ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい
第6回 11月06日 伊達 聖伸
フランスとケベックにおけるイスラームのヴェール問題
今年は、フランスの公立校で生徒によるイスラームのヴェールの着用が禁止されてから20年、ケベックの学校で教員によるヴェールの着用が禁止されてから5年になります。なぜ、西洋の一部の国や社会ではイスラームのヴェール着用が問題になるのでしょうか。この回では、その歴史的・社会的背景を押さえ、視線の文化の観点から、またヴェールを着用する当事者の戦略を、「装う」という観点から、ヴェール問題にアプローチします。
- 講師紹介
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- 伊達 聖伸
- 東京大学大学院総合文化研究科地域研究専攻フランス小地域教授。専門は宗教学・フランス語圏のライシテ(世俗主義、政教分離)。おもな著作に、『もうひとつのライシテ――ケベックにおける間文化主義と宗教的なものの行方』(岩波書店、2024年)、『ライシテから読む現代フランス――政治と宗教のいま』(岩波新書、2018年)など、本講義と関係の深い訳書として、フランソワ・オスト『ヴェールを被ったアンティゴネー』(小鳥遊書房、2019年)など。
- 授業風景
2024年度学術フロンティア講義第6回では、11月6日に東京大学大学院総合文化研究科で宗教学、とりわけフランス語圏におけるライシテを研究されている伊達聖伸先生をお迎えし、フランスやケベックといった地域においてイスラームのヴェール着用が問題となることや当事者の戦略を、視線の文化、「装う」という観点に注目して講義していただいた。
導入として、伊達先生は直近の事例を提示している。2024年パリ五輪の開会式ではマリー・アントワネットが自らの首を手に歌う場面や、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『最後の晩餐』を模して10人のドラァグクイーンが登場する場面は日本でも話題となり、その演出が賛否両論を呼ぶものであったことは記憶に新しい。ここでは、「装い」は宗教(上記例では、キリスト教)的な批判のためのものであって、ローマ・カトリック教会のローマ教皇庁が開会式演出に対して遺憾を表明する声明を発したことも印象的であった。
そのパリ五輪では、フランス代表の選手はヴェールの着用は禁止されていた。このことは、ライシテの名において正当化されたことであり、宗教実践とみなされるものを規制する性格のものであった。青いキャップを被って競技に参加した、陸上代表のサンカンバ・シラ氏を想起されたい。
また、2023年にアバヤを公立学校にきてくることを禁止する通達が出ている。その際の根拠とは、フランスはライシテの国であり、公的な場で宗教的所属が重要ではないのだから、宗教的表徴を身につけるべきではないということだった。しかし、伊達先生によればアバヤには本来宗教的な意味はなく習慣的なものであり、フランス政府が宗教的な意味を読み取っているに過ぎないという。さらに、2024年秋の新学期にも関連した事件(ヴェール着用をめぐって生徒が教員を平手打ちしたとされるもの)が公立学校で起きており、ヴェールにまつわる問題はフランスにおいて非常な緊張を孕んだものと言えることは疑いがないだろう。
このように事例を見ていると、私たちは、フランスでは伝統的に宗教風刺が激しく、厳格な政教分離が謳われており、このことがイスラーム原理主義や「ヴェールの少女」と対立している、というふうに図式化してヴェール問題を語る誘惑に駆られる。実際、メディアもこの図式を採用して物事を整理していることは否めないという。しかし、伊達先生はこうした図式に絡め取られずに現実を見ることも大事だと指摘している。ヴェールは一般に、イスラーム原理主義とつながるもの、女性を従属させるための道具として語られることが多いが、ここでは隠すものとしてのヴェールがもたらす表徴が問題となっている。この時、次のような問いが頭をもたげてくる。ヴェールが何を隠しているのだろうか?もちろん物理的にいえば頭髪を隠していると言える。また、個人の属性を隠すとも言えるだろう。しかし、伊達先生は社会的な意味を含むものとしてこの問いを掲げ、ヴェールを「装う」ということの意味を考える必要性を強調している。
このように導入した後、ヴェールをめぐる問題の歴史的背景を捉えるため、フランスやケベックにおける主要な論争、事件を時系列的に振り返っていった。ここでは簡潔に振り返る。事の発端は1989年のヴェール事件にあったが、その際にフランス国務院は、着用それ自体はライシテの原則とは矛盾しないという見解を出していた。しかし2004年にはヴェール禁止法が出る。背景にあったスタジ委員会の提言には、イスラーム原理主義の伸長への警戒が含まれつつ、他宗教への提言もあったわけだが、当時のシラク大統領はイスラームのヴェール禁止にのみ受け取ってヴェール禁止へと向かったのである。さらに、2010年には公共空間でブルカ等の着用を禁止する法律も可決している。こうした禁止は全てライシテの名の下に進んでいると考えられがちだが、2010年についてはそうではない。ライシテは良心の自由や自由な礼拝の実践の自由を保障するものでもあるため、成人が公共空間でヴェールを着用することを法律の論理では止めることはできないからだ。ではどのような論理で2010年にブルカは禁止されるのだろうか。「公共の秩序」を守る、つまり治安維持の目的で禁止されるのである。その後もブルキニ論争やアバヤ・カミスの禁止などが続いていくわけだが、こうした論争において焦点が当てられているのは圧倒的に女性の衣服であることが多い、という事実は興味深いと伊達先生は指摘している。
次にケベックに視点が移った。北米では宗教的自由を認める歴史的伝統があるため、2017年のヴェール禁止法は北米初のものであり、奇特なものであるという。とはいえ、フランスとケベックを比較するとその展開には差異があり、実際ケベックの学校でヴェール着用が禁止されるのは教職員であって、生徒ではない。このことはフランスに比して穏健に見えるが、当事者の「差別されている」という意識を見過ごすことはできないだろう。他にも1994年の「妥当な調整」論争などがあった。
ここまでヴェール問題をめぐる現状が主題となっていたわけだが、続いて「ヴェールといえばイスラーム」という結び付けは正しいのか?と問いから、新たな話が始まる。ある程度において、ヴェールを見るとムスリム女性を想起する傾向がある、と言えるわけだが、伊達先生はカルメル派の修道女の写真を引き合いに出し、キリスト教もヴェールとは無縁ではないということを指摘している。また、新約聖書とクルアーンの記述を比較検討することで、さらに興味深いことが判明するという。実際、『コリント信徒への手紙』では「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。」と語られる一方、クルアーンでは「慎み深く目を下げて、陰部は 大事に守っておき、外部に出ている部分はしかたないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう。胸には蔽いをかぶせるよう。」や、「(人前に出るときは)必ず⻑衣で(頭から足まで)すっぽり体を包み込んで行くよう申しつけよ。こうすれば、誰だかすぐわかって、しかも害されずにすむ。」と書かれている。この記述から、宗教的な意味合いを覆い、ヴェールに持たせているのはキリスト教であると言える。また、イスラームにおいては髪を隠せといった規定はここでは存在せず、むしろ覆いを纏うことに生活上の安全性を見出していることから、宗教的行為とは関係のない規定であることことが読み取れるだろう。どのようにして、このイスラームにおけるヴェールの「装い」に現代におけるような意味が付加されていったのだろうか。
伊達先生はその一端として、近代西洋世界の特質として普遍性の標榜を表明しつつも、近代西洋世界においては男性の視線あるいは植民地主義的な視線から他の世界が観察されていたことを指摘している。実際のヴェールを被った女性が、退廃した東洋世界の風俗や女性の従属的な地位、性的な妖艶さを示す表徴として、伊達先生が例示した絵画で描かれていることは否定しがたい。他にも、危険なものとしてのヴェール表徴がある。伊達先生は「アルジェの戦い」という映画の一幕を引き合いに出し、ヴェールを被ることが、中身の人物が識別できなくなることへの警戒心を掻き立てるものになりうると述べている。イスラームにおけるヴェールの「装い」は西洋の「啓蒙」の視点から構築された一面があるとも言えるだろう。
こうしたヴェール「装い」に、近代ヨーロッパによる「啓蒙」や「解放」がどう行動したかを示唆するものとして、伊達先生は1958年に起きた括弧付きの「最初のヴェール事件」を挙げる。フランスのフェミニストがアラブの女性のヴェールを剥ぎ取る儀式、演出をしたものである。こうした儀式はまさしく「啓蒙」による「抑圧からの解放」という図式を示している。しかしヴェールの「装い」は決して抑圧のみを意味しない。ヴェールを被っていることを他者に見せる、あえて誇示するというあり方が存在している以上、ヴェールを脱ぐ、剥ぎ取るということは「啓蒙」、「抑圧からの解放」と言えるのだろうか。その正当性は改めて検討するべきだと伊達先生は指摘している。
では、ヴェールを被っている当事者はどう考え、何を発言してきたのだろうか。伊達先生はそう問いかけ、いくつかのムスリム女性たちの発言を取り上げる。例えばサイール・カダは「スカーフはムスリムと非ムスリムとのあいだに分断ではなく絆をもたらす」「スカーフは女性ではなく男性に強いられたもの」などと述べつつ、本質主義的なスティグマを捨て去ることを主張している。他にもいく人かの証言があるが、印象的であったのは、意識的にヴェールを被っている私たちがより自由があり、宗教を選んでよく知ることができるという趣旨のものだった。煎じ詰めれば、ヴェールをかぶることをめぐっては、当事者それぞれが「装う」ことに何らかの意味を付加する可能性に常に開かれているということだろう。ここに「装い」の持つ積極的な意味を見出すことができるだろう。
授業後半の30分は質疑応答に充てられていた。講義内容自体はかなり複雑な印象を受けたが、活発に質問が飛んでいた。そして伊達先生と質問者との間の問答は、今回のテーマの話の複雑性を改めて物語るものだった。聞けば聞くほどヴェールをめぐる問題は錯綜しており、単純な理解を拒むものであるように思われ、半ばシーシュポスにでもなった気分である。何らかの図式を当てはめ理解に達しようとしても、別の視点によってその図式は容易に崩れ落ちてしまう。こうした難しさを、授業を聴いていた人は共有していたように思われる。実際、今後のライシテをめぐる展望についての受講者の質問に対し、伊達先生は、こうした問題系についてはわからなくなるのが通常のことであり、むしろそれが良いことであるということ、多様なあり方の前で、暗黙に世間で共有されているような簡単な図式は決して通用しないという旨(笑顔で?)述べられていた。わからなくなることを引き受け、なおもやはり理解に向けて歩を進めていくという、考究の前線の厳しさと面白さが垣間見える講義であるように私には思える。ありがとうございました。
(文責:TA荒畑/校閲:LAP事務局)
コメント(最新2件 / 14)
- 2024年11月06日 21:05 reply
イスラームのヴェールというこれまで全く考えたことのなかったテーマだったが、今回の講義を通して非常に興味が掻き立てられ、難しい議論ではあるがその内容をもっと追いたいと思うようになった。ヴェール着用を禁止する理由は様々に作り出せると思うが、私が一番に感じたのはどんな理由を持ち出そうと欧米文化、特にキリスト教をベースとした多数派が少数派を異物として扱っているだけではないか、ということだ。たとえば、ライシテの名のもと正当化されている公立校でのヴェール着用禁止については、公立校での教育からキリスト教的要素を全て排除できているのか、と問われれば決してそうではないだろうし、治安維持という理由をつけているブルカ禁止法も、全て見えるようにした方がが安全という一見当たり前のように思えるが、これもまたある一つの価値観でしかないものに基づいているだけであると思う。(そもそもヴェールは女性が身体を隠すことで安全を確保するものなのであるのだから)やはり根本にあるのは自分と違うものを恐れる人間の心理であり、人々がそれを認めない限りはこの問題が解決することはなさそうだと感じた。
- 2024年11月07日 08:21 reply
「装い」というテーマで、フランスにおけるイスラームのヴェールの意味の変化を捉えるという視点は非常に興味深く感じました。服飾はステータスシンボルという面を強く持っており、その中で近代以前のイスラームにおけるヴェールを被るという行為も、ある種自らが女性身分であるということを表すシンボルであったと捉えることもできるかと思います。それは積極的な自己主張ではないものの、社会における自らの立ち位置を明確にするという点では王族や現代人のファッションともさほど変わらないと言えるかもしれません。そしてそのヴェールの意味が変化しているというのも、女性という身分に対する価値観が変化してきているということを考慮すれば至極当然の帰結であり、アイデンティティとしてお洒落なヴェールを纏うのはスムーズに納得がいきました(特にヴェールに宗教的な意味もないとのことなので、変化を拒む要因はない)。一方でそれに対するフランス側の対応については理解が難しく、認められる多様性とそうでない多様性があると言って仕舞えばそれまでですが、自分たちのスタイルがあるわけではなく宗教性を公共の場に持ち込まないという非常に受け身な方針を取っているのはその基準の難しさ、判定の恣意性から考えても建前としての方針であるように感じられます。それであれば、90年代以前の制約からの解放を謳っている方が芯が通っており、自由を賛美しながらしかしそれを守るためにフランス人としての国民意識は求められるという矛盾に苦しんでいるように感じられました。
- 2024年11月07日 08:32 reply
イスラーム圏の文化にはあまり詳しくないが、宗教的な意味のない、慣習的なヴェールもあることは知らなかったため、意外だった。
自分は女性だが、化粧や衣服から「装う」について考えると、化粧はしたことがないし服のこだわりもあまりなくて日によって全く異なるジャンルを着てしまう。ファッションや見た目をアイデンティティとして捉える考えはないから、この服は着てはならない、と強制されたとすれば、疑問には思うだろうけれどもそこまでの抵抗はないと思う。ただ逆に、これを着なければならない、となるとかなり抵抗感が強くなるだろうなと想像できた。装いに文化的な価値だったり政治的な意味を見出すとして、そこに明確な理由があったとしても、介入は必要最小限であるべきだと思う。
- 2024年11月07日 19:54 reply
自分自身カトリックの小学校に通っていたため、「サウンドオブミュージック」や「天使にラブソングを」といった映画や、そのほかにも様々な作品で被り物をした修道女の姿を小さいころから見たことがあったのに、気づけばヴェールといえばイスラームのイメージを自分も持っていたは確かに不思議でした。キリスト教だと男性がヴェールを被らない(帽子をすることはあるが)ことや、一般の信徒が司祭や修道女のような象徴的な衣服を身にまとわないことが、ヴェールのイメージがイスラームに行ってしまった理由の一部になるのではないかと考えました。ヴェールのイメージの話以外の話もとてもおもしろく、楽しんで拝聴しておりました。ありがとうございました。
- 2024年11月07日 23:31 reply
ヴェールを被る理由は各個人や地域によって多様でありうること、「ライシテvsイスラーム原理主義」といった話題として人々のイメージにとっかかりやすい図式を疑うべきであること、ヴェールに宗教的意味を持たせる宗教の転移など、いろいろ学べて全く詳しくなかった身としてとても有意義な講義でした。
またレジュメp.3で紹介されるムスリム女性たちの戦略を見て、当事者のコミュニティに多様だがそれなりに共有される空気感や認識の仕方を覗けたように思う。現代日本に住む自分にとってヴェールの話題は遠かったが、幼いころから身近にある選択肢としてヴェールの着用があった女性たちにとっての戦略はとても興味深く納得感を抱いた。
聞くほどわからなくなるという質問に対しての結論付け方が個人的に好きだったし、たしかに学生に伝える意義がある内容と思った。
- 2024年11月08日 09:45 reply
私は第二外国語としてフランス語を選択していて、フランスのヴェール問題は興味があったのですがヴェールが元々宗教的意味を含んでいるのはキリスト教の方であったということは驚きました。イスラム圏では今日でも男尊女卑の考えが根強く残っていて女性は従属するものだというイメージが強いのですが、元はといえばヨーロッパから植民地主義で輸入されたものであると知りやはり今日まで残る問題の多くはヨーロッパが原因であることが多いなと再認識させられました。一つ疑問があるのですがファッションとしてヴェールを楽しみたい人もムスリムだと思われてしまう。この現状は変えていくべきでしょうか?私は変えるべきだと思います。このような偏見がヴェール問題などに大きな影響があると思うのでこういうところから変えていくことが大事だと私は考えます。
- 2024年11月11日 17:18 reply
講義を聞いた時にフランスでのライシテに関して2つほど疑問が生じた。一つは政教分離とは政治と宗教の分離であるのに、なぜ学校でヴェールが禁止されるのかという点である。政教分離とは政治が特定の宗教を優遇することのないように、国民の宗教の自由を保障するための制度だと思うが、政教分離という制度でなぜ政治とイコールではない教育の場である学校でヴェールを禁止するのか不思議に思った。二点目はなぜ政教分離を個人に適用するのかという点である。政教分離を守るのはあくまであらゆる決まりごとを作る為政者が政策決定プロセスに特定の宗教心でもって関与しないようにするということでなされるはずだと思うが、それをヴェールを着た国民にも宗教色を出さないようにさせるのはどこか、政教分離の目的とは離れている気がした。
- 2024年11月12日 19:28 reply
授業を受けて、一言にヴェールを被るといってもそこにどのような意味があるかは人それぞれ異なるのだと気付かされた。そのようなことを考えずに、宗教的規範に従ってヴェールを被っていると考えてしまうと偏見や差別に繋がってしまうのだと思う。またフランスで学校でアバヤが禁止されたそうだが、アバヤは宗教的なものでなく習慣的なものであるのにどのような論理で禁止されたのか疑問に思った。学校においてどの宗教を信仰しているか見ただけで判断できると禁止されるのだろうか。また、成人がヴェールを自分の意思で被る場合は禁止されず、未成年が学校で被るのは禁止されるといったお話があったが、未成年でも自身の意思で被っている場合もある。どこで線引きするのかは難しい問題だと感じた。
- 2024年11月12日 22:10 reply
ヴェールという一見単純な衣服が、実際にはいかに多様な意味を持ち、多くの議論を引き起こしているかについて改めて考えさせられました。ヴェールは宗教的な象徴とされることもあれば、実際には宗教とは無関係とみなされる場合もあります。また、女性を抑圧する象徴と見られる一方で、女性を守るものと解釈されることもあります。この講義を通じて、ヴェールに対する多様な視点を学ぶことができました。
特に印象に残ったのは、ヴェールと女性の人権に関する議論です。ヴェールを女性のための保護服と捉える見方と、女性を差別し抑圧する象徴とする意見の双方を学んだ上で、「人権」という言葉がこの文脈で何を意味するのかを深く考えさせられました。「人権」にはさまざまな要素が含まれると思いますが、私がここで注目したのは「自由」という概念でした。
ヴェールを被ることを自ら望む女性もいるでしょう。しかし、その意思が本当に「自由意志」に基づいているかは、ヴェールの着用が事実上強制される社会では必ずしも明らかではありません。したがって、ヴェール自体に女性を抑圧する機能があるわけではなく、「女性の人権」を理由にヴェールを全面禁止することは適切ではないと考えます。ただし、ヴェールが女性の自由や人権を妨げるものとならないようにするためには、「ヴェールの着用有無を女性自身が自由に決められる社会」を形成することが不可欠だと感じました。
結局のところ、女性の人権に関する議論で本質的に問われるべきなのは、ヴェールそのものではなく、「女性にヴェールの着用を強いる男性中心的な社会構造」ではないかと考えました。
有意義な講義、ありがとうございました。
- 2024年11月12日 22:23 reply
浅学菲才ながらケベックの事例は初めて聞き知った。授業中の質疑応答でも論議が交わされていたと記憶するが,フランスという国に脈脈ながれつぐ,おそらくは地政学的論点に端を発ししかし地政学しかり単一ディシプリンの枠におさまりきらぬ空気・雰囲気の存在はそう易易とは否定できかねよう。
偶然撮られたにしろ,意識的に撮らせたにしろ,(それらの差異それ自体のお話は非常に興味深く伺ったが,)ヴェールをまとう人びとはつね被写体としてカメラの前に現前する。このような仕方ではなしに,ヴェールをまとう人びとを被写体とはせずに,たとえばヴェールを着用した状態での身体や物理的視界/視野をいかに表象しうるか,ということを新たに関心の的とした。
- 2024年11月12日 22:33 reply
衣服の持つ役割や意味は多岐に渡り、今回の講義でも身分を隠すこと、肌を隠し性的に身を守ること、自身がどの宗教を信仰しているか他人に知らしめること、自身の信仰の一貫として衣服を選択することといった多様な観点が触れられていた。衣服を禁止するか認めるかについての議論では、各当事者の立場の違いによる意見の相違にこうした着目する観点の違いも加わり、議論が極めて複雑になっていると考えた。また、こうした複雑性を盾にして宗教差別意識を防犯等の別の観点からの理由付けで覆い隠して制度に組み込むことも可能になっており、禁止や制限を課す決定の中にそうした意図が潜んでいないか検証する意識を持たねばならないと感じさせられた。
- 2024年11月12日 23:39 reply
多様な人々が関わる社会現象を扱うことの難しさを感じた。授業で挙げられていた多数の項を全て踏まえて結論を導くのは非常に困難に思われた。その難しさの中「装う」というテーマに関連して興味深かったことが2つある。一つ目は装いの、「示す」「隠す」の二つの機能である。ヴェールは女性の頭部を隠すと同時に、アイデンティティや宗教の伝統を示している。二つ目は、装いによって意図していることと、他者が装いから読み取ることがずれてしまうことである。ヴェール自体が、「隠す」「示す」の両義性を持っている上に、ヴェールをかぶる当人たちの意図とそれを見ているフランス人たちの受け止め方が相違していることがさらなる多義性をヴェールに対して負わせている。
- 2024年11月12日 23:54 reply
非常に難しくわからないと言うのが正直な感想である。なぜ人々はヴェールをかぶるのか、そこには宗教的な敬虔さもあれば、せめてヴェールをかぶっていることで自分は信心深いと思えると言うこともあるだろうし、よくわからないがわからないが慣習的にかぶっている、かぶっていることで絆が生まれるように感じられるなどと言うこともあって事情は様々であろう。それを好む者もいれば嫌悪する者もいる。その中で、自分の考えや価値観を重要視して装いを決めることは時に反感を買い、トラブルを招くこともあるだろう。着用の強要や禁止もまた禍根を残しかねない。日本に生まれて育った自分にはあまり宗教的な装いの縛りや制限に関する当事者の気持ちがわからないと言うのが正直なところであるが、外から見ている分には多様性の尊重しつつ分断を問題視している現代の風潮を表す一例に見えてならない。だからこそ解決が難しいのは当然であると思うのだが、その中で人はどう振る舞うのか、どのように社会は落とし所を見つけるのか、注目していきたいと思った。
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フランスのライシテの元ヴェールが禁じられたのも、ヴェールを被ることに宗教的な特別感を見出すのも、特別に歴史的や文化的な背景情報で規定されているというためではなく、単にそれが視覚的に、装いとして目立つためというだけではないかとも思った。大事なのは、ヴェールを被る/剥ぐこと自体に善悪を見出そうとするのではなく、自分はヴェールにどのような意味を見出すか、あるいは他人の価値観はどうかを知り、それに折り合いをつけることだと感じた。