ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第4回 10月31日 高橋 英海

キリスト教の変容とキリスト教における変容

やや大きめのタイトルを付けてしまいましたが、実際はもう少し小さな話です。今回の講義の前半では中東で生まれたキリスト教が海路を経てインドへ伝わる過程で、そしてシルクロードを経て唐に至る過程でどのように変容していったかを視覚的資料も交えて見ていきたいと思います。後半では福音書で語られるキリス トの「変容」、そのキリストに倣った人間の変容、そして終末における世界の変容について、主に東方キリスト教の伝統の中でどのように語られているかについてお話しするつもりです。

講師紹介

高橋 英海
1965年生。フランクフルト大学博士(Dr. phil., Orientalistik)。専門はシリア学(Syriac Studies, Syrologie)。著書・論文にAristotelian Meteorology in Syriac、“The Mathematical Sciences in Syriac”、“Transcribed Proper Names in Chinese Syriac Christian Documents”、「インド・ケーララ州の「聖トマス・キリスト教徒」」など。シリア語やアラビア語の文献を中心に、古代ギリシアの哲学・自然科学の 中東世界における伝承や、キリスト教とイスラームの関係、シリア・キリスト教のアジアでの伝播などについて研究しています。
授業風景

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コメント(最新2件 / 4)

koco2    reply

キリストの変容の場面はかつて聖書で読んだことがありましたが、その象徴の具体的な読解に触れることでキリスト教の世界観をより細やかに見ることができたように思います。神がキリストとして人に変容したことがキリスト教の中核であるというお話は、自明のことにも関わらず、はっと胸を衝かれた思いです。まだ自然を支配するという近代科学の発想がなかった時代、大いなる「世界」という存在に対し、人はキリストの変容を信仰とすることで、何か「世界」を変容しうる可能性というものを信じようとしていたのではないかと、想像を馳せてしまいました。

mushamusha    reply

宗教が各地で変化して受け入れられるというのはあまり新しいアイデアには思えませんでしたが、中国におけるキリスト肖像画を見たときにはその変容っぷりがおかしいほどでした。共通するのは十字架ぐらいじゃないか(笑)と。でも、キリスト教内部における変容というのは興味深いものがありました。人間は神に近づくことが可能であるとするのは呪術的な東方教会に特徴的だと思われます。宗教は暗示的要素が非常に多いものです。睡眠時における人間の意識低下はこっくりさん(今はエンジェルさんとか言うんでしたっけ)における幻視幻聴に類するものがあると思います。また集団催眠なども考えられます。宗教家には怒られてしまうかもしれませんが、宗教は心の学問である以上ミステリアスな科学を含んでいると言えましょう。いずれにせよ謎の多い部分ですね。人類の暗黒史解き明かしてくれるのはひょっとしたら宗教だったりするのかもしれないですね・・・

You    reply

有意義な講義ありがとうございました。今までの講義(精神分析における主体の変容、自己認知の変容)を通して、変化や変質、ひいては「変容」には大きなエネルギーが必要なのではと感じていたところに、本講義で語られたキリスト教における変容――「主が変容するときに光り輝く」などといった内容から、ここでもまた光=エネルギーのようなものを感じ取り、変容においてそうした要素を考慮に入れることもひとつの手なのではと思います。
またキリスト教ではあらゆる変容を肯定的に捉えているように感じました。死さえ否定的なものと捉えず救済の一環と考えるのは、宗教故に必要なことなのかもしれませんし、或いは宗教とはまた別に普遍的に変容とは肯定も否定もしがたい(分化しがたい)ものなのかもしれません。いずれにせよ思索を深めることが重要なのだと実感しました。

luke    reply

今回の講義でとりわけ印象に残ったのは、東方キリスト教の伝統の中で、「主の変容」という出来事が、受難を予見させるもの、また、キリストの復活と再臨を予見させるものとして意味づけられていることである。なぜなら、これらの解釈は、「人間」(キリストはある一面では「人間」である)の変容が、死と再生を象徴することを明確に示しているからだ。人間は、いつでも変容し、文字通り新たな生を生きる可能性を備えている。これは、キリスト教の文脈を離れて、現代日本を生きる人々にとっても、非常に重要な事実である。


今日では、一般に、人間の精神の劇的な変化・発達は、思春期までで大方完了し、その後の人生は、ある一定のアイデンティティが社会的に実現していく過程であり、アイデンティティそのものに大きな変化は起こらない、と考えられている。そこには、「大人になってしまえば、もはや人格が根本的に変化することはない」「子ども時代に身につけてしまった、思考や行動のクセは、一生消えることがない」といった、ある種の閉塞感がつきまといがちである。


この問題は根深い。一度「大人」になってしまえば、根本的な変容が起こることはないという先入観が、「生涯学習」という言葉を、一生の間にいつでも人生をやり直せることを保証するための制度というよりもむしろ、一定の社会的地位を築いた人が「教養」を身につけるための制度として理解させ、また、犯罪者の更正の可能性に対する懐疑と、死刑制度に対する漠然とした支持を生み出しているように思う。


人間は、いつでも変容し、新たな生を生きる可能性を備えているということ――この事実の重要性に対する認識を共有することが、自分の人生に対するより柔軟な見方や、他者の人生に対するより柔軟な関わり方を生み出すのではないだろうか。さらに、そうした人間の変容可能性への期待が、硬直した行政制度への悲観主義を打破するエネルギーにもなりうるのではないだろうか。


次回以降の講義でも、変容という現象の社会的意義を考察していきたい。
刺激的な講義、ありがとうございました。

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