跳出思维框架

第3回 10月18日

植民地主義のなかの異物?―宗主国人?、先住民?、はたまたアジア系外国人?―

评价内容(最新2件 / 12)

nezumi02    reply

講義がまず「異物」という概念についてから始まったのが印象的でした。第1回・第2回講義は医学に関する講義であったため、そこにおける「異物」の意味は「体外からもたらされ、または体内に発生した、体組織となじまない物質。」(『広辞苑』第7版【異物】②)として明瞭に理解でき、疑問を持つことはありませんでした。しかし人文学の領域では「異物」という言葉は分析用語としてまず使われないという指摘を受け、「異物」という言葉の強烈さについて改めて考える機会を持つことができました。
 講義を受け、植民地主義における「異物」とは何かを再度考えると、すぐに答えを出せる問いではない、というしかありません。先住民と植民地統治を行った宗主国人、また外からやってきたアジア系外国人は、それぞれ相容れない存在で互いに「異物」であるように見えます。しかし社会や民族ははっきりとした境界によって分断されているものではなく、様々な面で融合したり作用しあったりしています。確かに先住民のもとへ存在も知らなかった宗主国の軍隊が攻め入ってきたとき、それは「異物」と言えるように思いますが、人同士・社会同士の様々な関わり合いを考えると、単純に「異物」だと断言できるものはないのだと思います。
 このように考えると、人文学の領域で「異物」というとき、それは客観的・絶対的に異物として存在するのではなく、ある立場から見て「異物」だと見なしているに過ぎないのだと思います。他者や他国を「異物」とみなすことから、差別や紛争は始まっているのかもしれません。人同士に何らかの違いがあるのは当たり前であり、その点では誰もを「異物」と見なすことはできるが、コミュニケーションという手段を持つ限り、相互理解を怠り「異物」と見なして排除してはならない、このことを常に意識することが、人同士や国同士の衝突を防ぐ上で重要なのではないでしょうか。

Ita4048    reply

異物という一つの単語でもいろいろな使われていることが分かり面白かった。異物という言葉を使って人文学を考えるのは有意義だと思った。また、私は理系で歴史や地理について詳しくなかったので、今回の授業で欧米が東南アジアを植民地化していたことや東南アジアが多くの中国人を受け入れていたことを知れてよかった。

achi003    reply

人文科学の分野において「異物」という用語を使うことは適切であるか、という問いはなかなかに難しいものだと感じました。これまでの講義では自らの体に害をなす物質が異物として取り上げられていましたが、人文科学の領域、特に今回の講義の主題である植民地においてこの用語を用いるとなると、「異物」という言葉は普段意識しているよりずっと排他的に響くと感じました。
植民地ということで考えると、やはり後からやってきて先住民たちを虐げた宗主国の人々が「異物」であるように思えますが、国によっては先住民が殲滅され、後入りの人々がその国に定住しているところもあり、そういった人々を異物というのは違和感があるように思います。また授業で取り上げられていた東南アジアの例では、そもそもが色々な国の人々が入り乱れて暮らしていた土地であり、そうした中で「異物」とは一体誰なのか、とは私には答えが出せないと感じました。全体を通して非常に考えさせられる講義でした。

dadasaba2023    reply

誰が異物になりうるのかということや、誰からしたら”異物”であるかということなどを考えさせられました。異物とはそもそも何かということも授業の最初にお話しされていましたが、そこから考えていくことも大切だと思いました。受験で世界史と地理を選択しましたが、もう9割以上忘れてしまったなという感じでしたが、東南アジアや日本のことについて新たに知ることも多くとてもためになったと思います。自分は表現内容にしろ表現方法にしろ高校教科書的なものしか知らないのでアオキクニチカという人の話などには若干の驚きなどもありました。割とネットなどでよく見る差別があったり(色々と勘違いをして現実に持ち出す人もいますが)、そうではなくてもとにかくその場で差別の基準を作り出す人がいたりしますが、色々と悲しいなと思いました。最近は差別は無くならないんだろうと思っています。植民地時代のことなどを何か本で調べたりしたら悲しいことも書かれているのだろうなと思いました。

so6man    reply

異物という言葉は、特に人文学の分野で使うには暴力的だというお話で、異物という言葉自体がどこか正誤判定のような意味合いを含んでいるのだろうなと感じました。
異物を認識する前には必ず変化があって、本来、変化それ自体に善悪はなく、ただ変わっただけであるのに、後々の結果から原因を探す中で突き当たった変化を「異物」と言ってしまうのは、大きな物理的変化を除けば基本的に緩やかに変化していく人間の営み・人間社会を考えるにあたっては不適切ですし、人文学自体の否定になってしまうのではないかなと、個人的に思いました。
ただ、変化点自体を考えることは悪いことでは無く、そこから人々がどのように変わり、どのように適応し、どのように新たな社会を構成していったのか…と、変化点を異物としてではなく内包される一要素として捉えるのが、私個人としては良いのではないかと考えました。

ustubi23    reply

 異物という概念を新しく置き、それを用いて歴史を観察してみることで、複数の集団の移動や接触を新たな形で整理できることは、興味深く感じました。
 その一方で、異物という新たな概念を歴史に対して用いることの難しさも感じました。講義の中で、誰が異物であったのかという問いに説得力のある答えを用意できないケースがあったのも、このことを表していると思います。
 このとき、ある集団が異物であるか否かを判定する基準があればよいですが、そもそも「異物」という概念が免疫学の用語を(この講義のために)比喩的に歴史の分野に移植してきたものであるため、そのようなものが定まっているはずがありません。そこで、それらしく使えそうなものを今ここで考案しようとしても、そこには困難が生じると思います。
 最も単純に考えるなら、医学において自己に対する他者のことを異物と呼ぶように(このことは第1回講義で覆されましたが)、元々その場所にいた民族以外の民族、あるいは集団を、歴史における異物と呼ぶということになるかと思います。しかし、これではオランダ人以前に東南アジアにやってきた民族も全て異物ということになり、講義でも触れられた直感に反します。しかも、このように決めれば、異なる集団の様々な移動、接触の在り方を区別することができず、分析概念として意味を成しません。
 では、その地域に元々暮らしていた集団以外の集団というものを、意味ある形でさらに分類しようとするとき、どのような基準を設定すればよいのでしょうか。1つ考えられるのは、医学において、たとえ非自己であっても、身体にとってよい働きをするものは異物と捉えず、身体に悪い働きをするもののみを異物とする立場があるように、ある地域の外部からやってきた集団のうち、元々その地に暮らしていた集団に悪い影響を与えたもののみを異物とする、というものです。これは、講義の中で非明示的ながら用いられていた基準に近いものだと思います。つまり講義で、東南アジアにやってきた集団のうち、オランダ人以後は土地支配をしたため異物である、それより前は異物とは言えない、などとしたときの基準に近そうだということです。しかし、ここでも、悪い影響とは何かという問題が生じ、これを明確な基準と言うのは難しいと言えます。
 少し考えてみましたが、結論を出すのは中々困難だと感じました。結局は個人の価値判断に委ねられるのだ、と言ってしまえばそれまでですが、異物という概念を用いる面白さも講義で確かに感じたので、さらに色々と考えてみるべきことだと思いました。

k1t0k1t0    reply

前回までと打って変わって文系っぽい内容だった。実際に異物ということばの用法について、具体例を見れば見るほどさまざまでありより興味深く感じた。医学生物学の分野で異物を定義して始めるのではなく、異物という概念を考えるのは新鮮だった。
アジア史についてのお話、非常にわかりやすき説明していただけてありがたく思った。東南アジア、中国、日本などの文化や歴史背景の特徴が明確でおもしろく感じた。
また、植民地支配やそこでの戦争におけるある意味で暗い歴史や問題、排除されたひとびとについても歴史研究を通して捉えられているということ、その暗い部分も含めて歴史を今と比べてみると意味があるというのは非常に共感できるものであったし、歴史研究に対する見方が少し変えることができた。

yamori59    reply

この講義では異物という言葉の辞書的な意味と照らし合わせながら、植民地主義における異物とは何かを常に問われ続けた。先住民からすれば確かに植民地化しようと侵略してきた国は外から来た受け入れがたい異物に映るかもしれない。ただし講義後半のフィリピンにおいてアメリカ人がフィリピン人に教育を与えたという例もあり、押し付けられた形とはいえ恩恵もあったわけで、一概に受け入れがたい異物としてまとめられないと考えられる。医学分野での異物という言葉の使われ方の違いとしては異なる立場の人間がそれぞれ感情を持っているというところだと推察される。ここから異物という白黒はっきりつきすぎてしまう言葉はやはり人間の感情の絡む問題では扱うべきではないのではないかと考えた。

mitsudashinya2    reply

医学・生理学の観点からお話しいただいた前回と前々回の先生方とは打って変わって人文系のお話で興味深く感じるとともに、パレスチナ紛争など身近に感じる問題にも接続された議題に身が引き締まりました。
授業中に先生にいただいたうちのある問いに関連することついて書きたいと思います。異物という語を歴史や社会的な文脈、特に人間に対して使用することの是非についてです。
私の直観にははじめ、身体的なレトリックをそうした文脈に転用することは、構図の単純化という問題こそあれ、そこまで深い問題をはらむとは思いませんでした。その後先生の講義を通じて異物という言葉はかなり問題含みで、転用は適切とは言い難いことは納得しましたが、「国家の頭脳(高度人材など?)」といった表現とはどう性質が異なり、より問題があるのかをもう少し詳しく考えたいと感じました。
前提として、国家と身体のアナロジーはそこまで奇妙なものではないのではないかと考えます。トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』の口絵のように、国家権力のあり方を人体に投影する発想はある程度例示可能です。
その上で、異物という概念が特に問題であるのは、異物という概念の導入が逆転的に同一性の問題を補強し、社会の排他性を強化するからだと考えました。つまり、身体という少なくとも一見その同一性が自明に思える存在を前提に導き出される異物という概念が、国家や社会という実際には均一でも自明でもない概念に投影されるとき、身体と国家/社会のアナロジーを誘発して、結果として後者が同一で自明なもののように感じさせるということです。この授業、学術フロンティア講義のシラバスの授業概要に立ちかえると、「(異物)を社会集団という水準で考えるとすれば、そこではむしろ異物が結果として析出されるような、同質性の形成こそがむしろ問題になる」ことが確かに指摘されていて、この一節はこのコメントにおける議論の、異物から逆流して社会の同一性に至るというプロセスと近い概念を論じたものだと感じます。
もう一つ非常に重要だと感じた、異物の排除の正当化に関する問い、在フィリピンの日系人のアイデンティティの複雑さなど、他にもたくさんのことを考えさせられました。以降の講義や他の授業の内容も踏まえて考え続けたいと思います。ありがとうございました。

otomitl3    reply

ある言葉について考える際に青空文庫での使用例を参照してみるという方法は初めて知るもので、参考になりました。普段は「異物」のような強い価値判断を含んだ言葉は人文学では適切ではなく、使用しないことが望ましいからこそ、あえて何が「異物」だったのかについて考えることで負荷のある問題について考えられるということなのだろうと理解しました。客観的な視点で歴史的事実について考えるだけではあまり考えずに済むような、答えのないあまり考えたくないような、しかしながら当時の人々が実際に経験した問題について「異物」は何だったのか思考実験として考えることで捉えることができ、そしてそれは現在も起こっている諸問題を考える事にもつながる重要なものと理解しました。

tomas69    reply

異物というテーマに対して、その言葉を人文学の分析ワードとして使うことはまずいと思いながらもその言葉のキョーレツさに着目してシュミレーションとして使うのはいいのではという発想が斬新に感じました。異物という概念を植民地主義に結びつけた話を聞いて、自分が社会の異物になってしまうことを想像して少し怖くなりました。

marika0401    reply

医療の分野において異物を定義する際には、最終的に排除して体内を健康な状態にするという共通性があるのに対し、人文学の分野で異物を考えると、そこには多様な排除のあり方との結びつきがあり、必ずしも排除されるものではなかったり、異物の定義やその言葉を使用する意義まで掘り下げる必要がるというのが印象的でした。事実として目の前にある歴史の中で起こった様々な排除のあり方を知り、異物という言葉は人に向けて使っていい言葉ではない一方で、向き合うべき単語だと感じました。現在も特定の属性を持つ人が差別を受けて迫害される事件がたくさんありますが、それぞれの排除が誰によってどのような理由や背景をもって行われているのかを冷静にみつめ、これまで歴史上で起こった排除のあり方と今とで何が変わり、変わっていないのか検討する必要があると思いました。数年後にまた見直させていただきたい貴重な講義をありがとうございました。

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