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第7回 11月06日 桜井英治

中世人と信頼──文書を作る社会と作らない社会

歴史上のさまざまな国や地域、時代を概観すると、契約を結ぶときにこまめに文書を作る社会と作らない社会がある。日本は明らかに文書をよく作る社会であり、その点では近隣の中国や朝鮮社会とも好対照をなしている。また時代別にみると、同じ日本でも中世がとくに文書の作成が盛んな時代だったが、それはこの時代が唯一人民や土地の国家的登録制度をもたなかった時代であることとも無関係ではなかろう。一方、一族や共同体の紐帯が生きている空間では文書は作られないという側面もある。文書とはなにがしかよそ者との関係のなかで作られるものでもあるのだ。本講義ではこのような見地から中世における人と人とのつながりについて探ってみよう。そこには現代社会における信頼の問題を考えるうえでも示唆するものがあるにちがいない。

講師紹介

桜井英治
東京大学大学院総合文化研究科・教授。専門は歴史学(日本中世史・流通経済史)。最近は中世における贈与経済や債権流通の問題などに取り組んでいる。著書に『室町人の精神』(講談社学術文庫)、『贈与の歴史学』(中公新書)、『交換・権力・文化』(みすず書房)など。
授業風景

2019年度第7回学術フロンティア講義では、11月6日に東京大学大学院総合文化研究科教授の桜井英治先生をお迎えし、中世における贈与経済や債券流通のモデルをご説明いただきながら、歴史的な視点から現代と中世との信頼の在り方の相違について講義していただいた。

歴史上の様々な国や地域、時代を概観すると、契約を結ぶときにこまめに文書を作る社会とつくらない社会がある。日本は、歴史を紐解いても前者にあたる社会を形成してきたが、なかでも中世は特別文書の作成が盛んな時代であったと言える。それはこの時代が唯一人民や土地の国家的登録制度を持たなかった時代であることと無関係ではないだろう、と桜井先生は述べる。人々や土地の登録制度として、古代には戸籍や計帳、近世には宗門人別帳や検地帳、近現代では戸籍や登記制度が存在していたが、中世はそうした登録制度をもたなかったのである。その点で、日本の中世はいわゆる小さな政府であり、私権自衛の時代であったのだ。

国家が権利を保障しない時代においては、「当事者主義」という原則が表れてくるのは自然な流れである。これはもとは法用語で、「案の解明や証拠の提出に関する主導権を当事者に委ねる原則」を指す。この例として天文5年(1536年)に制定された分国法「塵芥集」における「生口」を桜井先生は紹介する。「生口」とは盗みを立証する証人を指すが、現代の感覚でいうところの中立的な目撃者ではなく、盗人の一味かそれに近い人物を指し、それを拷問して口を割らせるのが、盗品が出てこない場合の次善の策として当時はおこなわれていた。拷問は役人の仕事だったが、これをとらえてくるのは盗みの被害者であるところに、当事者主義の極致を見ることができる。

また、小さな政府として国家が登録制度を持たない世界では、もともとは役所を経由していたものも私人化する。つまり、私文書の世界が広がっていくのである。中世では文書さえ作ればあらゆる権利を譲渡することができるという中世的文書主義が発達し、二つの別々の債務・債権関係を連結することさえ可能になった。先生はこれを、債務関係を人格から切り離して考えていた中世独自の仕組みで、文書による効力がほかのどの時代にもまして強く機能していたからこそ可能であったと指摘する。反対に、人と人との人格的な信頼関係なしに債務関係が成り立つことはないと考える現代社会においては、別々の債務・債権関係を連結することはまずもって不可能である。

また、現代でも正式な晴れの贈答に引き継がれている折紙(目録)という慣習も面白い。折紙(目録)を最初に送り、それから現物を送るという贈与の作法だが、中世では一種の清算の猶予として徐々に変形し、約束手形化したと桜井先生は述べている。もとは儀礼の様式だった折り紙が、受贈権が形を持ったものとして証券化する流れは、中世的文書主義そのものを象徴していると言える。

日本の歴史は、債権や受贈権が譲渡可能な時代と不可能な時代が繰り返し現れる歴史である、と桜井先生は指摘する。それは政府の在り方の違いでもあり、ひいては「信頼」をどのように考えるかの違いでもあり得よう。今回の桜井先生の講義は、われわれが生きる「信頼」とは何か、そしてその概念の在り方や形のとり方は今われわれの前にあるものがすべてではないことを示す一つの証左となったのではないだろうか。時代や国家や法制度に大きく左右されうる「信頼」を、いったいどのように補足していくべきか、一度見つめなおすべきなのかもしれない。

(文責:朱宮)

コメント(最新2件 / 20)

Tyuki23    reply

本講義では信頼の一つの形としての日本の中世における文書の存在について学んだ。紙による文書は現代でも根強く残る形式であり、電子的な文書のやり取りが進む中においても旧的な紙の文書を用いた契約なども残存している。しかし近年、金銭が絡む取引等においては電子的な文書をはじめとして、仮想通貨におけるブロックチェーンなど新たな形式が台頭しており、将来的には紙を用いた文書のやり取りはほぼ消滅してしまう可能性がある。また、信頼という側面から考えても原始的な直接的な人間同士のやり取りから、インターネットを介することによる遠隔的なやり取り、ひいては信頼の仲介としてのコンピューターやAIの存在感が日に日にましており、将来的には信頼という要素において人間の存在は消失してしまうのではないかと感じている。このような不可逆的な風潮の中で長い歴史を紡いできた信頼の形式の変容がどのようになされていき、その終着点がどのようなものになるのかということは非常に興味深く、最終的に信頼というものが社会のどこに置かれるのか、あるいは信頼という概念そのものがなくなってしまうのかということは非常に興味深い。また、本講義では文書によるやり取りが盛んであった日本中世にのみ焦点が当てられたが、その前後の時代におけるやり取りの形式や、世界の他地域における特徴的なやり取りの形式との比較をすることで日本中世の特異性あるいは、それぞれの特徴が浮かび上がってくると思うため、そのような比較の側面からのアプローチが欲しいところであったと感じる。

youcan19    reply

日本史も世界史もそこまで知識がないため、話をあまり理解できなかった部分もあり自分なりの考察をすることは難しいが、講義で仰っていた「信頼ができないときほど、より厳密に文書を作成する」という文化は今の時代にも確実に残っていると感じた。実際、額面にもよるが友達と金銭の貸し借りをするときには口約束で済ますことが多いが、見知らぬ人とそのようなことをする気には一切ならない。むしろ、親しい仲で文書の作成をすると信頼していないように思われ信頼を失ってしまうことさえあるかもしれない。また、債権を譲渡し連結することを認めるか否かの違いについては、これまでそのようなことを考えたことがなかったので興味深かった。歴史についての教養を深めてからもう一度お話を聞いてみたいと感じた。

baya0903    reply

中世日本の徹底した当事者主義に於いては、法は事後的に参照されることで偶発的に発見される、という点に驚きました。そのような法は、行動を規定し、社会を秩序づける規約としての役割を果たすことはできないでしょうから、法に代替する 秩序化の装置(慣習?命令?)が存在し、それなりに大きな役割を果たしていたのであろうと考えました。
また、受贈権さえもが証券化によって譲渡可能になったという事実は、現代社会やIT化の特徴と考えられているような、個人の「情報化」が、中世でも部分的に起こりえたということを意味しており、翻って現代の情報化を考える際、それが政府による国民の権利への不介入を示唆するものであるという一面にきづかされました。一方、中世がその権利情報を個人が所有し、流通していたのに対し、現代では情報を一元的に集約・管理しており、しかもその担い手としての国家の役割が強まっているという逆説的状況に注視すべきであると考えました。

chihi0315    reply

文書を作り出すことで顔の見えない関係の間にも契約を成立させることができるという点には納得させられたし、とても合理的な手段だと思った。しかし、文書を作り、そこに信頼を見出す行為は契約を行う相手を信用していないということの表れだと思った。相手を本当に信頼していれば、文書を作らなくても契約は成立するはずだと思う。文書を作る社会は個々人の信頼関係の薄れた社会のように見えた。

Suzu0705    reply

中世において、長期的な統一政権が現れず、政府の権威・信用度は失墜し、人びとの中には「自立救済」の精神が根付いた。それは自分の土地は自分で守る、裁判では適用される法や証人を自ら探すという形で現出した。それまでの血縁的結合が解体し、人びとは自分の権利は自分で守ることを余儀なくされた。そのため、中世の人びとの間には強固な信頼関係は構築されなかった。これは私がこの講義を受けるまでに持っていた中世の人びとに対するイメージである。今回の講義で、それは一面では正しかったが、しかしもう一つの側面もあったことを学んだ。まず、予想通りだったこととしては、中世が文書に依存した社会であったことである。人びとの間の信頼関係が希薄な中、契約を結ぶ手段として人びとは文書に頼らざるを得なかった。新たにわかったこととしては、中世日本人が一種の「性善説」に立っていたことである。人間関係がどんどん合理化・簡素化されていくなら、社会全体がすさんだ空気になり、人びとは互いを悪人ではないかと疑うようになりそうなものだ。しかし、中世に信用経済が発展したことから、人びとの間には「誰もが同じ程度に信頼できる」という観念が浸透していたことがうかがえる。人びとの信頼関係は確かに希薄になった。しかし、その希薄化の程度が同じだったことで、人びとは逆に「誰もが同じ程度に信頼できる」というポジティブな感情を他人に対して持つようになったのだ。中世という時代は戦乱が絶えなかったが、そこでも人びとは「信頼」というツールを見つけ出し、たくましく生きていたことを学んだ。

lyu39    reply

高校時代日本史ほぼやっていなかったが、この授業を通してかつて日本に存在した「小さな政府」の形や、独特な社会的信頼の在り方について知ることができて、日本史の面白さを味わえた。中国や朝鮮と比べ、中世日本においては文書が盛んに作られていたのは、社会的信頼のレベルが低く文書による証明に頼る必要があったことが原因の一つとして授業で挙げられたが、中世の中国では人々が大家族などの集団の中で生き、人間同士のやりとりや利害関係による衝突の解決なども家族内の血縁関係・家族間の人情に基づく関係などを通して実現されていたで、日本の中世のような人同士の契約関係を書面で明確化する必要性がなかったのではないかと私は授業を聞いて考えた。中国の歴史にも日本の歴史にも疎いので深い考察はとてもできないのだが、中世の日本人は意外と個人主義的な一側面があったなと思った。

tanyn0580    reply

今回の講義は日本語と日本史がちょっと難しく、よく分からないところもあったが、先生の自分の研究フィールドに対する熱心はちゃんと伝わり、よかったと思う。
講義の始まりのところに、日本と中国・韓国の歴史書や歴史研究の違いについて少し話してくれ、そこで、そもそも歴史書と歴史記録は信頼できるかは疑えるのではないかと思った。特に新王朝が前王朝の歴史を作成するということなど。それも歴史学と信頼のもう一つの繋がりかもしれないと思った。
また、中世の人々が使っていた割符案や折紙案、そして信頼度と文書の使用の関係などを紹介してくれたが、今現在も20世紀とは異なり、現金とクレジットカードだけではなく、AirbnbやKickstarterというようなまさに(世界には信頼が低そうなのに)信頼に基づいてできているサイトもあり、それも考慮すれば、信頼と文書、そして昔から現在、現在から将来への発展に関する分析も変化していくかもしれないと思った。

吉村龍平 RY1448515    reply

ヨーロッパ中世にて、主君と家臣の間では双務的契約という、かなりドライな関係で結ばれていたと世界史で習いましたが、そこでは文書を介さずに契約が結ばれていたそうです。個人的に面識がない人に対して文書を介した契約を行うのは、このヨーロッパの例と比較すると、文書がないとばっくれられかねないという相手への信頼の無さとの証明にもとれ、性善説的考えを持っていたという話と矛盾する気がするのですがどうでしょうか。

satoshi31    reply

中世においては債権の譲り渡しが多発していたというのがおもしろかった。AさんがBさんにした負債をBさんがCさんに受け渡しCさんがAさんに取り立てに来るというのはAさんにとって見知らぬCさんが取り立てに来るということであり、混乱を招かないのが不思議だなというのが現代人の感覚ではないだろうか。また祝儀などでAさんとBさんが互いに送りあったとされているが実際には何もやりとりはされておらず書面において確認できるだけというのも面白いことであった。中世には戸籍がなく、国としての貨幣を持たなかった(中国からの輸入銭に依存していた)という点において民族としての紐帯を感じることが難しく、それゆえよそ者意識が日本人の間で存在し、文書をつくることが他者との違いを明確にする手段であったというのは大変興味深く、研究するのが楽しそうなことであり、東大入試において出題されそうな、考えさせる部分を多く含んでいるなと思いました。

yuto0813    reply

文書の話と「信頼」という一見関係のないように思えるテーマであったが、文書が流通していた時代には信頼が低下していて、文書が流通していない時代には信頼が上昇する、といった文書と信頼との関係について学ぶことができた。また、中世の人々がどのように債権・債務関係を処理していたのかを、実際の文書を通して学ぶことができ、とても良い機会となった。

kfm1357    reply

時代によって文書が作成されるか否かが異なること、特に波形のように文書が大量に作成される時期・作成されない時期が周期的に訪れていたことには、非常に驚きました。土地取引という、ある種、時代を経ても行うべき手続きが普遍的な行為を記録するか否かということにまで、権力による制度設計が影響していたことは、注目に値します。このように考えると、一般の人々の状況から逆に当時の権力側の状況を推測することも可能になります。権力側が権力側自身を記述した文書は当然ながら参考にすべき資料ですが、「外から」の視点からの叙述は多面的に理解するために必須であると考えます。この意味で、先日、AIによるくずし字の認識精度が向上したニュースがありましたが、このような技術を取り込みつつ、歴史研究を行うことが大切であると考えます。ひいては、歴史研究から得られた知見が現代の諸現象の理解の助けになるものだと考えます。

phu884    reply

中世日本の私文書を用いた取引について、偽装文書などの不安を考えると、当時の人々と現代との認識の違いが伺え、面白かったです。
また、政府が不安定なアフリカで仮想通貨取引が活発になっているというニュースを目にしたことがあり、小さな政府の下はで私文書を用いた取引が活発になるというのは、現代にも共通する現象だなと感じました。

yka710    reply

講義を受ける前は歴史学、前期課程で言えば文三の話がテーマかと思ったが、内容は契約の法学的側面や経済的関係にも及ぶもので、総合的な文系分野に関わるものだったので、興味を惹かれた。中世においては、国家が個人の契約関係に干渉しなかったことから、当事者が積極的に私文書を作成したという。現代でも契約時の書面は必須であるが、その内実は中世とは異なることが分かった。当時は罪を憎んで人を憎まず、つまり誰もが同じ素質を持っており信頼に足る存在であるとされ、あらゆる権利の移転が行われた。しかし現在では、国家が債務不履行に対して救済を提供する時代にあって、契約が破られた時にそれを証明するための手段として文書が用いられている。契約関係や文書をとってもその時代の個人観や信頼関係の有りようが垣間見えるのは大変興味深く感じた。

sanryo1335    reply

人文科学の中でも心理学は信頼と結びつけやすいですが、歴史学は関連しにくい印象があり、テーマは日本史ということで少し意外でした。内容としてはやはり歴史的事実の分析が中心になるだろうというイメージがありましたが、今回の講義では現代社会にも資するまとめがあり興味深いものとなりました。取引、あるいは国家権力への信頼の強さと文書、債権譲渡の間に反比例的な関係が生じるというのは、提示されてみれば容易に納得のいく考えですが、実際に中世の史料を通して考察することが論拠を得る上で重要だと理解しました。講義冒頭でも触れられていたように、中世は土地、人民の登録制度に加え、自国鋳造貨幣がないなど、様々な面で過渡期にある時代でした。これは日本のみならず世界史においても当てはまることではないかと思います。そうした激動の中で文書作成が盛んになる、つまり社会全体で信頼がある種減衰するということには問題意識をもちました。またこの場合、「信頼」とは、客観的証拠を提示しなくとも人々の間で取引が成立するような、「暗黙の了解」が存在する状態、と読み替えられると思います。たしかに文書が「信頼」の薄いよそ者同士を結びつける鍵になっていることは否めませんが、むしろ混乱の世だからこそ、「暗黙の了解」的な「信頼」があることが理想なのではないか、とも思いました。

ayana2630    reply

私文書の方が史書などの公式の史料よりも作為性が小さく実際をより反映していると考えられるというのは、当たり前のように思える一方でどこか現在の感覚とは異なるようにも感じておもしろいと思いました。公権力の制度や保護が十分に機能していない時代に契約に関する私文書が多く作成される傾向があるというお話で、現在の日本では例えば相続に関わって遺言書などの文書を個人で作るけれど、それが実際に社会で効力を持つためには公式の手続きに従って作成することが必要だという意味では、結局は制度の範囲内であって、公的権力が広く及んでいるということになるのだと思いました。逆に、現代でも、公的機関の力が十分浸透していないような国や地域で中世日本のような私文書の世界が見られることはあるのか気になりました。また、折紙から約束手形、受贈権化や、相殺機能が見られるというのが興味深いと思いました。
講義ありがとうございました。

ryo7a    reply

人格的な関係が成立している間は信頼を担保する存在は必要なく、非人格的な、つまり(日常的な意味での)信頼の存在しにくい関係においてはじめて信頼性を担保する存在が出現するという主張が含まれていた。換言すれば人格的な信頼の消失により社会的な信頼成立の萌芽が出現するという逆説的な主張であった。主張そのものは素晴らしかったが、最後の「贈与の手形化」の件があくまでも将軍に限るということで、講義の説得力にケチをつけてしまっている。文書の進化という文脈ではその究極として提示する価値はあったかもしれないが、信頼を取り巻く話としては非常に固有性の強すぎる話であった。むしろ塵芥集の話をもう少し聞きたかった。

Martian5    reply

貴重な講義ありがとうございました。
今までこの授業ではあまり文章そのものにスポットライトを当てて信頼という概念を議論することがなかったように思います。今回の授業はその点で今までの思考に新しい視点を加えてくれました。
信頼関係はある面において、文章を介さない、介す必要のない場合の方が優位に思われることが多いと思います。文書そのものの実体を信頼の拠り所とする中世日本の社会には新たな気づきを与えられました。
ありがとうございました。

pulpo10    reply

先日は為になる講義ありがとうございました。

reon2012    reply

今回の授業では文書の持つ価値について改めて考えさせられた。特に文書がない時代の方が信頼が高まるというのは現代の人々が覚えておくべく教訓ではないだろうか。というのも、文書がない方が人々が信頼で繋がれた素敵な世の中だという意味ではなく、むしろ文書が不可欠となった現代で文書を信頼の証として扱ってしまう危険性を考えるべきだと思ったのである。データ化された文書を改竄することは容易にできるだろうから気をつける必要があることは言うまでもないだろう。文書だけの薄い信頼関係で結ばれる世の中は寂しいと思った。

goto114    reply

歴史学の分野から、中世の信用経済についての講演をありがとうございました。大学入試以降とんと触れなくなった日本史のおもしろみに久々に触れ、いわゆる「東大日本史」の入試問題における、資料をふんだんに活用した設問の数々は 私文書の豊富さによるものでもあったのだろうかと 日本の歴史資料の豊かさに思いを馳せたりなどしました。中世において信頼関係の不在により私文書がおおく残されたことは筋が通っているように思えたのですが、平安時代や 近世以降の安定した時代においても、変わらず私文書が残されたのは何故だろうと少し不思議に思いました。
信用経済と人格との関係は非常に興味深く、当時の社会においていかに信頼関係が希薄(あるいは強固)かということが、債権(債務)や贈与物が売買可能かどうかに現れるという視点に、目から鱗が落ちる思いでした。

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