配してしまうという恐れがある。そこで、ドイツの哲学者H. ブルーメンベル(1920-1996)が絶対的メタファーという概念を提唱する。たとえば、ある思想内容を表現するメタファー(例: 理性=光)が、なかば代替不可能なものとなり、思想自身を制約しはじめる。ここで、もし前述された人間=「神の似姿(imago dei)」という概念を「絶対的メタファー」としての〈鏡〉に置き換えれば、以下のような思考に纏められるだろう。

・ 〈鏡〉を調べることで間接的に神を認識しうる
・ 〈鏡〉には汚れ、くもり、ゆがみがあってはならない
・ 〈鏡〉に映る像を実物と混同してはならない
・ 〈鏡〉に映る像によって実物の認識はできない
・ 〈鏡〉の「像」と「実物」を比較して確かめることができない以上、本当に〈鏡〉であるかどうかわからない

 続いて、西洋思想史において、超人と評価されているドイツ出身の哲学者・数学者 G. W. ライプニッツ(1646-1716)が最晩年に書いた「モナドロジー(モナド論)」(1714)について紹介する。モナド[monade]とは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは部分がないという意味である。

モナドは、自然における真のアトムである。一言でいえば、森羅万象の要素である。モナドは、発生も終焉も、かならず一挙におこなわれる、つまり、(神のおこなう)創造によってのみ生じ、絶滅によってのみ滅びる。ライプニッツによれば、すべてのものはモナドによって成り立っている。それに、モナドの中に、以下のような階層と種類がある。

神: 万物の究極の原因
精神: 理性的な魂、神の認識
(動物の)魂: 判明な表象+記憶
(たんなる)モナド: 気絶、睡眠、etc.

 そして、神のもっている観念のなかには、無数の可能な宇宙があるが、現実にはただ一つの宇宙しか存在することができないから、あれではなく、これを選ぼうと神が決心するためには、それなりの十分な(究極的な)理由がかならずある。これこそもっとも善い世界が、現に存在している理由である。神はそれを智恵によって知り、善意によって選び、力によって生みだす。このように、すべての被造物が、おのおのの被造物と、またおのおのの被造物がすべての被造物と結びあい、対応しあっている結果、どの単一実体[=モナド]も、さまざまな関係をもっていて、そこに他のすべての実体が表出されている。だから単一実体とは、宇宙を映しだしている、永遠の生きた鏡[un miroir vivant perpétuel]なのである。

 初日の講義の最後に、ライプニッツの『弁神論(Théodicée)』(1710)(theos 「神」+dikē 「正義」)を簡単に紹介し、その後のヴォルテール(1694-1778)が『カンディードまたは最善説』(1759)を執筆、ライプニッツの予定調和説を痛烈に批判すると概説する。すなわち、ライプニッツが死んで数十年経った後に、ヨーロッパでまたもう一つ大きな転換点を迎えている。大雑把に言うと、ヴォルテール以降の西洋思想史において、ライプニッツのような予定調和説をもはや簡単に信じられなくなったというところで講義を締め括った。

(文責:東京大学 王詩芬)

 

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●南京大学集中講義「鏡」第6講(2015年3月13日

 

 二日目の講義に入る前に、前日の質問について回答する。

Q1:モナドの表象[perceptions]について話したが、日本語の「表象」という単語の訳語は知覚と訳されているべきではないか
A1:それは確かに間違いではない。普通、ライプニッツにおいては[perceptions]というのは「知覚」と訳されている。なぜならば、ライプニッツはわれわれが目で見ているという知覚と心で思い浮かべる表象というものは区別しないからだ。

Q2:ライプニッツの「モナドロージ」と老子の「道徳経」はとても似ているのではないか、それは何故でしょうか。
A2:これは非常に大きなテーマで、話をし出すと、一日潰れてしまうという恐れがある。もし極簡単に説明すると、恐らく調和を目指すタイプの思想というのは、最終的に落ち着くという形で、そういう思想のパタン―がある。それがお互いの影響関係はないだろうと思います。例えば、ライプニッツが老子を読んでいたとはとても思えないので、言ってみれば、それは偶然なんだろうと思います。

Q3:モナドは延長を持たない。それにもかかわらず、表象を持っている。知覚を持っている。何故モナド知覚の中に延長ができるのか。
A3:モナドは広がりを持たないですが、空間の中に位置を占めることができる。相互の位置関係を持つことができる。なので、それぞれの位置関係をモナド同士でお互いに表象されて、それがモナドの知覚、表象の中では、ある種の広がりを持って、現れる。そのため、お互いの関係を表象する時に、その表象がモナドの中で広がりとしてイメージされる、表象されるという仕組みになっている。

 さて、本日の講義では、ヘーゲル、ラカン、マルクス、ベンヤミンまでについて話を続けていきたいと思う。G. W. F. ヘーゲル(1770-1831)が19歳の多感な時期に政治革命としてのフランス革命(1789)と思想革命としてのカント哲学(1781〜1790)を経験している世代である。彼はカント哲学以後の近代哲学を背景に独自の思弁的な体系を打ち立てた人物である。ヘーゲルの『小論理学』は、哲学体系全体をあつかう『エンツュクロペディー』(論理学・自然哲学・精神哲学)の一部門を指す。独立の著書『論理学』(=大論理学)と区別される。ヘーゲルによって、論理的なものは形式上三つの側面を持っている。
(イ)抽象的側面あるいは悟性的側面。
(ロ)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面。
(ハ)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面がそれである。

 

休憩に入る前に、一旦質問を受ける。

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Q1:ヘーゲルの同時代評価とは?

A1:そこは恐らく評価の分かれるところだと思う。ヘーゲルは味方も多ければ、敵も多い、そういう哲学者の典型である。今日は、どちらかと言うと、突っ込みやすい例を取り上げたが、ヘーゲルの思想のうち、例えば人間の思考の反省に関わる議論などは、個人的にはとても面白い議論だと思う。一杯ものを書いているので、当然下らないものも一杯書いるわけです。その一方、今読んでも、なかなかエキサイティングなことを書いている。ヘーゲルに得意分野があるとすると、二つのものの対立が一見はっきりしているように見えるが。その対立が実はひっくり返る要素を持っている。こういうところの理論をやるヘーゲルはやはりすごくうまいですね。もう一つの得意分野は社会理論です。ヘーゲルはものすごく勉強家だったので、当時の社会理論、言ってみれば、最新の社会理論、こういうものをちゃんと勉強して議論していた。哲学者の空論ではないですね。例えば、アダム・スミス以降のイギリスの近代経済学などを非常に早い段階で摂取しています。こういう形で、彼は社会議論に関しても、最新の議論を踏まえつつ、いろんな洞察を盛り込んでいる。フランス革命以降、ヘーゲルは影響力を持つのは、特にそういう点が大きいのではないかと思う。

 次の話は昨日のライプニッツに繋がる、基本的には一つ繋がりの話である。今日は二つ乃至三つ、鏡に関係する、あるいは対称性・非対称性に関係するトピックを取り上げるという形になる。ただ、一つ共通するのは、ヘーゲルと多少関係するのだが、鏡は単に何かを映すためのものではなく、人間が働きかける、一言というと、実践的な側面、何かをする、何かをしなければならない、あるいは、何かをしてしまう、そういう側面を取り上げたい。最初に取り上げるのはフランスの精神分析家ジャック・ラカンである。ラカンの「鏡像段階」論によると、生後6か月~18か月ごろのヒトの新生児は、身体を不十分にしかコントロールできず、生存のためには外界の助けを必要としている。だが、他の種と異なり、鏡の像をそれとして認識し、強い興味と喜びを示す。ただし、この〈鏡像〉は実際の鏡でなくてもよく、他者(たとえば母親)の身体像であってもよい。すなわち、現実には成立していない自己の身体像を、他者の身体像(鏡像)によって想像的に先取りしている。ただし、こういう自己の認識(me connaître)=誤認(méconnaître)というものになる。ラカンの話はこの当たりにしておく。

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 次のトピック、K. マルクス(1818-1889)とF. エンゲルス(1820-1893)に移る。マルクス・エンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』で提示した反映理論によれば、一民族の政治、法律、道徳、宗教、形而上学、等々の言語に表わされるような、精神的生産についても同様である。人間たちの表象や理念等の生産者は、人間たちである。さらに、イデオロギー的反映の叙述について言えば、現実的に活動している人間たちから出発し、そして彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映や反響の展開も叙述される。人間の頭脳における茫漠とした像ですら、彼らの物質的な、経験的に確定できる、そして物質的な諸前提と結びついている、生活過程の、必然的な昇華物なのである。道徳、宗教、形而上学、その他のイデオロギーおよびそれに照応する意識諸形態は、こうなれば、もはや自立性という仮象を保てなくなる。

 次に、マルクス『資本論』で分析している商品経済に移る。マルクスは経済的関係の「反映」としての法関係について、「ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって、彼らは交互に私有財産所有者として、認め合わなければならぬ。」と述べている。ただし、労働者が自分の労働力を商品として売る時に、資本家側との間に覆い隠れている力関係がある。

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 次にベンヤミン(1892-1940)が最晩年に書かれた「歴史の概念について」を紹介する。(それを入る前に、まず『涼宮ハルヒの憂鬱』というアニメ動画を見る。)ベンヤミンが二十世紀において、非常に影響力のあった思想家の一人である。彼が歴史の天使、進歩の観念(第9テーゼ)に関して、「強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩[Fort-schritt]と呼ぶものは、この強風なのだ。」と例えている。恐らく文脈から分かったように、彼はここで「進歩」という言葉を肯定的な意味で使っていない。伝統的に社会主義の理論、マルクス主義の理論において、歴史の進歩に対して、非常にポジティブな意味として位置づけられている。しかし、マルクス主義を継承しようとするベンヤミンは、何故かこちらの進歩という概念を批評している。一方、社会民主党が掲げている進歩の観念とは、「均質で空虚な時間」というものを前提にし、この空虚な時間の中で、いつかどこかの時点で革命は必ず来ると考えられる。要するに、「歴史の概念について」という短いテキストは、革命の条件が完全に消え去ったかに見える時代において、それでも残る革命が可能性を考えようとする。

(文責:東京大学 王詩芬)

 

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質疑応答

Q1:「鏡像段階」において、子供が他者を鏡にすることによって、他者の中に自己の像を認識している。その後、子供が言葉が出来るようになりました。そこで、言語が単純的に話すことですか、それとも私という人の使う言葉ですか。すなわち、サピア=ウォーフの仮設というように言語の違いによって、世界の見方が変わるでしょうか。

A1:ラカンの言葉で言うと、言葉の象徴界という仕様だけに関わるものではありません。言葉によって、人間のあり方が既定されているというラカンの考えがある。何故それが「私」だけじゃないか。「私」という言葉は、それだけの意味は持たないですね。「私」という言葉を使う基礎の中には、私が私から見て「私」という人は、私が話している相手から見ると「あなた」になる。一人称の代名詞と二人称の代名詞は視点によって、入れ替わる。このことを理解しないと、「私」という言葉は使えることにはならないです。このように、代名詞のメカニズム、「私」、「あなた」、「彼女」、「彼」、「それ」、「それら」、このメカニズムが分からないと、恐らく言葉を使えることにはならない。もちろん、「私」という代名詞も含まれている。象徴界に入って、それらを全部置き換えて、理解している。ただ、その中の意味合いとしての「私」と「あなた」が、交換可能なものになる。言葉のレベルで毎日実現されている。私はあなたから見たら「あなた」になる。あなたが私から見れば「あなた」になる。こういう、私とあなたの相互関係の中に、人間という存在が織り込まれている。これが基本的な考え方です。分かりにくいですね。その限りで、ラカンは言語のごくごく基本的な構造を見よう。この基本的な構造というのは、今われわれが知ってる言語は、大概備えているものなので、もちろん、代名詞のありかたは、中国語と日本語などでは違います。日本語の私というのは、中国語の「我」と、英語の「I」と一対一で置き換えているが、必ずそうではありません。先程言ったような代名詞の働き方のメカニズム、言語の基本構造というのは、どの言語でも多かれ少なかれ一緒だと思う。なので、その意味ではラカンの議論とサピア=ウォーフの仮設、いわゆる言語相対性の仮設というのは、必ずもリンクしないだろう。

Q2:この二日間で取り上げた西洋思想史の哲学者の間に、どのような関連性を持っていますか。
A2:西洋思想史というレベルで考えてみると、お互いに全く独立で考えるということは、できなかった領域だと思います。例えば、最初の日に取り上げた旧約聖書とか、オウィディウスのギリシャ神話というものは、こういうものを知らずに育って西洋思想史をやっている人、恐らく居なかったと思います。逃げようと思っても、恐らく不可能でしょう。普通の歴史というのは、例えば去年起こったことは今年に影響を与える、十年前に起こったことは今日に直接的に影響を与えるかというと、あまりそういうことはないだろう。でも、思想の歴史の場合には、本を読んだり、人の話を聞いたりすることで、二千年前の伝送は今日完全にアクチュアルな事としてよみがえることがあるわけです。それが思想史の特殊なところです。その意味で、長い伝統の中には、凡てのことが繋がっています。今回、「鏡」というテーマに関するという限り、昨日取り上げた旧約聖書以来のライプニッツに至るような伝統、あるいはそこをさらに深めたヘーゲルというのは、まだ連続性があるですけれども。「鏡」というテーマに関して、今日取り上げたラカン、マルクス、ベンヤミンなどの繋がりはむしろ薄いと思います。

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Q3:「鏡」以外のテーマによって、西洋思想史を紹介することができますか。
A3:たくさんあると思います。「鏡」はあくまでもメタファーであり、比喩なので、思想家当人にとってはどちらかと言うと、重要性の低い、マージナルなことです。それに対して、例えば主観と客観という哲学にとっての大問題、それと関わりのない思想というのは逆に珍しいじゃないかと思います。そのため、こういうテーマを取り上げると、もちろんほかのテーマの繋がりも付けます。

Q4:マルクスとヘーゲルとの関係はどういう評価をお持ちでしょうか。
A4:もちろん、これだけでは非常に大きなテーマです。昨日話ししたように、思想家の評価というのをあまり急いでしないほうがいいというのが、私の基本的なスタンスです。例えば、マルクスとエンゲルスはヘーゲルに対して基本的に厳しい批判を突きつけています。けれども、マルクスとエンゲルスが言っている評価をそのまま鵜呑みにしていいとは思えない。マルクスとエンゲルスが唱えたのは、ヘーゲルが本来やるべきだったことを、ヘーゲルの哲学はできなくなっている。つまり、ヘーゲルがヘーゲル自身に向けた批判だという理解をしていたと思います。その点で、マルクスやヘーゲルが唱えたというのは、彼以降の世代に非常に大きな説得力を持っている。けれども、ヘーゲルの理論が逆立ちをして、自分達はそれをひっくり返したとマルクスとエンゲルスの言葉をそのまま100%に信じることが、あまり生産的だと実は思っていません。先程ちょっと述べた資本論で、例えば資本論の中でマルクスは、今や殆ど誰も相手にしないヘーゲルを自分こそが継承する、という言い方をしています。もちろん、そこでマルクスがヘーゲルは逆立ちしていることは繰り返しいるが、このマルクスの発言を見ても、マルクスとエンゲルスにとって、ヘーゲルは過去の間違ったものですが、ヘーゲルの全部を批判しているわけではない。むしろ、彼にとっての課題を、問題の本質を理解しながら、間違った形で提出してしまった、こういう理解なんじゃないかと思います。

Q5:ベンヤミンのメシア的能力についての質問です。先程見せて頂いた動画との関わりがあります。例えば歴史を考えるときに、国の記憶と民族の記憶というのは、時に隠蔽されたり、交錯されたり、恣意的操作されたりすることがあると思います。その点について、どういうお考えですか。
A5:過去の記憶というのは、特に社会の中では、基本的に支配者がどう解釈しているかによって決めている。ですから、先程ちょっと単純化にして説明しましたが、ベンヤミンにとってメシア的な力による革命というのは、実は二つの課題があります。一つは、先程みてもらったような、過去の呼び掛けを現在が自覚して、受け止める。もう一つは、今言ったように、支配者達が握っている過去の記憶の抑圧を克服しなければならない。この両方は成功しないと、メシア的力は発揮できない。

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コメント(最新2件 / 5)

Sophie Zhang    reply

Sir:
I'm a listener of your lectures in NJU last week. I'm really appreciate your full prparation for your lectures and even impressed by your English pronunciation.
But I'm still a little puzzled by some point.
I can understand your metaphor of "mirror" when you explained Leibniz's "monad" theory. Maybe monad is the smallest piece of mirror for us to percieve the universe, reflecting the world in its own way and constituting a complicated world for human-being. Does it sound reasonable?
But, I do not see your point of relating "mirror" metaphor with Hegel and Benjamin. Can you explain a little bit more on this topic?

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