ディシプリン(学問領域)に
とらわれない思考を身につけたい

第13回 01月15日

対話

「装う」に関連して対話をします。

授業風景

2024年度学術フロンティア講義第13回は、講義形式ではなく、対話形式で「装う」についての検討を行なった。これまでの12回にわたる講義を踏まえ、改めて自らの経験に立ち戻り対話を行うことで、実に多様な論点が展開された。

今回の対話は主に、東京大学大学院総合文化研究科教授の梶谷真司先生が実践されている哲学対話の方法を参考に行われた。この方法は、子供からお年寄りまで誰もが安心して自由に参加できる対話環境づくりを目指すもので、いくつかのルールに則って対話を進めるものである。

はじめに行ったのは、「質問ゲーム」と呼ばれるアイスブレイクである。これは、4人組のうち3人が質問者になり、1人の回答者に向かって順番に質問を投げかけていくというゲームだ。このゲームは「問う」と「答える」という対話の基本動作のウォーミングアップをすることが目的なので、考えすぎずにテンポよく行うのがポイントである。実際にやってみると、思いがけず相手の素性が暴露されたり、普段は聞かないような質問も飛び出したりして、会場からは大きな笑い声が起こっていた。

質問ゲームを終えたあとは、問い出しを行なった。「おしゃれな人/ダサい人とは何か」、「装う際にどのようなモデルを想定するか」、「身につけるものに関する“装う”は講義内でも論じられていたが、言動における“装う”に関して、参加者はどのような装いをしているか」、などさまざまな問いが提起された。最終的には多数決で「身につける服をどういう基準で選ぶか」という問いに決定された。

授業の後半ではいよいよ上記の問いに関する対話が行われた。なお今回の対話は、8つのルールに則って進められた(この点に関する詳細は梶谷真司教授の『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎新書、2018年)を参照)。そのルールは、「何を言ってもいい」、「否定的な態度はとらない」、「話さず聞いているだけでもいい」、「お互いに問いかけるようにする」、「知識ではなく経験に即して話す」、「話がまとまらなくてもいい」、「意見が変わってもいい」、「わからなくなってもいい」というものである。いずれのルールも、「何を言ってもいい」という対話環境を全員で作るために、お互いの発言を尊重しながら、自分の経験に即して自由に話すということに向けられている。

こうしたルールを確認したのち、教員やTAも含めた全員が円になるように座り、「コミュニティボール(それを持っている人だけがしゃべっていいボール)」を投げ合いながら、40分間の対話が行われた。はじめは選ばれた問いが論じられていたが、途中からそれに関わるさまざまな問いが提起され、パラレルな形で論点が思考されていくという流れで進んでいった。具体的には、「自分が身につけているものをどういう基準で選んでいるか」という問いをスタート地点としながら、「他者の目や社会的制約があることは服を選ぶにあたって良いことか悪いことか」、「ブランドものを着ることは自己満か」、「好きな服の系統や好みは、いかにして形成されるのか」、「自分が身につけている服によって自分らしさを判断されたいと思うか」、「東大生は他大生よりも服にお金をかけないか」など、多様な問いが提起された。議論の最中には、発言者の言葉の定義を確認したり、あるいは異なる考えをもつ背景について問いかけたりと、参加者同士の間でも多様な質問が投げかけられ、対話は大いに盛り上がった。そうこうして活発にコミュニティーボールが行き交ううちに、終わりの時間を迎えることとなった。

オムニバス形式の授業においてはさまざまな方面における専門的学識を享受することができるが、前回の講義内でも触れられた通り、それらの知を連関させるのは他でもない自分であり、ひいては自分の「問い」である。我々は単に知を享受するだけでなく、自分自身のなかに問うべきものを見出さなければならない。その意味で最終回にこうした対話を行えたことは、本講義の参加者にとって有意義な機会となったように思われる。今回はいくつかのルールのもと対話を行なったが、こうした特殊な環境で思考するからこそ見出せる問いもあるはずである。筆者自身、今回の対話で得た面白さ・わからなさの感覚を大切にしながら、今後も自分のなかの問いについて考えていきたい。

(文責:TA田中/ 校閲:LAP事務局)

コメント(最新2件 / 5)

att1re    reply

生れつき皮膚に疾患があり,シラバス上では本授業は吉崎歩先生がご担当とのことだったので少少残念だった。
さておき,今回の授業のような(哲学)対話は過去にも何度かやってみたことがあるが,これほど内心ぽかんと口を開けていて全く話の流れ(という方が議論というよりも対話形式の要請の内実に照らしてより相応しくはあるのだろう)についてゆかれなかったのは初めてのことだった。端的に言って居心地の悪さを覚えた。(哲学)対話に対する問題意識というのは長らくあり,永井玲衣『水中の哲学者たち』を読んで大いに批判精神が刺戟されたこともあったが,明敏な言語に落し込めていないのが歯がゆい。メモの羅列のような形となり恐縮だが以下にその一端を,<自身の経験に即して><他人が自分をどう思うかを気にせ
ず>書きあらわしたい。以下,便宜のため単に「対話」とする。
対話を支えているのは言語・世代・話題への関心などのある種の同質性ではないか。もちろん同質性の欠片もない他者と実際的に対話の機会があるか,またそもそも一片たりとも私と同質なるものを具有していない他者が 実在/想定
できるかという問題がある。また同質性に依らない議論などないという言い方もできようが,対話パッケージの見かけのわりには同質的であることは指摘されねばなるまい。またこれを敷衍して,なぜかように対話において(一風変った)ボールが用いられ,それが投げられるのか。もちろん発言者を定めるという意図は承知している。しかし例えば私の場合,ものが投げられるということ自体に故なくも名伏しがたい恐怖感を覚え,心がさざ波だつ。
今回でいえば十か条,そのうちの一つ,自身が自身の発言によって他者から規定されないことを前提に発言する,などということは可能か。まずファシリテーターはそんなことはできない。なぜならファシリテーターという役目を 負って/負わされて
いるから。参加者はファシリテーターよりは幾分自由だが,やはりどうしても発言により(また今回でいえば身なりにより)他者を印象付けてしまう。
他者を否定することの範疇はどのようであるか。最も直截的に,それは違う,というのが禁じられることは理解できる。しかしAといった人のあとにnotAという趣旨のことを発言するとき,それは否定ではないのか。あるいはそうした認識のもとにnotAと言いづらい雰囲気が醸成されてしまわないか。

tahi2024    reply

いつも友達と行うような雑談とも違うし、専門的な学問についてのゼミ形式の議論とも違った、形式は緩いが話し合うテーマが自身の経験とマッチしている対話はとても面白かった。違いがあることを認めそれを排斥せずに話し合う俎上に持ってくる柔軟な態度をみなさんは持っているのだなと、この大学での学びが楽しみになった気がする。

esf315    reply

初めての形式の対話でとても楽しかったです。なにもルールを決めずにやったときより、自分自身話しやすいと感じたし、心なしか周りもよく発言してるようで不思議でした。

kero1779    reply

服装を考える時他の人の目線を考えてしまうのは仕方ないことであるなと思いながらも、その日の気分と言った言葉があるように本人の気持ちの部分も大きく影響するのではないかなと思いました。そして服装を考えて他人と合うように装ったとしても服装からその人のその日の気分などその人の個性は装うのは難しいのかなと思いました。

dohiharu1729    reply

最も一般的な装いの手段である服に関しても、まだ私たちの議論していない領域が沢山あり、持っている価値観も人それぞれであることから、自然科学と異なって一般的な結論を出すことの難しさを感じました。服は毎日着ていてしかも見られているものでありながら、あまりその意図や表現したいものについて論じることがなく、僕も服を選ぶのは好きなもののかなり自分の好みのみで決めていたため、様々な考えが聞けて良かったです。

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