ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第3回 03月08日 原 和之

精神分析における主体の変容

2012年3月8日・3月9日

「なにかがうまくゆか ない。変わりたい。でも変われない。」
私たちが日常に出会う悩みは、しばしばこういった表現をとる。しかしそのとき変わるのは何なのか。それはどのようにして変わるのか。精神分析は、ヒステ リーをはじめとする精神疾患の治療を考えるなかで、この問いに「欲望」という概念をもって答えようとする。本講義では、精神分析の創 始者ジグムント・フロイトと、フランスで精神分析に独自の展開を与えたジャック・ラカンの議論を参照しながら、「変わる」ということ が精神分析においてどのように捉えられているかを検討してゆく。

講師紹介

原 和之
東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻多元世界解析講座准教授。 東京大学から同大学院で地域文化研究(フランス)。パリ第一大学、パリ第四大学で哲学を修める。パリ第四大学博士(哲学史)。電気通信大学 専任講師・助 教授を経て、2004年4月より東京大学大学院総合文化研究科助教授(准教授) (地域文化研究専攻)。著書に『ラカン 哲学空間のエクソダス』(講談社)など。
授業風景

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学生の声

集中講義の内容についてですが、講義は脳科学・宗教・文学などの分野にわたって行われていました。面白くて非常に視野を 広げたが、日本語学部の私にとってはやはりちょっと難しかったのです。特に同時通訳を担当した時は、自分にとって新たな知識ばっかりなので、ハードでし た。でも同時通訳のおかげであるといってもいいのだが、原和之先生の「精神分析における主体の変容」の通訳を担当して、事前準備のためのいろいろ資料を調 べたり読んだりしたので、本当に精神分析とヒステリーに興味を持つようになりました。

(南京大学4年生の感想より抜粋)

「精神分析における主体の変容」の講義では、先生がフロイトの考え方について紹介してくださいました。フロイトは治癒体験から遡ってヒステリー症状の原因を考えていました。病からの治癒というのは、「悩み」からの解放であり、「私」に訪れた望ましい変容である、と言うことができるでしょう。これは一般にあらゆる病についていえることではありますが、ヒステリーに特徴的なのは、その発病と治癒が、ある一定の欲望との関わりで考えられています。これは非常に面白い考えだと思います。病から治るというのは、まさに「変容」の欲望と関わるのは前はどうしても考えられないことです。

(南京大学修士1年生の感想より抜粋)

コメント(最新2件 / 2)

mare    reply

3月8日分

(理解のし方が間違っていることを恐れずに書くならば)原先生は、「欲望」を、今の「私」を変えたいと思うことと、「悩み」を、変えたいのに変えることができない無力な「私」を感じることと定義され、ご講義の出発点とされました。

学生討論のテーマであった「どんな悩みを持っているか」という問いに対し、私たちは“悩み”という語と“不安”とをあまり区別せずに答えてしまったように感じます。
しかし、私たちの“悩み”の多くが「選択」に関するものだったことは注目すべきで、どちらかの(あるいは、どれかの)選択肢を採ってしまったら、他の選択肢は「捨てる」必要があり、後から(変えたいと思っても)他の「私」に変えることができない、という意味では、討論で指摘された、「悩み」と「選択」は不可分である、という点と原先生の定義とは矛盾しないと思います。

また、「選択」が「悩み」になるのは、「選択」に(あるいは人生に?)「正解」あるいは「理想像」があると考えるからだ、ということも言われました。

一方で、私が「悩みはない」と答えてしまったのは、なるほど、「正解」などない、と考えていたからに他ならず、どちらの(あるいは、どの)選択肢を採ったとしても、その先に(未知の)世界が広がる、あるいは道は拓けると考えているので、私にとって「選択」は重要ではなかったのです。
「悩み」を持っていないということは、あるいは「欲望」を持っていないとも言えるかもしれませんが、それも、やはり私の考え方を上手く説明してくれます。

原先生のご講義はまだ出発点に立たれたばかりですが、既に(文字通り)精神分析をされたようなで印象で、面白かったです。

Ohsawa    reply

悩みとは何か?といった問いから、それを解決しようと試みる「私」=主体とは何か?そして悩みを解決する時に「私」がどのように変容するのか?ということを、精神分析学の観点から考察を与えていた先生の講義は、とても興味深かったです。

フロイトのトラウマになるために必要な条件や、そのトラウマがさらにトラウマを生む連鎖が起こることが、ヒステリーの原因であるといった考察も的を射ていると思いました。ただ、父母に対する愛情へのトラウマ的契機は、全ての人に共通しており、その後に大きく影響すると言った考えから、「全ての愛は反復である」といったフロイトの言葉に少し疑問を感じました(私の解釈が間違っていたらすみません)。
というのも愛には、異性に対する愛から隣人愛などいろいろな愛があると思うからです。例えば、小さな赤ちゃんや子供たちを見て可愛いと思う愛情は、必ずしも父母に対する愛情のトラウマから来ているものではないような気がしてしまうのです。それはもしかしたら私達人間という種を残すといった生物学的な愛かもしれません。性善説によれば、人間に生まれつき備わっている愛情なのかもしれません。

また、フロイトやシャルコーは、ヒステリーの治療からヒステリーの原因を考えていたと思うのですが、ヒステリーが治ったとはどのような状態をさすのでしょうか?その状態によって、考えられうる原因が異なってしまうのでは?と思いました。
また、ヒステリー(今は躁鬱状態という?)の原因(身体に起因する以外の)が本当に分かれば、ヒステリーを治すことができるのでしょうか?また、それらの原因が今までの経験に基づくもので、複数の原因があった場合、それらを1つずつ解消できたことをヒステリー症状の軽減などによって調べることはできるのでしょうか。さらにヒステリー症状の治癒以外でこれらを調べることは行われているのでしょうか?

今回の講義と南京大生との討論の中では、日中間での差や様々な意見を聞くことで自分の考えが変わる、変容していることをリアルタイムに実感でき、とても楽しかったです。今回は時間が足りず聞けなかったラカンについても今度ぜひ聞きたいです。
ありがとうございました。

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