ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第6回 03月21日 安藤礼二

異人たちの民俗学

近代日本で「民俗学」という新たな学問を創り上げた南方熊楠、柳田國男、折口信夫は皆、通常とは異なった生涯を送らざるを得なかった表現者たちであった。そうした三人の思想を概観しながら、特に「まれびと」(異人)の来訪を祝祭の根底に据えた折口信夫の営為について論じてみたい。異物である「まれびと」によって時間と空間はいったん滅び去り、また新たに再生する。それは同時に共同体の再生であり、人々と自然の絆を再確認することでもあった。

講師紹介

安藤礼二
文芸評論家、多摩美術大学図書館情報センター長、同芸術学科教授。1967年東京生まれ。早稲田大学第一文学部考古学専修卒業。出版社の編集者を経て、2002年、「神々の闘争――折口信夫論」が群像新人文学賞優秀作に選ばれ、批評家として表現活動を開始する。主な著作として、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した『神々の闘争 折口信夫論』(講談社、2004年)、大江健三郎賞および伊藤整文学賞を受賞した『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社、2008年)、サントリー学芸賞および角川財団学芸賞を受賞した『折口信夫』(講談社、2014年)、さらには『大拙』(講談社、2018年)、『列島祝祭論』(作品社、2019年)、『縄文論』(作品社、2022年)など。また、監訳書として井筒俊彦『言語と呪術』(慶應義塾大学出版会、2018年)、近刊として『井筒俊彦 起源の哲学』(慶應義塾大学出版会、2023年)がある。現在、文芸誌の『群像』に「空海」を、『文學界』に「燃え上がる図書館 アーカイヴ論」を連載している。 (プロフィール写真撮影=小林りり子)
授業風景

3月21日
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「異物?」と題された集中講義の掉尾を飾るのは、多摩美術大学の安藤礼二教授である。
 3月21日の講義の前半では、日本の文化・芸術が今日まである「型」を反復しているとの認識のもとで、人間が人間ならざる者に変身していくという、その「型」が折口信夫の「まれびと」や祝祭を巡る議論を導きの糸としつつ紹介される。続いて後半では、その「型」にして芸術の根源が狩猟採取の文化を持つ縄文時代へと位置付けられつつ、人間が人間であることを巡る問題設定が可能になると論じる。講義を通じて、原型として祝祭を思考し解釈することで、人間が自由に表現し、想像することの一つの原理が導かれうることが示唆される。

 日本の文化・芸術と深いかかわりを持っているものこそ、祝祭である。祝祭の研究者である折口信夫は、沖縄やアイヌといった、比較的近年まで国家を持たず狩猟採集社会を継続していた文化における祝祭の形にとりわけ関心を寄せてきた。折口によれば、これらの文化やそこでの祝祭には、日本列島の原型的な宗教や文化が見いだせる。その特徴は、以下のとおりである。すなわち、宗教的な力を女性が持ち、女性のみが聞きうる神の声を伝えられた男性が現実の政治を司るという権力の役割分担。祝祭における秘密の儀式を通じて、女性が人間でありながら神へと変身していくこと。宗教的に意味づけられた女性が海の向こうから聖なるものを呼び寄せる儀式では、男性が神に扮することもある。いずれにせよ、人間が人間ならざる聖なるものに変化していくプロセスを見て取ることができる。ここで折口は、変身の過程で仮面が身に着けられることに注目する。重要な点は人間の身体ではなく、仮面が変化し再生することだというのだ。また聖なるものは、動物・植物・鉱物の入り混じった存在として表現される。それは海の向こうから来訪し、歌や踊りをもたらして、人間のものではない聖なる言葉を語る。そのような聖なる存在を、折口は「まれびと」と呼んだ。そして安藤教授は、折口が見出したこれらの原型が、今日の日本の芸術にも反復して表現されていると述べる。
 仮面を身にまとうこの変身のプロセスは、大別すると2つの方向から論じていくことができる。一方では、この「型」を基盤として、日本の伝統芸能(能・歌舞伎)が発展していったことを論じる方向である(これが2日目の講義の主題となる)。他方では、岡本太郎が試みたように、狩猟採集社会に注目することで、日本の芸術の根源をさらに追求する方向もある。ここでは、狩猟採集社会として、動物や植物と密接な関わりをもった縄文文化が注目される。講義では縄文土器を例に挙げながら、道具と芸術の混然一体となった土器を通じて、人間が人間であることに直結するような、表現の問題を論じていくことが可能だと示された。
 そして、以上のように祝祭を考えていくことは、人間が自由に表現し、創造することの一つの原理になりうると安藤教授は言う。祝祭や、それをもたらす聖なる存在は、今日の制度的に寸断された諸学問分野を総合し、遠い過去と、遠い未来をつなぐ創造の原理になりうるのである。

3月22日

 2日目の講義では、大陸から古代日本に伝わった仏教の変化が説明される。成仏できる身体とできない身体を階層的に区分する既存の仏教は、日本の神憑りの文化と重なる中で、あらゆる身体の包摂を志向するものへと変化した。奈良時代に定着した初期の仏教の姿を現代まで続く「お水取り」に見て取ったのち、講義の後半では、現代まで続く仏教を形作った最澄・空海の2人を紹介する。

 『古事記』『日本書紀』では、女性が神へと変身していくさまが「神憑り」として描かれている。他方、奈良時代に大陸から伝わった大乗仏教は、あらゆるものの母体としての「法身」を措定し、法身からさまざまな報いを受けてさまざまな身体が生じるとの教えを説いていた。一切は阿弥陀如来から生み出され、それゆえにまた、あらゆるものは阿弥陀如来の一部を共有している。この大陸由来の仏教は、極楽浄土の世界と人間の世界を対立的なものとしたため、いかにして両者を架橋するかが問題となった。この時、仏の世界への到達可能性で身体が区分された。例えば、女性はそのままの身体では極楽浄土にたどり着くことができず、一度男性に生まれ変わる必要があるとされたのである。
 しかし、このような教えは日本に伝わるなかで変化した。奈良時代に仏教が伝わった後、最初に定着したのは、身体を自由自在に変化させることであらゆる人々を救う菩薩や、十一面観音への信仰であった。これらの菩薩や観音は、むしろ中性的、女性的な姿で仏像になっている。講義では、この十一面観音像への信仰が現在まで続いているものとして、東大寺の「お水取り」という儀式が映像資料として提供された。
 続いて、奈良時代に日本に定着した信仰を基盤としながら、現代にまで続く仏教を形作った最澄と空海が紹介される。最澄は法華経の読解を通じて、どんな事物であれ、その身体のまま、輪廻転生を繰り返すことなく成仏できると説いた。ここには、動物であると同時に植物、鉱物でもあるような存在である「まれびと」に近い教えが見られる。空海は、世界の中心には仏にして光が存在し、あらゆる事物はその光のさまざまな在り方を表現しているのだと考えた。この世界観を表現したものが4つの曼陀羅であり、この曼陀羅を見、言葉にし、身体で感じることによって、私たちは世界そのものである法身と一体になることが可能だというのである。空海は、我々は如来にも、またそれと表裏一体の鬼にもなることができると説く。その教えは、やがて能や歌舞伎といった日本の伝統芸能を形作ることになった。

 最後に安藤教授は、講義を通じて日本列島の文化の在り方、その原型を伝えたかったと述べた。この原型は日本列島で生まれたものではなく、中国や、シルクロードのその先にも由来を持ちつつ、その土地に根付いたものと一つに重なり合ってきた。つながりながらも変容していく文化や芸術表現を考えるきっかけにしてほしい、と。このように考えるとき、実は私たちは、ある文化に純粋な「起源」を見出す考え方(それは、純粋な起源をもつ物に対する「異物」を措定することにもつながっていくだろう)を修正することを余儀なくされるのではないだろうか。「日本」という近代的な領土の境界、南と北における狩猟採取の文化は、むしろ「日本」を小さな島の集合として、アジア圏の中に位置づけられる連続的な列島とみる観点を与えてくれる。祝祭を、「原型」を考えることは、絶対的な起源を確定しようとする試みではないからこそ、遠い過去と遠い未来をつなぐ創造の原理をもたらしうる営為たりうるのではないかと考えた。

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 本講義の通訳も、他の講義と同様に、南京大学の日本語学科の学生である 吉莉氏、肖慧文氏、张熠琳氏の三名が担当してくださった。三名とも事前知識の学習や訳語の確認に余念なく、授業の前後に打ち合わせをするなど教授と緊密なコミュニケーションをとったり、授業の合間の休憩時間には参考資料を翻訳しながら音読したりする姿がとても印象的だった。講義に不可欠な仕事を丹念にやり遂げていただいたことに、感謝を述べたい。(文責:TA藤田)

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