ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第2回 03月07日 松本康隆

茶道に見る信頼――制度の変化と交流の歴史

講師紹介
松本康隆
南京工業大学建築学院・特任准教授。建築史、都市史、園林史、茶文化史。
授業風景

3月7日

今日から二日間は、南京工業大学建築学院で教鞭をとられている松本康隆先生による「茶道に見る信頼」の講義が始まる。日本人になじみ深い茶道ではあるが、建築の側面から、しかも「信頼」をキーワードに語っていただけるということで、わたしたちが知らなかった茶道の新たな顔を見せていただけそうでとても楽しみである。

 まず松本先生は、茶道と建築が、自分のなかでどのように結びついたのかをお話しくださった。お母様がお茶の先生であったことと、自身の中学生のころから建築家になりたいという夢は、建築学科の卒論という形で交差した。先生の卒業論文のテーマは、「立礼(りゅうれい)の茶室」、すなわち、椅子を用いた茶室に関するものであった。先生は、なぜこのような茶室が近代に作られたのかという疑問を出発点にご研究を進められたという。そして、調べていくと、立礼の茶室にも豊富な歴史があり、設計・建築に関しても考えられて作られたものであるということが判明した。いつの時代も茶道を愛好する年齢層は高く、足を悪くしてしまった年配の方のためにも、立礼の茶室の「素晴らしさ」を発信したいと考えたという。

 松本先生は、講義の本題に入る前に、南京大学の学生に対して、「日本の茶道」についてどのようなイメージを持っているかとお尋ねになった。すると、「甜品」「一期一会」「川端康成の小説に出てきた」などの意見が寄せられた。次に、今度は「中国の茶道」についてのイメージについてご質問なさった。すると、「歴史はあるものであるが、今はあまり知られていない」「陸羽の『茶経』」「功夫茶」などの回答があった。松本先生は、それに最近、日本を参考にして作られた「茶芸師」という中国の資格について補足なさった。

DSC09108.JPGDSC09109.JPG

 学生の意見からも、日本の茶道が独自の発展を遂げたということが解る。松本先生によれば、「道具」「空間」「作法」の三者がバランスを保ち、「美」を生むことが、その独自の発展を支えたという。(中国はお茶を飲む専用の空間(茶室のようなもの)が発展していない)「道具」「空間」「作法」の三つは一体となり、一つが変化すれば、そのほかもそれに呼応して変化を遂げてきた。一例を挙げれば、明るいところで見たほうが美しい「道具」を用いるならば、明るい「空間」が求められるということである。

 では、茶道とはそもそもなんのために存在しているのだろうか。松本先生は、ふたたび学生に意見を求められた。すると、「儀式」「リラックスをするため」「修身」などの答えが返ってきた。松本先生は、そのどれもを肯定したうえで、茶会を開くこととは人と人との交流の場――「信頼」を確認し、深める場を持つことであるという。さきほども挙がった「一期一会」という言葉は、一回のお茶会は一生に一度きりしかないからこそ、その貴重な場を大切にすべきだという意味である。しかし、裏を返せば、お茶会の場には不確定要素が多いということである。では、なぜ、そのような不確定要素が多いなかで、安心した交流が営めるのであろうか。松本先生は、そこには「信頼」できる制度が存在しているからであるとおっしゃる。茶道とは、人と人とが交流できるためのひとつの制度なのである。

 しかし、その制度も不変のものではない。ここからは、茶道という制度がいかに変遷してきたのかを、ご教示くださるという。松本先生は、まず変遷の概要をお話になった。それをまとめると以下の通りとなる。日本の茶道の源流となったのは、鎌倉時代に中国より伝わった禅院茶道であった。戦国時代になると、日本における茶道が成立する。下剋上の激しい時代において、茶道の場は対等に交流できる貴重な場であった。それが、社会の安定した江戸時代になると、茶道の場でも身分制度が適応されるように変化していった。そして、明治維新によって社会が一変すると、茶道は一時的に廃れることとなった。そこで、茶道家たちは、茶道復興の足掛かりとして、「日本の伝統文化」として茶道を位置づけようと試みた。近代国家としての日本の誕生には、「日本の歴史」「日本の文化」の共有が不可欠であったからである。このように伝統文化化した茶道は、朝鮮出兵・中国侵略を目論んだ豊臣秀吉を重要視することで、対外膨張をする日本社会に適合していった。それが、敗戦を迎え、日本が平和を謳う国家となると、茶道もまた平和な民主主義の茶へと変化した。秀吉の朝鮮出兵に反対し、さらには茶道を大成させた千利休を旗印とすることによって、茶道は社会的な承認を得ていったのである。

 このように社会の変化とともに、制度も変化している。では、なぜ、そのように変化しやすい制度を信頼できるのであろうか。さまざまな変化の可能性があったなかで、選び取られたものはどのようなものであったのだろうか。もう少し具体的に茶道の変遷を追うなかで、そのような問いの答えを考えてみてほしい、と松本先生はおっしゃる。

 そして、松本先生は、茶の伝来から、具体的な歴史をお話しくださった。茶の始まりの場である、禅宗は「清規」と呼ばれる事細かな決まり事がある宗派であり、集団生活と修業がその特色である。日本では、中国から渡ってきた蘭渓道隆が開山した建長寺が、禅宗のひとつの基点となり、その図面も現存している。また、「清規」によれば、「茶」を用いる儀式は、「方丈」(禅寺の住職の居室)で行われるものが最も多いという。そして、その古いお茶の様子を現代に伝えるものが、「方丈の茶(四頭茶会)」と称されるものである。これは、「四頭」の名のとおり、四人の客をもてなす茶会であり、そのほかはお供のものということになる。本来は椅子を用いて行われていたが、日本化して畳を敷き詰めて行われるようになった。次に松本先生は、中国の霊隠寺の図面を示してくださった。なかでも僧堂の様子が詳しく記されているが、それを見るとひとりひとりのスペースはとても狭く、そのスペースのなかで寝食、修業を行ったという。その所作すべてに「清規」があり、これらの決まり事が茶道に影響を及ぼしていくことになる。

 室町時代になると、茶道を担う中心は貴族となる。会所(公家・武家・寺社の住宅に設けられた施設)に集まる「会所の茶」が主流となる。これは、中国の貴族の宴会を模した豪華なものであったり、お茶の味を追求したりするものであった。豪華な景品を賭け、お茶の産地を当てる「闘茶」も盛んに行われた。また、連歌会とお茶の結びつきが生じたのもこの時期である。この結びつきによって、連歌の美意識がお茶に流入したのである。それは、のちに「わびさび」として茶道の美意識の核となっていった。

 戦国時代になると、千利休が独自の美意識に基づいて、「侘び茶」を大成させる。「会所の茶」から「侘び茶」への美意識の変遷は、用いられた茶碗の変化を追うとわかりやすいとのことで、松本先生は、「窯変天目」(中国産・希少)→「井戸」(朝鮮・民芸品)→「黒楽」(朝鮮から渡ってきた陶工による・釉によって覆い隠す美)の三枚の写真を見せてくださった。また、「侘び茶」における茶室は、畳二枚分のスペースに限定された。わずかなスペースであるが、柱の上を土で隠し境界線をなくすことで空間を広く見せる手法が用いられ、天井の高さ、光線の取り入れ方まで計算しつくされたものになっていた。

 そのような茶道は、江戸時代になると、江戸幕府の身分制度への対応していくこととなる。将軍は、自らの地位を確立するため、自分の立場がほかの人々よりも上であることを確認する必要に迫られていたからであり、将軍の権威付けに茶道が大きく寄与したのである。茶室の構造を変化させることによって、貴賓とお供の人の差別化が見事に図られたのであった。

 そして、近代となり、茶道にも近代化の波が押し寄せることになる。先にも触れたように、この時期に、茶道の伝統文化化が促されたのである。しかし、みなに認知されなければ、伝統文化になることは叶わない。茶道の認知を後押ししたのが、これまで私的な空間であった茶室の、公的な場への進出であったと松本先生はご指摘なさる。たとえば、明治時代に作られた日本初の公園のなかには、外国公使などの接待のための建物がつくられたが、そのなかに茶室が含まれていたのである。また、同時期には、管理者として茶の宗匠を据え、日本の風俗改良を目的とした、日本人のための公共社交施設・茶寮なるものもつくられた。茶室が公的な場に設置されたことに加え、当時の新聞において、近代ブルジョアジーたちの茶会での失敗談がおもしろおかしく語られたり、茶を道楽と見做す数寄者と道徳である数寄者の議論が掲載されたりしたことも、茶の裾野を広げることに貢献したという。このようなメディアの報道によって、お茶とはどのようなものであるかが日本において共有されていったのである。

 そのような時代情勢のなか、茶室にも変化が起こった。西洋文化を取り入れ、椅子(ソファ)を併設したもの。新しい材料としてガラスを採用し、ガラス窓越しに富士山が見えるようにしたもの。電気や換気口を建築に組み込んだものなどが挙げられる。同時に、茶室の建築におけるイニシアチブをだれが握るかにも変化がみられるようになっていった。前近代では、施主・宗匠・棟梁の三者が対応な関係にあり、それぞれの発案によって、茶室の改良が行われていた。しかし、近代となり「建築家」と職種が誕生して以降、宗匠は単なる相談役、棟梁は建築を請け負うのみという立場へと追いやられていった。この状況を憂え、自ら改良を進めようとした笛吹嘉一郎のような棟梁もいたが、建築家主導の流れを止めることはできなかった。

 そして、戦後となり、現在も様々な茶室が試みられているという。しかし、その様々な茶室のなかでどのような茶室が信頼を担保できる茶室なのであろうか。それを考えるということは、これからの社会がどのような社会となるべきかを考えることである、と松本先生はおっしゃる。なぜなら、茶の制度や茶室の変化のありようは、社会の変化のありようなのだから、と。

 明日は、お茶の作法について、実演や体験を交えながら、お話しくださるという。歴史を学んだうえでの、お茶の体験はより一層意義深いものになるに違いない。明日の講義が待ち遠しい。

3月8日

 今日は、昨日に引き続いて、松本先生による講義であった。今日はお茶会の作法を教えて下さるということで、松本先生は和装をなさっていて、先生の登場とともに教室がどよめいた。

 お茶の作法を教えて下さる前に、松本先生は、昨日の講義に対して南京大学の学生さんが書いたコメントペーパーのなかから、いくつからの質問に答えて下さった。その質疑応答の様子をまとめたものが以下である。

質問1 茶道を行うことによって、性格に変化は生じるのだろうか。

回答1 茶道を行うことによって、性格に変化が生じることはあまりない、それぞれが、性格に応じた茶道を行うためであり、それぞれの茶風というものがある。ただし、茶道を行うことは、旧い時代の生活を体験することでもあるので、それによって自分自身を見つめるということはあるだろう。また、立居振舞の変化はある。茶道は、ひとつひとつの動作が細かく決まっているため、茶道を経験すると、普段のちょっとした動作(礼の仕方、物の持ち方など)が丁寧になった。

質問2 中国における茶は、高齢層よりも、伝統文化を学ぼうとする一部の若者が興味を持っているように思われる。日本での事情はどうであろうか。

回答2 日本における茶道人口は、戦後最大の担い手であった主婦層が高齢化していることに伴い、現象の一途を辿っている。しかし、伝統文化を学ばなければならないという義務感から茶道を習得しようとする人は一定数存在しつづけるだろうと考えられる。このほかには、茶道の「カッコよさ」を「発見」し、若者たちが興味を持っていくという可能性が考えられる。たとえば、建築における「和」モダンの流行や、お祭りにおける浴衣の着用者の増加などは、「和」の文化のなかに「カッコよさ」を発見した例であろう。

質問3 「ちゃどう」と「さどう」の違いはなんであろうか。

回答3 本来は「数寄」と言っていた。そして、より古い時代には「ちゃどう」、それから次第に「さどう」と呼ぶようになっていった。それが、裏千家の先代の家元が「ちゃどう」という呼び方を復興しようと呼び始め、裏千家では主に「ちゃどう」の呼称が再び用いられるようになった。(ちなみに、裏千家の「千」は「千利休」の意を汲んでいることを示し、ほかにも表千家、武者小路千家などがある。もともと、表千家が主流であったが、裏千家も戦後に爆発的に増加したといわれている)

質問4 (昨日の禅寺の図にあった)庫院はなにをするところか。

回答4 事務所としての働きが主たるものである。

質問5 茶会の話題はどのようなことであろうか。

回答5 道具に関することがいちばん多い。

質問6 茶道の未来をどのように考えていらっしゃるか。

回答6 これまでがそうであったように、茶道はまた脱皮するはずである。また、茶の湯文化学会において、「人はなぜお茶を飲むのか?」というシンポジウムがあったが、そこに参加されていた科学者の方は、茶にはカフェインが入っていて、カフェインには中毒性があるからと答えていらっしゃったのが印象的だった。

DSC09117.JPG

 また、昨日の授業の補足も一点なさった。松本先生は、昨日は宋代の茶が日本に伝来したとお話しくださったが、実は唐代にも日本にお茶がもたらされたのだという。しかし、そのときは、日本でお茶が根付くことはなかったといわれてきた。ただ、正確にいえば、地方などでは唐代の伝来を機にお茶が栽培されるようになっており、それが宋代に伝来した際の基礎となったという考え方もできるという。

 そして、先生は、本日の本題であるお茶会の作法についてお話しくださった。まずは、「茶事」と「茶会」の区別についてであった。「茶事」とは最も正式なものを指し、「茶会」はそれを簡略化したものだという。それでは、松本先生がご説明くださった茶会の作法を、順を追って紹介したい。

 まず、茶会に行くと、そこの門や扉はすべて開いていて、水が撒いてある。これが準備のできている合図であるので、客は勝手に入って、「待合」に行く。すると、そこに主人の手伝いが、「香煎」を運んでくるので、まず一服する。その際、客は着物を整えたり、余計な荷物を置いておいたりする。つぎに、客は、露地(庭)に出て、「外腰掛」に座り、亭主を待つ。一方、亭主は、「蹲踞(つくばい)」に水を入れ、道具をいったん置いてから、客の方へ向かう。そして、中にある門のあたりで、主人は客と初めて対面することとなる。これを「迎付け」といい、互いに無言で礼をする。亭主は、茶室の場所を客に示すため、客があとで通ってくる道を歩いて、茶室に戻る。客はいったん「外腰掛」に戻り、自分の用いた座布団などを片付けたあと、「枝折戸」を通り、「蹲踞」で手と口とを清める。古代であれば、武士は刀を持っていたので、刀を「刀掛」に掛ける。そして、躙り口より茶室に入っていく。亭主は、客が「蹲踞」の水を使ったので、そこに水を足す。客のほうは、茶室に入り、まず床にある軸、そして道具を見る。そののち、扇子を用いて、客と主人が正式な挨拶を交わす。そして、亭主は「炭手前」を行う。これは、お茶を飲むために行う、炭をあたためる準備のことである。客はその間に種類の多い料理を食べ、お酒を飲む。その食べ方などにもすべて作法があり、食べ終えたら椀を清める。最後には、「主菓子」と呼ばれるお菓子を食べる。そして、客は口の甘いまま、いったん外に出て、「内腰掛」にて待つ。亭主は、軸を花に変えるなどの準備を行う。お茶のための準備が終わり次第、銅鑼を鳴らすことになっている。銅鑼が鳴り始めたら、客は少し前に屈んで、その音を鑑賞する。そののち、客はふたたび、蹲踞で手などを清め、茶室に入る。亭主は、また蹲踞に水を足す。このあと客に呑んでもらうのは一番正式な「濃茶」であるため、亭主は、簾を垂らし部屋を暗くして、部屋の雰囲気を整える。ついにお茶のお点前が始まる。まずは濃茶、そして炭を整え、薄茶という順番である。亭主は、お点前が終わったら、道具を清め、拝見に出し、みなに回す。それが終わったら、挨拶をし、客は帰る。亭主はその姿が見えなくなるまで見送る。以上が一連の流れである。

 次に先生は、「会記」というものについてご説明くださった。本来、茶会で道具などを拝見した際、それぞれの道具がどのようなものであったかを客が記録しておく習慣であったが、最近はその茶会において用いられた道具(誰が作ったものであるかなども含めて)や出された食事について、あらかじめ記し、それを配布することもあるという。

 以上のご説明を終えたのちに、松本先生は学生さんのなかから希望者を募り、お茶をふるまってくださった。その際、お菓子の受け取り方、切り方、食べ方、お茶の受け取り方、飲み方、茶碗の鑑賞の仕方にいたるまで、丁寧にお作法を解説してくださった。南京大学の学生さんは、慣れない正座をしながら、事細かな作法を実際に行うことができた。その他の学生さんたちも、茶碗に見立てられるものを持参しており、二三回茶碗を回して、正面を避けて飲むという動作を実際に行っていた。その後、希望者にはお茶を点てる体験もさせてくださり、学生さんたちは異文化体験で大いに盛り上がった。

DSC09242.JPG

 今回、松本先生がお茶を点ててくださった場所は、茶室ではなく、教室であった。それも、南京という、茶道にとっては「異国」の地の教室である。これは、茶会ではなく、南京大学集中講義の一齣であったからである。しかし、お茶を通した交流は盛んに行われていたといえよう。茶道は時代と共に変化し、人々の「信頼」を結びつづけてきたというならば、きっと今日の授業もその実例であったはずだ。改めて、茶道の間口の広さを考えさせられた。 (文責・石川真奈実)

コメントする

 
他の授業をみる

Loading...