ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第10回 12月04日 鄭 雄一

多様性と道徳性:信頼の基盤としての道徳性について

現代において、道徳性と多様性は衝突しており、妥協の糸口は見えない。信頼という概念は、道徳性を中心に見た場合と、多様性を中心に見た場合に、大きく異なる様相を見せ、相容れない。本講義では、人間の持つ道徳性のメカニズムを抽出して、その基本的原理のモデルを提案するとともに、未来に向けて多様性との統合を可能にする新たな道徳システムの構築について議論する。

講師紹介
鄭 雄一
(てい ゆういち、Chung Ung-il) 平成元年に東京大学医学部医学科卒業、内科研修医および医員として勤めた後に、東京大学大学院医学系研究科入学。在学中の平成7年に米国マサチューセッツ総合病院に留学、ハーバード大学医学部講師、助教授を勤めた後、平成19年より東京大学大学院工学系研究科バイオエンジニアリング専攻教授。平成25年よりJSTセンター・オブ・イノベーション「自分で守る健康社会」拠点副機構長・研究リーダー。平成28年より東京大学大学院医学系研究科疾患生命工学センター教授を兼務。平成31年4月より神奈川県立保健福祉大学ヘルスイノベーション研究科長を兼任(クロスアポイントメント)。 専門は、骨・軟骨の生物学、再生医学、バイマテリアル工学。医学と工学を融合することで、生体に働きかけて治療や再生を促す高機能デバイスの開発に従事。センター・オブ・イノベーションでは、「自分で守る健康社会」という将来ビジョンのもと、10以上の産学協創プロジェクトを推進し、「入院を外来に、外来を家庭に、家庭で健康に」をテーマに、健康状態を可視化し行動変容を促すことで、健康医療イノベーションを興そうと試みている。イノベーションと道徳の関わりについても研究しており、道徳エンジンを人工知能やロボットに搭載することも試みている。
授業風景

2019年度第10回学術フロンティア講義では、12月4日に東京大学大学院工学系研究科 バイオエンジニアリング専攻教授の鄭雄一先生をお迎えし、多様性と道徳の両立という視点から多様性との統合を可能にする新しい道徳体系構築についてご講義いただいた。

現代において、格差、差別、分断を克服する幸福な新社会システムを創造するためには既存の貨幣価値軸だけでは限界がある、と先生はまず結論付ける。とすると、貨幣価値軸に直交する計測・可視化ができる価値観を目指さなければならないのだが、そのときの新しい軸として道徳性に可能性が見いだせるのではないか、というのが基本的な氏の考えである。

新しい道徳システム構築のためには、先人の道徳を振り返らなければならない。問題点を検出し、分析し、モデル化するという粗視化のプロセスを経ると、古来多くの人間が提唱してきたさまざまな道徳思想には社会に重点を置く道徳モデルと個人に重点を置く道徳モデルとに大きく二分できるという。宗教を筆頭とした社会に重点を置くモデルには理想の社会が設定されており、そこで決まった理想の道徳がある。一方、個人に重点を置く道徳モデルでは、道徳は個人個人が決めるものだとされる。つまり、社会の秩序を保つために権威のある存在が決める道徳と、個人の心が決める道徳があるのだ。両者は矛盾せず同居できるだろうか?

ここで鄭氏はモーゼの十戒を例に出し、共通の掟と個別の掟という概念を提出する。種が唯一の神であることをはじめとした最初の五つの戒律が「個別の掟」であるのに対し、殺人をしてはいけないこと・姦淫をしてはいけないこと・盗んではいけないことといった六つ目以降の戒律はほかの宗教の戒律にも共通してみられる「共通の掟」なのである。さらに「共通の掟」は「人に危害を加えるな」という一点に集約できる。

では、ここで述べられる「人」とはなんだろうか? 道徳が言う「人」は生物学の人間一般ではなく「仲間の人間」を指し示している。この語句を生物学的人間全体と混同してきたことに道徳の混乱があると氏は指摘する。個別の掟はすなわち自分たちの仲間とする範囲を規定するのに用いられる指針であり、共通の掟にあらわれる「人」は個別の掟で同定した仲間のことのみを指す。この括弧付きの「人」を傷つけてはならない、ということが共通の掟なのだ。つまり、道徳はもともと仲間同士の内輪の掟に過ぎないものであり、その掟も「仲間らしくしなさい」ということと「その仲間に危害を加えてはならない」という二集類の基本原理から構成されていると言える。

この基本原理を無視して多様性との統合を可能にする新しい道徳システムを構築することはできない。われわれは自分の中の道徳が「仲間」の範囲のみにとどまっていることを自覚し、多様性のなかの一つの道徳軸として自己をとらえ、他者を見ることが求められる。それこそが多様性と道徳の両立の道であり、また貨幣価値観に代わる新しい評価軸としての道徳の地平を切り開くのだとする氏の理論は非常に画期的に感じられた。道徳を科学し、新たな評価軸への実践を語る彼の言葉は学生各人に新鮮な驚きをもたらしたことだろう。

(文責:朱宮)

コメント(最新2件 / 22)

baya0903    reply

講義について、いくつか質問が浮かびました。
まず、道徳について、共通の道徳を基盤とする(=最大公約数をとる)というこころみは、グローバル正義論の領域でも、ロールズやヌスバウムによってなされてきました。もちろん先生がおっしゃっていたように、ロールズの「万民の法」は問題含みではあります。しかし、重要な点は、「共通の道徳」のまさに「共通」性について、「共通」のグローバルな了承を得たという事例が未だないという逆説的状況ではないでしょうか。
また、先生が批判されていた対象として、西洋中心主義がありましたが、欲求の階層化、ヒエラルキーそのものが、西洋形而上学中心主義であり、その中に、多様な社会・国家を、評価し、配置するという言説が持つ権力作用をどう考えるべきかが気になります。結局、貨幣軸と道徳軸の積あるいはなんらかの計算結果によって示される指標は、「何についての」指標なのでしょうか。「何を」評価するための指標なのでしょうか。それは、人間としての「価値」でしょうか。目指すべき道徳の普及法として、考えを広めていく、という方針で話されていましたが、そうなると、発展途上国などでグローバルな道徳が理解されていない、という状況が明らかとなった際、あらたなエスノセントリズム、あらたなオリエンタリズムが、(まさに意に反する形で)生じうるのではないでしょうか。

Tyuki23    reply

本日扱った道徳と多様性に関する事例の中でも最近私自身が考えていたのは食事に関することである。しばしばテレビなどのメディアで良い食事のマナーが美学とされるが、私は食べ方は人それぞれであるし、また国や地域によって食事のマナーは全く異なるためこの国での限定的な食事のマナーでさえも良いマナー、悪いマナーを格付けすることがあまり意味のないことのように感じられていた。また国内でもフレンチなど、その場所にあったテーブルマナーが求められるというのもその格付けをさらに狭い範囲にするものであり正直なところ個人の自由で良いのではないかと思っていた。よくある反論としては「郷に入りては、郷に従え」という言葉に代表される主張であり、私はこの一種リベラル思想と保守的思想の間で頭を悩ませていた。しかし講義の前半で両思想の特徴と問題点を道徳という切り口から捉え、道徳を個別の掟と社会共通の掟という二面性から分析するという視点は最近私が考えていたことと多くの部分で一致しておりとても興味を惹かれた。この分析に際してはできる限り主観性を排除し、客観的な分析に努めているように思われた。リベラル対保守という二項対立はあらゆる分野において存在しており、明確にどちらかの優位性が認められていることは非常に少ない。そのため講義でポジショントークが展開されなかったことはとても意味のあることだが、講義での分析から私たち一人一人が自分自身の主張を持つことが必要であると強く感じた。また、講義を通じて生物学や言語学、哲学など様々な側面から道徳(と多様性)を分析しており、これまでの講義に比べても柔軟な知見が得られたと感じるとともに自分自身の分析手法に取り入れたいと思った。

youcan19    reply

より良いものを作るためには国境、分野にかかわらず叡智を集める必要があり、境界を越えてことなる価値観に触れるときに各人の道徳体系が問われるということは、グローバル化が進む現代社会ではとても重要なことである一方、簡単に乗り越えることの出来る課題ではないため、人々の持つ道徳を、全員に共通しているものと、各社会が個別に持つものの二つに粗視化し、その二面性を認識したうえでかかわりあうことが大切であるというのは今まで気づいていない視点であった。これまで、良い社会を作るために守るべき規律である道徳が社会によって異なることを疑問に感じていたが、このような考え方が差別や分断につながるということに気づかされた。社会によって道徳が全く異なるのではなく、共通の部分と個別の部分に切り分け、個別の部分については互いに認識し尊重しあうことが大切であるということは今後忘れずに過ごしていこうと思う。
マズローの欲求段階を改変した道徳の四次元を紹介されていたが、国のトップなど多くの人をまとめる人物は四時限目の欲を持てるような人物であるべきだと感じるとともに、いまのリーダーたちは本当にその段階にいるといえるのかとても疑問に感じた。利己や評判・信用のために行動する人が多いように感じられる。社会の寛容性・多様性を求めることの出来る人が多くリーダーとして活躍するようになってからでなければ真の意味での国際化は進まないのではないかと考えた。

lyu39    reply

医学を専門とする先生が、道徳に関する思想史上の諸議論を読み尽くしている時点で感心しないわけにはいかないし、それらの哲学・倫理学の思想のポイントを掴み、簡単な文書にまとめたことからも、先生が「道徳の可視化」にいかに関心をもって力を投入しているかが窺える。人間がほかの動物とは異なり、直接的に関わったこともこれから関わることも恐らくないような個体に対しても連帯感を感じ、一種の仲間意識を持ちうるのは、抽象的な概念の共有を可能にした複雑な言語システムがあるから、という側面が大きいと先生はおっしゃったが、それに対して私も強く同感した。ただし、巨視的な視座から人類史上群星のような思想家たちの道徳に関する見識を俯瞰し、それぞれ簡略化して捉え、そこから一種の共通の規範のようなものを抽出し、それに基づいて道徳を計測する「軸」を作るという構想はまさにミニマリズムの精神を体現しているが、少し安易すぎるのではないかと少なくとも文系の私はちょっと抵抗を覚えた。先生の見解では、「すべての社会に通用する掟」と「ある文化にだけ意味がある個別の掟」との区別がどれほどできているかで個人の道徳の水準を測れるという論理になっているが、「すべての社会に通用する掟」を見出すこと自体が困難であり、本当の意味ですべての文化に納得できる掟だとすごく限られたものになってしまう。例えば、普遍的とされている人権の一部は、特定の文化において「男性にしか認められない」などの現実がある。人間の評価基準に関しては、持っている貨幣が多ければ高く評価されるとは限られない面もあり、道徳も一つの軸で数値化することが難しいかと思う。

tanyn0580    reply

論点も広い範囲を扱い、それに対する反論、それからその回答も丁寧に説明してくれて本当に素晴らしい講義であった。
ただ、人間は動物と異なるという点でについて、確かに合理的な議論であったが、動物の行動は本当にそんなに簡単に説明できるのであろうかと疑問に思った。わたしは動物研究者ではなく、道徳性の研究者でももちろんないが、人間と動物の区別に関してはまだ展開できるところがあるのではないかと思った。
また、道徳と言葉の関係は非常によかったと思った。人間は言葉に依存し、言葉がないと今の社会がない。しかし、言葉が分からない人間がいれば、あるいは言葉の構成が独特な場合はどうなるのか。今回の議論は人間全体的かつ一般的な視点からの議論のように感じたため、もしかしたら人間の中で例外がいたら、どのような問題が起こる、どのような状況が発生するのかというところは少し気になる。

Suzu0705    reply

紀元前から世界中で数々の道徳思想が生まれてきたが、そのような膨大な数の道徳思想を「社会と個人のどちらに重点を置くか」という観点でたった二つに分類できることに感動した。また、社会・個人それぞれに重点を置く道徳モデルのどこが問題なのかがはっきりと示されていて、わかりやすかった。(「紛争」という共通の切り口、神格化の対象 ) 今までただ羅列的に学んできた道徳思想を分類するすべの一つを学べて非常に興味深かった。
宗教とは人々の心の救いとなるはずのものなのに、それをよりどころとした血なまぐさい争いが歴史上繰り返されてきたのはなぜなのだろうかと考えることが多かった。しかし戒律が定める「人」とは「仲間」であり、戒律が形作る道徳体系は「仲間同士の内輪の掟」であると言うことを教わり、納得した。
戒律には「仲間に対して危害を与えない」という普遍的・絶対的な共通の掟があり、その引力を利用して異なる社会のメンバーを足し合わせ、グローバリゼーションを裏付けるような新たな道徳体系を作るという話は、非常に論理的できれい。しかし、実際にそれが実現する可能性は低いと思われる。ほとんどの人は、日常生活で「この人は共通の掟を持つ仲間だから危害を与えないようにしよう」などと理路整然と考えて他人と接してはいない。もっと感情的に接しているのではないか。たとえ家庭用ロボットで教育されたとしても、「頭ではわかっているけれどやっぱり彼らとは相容れない、排除したい」と思うことは避けられないのではないか。
たとえ個人の道徳次元が計測されるようになっても、それを知って自分の道徳性を改善しようと思う人は多くはないかもしれない。基本的欲求や名誉欲などが満たされればそれで満足と考えている人の道徳性を改善させるには、もっと強制力のある手法を用いなければならないのではないか。

satoshi31    reply

道徳次元のお話の時に、第三次元として個人と仲間が一体化することで生まれる欲、すなわちある特定の社会への献身をしたいという欲が生まれるというのがあり、自分のことを考えたときに自分はこの第三次元にいるのだなと思った。第四次元に至るとその範囲が特定の社会から全世界全人類へと広がっていくというのも、自分に足りていない精神であると理解できた。第三次元では他人と違うと判断すると、反感を覚え、仲間ではないというレッテルを張り避けてしまう。第四次元の人は自分と相手には共通の部分があると知っているから、違いを見つけても危害を加える相手ではないということを理解でき、違いを知ることが興味深いことで喜びになるということを述べられていた。正直この部分はあまり共感できなかった。というのも個人的な意見として、第三次元の道徳観で十分に満足を得られる人もいるだろうし、第三次元における範囲を広げていくことはできるにしても、まったく異なる人間や、ある特定のどうしても苦手なタイプの人間とはうまく関係を結べるとは思えなかった。第四次元は仮想の世界のような気がした。

kfm1357    reply

道徳を科学的手法で分析していくことは非常に新鮮でした。講義を聞くまでは、道徳というと、どこか他人が踏み入れられないもの、個人が他の介入を許さないもの、という印象がありました。しかし、先生が紹介されたように、様々な道徳を細かく分析・分類していくと、社会に重点・個人に重点と分けられ、「人に危害を加えるな」という共通の内容が抽出される。さらに実態を鑑みて、「人に危害を加えるな」の「人」は、「仲間の人間」を指す、すなわち、道徳とは「仲間同士の内輪の掟」であることが読み取れる。このように捉えた道徳を、言葉の観点から動物と比較し、適用範囲も考察していく。以上のようにして、得られた道徳を4段階に分け、計測も試みる、という壮大なプロセスを目の当たりにしました。
簡便に表現された道徳は普遍的な部分で構成され、背景・文化・年齢などを問わず把握しやすい概念になっていると思います。そのため、幅広い人々に通ずる存在たり得ると感じます。その一方で、このように単純化された道徳は、現在の流布する道徳とはかなり異なる概念になっていると思います。この壁が今後の普及にどのような影響を与えるのか注視していきたいです。

k00oosalt    reply

ありがとうございました。
欲望と道徳の関係性についての話題において提示された、STを用いた情動の化学的測定の可能性には大変感銘を受けました。また、道徳の普遍的モデルについては、確かに妥当性のあるものだと感じました。
しかしながら、貨幣価値とは異なる新たな価値観について、道徳の軸は必ずしも貨幣価値の軸と直交するものではないという話をお聞きしましたが、そういった意味で不完全な価値観を敷衍していくことには疑問を覚えます。そうではなく、新たな価値観のブラッシュアップが先に立つべきなのではと感じました。新たな価値観の定着そのものに対するマイナスの影響だけでなく、定着後の新たな価値観に対しての疑念が社会にとって悪影響となりうること、それらのことはより考慮すべきだと思いました。

chihi0315    reply

道徳に対して感じていた違和感が少し解消されて、腑に落ちた感じがした。特に「他人」という言葉は本当は「仲間」という意味で使われているんだという説明にはかなり納得させられた。
日本の道徳教育は、答えのあるはずのない問いに対してあたかも正しい答えがあるかのような形で行われているけれど、その中にも日本というコミュニティの中で日本人という仲間に対してのみに通じる道徳的思考が存在するのではないかと思った。

吉村龍平 RY9248    reply

授業の終盤に、ロボットによって道徳を広めるというお話がありましたが、個人的に道徳にイデア的なものは存在せず、多くの人の道徳観念の最大公約数が社会における道徳であり、時代や地域によってそれが変わっていくのは当然だと思うので、グローバル化した社会にはそれ相応の道徳規範が生まれてくると思うのですがどうでしょうか。

hikaaaa19    reply

多様性と道徳性という一見すると対立しないような構造についてよく考えてみると,対立関係が存在しているという話から始まった今回の授業は非常に面白かった.話のスケール,射程は非常に大きくどうやってまとめるのかと思いながら授業を聞いていたが人間の言語能力という話に収束してなるほどなと思った.特に後半の議論は,『サピエンス全史』における虚構の議論に近いものを感じた.『サピエンス全史』では人間が他の動物と異なるのは,虚構を信じることが出来るからでありこれによって圧倒的大規模な集団行動が可能になったという議論は,三人称,時制の議論に通づる物があると思った.

最後に定量化についてであるが,現状のセンサでは視覚情報と聴覚情報に対するセンサは発達しているがそれ以外の情報に対するセンサは未発達であるということがよく言われているので,もし,他の感覚に対するセンサが発達した場合に道徳次元を測定する方法としてどのような方法が考えられるかということに興味を持った.

sanryo1335    reply

「信頼」との直接的な関係性は個人的にはあまり感じなかったものの、道徳体系のあり方を再考し、グローバル化が進む現代において必要な概念を探るような内容は興味深いものでした。お話の細かい部分でいくつか気になった点があります。
講義序盤で、宗教の戒律に含まれる「人」という言葉に着目し、道徳とは人類全体ではなく仲間内での掟であるという定義を提示されていました。しかし、戒律の文面だけ見て共通項を見出すという方法には若干疑問を持ちました。講義では各宗教に特有な文章を「個別の掟」として、「共通の掟」とは別個のものとして扱っていましたが、実際には各宗教の特質が「共通の掟」を変質させるケースも多いと思います。また、仲間と同じように考え行動すること、仲間に危害を加えないことは不変の道徳となるとのことでしたが、「仲間」の範囲が協力、分業による「社会」の範囲だとするならば、この限りではないように思えます。「仲間」として現代におけるビジネスパートナー的存在を想定できるとすれば、必ずしもそれらの人に同調したり干渉したりしなければならない、というわけではないのではないでしょうか。
講義後半は人間と動物の対比から導入されていました。その中で、例えば動物は血縁が道徳の適用範囲なのに対して人間は決定的に異なるといった内容などがありました。授業後の質問でも触れられていましたが、それに留意した上でも、やはりこれは進化学的な考え方とは相容れない、人間を過剰に特別視する目線であるという批判を受けやすい議論だと感じました。文化についても、人間の文化も動物と同様に環境との交互作用で形成されるものであり、人間の文化だけが創始者が明確になることもない、という視点に立つと、少々違和感を感じます。
様々な分野からの道徳へのアプローチがあったために 、各分野の内容はあまり詳しく言及されず、もう少し細かくお聞きしたい講義でした。

yuto0813    reply

とても面白い講義だった。道徳に関して自分なりに考えてみたことはあったが、全く視点の違う観点から画期的な考えを知ることができ、とても感動した。歴史上の思想家の考えを粗視化する話から、ロボットに道徳の概念を搭載する話まで、すべて興味深く、105分ずっと集中して講義に聞き入っていた。講義を元に、自分なりにも道徳について考えてみたい。

yka710    reply

一貫した主張に基づきながら、テンポよく論理的に話が展開する講義で、非常に聞きごたえがあった。道徳を語ること、すなわち個人の心の持ちようを説くことは、えてして綺麗事に終始するきらいがあると常々思っていたが、鄭教授は個人の道徳的次元を測定して、一家に一台配備されたロボットに道徳を教えさせるという、いささか野心的とも言える具体的なアイディアを提示していたのが興味深かった。信頼を担保する要素としては、制度的なものと心理的なものがあると思われる。個人の道徳を疑うが故に、他者を害した場合に制裁を加える制度が用意されているのが現代社会である。だとすれば、もし心理的な要素が信頼を担保するようになればより高い確率で個人の権利を保障することができるのだから、理系的なアプローチからも道徳の涵養を促すことは、(同様の研究としてモラルエンハンスメントドラッグのようなものが挙げられる)やはり画期的な営みだと思う。しかし、鄭教授の提言を聞いた時に、個人的には漠然とした不安のようなものを感じた。道徳的次元が数値化され、それによって格付けされる世界とは、どのようなものだろうか。例えば、一般に発育環境に影響されると考えられている個人の人格傾向にも、遺伝規定性が強く働くことが今日では知られている。また、自閉症など精神的な原因により共感性を欠く人間もたくさんいる。とすれば、いくらロボットが子供を高い道徳的次元へと導こうとしても、必ず低い次元にとどまらざるを得ない人間が出てくるのではないか。彼らは、現在の金銭的に貧しい人々のように、「心理的に貧しい人」として不利益を被ることにはならないだろうか。信頼の構築のために未知なるものへの好奇心を養うことが重要だという趣旨には納得したが、道徳の数値化に伴い低得点群にどのような影響が及ぶのかは考察の余地があると考える。

ayana2630    reply

共通の掟と個別の掟の存在がそれぞれの宗教の戒律から見ても明らかになっているというのは、とてもおもしろいと思いました。感覚的には感じていたことでしたが、きれいに現れるのだなと思いました。
道徳は仲間の中で守られるものであるというお話で、その前提のもとで、その仲間の範囲同士をつなげようとする試みが、国際的な法律や条例、取り決めの枠組みなのではないかと思いました。つまり、ある価値規範に賛同した国々が参加することで、新たな仲間の範囲ができ、その中で共通の道徳規範が通用し守られるようになるのだろうと思いました。
道徳と計測・可視化と聞くと、道徳の教科化の際の評価についての議論を連想します。私はこの問題についてちょうどその真っ只中だった数年前に関心を持ち少し調べていて、その時に鄭先生の著書も読ませていただいきました。学校現場でどのように計り可視化するのかについて、今回の講義の中で扱われた道徳次元の計測に加えて興味があるので、これからも注目していきたいと思います。
ありがとうございました。

Tsyun94    reply

今回は信頼というところを少し離れた話をなさっていたかなという感触でしたが、大変面白い授業でした。自分がこの授業で意識したことは言葉の使いかたを無意識に制限しているほど、人々の道徳観というものは目には見えにくいのだということです。今回は「人」を殺してはいけないという観念(?)から深掘りし、人はやはり仲間と認識した対象にしか同情とか、親しみを持つことができていないという側面は確かにこの文面からわかるなと思いました。しかし、今後社会で新たなIT社会となり、相対的にネット上に存在する人(=仲間)の親しみ度合いが上がっていくだろうと考えられる中で、単に道徳的な観念も変わり、今までの「人」とは違う「人」が新たに意味付けられていくのではないかなと思いました。

martian5    reply

 貴重なご講義ありがとうございました。
 多くの点で気づきを与えられました。
 まず、異なる時代、地域で出現した異なる神、システムを持つ宗教を比べた際に、相違する点はその地域、時代の固有性に、共通する点は人間社会に普遍的な性質に起因すると考えられる、ということには驚きました。
 第二に、人間の性質として、言葉や文字を用いてコミュニケーションを行うことがあげられ、これ所以に人間は時空を超えて(ヴァーチャル)に他者と出会うことができるという観念は、魅力的に感じ、また芯を捉えているように思いました。
 今後も考察を続けていきたいです。

ryo7a    reply

世界道徳の創造という陳腐なテーマながら、定量的な道徳という点で興味深い内容であった。しかし肝心の講義内容は陳腐な法の世界道徳の条件のみで終わってしまい、計量化の内容はほとんど触れられていなかった。残念なことである。

goto114    reply

もしも世界がグローバル化していこうとするのならば(そして、実際世界はそれに対する対抗的な動きをも巻き込みながら確実に一体化しつつある)、一体化する世界に普遍的道徳が確保されなければならない、という出発点から、お話をいただきました。しかしながら、一元的な道徳観の確立・共有については、懐疑的にならざるを得ません。不平や暴力をなくすための普遍的道徳であるという信念に基づいて、普遍的道徳の確立を目指されるのでしょうが、そもそも一元的道徳を確立するという事自体がある種の暴力だとも思えてしまいます。

4geta6    reply

・掟の中にある「人」というのは、生物学的な人ではなく、仲間のようなニュアンスになっているのではないか、というのは面白かったです。高校の国語でやった、「バグダッドの靴磨き」という話を思い出しました。(これを根拠に何かを言おうというわけではないのですが...)
・「仲間意識を多様な個人・社会を繋ぐ巨大な糊にする。バーチャルな出会いによっても仲間意識は構築できる。」というのは、面白かったのですが、一方で、現実にはいくつかの問題もはらんでいるのではないかと感じました。「仲間」に対する「非仲間」というのは、明確に異質な他者として意識されるので、良くも悪くも意識的な対応がなされると思うのですが、仲間の中に存在するかもしれない差別・格差・不平等といったものに対して意識が希薄にならないか懸念されます。(掟が存在していても、それを適用するかどうか判断するのは人間であり、相手に対する認識は掟の適用を左右するでしょう。)個人的には、こうした問題に対し、中心を1つにしない、多元化するというのがひとつの解決策になりうるのではないかと思います。国境を越えた人口移動が活発になる中で多くの国が分権化の道を歩み始めているのも、これと無関係ではない気がします。一方で、それぞれの仲間の輪の重なりを多く持つ人、重なりに中心をもつような人は、多元化した社会を統率する人材として重要な役割を担っていくのではないかと思います。「国際人」というのは、こうした人を指すのでしょうか。
・また、近年環境問題や遺伝子編集技術巡る問題を語る文脈で、未来世代に対する殺人、ということがいわれることがあります。存在しない他者に対してどこまでリアルな仲間意識を構築できるのか、そもそもそれは可能なのか。先生の道徳理論は未来の潜在的な仲間に対してどのように拡張されるのだろう、と興味深く思いました。より未来世代に近いところにいる若者というのがキーパーソンになるのでしょうか。グレタさんを思い出します。

pulpo10    reply

先日は為になる講義、ありがとうございました。

自分自身、幼少期から、道徳の在り方に対して疑問を持っていた節もあり、なぜ道徳を守る必要があるのか。と言われた際に、そう言ったある程度明瞭な規律を作ることで手っ取り早く社会を作ること。だと考えていました。その為、道徳を守る守らないは自分、または社会にとってプラスが大きいか否かで判断すべきだと考えていましたが、この授業で、人=仲間だ。という前提。そして仲間は得するのが道徳のルール。その為。この仲間を広げていこうとする努力を持った上で道徳を考えれば、道徳は非常に有用である。という新たな観点を得られたので、非常に刺激的で、興味深かったです。
ありがとうございました。

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