ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第5回 10月24日 井坂理穂

何を食べるか、食べないか―近現代インドの食をめぐる議論―

今日、あなたは何を食べたでしょうか?何をどのように食べるかという選択は、個人の好みを反映するばかりでなく、個人を取り巻く社会で広く共有されている規範や認識からも影響を受けています。こうした食をめぐる規範や認識は、固定的なものではなく、それぞれの時代の政治・経済・社会的変化のなかで新たな解釈を加えられたり、再構築されたりしてきました。この授業では近現代インドに焦点をあて、異なる階層や立場の人々を取り上げながら、彼らの食をめぐる議論、模索、葛藤、対立の事例をみていきます。イギリス植民地期に、食のあり方をめぐってどのような議論が起こっていたのか、そこに宗教やカーストへの帰属意識はどのように絡み合っていたのか、ナショナリズムの台頭は食のあり方にいかなる影響を与えたのか、近年の経済成長や政治変動のなかで食をめぐる議論はどのように変化したのか、などを検討します。そのうえで、今度は私たち自身の食の選択を振り返り、その選択の背景に何があるのか、その選択は何を意味するのかを考える手がかりがつかめればと思っています。

講師紹介
井坂理穂
総合文化研究科・准教授。専門はインド近現代史。主に19‐20世紀のさまざまな社会事象や社会運動。とりわけ、言語、宗教、カースト、階級、ジェンダーなどの多様なアイデンティティが異なる場面でどのように表出され、それらが互いにどのようにかかわりあっているのかについて研究している。
授業風景

個人的嗜好や宗教上・健康上の理由に至るまで、食の選択はアイデンティティに直結する。そして共食は、共同体の連帯意識を高めるのに重要な役割を果たす。しかしそれは、ポジティブにのみ捉えられることだろうか。食が差別・抑圧に加担することが、あるのではないか? 総合文化研究科の井坂理穂先生を招いて行われた2018年10月24日の学術フロンティア講義は、そのような切り口から近現代のインド――ヒンドゥー教徒が多数を占め、牛肉を食べない、菜食主義者が多いというイメージのある国――を眺めてみるものだった。

現在推定13億もの人口を抱えるインドが多民族・多言語・多宗教の国であることは周知の事実だが、当地の食もまた多様である。それは食材・調理法の差にとどまらず、食の規範や選択にも言えることである――前段落で言及したイメージも、実状を反映したものとは必ずしもいえず、地域や宗教、カーストやトライブ、ジェンダーによって(牛)肉食や菜食主義の傾向には差がある。その差の背景は様々だが、いずれにせよインドには様々な次元で食習慣を異にする人々が隣り合って生活している。そして当地では非菜食主義者(ノンベジ)に対する差別、食をめぐる暴力事件も報じられているが、これらのように食習慣の違いが対立・抑圧を招く場合はどう考えればよいのか? どうすれば、「他者の食文化を尊重する」ということになるのだろうか?

「インド建国の父」ガーンディーも、インドの食をめぐる議論上興味深いひとりとして紹介された。彼の葛藤の詳細は割愛するが、英国による植民地支配、国内でのヒンドゥーとムスリムの対立(ムスリムによる牛屠畜を非難し、牝牛保護運動を展開するヒンドゥーの勢力も存在した)という社会情勢の中、彼自身は菜食を主体的に選択し、一方で宗教のためではなく、農業のために牛が有益だとの理由で牝牛を守ることを提唱したのだった。現インド憲法も、牛の保護に関して(それを求める勢力に妥協しつつ)ガーンディーの考えを引き継いでいるが、既述の通り、近年それでおさまらなくなっているケースが出てきている。インドの現状は、食習慣を異にする人々と共存するとはどういうことか、民主主義とは何かという問題を、突き付けてくるといえる。

機内特別食の話から始まり、やがて民主主義のジレンマへと至る講義は、異文化理解という「言うは易く行うは難し」の典型のような営みに直結するものだった。捕鯨問題等を抱える日本も、他人事ではない。講義が「(明確な答えを示すことなく)クエスチョンをたくさんつけただけで終わったかもしれない」とは井坂先生本人の弁であるが、そもそも答えの見えない問いにぶつかっていくのが学問的営為だ。暴力事件の顛末やそれに対して表明された様々な意見・行動に対し、それぞれ学生ごとに考えるところがあったはずだ。民主主義の原理と文化相対主義とは、かく対立せねばならないものなのか。表面化した対立を、文化の相違という点以外から考えてみることはできないか。提示された問題について様々に問いを立てながら、あがき続けてみたい。

(文・永嶋)

コメント(最新2件 / 35)

tomoko0422    reply

日本は人種も宗教も他国と比べて多様性に富んでいるとは言えないし、食べ物についての文化的宗教的こだわりを持つ人も少数派なので、今回の講義でインドの話を聞いて衝撃を受けました。「自分の食べるものを選択する」自由が認められるかどうかが真剣に議論されていて、食べるといういわば生きることの根幹が差別意識・排他意識の元凶になるということは考えもつかなかったからです。同じ宗教でもコミュ二ティによってベジタリアンの多寡があるというのも、女性の方がベジタリアンが多いという結果から現代インドのジェンダー論が紐解けるかもしれないというのもとても面白かったです。私が今回の講義で最も驚いたのは、ダードリーの事件についての話です。食べ物が原因でリンチを受けたというそれ自体もショッキングな出来事だと思いますが、被害者が非難され、リンチされてもしょうがないかのような世論が成り立っているというのもショッキングでした。私の感覚からすると、「民主主義では他人を傷つけない限り自由が保証される」から人を殺してはならない、という帰結に至るのですが、授業で挙がったハリアナ州首相はそうであるからムスリムは牛をたべてはならないという結論をだし、それがまかり通っていたことが驚きでした。私のなかでは、宗教感情と生命との法益侵害なら断然生命の法益侵害の方が強いし、宗教感情は害されてもそれは人それぞれの考え方によるもので、特別に身体を傷つけられているわけでもないという結論に達しています。しかしそれは私が特に宗教を持たないあるいは重要視していないからではないかとも気づきました。そうすると私もまた、宗教を大事にする人も世の中にはいるという多様性を認めていないことになるのではないか?とも考えました。

yokamoto9858    reply

植民地化などのみでなくナショナリズムの台頭が食生活の選択に影響を与えるということは日本の食生活の歴史のみを考えると実感し難いことだがインドを例に考えてみると食生活の選択がナショナリズムと結びついたことなのだと実感し興味深かかった。

m0e0g    reply

ベジタリアン表示の義務などはまだ需要が多いから妥当とは思えるが、ベジタリアンじゃないから部屋を貸さなかったり、肉の屠畜を禁止するというように価値観の違いに対する不寛容さが他人の食文化を制限しているのは残念な話だと思いました。日本ではそんなに他人の食文化に対する不寛容さは思いつかなかったので、宗教観に根ざしている部分が大きいように感じた。ガンディーなどが強くなるために教義に反してまで肉を食べていたという話を聞いて、そうやって教義の融通が効くんだったら他人が肉を食べてるのくらい許してやれそうな気もした。

2754@riben    reply

インドでの宗教をめぐる対立を食という観点から考えることができました。
個人的な考えを書くと、僕の中では、信仰の自由は、宗教行為が個人内で完結する行為、つまり、他人が自らと異なる宗教を信仰していて、その人が自らの信仰では禁忌とされている行為をしてもそれが自らの信仰を損なうわけではないという認識をみなが共有するものだと思っていたので、インドでは信仰の自由は成し遂げられていないように(当たり前ではあるのですが)おもいました。。
しかし、日本でも同調圧力は(殺人は身体的に攻撃するという形ではないにせよ)存在していて、結局、個人の信仰、あるいはもっと一般的に、思考・行動の”完璧な”自由(他者からの独立)はどの社会において成し遂げられえないものなのではないかと思わされます。

京増顕文    reply

近代インドでは、宗教が食に多大な影響があるということがわかった。
ヒンディー教徒やイスラム教徒の他にヤジディ教徒の食事のルールがより厳格なことが知れて、知見が広がった。
また、カーストによっても食の構成が違うというのも印象深く、不可触民と呼ばれてきた存在は、もしかしたら肉食、特に牛肉食を貧しい故してしまったからということなのかと思った。

ayane0212    reply

今回はインドに関する食ということで,インドにおける食への考え方がどのように文化や歴史と関わりあってきたのかについて深く知ることができました。「ムスリムが豚肉を食べない」など食のタブーを大雑把には理解していたつもりでいても,このようにある国の食に対する扱い方の変遷を詳しく調べようとは思ったことがなかったのでとても興味深かったです。植民地時代における食に関する議論,その中を生きたガンディーのお話では,カーストやイギリスによる影響が社会,食生活に大きな変化をもたらし,そのうちでガンディーは自ら菜食主義を選んでいく流れが印象に残りました。自分の住む日本では,
少なくとも私の人生のうちでは食スタイルの選択にあまり意識的になって来なかったので,全く新しい価値観を提示された様な気がしました。

becky828    reply

現在のグローバル化に伴って世界各国から様々な食品が流通しており多様な食事を楽しめる反面で、食事は文化の象徴でもあり文化や宗教の衝突を招く原因にもなっていることを改めて知りました。機内食でハラール表示がなされていてもやはりすべての食文化やタブーには対応不可能であるため、内容物の食品表示を義務付けるとともに、世界的に文化及び宗教の違いについて寛容でいられる態度を教育などで多文化の認識を共有することで作り上げていく姿勢がより一層必要なのだと思いました。

tomii1227    reply

インドでは未だにカースト制の名残が残っており、それは今なお人々の食生活に影響を与えていることを知り衝撃だった。地域、宗教コミュニティ、ジェンダー、カーストにより肉食・菜食が分かれてしまう。また、いわゆる過激派のような人は他人が肉を食べたからと言ってその人を排除してしまう痛ましい事件も紹介された。また、政府や州などの行政機関も牛の保護に関した法制度の方針に揺れている。改めて、自分が普段何気なく食べているものは自らのアイデンティティーを示すと再認識した。それを他人に強要したりせずに多様性を認めることで社会の亀裂は防げるのではないだろうか。

Umay9002    reply

食に関する浄・不浄の話で、社会的序列が相対的に低い者から食べ物を受け取ることができないことを、小説の一場面を紹介しつつ説明されていたのが分かり易かった。また、「牛肉を食べた可能性がある」という理由で私刑を受けたのみならず裁判にもかけられたという事例を今回の授業で初めて知り、自分の知識不足を痛感するとともに、現代におけるインドの文化・社会的な問題の根深さが食を通じて垣間見えた気がした。

ilovefood2    reply

「食」というものを歴史・文化的切り口から考えるというのが興味深かったです。ヒンデゥー教やカースト制度、対イギリス独立運動、近年の経済発展などといった様々な事象が食文化に影響を与え、今日の食文化が形成されてきたということがよくわかりました。「食文化」という言葉が表す通り、食とはその国その国の事情が表出したものなのだと感じました。

hoku125    reply

 導入の飛行機の機内特別食のお話から、世界には様々な特徴のある食生活を送っている人がいるということを知った。中でも井坂先生のご専門のインドでは、肉や卵、魚といった動物性たんぱく質に加えて根菜類も食べないという菜食主義を実践しているジャイナ教徒や、牝牛を神聖な動物とみなして牛肉を食べないヒンドゥー教徒、ヒンドゥー教徒の中でも菜食か肉食かなど、非常に複雑な食文化が形成されているというお話だった。特に、牛肉食に関する争いは根深く、人が亡くなる事態にまで発展しているということだが、人の命を支えるべき食をめぐって(しかもそれが、食料が足りないがゆえに奪い合いの争いが起きるというのではなく、自分の信条と相手の信条とが違うがためにその差異をめぐって)争いが起き、人命が失われるというのは何ともやりきれない話だと思う。インドでは、ベジタリアンのためのマックのメニューがあり、食の多様性が認められてきている反面、ベジタリアンではないからという理由で家を借りられないといった事態も起こっているそうだ。カースト制度やそれと密接に関連している浄・不浄の概念が社会に浸透しているので、事態を改善するのは易しくはなさそうだ。日本人からするとなかなか理解しがたい行動をとっているように思われるが、彼らには彼らなりの論理があり正義があるのだろう。
 食は、その人の暮らす社会がどのような状況に置かれているのかを如実に映し出す鏡のようなものだと感じる。例えば井坂先生のお話にあったように、キリスト教に改宗した不可触民の人々が生活するある集落では、10年前と今とで牛肉食に対する姿勢が変化したそうだ。かつては、自分たち不可触民を見下してきた上層階級の人々への対抗心や、自分たちのアイデンティティ確立のために積極的に牛肉を食べてきた彼らだが、最近は健康志向や対抗心の弱まり、社会的に牛肉食への弾圧が激しくなってきていることなどから牛肉食に以前ほど積極的でない人が増えているという。日本でも、明治維新の後に牛肉を食べることで西欧に追いつこうという取り組みが起こったことがあるそうだ。食事は、私たちの血や肉となって文字通り私たちの生命を支えているだけでなく、私たちが社会の中でどう生きるか、私たち一人一人の“個性”を表現する媒体の一つでもあるのだと考える。この世界の中に存在する様々な“個性”をお互いに尊重するために、異なるコミュニティ間での食事の共有など、お互いの食について知見を深める機会を持てたら面白いのではないかと思う。
 
 井坂先生に質問です。先生がインドに興味をお持ちになったきっかけや、今まで研究を続けてこられた動機などはありますか。また、インドでのフィールドワークを行う際に気を付けていらっしゃることなどはありますか。(相手のカーストによって、どのように接するべきなのかが変わってくるのでしょうか。)以上二点、お答えいただけましたら幸いです。

s100horn    reply

1つのインドという国の中でも食に対する姿勢が大きく違うところがあって驚きました。ヒンドゥー教徒はベジタリアンが多そうなイメージでしたが、ヒンドゥー教徒の下の階級の人々は13%ほどしかベジタリアンがいなくて、65%がベジタリアンである上流階級のイメージばかりが広まっていたんだなとわかりました。肉食については、最初は支配者を打ち負かす力をつけようとして始めたという話が印象的でした。また、考え方は状況によって変化しているということもわかり、皆が自分の好きなものを気兼ねなく食べられる社会になればいいなと思いました。

rika0817    reply

インドは多文化社会であるという認識はあったが、食のあり方一つにしても、やはり多様で、一般的なイメージでは語れない点が多かった。
食べるということが自他にとって、選択・解釈の対象となること。なんでも食べるというのも一つの立場という発想がなかったので、今回の講義で私の「なんでも食べます。大した好き嫌いはありません。」というのがスタンダードではないと相対化された。

okayu0523    reply

現代インドの人々の食の選択はもっぱら彼らの伝統的規範により規定されていることが多い。しかしながら、一方でわれわれ現代日本人の食の選択は何によって規定されているのだろうか。とりわけ自分と同じような境遇にある一般的な大学生の食の選択を考えてみたい。
大学生(ここでは親元を離れ一人暮らしをしている学生を想定する)の食の選択を規定する要因は大きく2つあるだろう。一つは経済的要因である。大学生の収入源はごく限られている。大きく分けて3つ、ルバイト、親の仕送り、そして奨学金がある。それぞれ大きな額にはならないことを考えれば、大学生の一ヶ月あたりの食費の上限は多くても3万円ほどであろう。この3万円も1日あたりで考えれば千円にしかならない。大学生協の食堂で1食を食べると大体500円くらいの額に落ち着く。しかし、ここで500円使ってしまうと残り2食を500円以内で収めなければならない。金銭的障壁があるために、必然的に食の選択の幅は狭められる。
しかし、経済的要因に加えて何より大学生を拘束するのは時間的要因であろう。一般的に大学生は暇なように思われるが、一人暮らしをする学生は勉強に加えて炊事洗濯掃除、その他諸々の以前までは家族が肩代わりしていた家事を自分でこなさなくてはならない。したがって当然ながら時間的な制約を各方面で受ける。そのため、食の選択という話になれば、より時間のかからない選択肢を選びがちになる。自分で作る手間を惜しむと外食屋ファストフード、加工食品、冷凍食品の需要が高まっていく。しかしながら、これらは未加工の食品に比べて値が張ることが多い。なぜなら、加工してある分より手間が生じているからである。
ここで上記の2つの要因が互いに衝突し合う。お金がないから自炊を試みるも、時間的制約を受けて満足に食に時間をかけることができない。だから外食しようとする。しかし今度は経済的な障壁に直面する。一大学生の食の選択というのはひどく制限されていると言って良いだろう。

taku98    reply

インドで牛が神聖な動物とされているのは知っていたが、それを巡ってヒンドゥー教徒とその他の宗教の信者の間に対立があるとは知らなかった。菜食主義や、牛を食べることを禁じる教えは、ただその人が守って自分で満足するだけならいいが、他者に押し付けるのは問題だ。「食べない権利」や「食べる権利」は存在するかもしれないが、「食べさせない権利」はないと思う。日本にも、近隣の国で犬が食べられていることを問題視する人がいるので、今回の講義のテーマは他人事でないと感じた。

akanexwx    reply

以前は食が人々を束ねる役割についてしか考えたことがなかったので、食が人々を隔てるという考え方は新鮮であった。そういわれてみれば、食べているものや食の習慣でその人が大体どこ出身なのかわかるのも食が持つ人々を隔てる効果なのだと気づいた。

nas123    reply

ヒンドゥー教徒は牛を絶対に食べない人たちと、単純に一般化していていたが、実際には食べている人もいたり複雑だということを知った。ステータスが下がるにつれて牛肉を食べる割合が上がっていくというのも興味深い。ベジタリアンに関しては反対に割合が下がっていくということ、男女においても差が出るということをはじめて知って面白く感じた。また、その複雑さや、イスラム教やヒンドゥー教といったインドの宗教の多様さから、食を巡った議論の複雑さも招いているのだということも知った。授業のはじめに出た機内食の話題でも、思い込みによる食事の提供の回避や、さらなるメニューの細分化、柔軟なメニューの変更の必要性があるのだということを改めて感じる。今回の授業を通じて、イスラム教世界における飲酒など、ほかの宗教の事情についても興味が湧いた。

Keisuke1014    reply

日本にいるとあまり感じないことだが、インドのように多様な文化だと、食のスタイルにも多様性が出てきて中には対立するものも存在するのだということがわかった。特に、ノンベジタリアンの人が家を貸してもらえないなどの差別の被害に遭っていると言う事は衝撃だった。私を含め、多くの日本人は基本的には人の目を気にする事なく自分の好きな食べ物をお店で注文したり、自分で食材を買って作ったり、ということができているのだろう。だからこそ自由に食事をすることでマイノリティーになり差別を受けてしまう、あるいはそのような差別をされることを恐れて自由に食事をすることができないということの辛さは想像を絶するものだと思う。インドにおける非ヒンディーの人たちが牛肉を食べられないという問題は大きなものだが、ヒンドゥー教徒の人たちにしてみても、自分が幼い頃から神の遣いとして信仰してきた存在が殺され、食べられてしまうのは我慢ならないことであろう。このパラドキシカルな問題が事態を複雑にしていることは間違いなく、簡単に解決できる問題でもないだろう。大切なことは、多数派のヒンドゥー教徒の願望だからといって多数決原理に従って事態を安直かつ暴力的に収集させるのではなく、双方の現実的な妥協と合意を導くことだと感じた。

iwa1023    reply

今回の授業では、食べるということが、信仰や社会的地位の表明になっていると聞き、インドと日本は全く異なっていると感じた。

日本では、様々な信仰はあるかもしれないが、違ったものを食べても、せいぜい値段が異なっているくらいで、それを食べることはどれだけお金を持っているか等を示すに過ぎないと思われる。だが、インドでは、食事が、宗教の所属などが露骨に現れている。

日本とインドでは両方とも多様性があるだろうが、その内部で自分たちの違いをどれだけ示しているかという点で、多様性の方向性的なものが違うと感じた。

bnk258gi    reply

インドにおいて不浄とされる食べ物があることは知っていたが、調理法によっても浄性が規定されているというのは初耳で興味深かった。魚や肉が不浄なものとされているのはなんとなく理解できたが、きのこが最も不浄なものの一群にいれられているというのは少し不思議だった。また、宗教や地域ごとの肉食・菜食のデータが非常に興味深く、今までなんとなくで持っていた知識がきちんと数字で示されてクリアになったのでよかった。

daiki7141    reply

前回の仏教と食に関する講義も踏まえて、今回の講義で食がいかに人々の帰属している文化に影響を受けているかを考えさせられました。日本は他のアジア諸国と比較すると宗教色が弱く、食の選択肢も多様であるため、インドにおける食の事例は容易に想像することはできませんでした。実際に、私自身の家族の食事を考えてみると、アメリカで暮らしたことがある影響からか、赤身の肉を好み、またあらゆる料理で濃い味付けをしていることが多い気がします。両親の味覚がどのようにしてアメリカ人好みのものに適応してしまったのか、気になるところです。

Gooner0919    reply

前回の授業に引き続き、宗教と食についての話がメインで、今回は特に菜食主義についてお話を伺えて、より理解が深まりました。互いを尊重する方法について今後も模索する必要性を感じました。

naga2018    reply

前週の上座部仏教に続き、宗教によって規定される食の話題であったが、インドにおいて多数派を占めるヒンドゥー教徒を中心に多様なコミュニティにおける菜食の割合など細かな実情をデータを交えて学べたのが良かった。また、牛肉食をめぐってヒンドゥー・ナショナリズム勢力の影が見えたり、それに対してマイノリティの存在を主張する人々が運動を起こすなど、様々な問題が顕在してきているのが興味深いとともに深刻な状況であるなと感じた。

watson920    reply

講義を受けて、宗教や歴史的対立の背景にさえ、「食」というものは深くかかわっているのだということを強く感じた。このことは人間が人間である限り、つまり食事を根幹に置く存在である限り続くだろうし、これが人間の差別意識や排他意識につながることを授業を通して再認識できた。特に今回、非常に多様な宗教・民族を内包し複雑化した社会であるインドを例に取り上げて解説していただいたことで、「食事」が人々の意識において重要な側面を持つということをよりリアリティをもって捉えられたように思う。

fuya0469    reply

食の序列という考え方が浄性・不浄性という価値観に基づいて構成されるという内容がとても興味深かったです。また、グローバル化が進展する今日において、他文化圏の人々との食習慣の違いをどのように考え、異なる食習慣をどのように尊重していくべきかということの重要性を確認することができました。

haruki411    reply

授業冒頭で提示された4枚の写真(恐らく機内食?)から、インドには多様な食文化があることを再認識し、その後様々なエピソードやデータを通して、宗派や階層(カースト内も含む)ごとの、「食」の在り方をめぐる価値観の相違や対立を垣間見られた。とりわけ、シク教徒やジャイナ教徒、キリスト教徒といったマイノリティの信者に関しても、詳細なデータが得られていることや、ヒンズー教とイスラーム、ひいてはインドとパキスタンの対立が、1920年代以降高揚した独立運動の過程で、食生活に欠かせない肉を一つの軸として展開されてきたのは、インドの歴史や文化を考えるうえで、新たな視座となるであろう。
 そして、かかる「食」をめぐる対立が今もなお続いているところに、多様性・開放性を志向しつつも、未だ従来の因習から脱却できずにいるインド社会の実情を端的に示しているのではないかという思いに至った。

lily14    reply

前回と同じ宗教と食の問題かと思いきや、その内容は異なっていた。
前回は、ミャンマーの仏教修行僧が布施というシステムに制約を受けているが布施というスタイルゆえに食べるものに特に制約はない、ということだった。一方今回は、インドの食において、その人の属する身分や宗教によって食べるものに規範がある、ということだった。多様で重層的なアイデンティティが、食べるものにも影響を与える、という視点が私にとってはやや新鮮だった。

toriimo0817    reply

最後のインドの州知事の発言が最も印象的でした。インドは中国に次いで多くの人口を抱えているため、ムスリムが人口の1割強くらいとはいえ、人数は相当なものになるというのは、高校地理で習いました。しかしヒンドゥー教徒が神聖なものとする牛を食べるムスリムに対して、これほどまでに弾圧があることは知りませんでした。
例の州知事の発言の中に"Muslims can continue to live in this country,but they will have to give up eating beaf." という部分がありました。これほどまでに少数派の宗教の文化への理解を示そうとしない発言はあるかと感じました。「民主主義には自由があるが、同時に限界もある」「牛肉を食べなくても、ムスリムでなくなることにはならない」というのが多数派側の州知事の主張でしたが、たしかに牛肉食がムスリムのアイデンティティではないにせよ、ヒンドゥー教側の教義を一方的に押し付けているに他ならないと思います。牛の屠畜を行った者への攻撃をしたヒンドゥー・ナショナリズム勢力が裁かれていないことも、この状況をよく表していると思います。
ヒンドゥー・ナショナリズムに対抗する勢力もあるようですが、政府の側が変わらない限り、インドにおける牛肉食をめぐる対立は解決しないのではと考えます。

yutoun28    reply

昨年夏から今年の夏にかけて3度インドを訪問したため、非常に興味深くお話を聞かせていただきました。インドの場合は特にわかりやすく宗教や伝統が背景にあり個人の食の選考を決定づけていることをより詳しく学ぶことができましたが、無宗教で何にも食の選択を制限されていないと思い込んでいる私も、実際には生まれてからの様々な出来事や環境の影響を全て受けた上で無意識に食の選択を縛られているのだと考えると、インドの場合と私の場合では程度の違いがあるだけなのかもしれないと考えるようになり、非常に面白いと思いました。

take@food30    reply

食と宗教という切り口が面白かった。宗教とまではいかなくとも、他の文化で食べられているものの中に僕らが考えられないようなものが入っているという点で、何かしらの文化なりが僕らの食を規定しているのだろう。逆に言えば、本当になんの文化も持たない生物としてのヒトはほとんどどんなものでも食べることができるのだろう。ニュースなどで取り上げられるような宗教間の摩擦による問題が、実は食のレベルでも起きているということも今まで考えもしなかった事実であった。非常に面白い授業だった。

kensugawar@food2018    reply

普段の講義での「正しい歴史とは」というアプローチと異なった見方で見るインド宗教の近現代史の流れ、非常に面白かったです。インドは世界でも有数の宗教や民族の入り混じった地域であるため食生活の違いが生じるのは当然なのですが、この食の違いが単なる文化的差異といった次元に留まらず宗教対立に結びついてしまっているのが一番大きな問題であると思います。近年の国定教科書問題が代表するようなヒンドゥー・ナショナリズムの盛り上がりとともに、「統一されたインド」を旗印としたインド人ムスリムへの迫害、彼らとの軋轢は一層大きくなっていくのではないかと思います。宗教が結びついている以上、両者の主張が完全に一致することはないとわかっていますが、食に関する部分だけ見ればヒンドゥーもムスリムも豚を不浄とするという共通点において合同できそうなものだと感じます。そのため牛を食べるか否かの差異で争おうとしているのが不思議に見えますが、これは外野の意見というべきものなのでしょうか。また、ヒンドゥーとムスリムの食文化の違いが実際に争いに発展している間、残り6%の他宗教の人々はどういった意見を表明していたのかは大変機になるところです。これらの人々の反応からもインドの国としての一体性が窺い知れるのは面白いところだと思います。
  貧困層の方が牛を食べる人が多いというデータも新鮮でした。宗教よりはその日の自分の暮らしを優先するということなのだろうと私は解釈しました。出典がどこだったか思い出せなくて申し訳ないのですが、インドに限らず、一般的に肥満は貧困層に多く、痩せるという行為は余裕のある富裕層の行為として解釈できるということを見聞きした覚えがあります。そのデータからすると、牛食についても同じことが言えるのではないでしょうか。

mmm2018    reply

今回インドの食文化について、宗教やカースト上の身分によって食の制限を受けているということがわかった。自分はムスリムは牛を食べない、というようなざっくりした知識しか持っていなかったがムスリムの中でも様々な食の形態が混在することを詳細に説明してもらえて良かった。
また食を歴史や経済的な要因から分析するのは面白いと思った。
前回に引き続き改めて異なる食文化に対しての理解を持つことは現代社会で生きる上でとても重要なことだと感じた。

松本剛    reply

この講義の中で一番印象的だったのは、現代においても、インドのムスリムとヒンドゥー教徒が、食に関して未だに凄惨な対立を生んでいるということでした。現代日本において、食を起源に事件が発生することはニュースに少ないと思います(気づいていないだけかもしれませんが)。日本には宗教による食の規制が少ないことは、ラッキーなことで、ほとんどの国では何かしらの規制があるのかもしれないと思いました。他の宗教文化に対して寛容になることで問題は解消に向かうものだと思いますが、宗教は人格の根を握るものであるという点で人種差別よりも複雑な問題だろうと感じました。

rakim1099    reply

殆どの日本人にとって、宗教間の対立やそれに伴う食習慣に関わる対立などは無縁の話ですが、文化が多様でかつそれらを厳格に重んじる人々の多いインドのような国では、そういった対立を緩和するのは喫緊の課題なのでしょう。最適解を見つけるのは困難ですが、互いが互いの信仰心を尊重しつつ、妥協案を模索していくしかないと思います。

担当教員より    reply

いろいろと興味深いコメントをお送りくださり、ありがとうございました。

コメントのなかに、インドに興味をもったきっかけ、今まで研究を続けてきた動機、フィールドワークを行う際に気をつけていること、の3点についてのご質問がありました。興味をもったきっかけは複数あるのですが、大学1年のときのインド旅行もその一つです(なぜこのときにインドに行ったのかについては、話が長くなるので省略します)。地域研究にかかわっている方は、どの地域を対象としていてもみなさんそうかと思いますが、わくわくすることや追いかけてみたいテーマが次々に現れるので、「研究を続ける」という意識もないままに時間があっという間に過ぎていく感じがします。現地調査のときに気をつけていることとしては、周囲をよく観察すること、どの場所に行ったときにも現地で信頼できる方々を見つけて、気になった点はすぐに尋ねること、などでしょうか。食をめぐる慣習ひとつをとっても、地域や家庭、個人によって、あるいはそのときどきの状況によって、様々な考え方や実践があるため、「このコミュニティの食習慣はこういうものである」「これが彼らの食文化だ」といった固定観念をつくってしまわずに、できるだけ多様な側面から柔軟にみていくことが求められるように思います。

なお、細かい点ですが、「ヤジディ教徒」と書かれていた方がいましたが、授業に出てきたのは「ジャイナ教徒」です。また、Chief Ministerの訳語について迷った方がいたかもしれませんが、インドの州には、中央政府(大統領)が任命する「州知事(Governor)」と、州議会の意向を受けて決まる「州首相(Chief Minister)」がいるので、インド政治の概説書ではしばしばこのように両者を訳しわけています。ちなみに、中央にも大統領(President)と首相(Prime Minister)がいますが、政治的権力を有しているのは「首相」のほうです。

もっと見る

コメントする

 
他の授業をみる

Loading...