跳出思维框架

第12回 12月27日

峠三吉『原爆詩集』を読む

评价内容(最新2件 / 11)

shintaro0610    reply

死、改行を巧みに使っている。手書きの草稿を読んでより心に刺さった。自分が普通に読んでいるペースが、改行や点、括弧によって峠の思った通りのリズムになっていると感じる。絶望的な様子が目の前で展開される中で、語り手が意識を失って死んでいく様子がありありと伝わる。原爆文学の筆頭たる所以だと思う。
景観、題の通り死よりも描写がメインで、その一方で修辞的でもある。ニューヨークの中に爆発するヒロシマ、すごくいい表現だった。届くのが声のない炎でしかないのも、すごく嫌な情景だと感じた。
栗原貞子のヒロシマ消去法は、情熱的で怒りに充ちた詩だった。2度目は裏切りというのは、本当に現代に再認識すべき意識だと思う。
峠は言葉を異物にしようとしたと仰っていた。確かに、詩に用いられる様な言葉の中では異質であったし、峠自身の生き方、死に方も異物だと言えるかもしれない。
ガザの戦闘について、はたまた他人の些細な喧嘩について、声のない炎を見るだけになっているとおもう。やはり、私たちは絶対に声を聞こうとする姿勢を崩してはいけない。

nezumi02    reply

 峠三吉の詩を読んで抱いた感想は、形容しがたいです。文字を見ているだけにも関わらず、峠の経験した原爆や峠が見ていた世界が映画を見るよりもリアルに自分のことのように感じられました。私はこれまで原爆文学にはあまり触れてこなかったのですが、こんなに読者を揺さぶる力を持っているのかと驚きました。原子爆弾について、今自分の意見をすらすらと述べることは到底できませんが、経験者が残しているこれらの言葉にまずは向き合い、耳を傾けることが大切であるのに、それさえしてこなかった自分はまさに「飽食の惰眠に忘却する生きている亡者」だと思い知りました。
 原爆について、平和を守るためにとにかく禁止するべき、抑止力のため保持するべき、など様々な議論がありますが、総じて、まず最初に当時の現場の声に十分に耳を傾けたのかと疑問に思います。当時の言葉にしようもない体験・感情が資料だけでなく文学の形で残されていることはとても貴重であり、原爆について議論する際はまずそれらに真摯に向き合う姿勢を欠かしてはならないと感じました。
 貴重な講義を、本当にありがとうございました。

Ita4048    reply

読者が見物人を脱するという考えは面白いと思った。自分が作品を読んだり見たりする時は基本的に見物人だったが、これからの作品への向き合い方を考えさせられた。言葉を被爆させると最初に聞いた時はどういうことかわからなかったが、『死』を読んでなんとなく理解できてよかった。

achi003    reply

峠三吉の『原爆詩集』は、「にんげんをかえせ」の詩句を聞いたことがある程度で今まできちんと読んだことがなかったのですが、一度読んでみるとなぜ先生がこの詩を今回の『異物』というテーマで取り上げたのかが理解できました。まるで実際に原爆投下に居合わせた人の生の心情を写しとっているような詩を、じっくりと言葉を選び、練り直していくことで作り上げた峠三吉の力量を感じました。戦争を知らない私にとっては、今回読んだ詩からも戦争の残酷さや人々の苦しみをひしひしと感じるように思いましたが、それでも峠三吉は自らの力不足を嘆いてたということから、戦争の悲惨さがより伝わってくるように思いました。小説のような繊細な心理描写であったり、映像作品におけるリアルな戦争描写などではなく、意味の通らない日本語表現によって戦争を伝えるというのは、詩という表現方法に特有のものであり、他の表現方法によるものとはまた異なった切実さを感じることができました。

marika0401    reply

『死』の中で読まれた一人の死が衝撃的だった。原爆が落ちた直後に当事者が経験したものは気絶、何が起こったかわからないという混乱、そしてその混乱の中で誰にも自分の心の中を伝えることができないままに一人で死ぬ。死んだ人は何も残せないからこの詩はフィクションになるわけだが、本当にこうして亡くなった人がいるんだろうと思う。今回の授業で初めて気づいたのだが、亡くなった人、つまり一番の当事者が唯一言葉を伝えることができないと言うのはなんてもどかしいことなんだろうと思った。峠さんもそれをわかって亡くなった人の声をどうにか響かせようとしたんだろう。原爆は国内でも海外でも未解決の問題だが、これは風化との戦いだなと思った。死者の声を響かせて当時のことを自分の記憶のように留め、そして今も原爆は落ち続けていることを自分の中で風化させてはならないと思った。

k1t0k1t0    reply

詩というものに久々に触れた。言葉が単なる記録ではなく自分の記憶にまで深く浸透してくる感覚があり、日本語の可能性を再確認する機会となった。
「言葉を被曝させる」という発想は非常に興味深く感じた。原爆詩集では極端に被爆者としての峠三吉氏の言葉が「被曝させられた」かたちで表れているが、我々も言葉に経験や意味を纏わせるということは少なからず行っていると気づいた。被曝させられた言葉を受け取った我々も、現代において言葉をどう受け取るか、だけでなくここからどういった言葉をどういうふうに発するかということをもう少しよく考えていかねばならない立場にあるのではないかと思う。

oku2222    reply

体調不良によりこの講義に出席することが出来ませんでした。配布して頂いた資料を読ませて頂きました。
峠三吉さんの詩は、中学校でも取り上げられ、とても印象に残っていました。
また、言葉を異物とする考え方は今までの公演とはまた違った考え方でなるほどと思いました。最近の能登地震で、私は実際に現地に居たのですが、多くの友達から暖かい言葉をもらうと共に、SNS上では虚偽の情報を流したり、何の配慮もない言葉を目にし、良くも悪くも言葉の力の大きさを感じました。

また機会があれば、お話を伺いたく存じます。

ustubi23    reply

当初、この講義のホームページにあった説明を見て、文学における「異物」というものを、読者に強い印象を与えるために、あえて不自然な表現を使用するという、レトリックの一つのようなものと想像していました。実際に、詩を見ると、通常の文章では見られないような改行の仕方で人が死んでいく様を表現したり、非文法的な言い回しにより読者が詩の解釈を深く考えざるを得ない状況を生んだりといった様子が見て取れ、「異物」としての言葉は、レトリック、つまり言語表現に特殊な効果を与えるものとしての役割を持っているということも確かだと思います。しかし、講義の内容でより印象的だったのは、表現しようとする事態を他人事と思わせないための言葉という、言葉の「異物」の、より根本的な意義でした。既成のものではない、血の通った言葉こそが、「異物」
として受け手の心を波立たせ、現実世界に何事かを起こす、現実世界を活性化させる力を持つのだと、詩の鑑賞を通して強く実感しました。

yamori59    reply

インタビューなどでよく聞くような「今平和でよかったです」という言葉も、詩の作者からすると読者に当事者意識を持たせることができていないという失敗の一つだという話にははっとさせられました。『死』を読んでいるときは、強い言葉と語順の不安定さから心臓のあたりがざわつくような気分がして、これが言葉を被爆させるということかと実感しました。

otomitl3    reply

自分は恥ずかしながらこれまで峠三吉のことは知らなかった、少なくとも覚えてはいなかった、のですが、原爆詩集の序の詩は印象に残っていました。今回読んだ「死」はそれを遥かに超える衝撃でした。「言葉を被曝させる」という、そんなことが可能なのかと俄かに想像もつかない表現がまさにその通りだと思えるものでした。「言語を絶した体験を言語に表すには言語を異常なものにしなくてはならない」ということでしたが、言語は文法のような規則によって情報を伝達するものとは限らず、それを破壊し、投げかける事によって伝えられる、そうしなければ伝えられないものがあるのだという事を思いました。それでも「あとがき」で「あまりに力よわいことを恥じた」と書かれるような体験を、自分がどれほど当事者的に読めたのかは自信がありませんが、今回紹介された詩のどれもから滲み出る怒りのような祈りのような、狂気もあるような力強く湧き出る感情を、決して第三者のことでなく自分と共鳴する感情として持てるような気がし、これが「人間としてふとしたとき自他への思いやりとしてさしのべられざるを得ぬ優しい手の中へのせい一ぱいの贈り物」であるところの詩の言葉なのだと感じました。

mitsudashinya2    reply

大変記憶に残る授業でした。当然、峠三吉の「被爆した」日本語表現にはかなり衝撃を受けました。《死》では、あの特徴的な描写をなんとか咀嚼しようとするうちに、自分自身の認識が一時的に改変されるような感覚がありました。
より詳しく自分の感覚を振り返ると、普段は疑いなく受け入れている、特に文字による言語表現と実際の感覚がある程度固定的に繋がっているという認識が揺らいだように思えます。《死》を読むことでそこにえがかれた壮絶な死の経験の強い現実感が現前しますが、しかし同時に普段自らの経験に結びついているはずの自然言語の表現からは大きく外れている表現を流し込まれているという強烈な乖離が、強い印象を与えたのではないでしょうか。
戦争を現実の問題として受け取るために必要な表現が、現実描写に長けていたり、心情を煽るものであるというよりは、「被爆した」としか言いようのないものであるということに大きな印象を抱きました。
また、先日、ホロコーストの表象と現代アートの関係について興味を持ったところだったので、ある意味近く、しかし私自身が日本人であるという点も含んでやはり異なる問題である原爆とその文学という視点が、何かこれからの思考のもとになるのではないかと感じました。
印象深い講義をありがとうございました。

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