ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 03月12日 阿部公彦

近代小説と「胃腸的想像力」

本講義では文学と「胃腸」の関係について考える。ただし、美食や空腹の場面を見るというよりも、むしろ「食べたくない」「気持悪い」「むかつく」といった否定的な反応の方がポイントになる。
 日本の近代小説の父と言われる夏目漱石は、実は胃弱の人としても知られた。講義では彼の作品の中からさまざまな「むかつき」の例をとりあげて検討し、そのあと、現代日本作家の「むかつき」の例へと進む。実はある時期からの日本の小説では、嘔吐や吐き気がふつうに見られるようになる。そうした例を通して、いかに近代文学の中で「消化器系の不快感」が重要な役割を果たすようになったかを明らかにしたい。

講師紹介
阿部公彦
1966年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 准教授。英米文学。文芸評論。大学では英米詩を中心に教えている。著書に、『文学を〈凝視する〉』(岩波書店)、『善意と悪意の英文学史』(東京大学出版会)、『幼さという戦略』(朝日選書)など。
授業風景

第三回第一講「近代小説と『胃腸の想像力』」(2018年3月12日)

 今回は人文社会系研究科の阿部公彦先生を迎え、近代小説と「胃腸的想像力」についてご講義をいただいた。講義の第一回は「胃弱」というキーワードを中心に、夏目漱石の生涯と『吾輩は猫である』『三四郎』『門』『道草』などの作品を紹介した。

 身体と文学の関連を取り上げると戸惑う人もいるかもしれないが、実は、身体、そして疾病は文学の一大テーマである。近代の二大疾病、特に文学者がよく罹る病気は結核病と胃潰瘍である。喀血、微熱などドラマチックの症状ゆえに、結核病が悲劇性や運命の非情さ、世の無常、あるいは悲壮さを伴う美的感覚を感じさせる。神格化された美の病である結核で亡くなった作家は、正岡子規、堀辰雄、キーツなどがいる。それに対して、胃病は日常的、慢性的、習慣的であり、凡庸で地味な病気である。そして、漱石の持病は、まさにこの地味な胃潰瘍である。

 日本における国民的作家と言われる漱石は、数多くの優れた作品を残しただけではなく、庶民的で愛すべきところもたくさん持っている。胃弱であるにもかかわらず食いしん坊であり、毎日のようにジャムを舐めるほど大の甘党である。では、漱石の胃弱は、一体どのように彼の作品と結びつけるのだろうか。

 漱石のデビュー作『吾輩は猫である』を読んでみると、「胃弱」がギャグのネタでもあるかのような扱いを受けているのがわかる。それほど必然性がないだけによけい目立つ。作品世界の中の「胃弱」という要素は、以下のようにたくさんの意味を含んでいる。それらの意味が、人物像を作ることに大きな役割を果たした。

◇不摂生。怠惰。だらしなさ。愚かさ。

◇弱さ。

― 肉体的虚弱。

― 意志の弱さ。

◇卑小さ。

― 見苦しい。みっともない。非英雄的。地味。

◇静かで目立たない。可視性が低い。隠し持つもの。

◇慢性的。緩慢。日常的。

 そして、『吾輩は猫である』は近代的な作品とは言えない。明確なプロットに乗って語られるというよりも、言葉の勢いで惰性的に展開するかのような猫の語りは、慢性病のように逃れようのない、執拗な胃弱的状況を体現しているのではないか。

 東大を舞台とする『三四郎』は「食」の描写に富んでいて、主要人物である広田先生もやはり胃弱な人である。『門』の連載終了後、漱石は胃潰瘍のため入院し、さらに修善寺の大患を経験した。そのため、『門』から後、「胃弱」に関する表現が急に増えてくる。「腹の中」という慣用表現も漱石作品の中に多出しているが、この表現で生理的な胃の中と精神的な心の中が繋がっている。

 最後、先生は『道草』からの引用を学生に見せ、引用における「胃弱」描写の意味について、学生たちをグループに分けて議論させた。学生の皆さんはそれぞれ個性溢れるアイデアを述べ、授業は盛況の内に終わった。

第三回第二講「近代小説と『胃腸の想像力』」(2018年3月13日)

阿部公彦先生の第二回講義は昨日の続きとして、漱石の作品をさらに分析し、そして大江健三郎の作品を中心に日本現代文学の中の嘔吐について紹介した。

南京と言うと、漱石の死因とも言われている「砂糖かけ南京豆事件」を思い出すが、実際、南京には「南京豆」という言い方がない。漱石は元々胃の調子が悪くて、甘いものが禁物である一方、友人の結婚式で鏡子夫人に内緒して砂糖かけ南京豆をたくさん食べて、二週間後胃潰瘍で死去した。

漱石の最後の長編小説「明暗」は痔の治療の場面から始まる。冒頭部の医者による「まだ奥があるんですから」というような思わせぶりなセリフは、津田の肛門の奥にある腸から胃という腹部を指し示しており、まさに腹の中をさぐるという設定になっている。この作品には、人物達の文字通りの腹の探り合いがテーマ化されていて、人物たちは「腹の中」というターゲットを意識化しているようにさえ見える。

漱石の作品と違い、現代日本小説における胃部不快感は、アクションとして実際の嘔吐が描かれることが多い。たとえば、大江健三郎のデビュー作「死者の奢り」の中にも嘔吐の場面がある。主人公は妊娠している女子学生と一緒に死体移動のアルバイトに従事していて、ゲロが吐かれてもおかしくない気配が小説の中で漂っている。女子学生は小説の中に実際に嘔吐した。そして、「戦争が終り、その死体が大人の胃のような心の中で消化され、消化不能な固形物や粘液が排泄されたけれども、僕はその作業には参加しなかった」のような表現もあって、主人公をとりまく憂鬱な気分、行き詰まり感、生理的な不快感、押し寄せる日常と現実の圧迫感などの感覚が象徴的にあらわされている。主人公が直面しているのは、戦争に伴う悲劇のような圧倒的で非現実的な力をもったものではない。むしろごく日常的で、現実的で、しかし、反復的で、決して退けることのできないしつこい不快感である。

西洋の文明化に伴って、階級流動性が高まり、階級を越えようとする人は上流階級の振る舞いを習い始めた。そこで、エリートとして恥ずかしからぬ立居振舞や心がけを教える作法書が編まれるようになる。作法書の中でよく書かれたのは、「プライベートなものをあまり人前でしゃべったり露出したりするものではない」という作法である。このような作法は、排泄物や分泌物など個人の生理的な部分に対するタブーと密接に絡んでいる。

味覚を表すdisgustという言葉が、胃部不快感から、さらにはより一般的に感情や倫理観にまで対象を広げるようになって、「プライベートなもののタブー」とも関連がある。近代に進むにつれ、人間はその「内面」において真価を問われるようになった。文学作品が照準をあてるのも心の内側。人間のプライベートなところで起きていて、ふだんは隠されているもの。その隠されたものを暴くことが、しばしば醜さ、見苦しさの暴露につながる。

つまり、文学作品はつねに潜在的にdisgustingにできているとさえ言える。隠されたものや奥にあるものを暴くという点において、そしてその暴いたものに戦慄するという点において、近代という時代が作り出したプライバシーの神話を補強してきたのが文学だった。

(TA・氷)

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