跳出思维框架

第8回 12月07日 石原 孝二

記憶と人格(自己同一性)

人格的概念与记忆:“我”之所以是“我”,究竟是由什么来保证的呢?过去的我与现在的我是同样的人格吗?那么,未来的我又如何?哲学家们从记忆、意识等的连续性入手来论证着人格的同一性。

本讲座将不仅介绍哲学家们的见解,也同时介绍有关精神障碍、痴呆症及记忆机制等的研究现状,去讨论在当代应该如何正确认识人格概念与记忆之间的关系。

讲师介绍

石原 孝二
东京大学大学院综合文化研究科副教授(科学史·科学哲学研究室) 专业是哲学·伦理学(特别是科学技术哲学·科学技术伦理)。最近在进行的是精神障碍·发育障碍的科学哲学及关于Robotics(机器人的伦理)的研究。
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评价内容(最新2件 / 10)

宮崎榛名    reply

 2の課題について考察したいと思います。
 先生のお話によれば、人格は、意思、記憶、そして身体の同一性などの要素によって成り立っています。つまり、これらの要素のいずれか一つでも欠ければ、人格の同一性は保持できないと考えられます。
 例えば全記憶を電子データに変換して、他者に移植した場合、(被移植者の元々の記憶が残っているかどうかにもよりますが)被移植者は移植された記憶における自分の感情に違和感を持つはずです。なぜなら、たとえ全く同じ経験をしたとしても、個々の性格、身体的特徴などに応じて、どのように感じるかは異なるからです。従ってこの場合、意思の同一性が保たれていないので、人格の同一性は保たれていないと考えられます。
 また、記憶を機械に移植した場合、機械にはベースとなる固有の性格がないと仮定すれば、記憶からドナーと類似した性格を作り上げることは可能かもしれません。しかし、機械はドナーと同様の身体を持ちません。あらゆる身体的特徴をドナーにあわせて作ったロボットであったとしても、無生物である以上、完全にドナーと同じ身体感覚を持つことはできないでしょう。つまり、この場合身体の同一性が保たれていないため、人格の同一性は保たれていないと考えます。

yu    reply

一の課題について考察したいと思います。自己とは自分が経験することによってえた意識される自分自身だと思います。
前期で受けた心理学との授業で少しふれた自己について深く学べることができためになりました。機械やロボットが人格をもてたらそれはすごい進歩だとおもいました。

紅葉咲姫    reply

ご講義ありがとうございました。私は課題3を選択します。
 まず、記憶の消去は人格の同一性の緩みへつながると思います。経験や記憶は現在の自己の行動の判断基準であり、その不足は行動や判断の一貫性の形成を難しくすると思います。
 次に、記憶の回復において、回復した経験や記憶とその記憶を除いて構築された人格との間では、齟齬が生じると思います。そして、今まで同一であった人格の中に異端を感じるようになれば、人格の同一性は揺らぐと思われます。
 記憶力の強化については、判断する際に自分の扱える情報が増加することで、判断の基準が変化し、今までとは違う判断が下されると考えられます。それは、環境への対応という点でそれまでの人格とは違う人格が形成されており、人格の同一性が失われていると思います。

s.s    reply

 ご講義ありがとうございました。
 4の課題について考察します。
 ロボットが記憶や人格を持てるならば、ロボットが人間と同じように考え、行動することを可能にするのではないかと思います。将来的にはどうなるかわかりませんが現段階ではロボットが持てるのは記録であり、ロボットはプログラミングされた通りに動くことしかできません。よってロボットは記憶や人格を持つことはできないと思います。

金杉純哉    reply

 自己とは何か。ということについて考察してみたいと思います。
 自己とは他者である、と言われるように、自己とは他人(と)の経験の集積であり、完全に自分に由来する観念といったものはほとんど存在しないように思われます。他者がなくては自己は有り得ないでしょうし、自分が独自性・創造性と信じるものは他者(と)のおびただしい経験の組み合わせにすぎないとはいえるでしょう。
 それでは、自己というものは単なる他者の集積かと言えばそうではないように思われます。というのも、前述した「組み合わせ」を試行するのは他ならぬわたしですし、そこには情報の寄せ集めとはまた次元の違った、生々しく、経験する主体としての指向性が埋め込まれているように考えられます。
 こういった意味でこの組み合わせの指向性は、記憶の上書き・移植では再現できないような自己のあり方を示す一つのあらわれのように思いました。

S.M    reply

ご講義ありがとうございました。
私は課題の4について考えてみました。
機械やロボットというのは記録にはうってつけだと思います。しかし記憶となると不完全な気がします。人間での脳の神経の信号をデータ化し、それを機械などにチップとして埋め込むと仮定すると、短期記憶や長期記憶は「一定回数以上の入力があれば記録する」といったプログラムを組めば再現可能だと思いますが、意識されない記憶の信号をどのように意識的に拾うのでしょうか。
機械やロボットはある程度の記憶は獲得できると思います。けれどそれは人間同様の完全な記憶とは言えず、よって人格も持てないと思います。

C.O    reply

2の課題の、「全記憶を電子データに変換して移植する」ことについて書き込みをします。
問題は記憶以外に人格を支えているものは何か、ということです。授業では身体的同一性、社会的属性、性格傾向があげられていました。社会的属性は環境的な問題であり、実験において操作することができるならば、問題とはなりにくいでしょう。ですから、他の二つについて考えたいと思います。

身体的同一性について、これを否定するのがそもそも、今回の仮定とさえ言えるでしょう。機械であれ、他者であれ、外界との交流をはかるための感覚器官が全く別のものにすげかわり、記憶だけが残されている。とすると、周辺環境と接触したとき、その感じ方に差異があってもおかしくありません。そもそも機械は感じることができない。他者は、違う構造と違う記憶痕跡をもった身体で、違った感じ方をしているかもしれない。記憶を入れ替える前と後で同じ体験をしても、得られる体感が異なってしまうということがありうる。新しい感じ方が、過去の記憶と矛盾を起こしてしまう。この時点で同一性が失われています。
広範な身体のみならず、脳髄に関しても同じことが言えるのではないでしょうか。神経回路はそれまでの思考体験に依存して物理的に変化する。となれば、記憶というデータを移し替えることができても、それを流通させる媒介がことなっていれば、発生する運動も異なりうるからです。

性格についても議論はほぼ同じになると思います。性格は記憶や体験の総体だけではなく、身体に依拠する感覚、好悪などに影響を受けると考えるからです。

だから、記憶を移し替えたその瞬間には、まだ同一性は保持されているかもしれませんが、外界との交流、あるいは内面での思考が始まった瞬間、同一性を喪失するものだと考えます。
しかし、二つの状態の差異を意識することができないのならば(他者への移し替えなら意識せざるをえないでしょうが、思考能力のない機械への移し替えならば)、「その人格にとって」、同一性が失われたということはできないのかもしれないと思いました。

細川大吾    reply

 ご講義ありがとうございました。遅くなりましたが、3の「記憶の消去や回復、記憶力の強化に役立つ薬物や機械の利用は、人格の同一性にとってどのような意味を持つのだろうか。」について意見を述べさせて頂きます。

 私は基本的に人格の同一性とは「自らが自らを語るストーリー」によって担保されていると考えています。記憶が人格の同一性に寄与するのは、身体的同一性、性格傾向、社会的属性などを貫く「自伝的記憶」となるからでしょう。そういう意味では「自らのストーリー」に影響を及ぼす主要な記憶の消去・回復は常に「ストーリー」の書き換えを迫ることになります。

 どの記憶が主要かというのは難しいですが、他の記憶とつながりが多い記憶ということになるのでしょうか。関連項目の少ない末端の記憶が増加すること、そういった記憶のノード自体を増やすこと(記憶力の強化)は必ずしも人格の同一性に強い影響を与えるものとは言えないと思います。

<以下余談>

 私たちの記憶は機械的なシナプスの働きが根底にあるのはもちろんですが、舞い散る桜をみて雪を思い出すように、あるシナプスが刺激されれば「連想」や「比喩」といった機能によって他の多くのシナプスが同時に刺激されるような形で常に強化されているのではないかなぁ、と素人考えですが考えています。仮に私が「桜」を忘れたとしても、「雪」を覚えている限り、その記憶の座に何かがあったという「不在」は意識されてしまうのではないか。そう考えると記憶を消去することは果たして可能か?と疑わしく思います。

mamamama    reply

4の課題について考えてみたいと思います。

もしロボットや機械が意識を持ったら、という想定を据える上では独我論的な立場からの考察を欠かすことができないはずです。もし、人間とまったく見分けがつかないような言動をする機械が現れたとしたら、またそれのみならず「意識」についての哲学を自ら行うような機械が現れたとしたら、私はその機械が意識を持っていると認定していいのでしょうか。
このような想定をした途端に、他の人間の意識についてもまったく同じことが言えると気づくことになるでしょう。私の隣の人は私と同じように考え、喋っているように見えるが、本当に意識を持っているといえるのだろうか。しかし、このような「哲学的ゾンビ」の想定を設けることはナンセンスであるように私には思われます。
このように考えていくと、結局哲学的な意識は内省的なプロセスを経ることなしに抽出できるものではないということがいえるのではないでしょうか。たとえば記憶のみを機械の身体に流し込む、というような想定も、もし自分がそのような目に合ってしまったら、という想定を抜きにして語ることはできないと思います。
つまり、「もし機械が意識を持ったら」という問いへの答えは、「意識については内省によって取り出すしかないので、そのような問いは設定できない」というものにならざるを得ないのではないか、ということです。

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